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 彼は野に降り立つと、少年の姿をとった。彼は自分の魂の映じるままに、黒い服を
身にまとった。彼は黒い色が好きなわけではなかったが、闇の園で生まれた魂である
彼は、初めから黒であった。
 風が彼の髪を乱して吹き抜ける。髪まで黒くするのは気にくわなかったので、金髪
にしてみたのだが、彼は思いのほかそれが気に入っていた。闇の園の飛膜持ち達なら、
こんな明るい色にすることは許さなかっただろう。しかし、彼は他の連中とは形が違
っていたので、飛膜持ち達と同じ考えは持てなかった。なにより、この自由がうれし
かった。
 彼の頭の上を、音もなく一つの影が通り過ぎた。風を切り低く滑空する一羽の真っ
黒な鳥だった。一度だけ力強く羽ばたいて速度を殺し、鳥は側の枯れ木に静かに舞い
降りた。
「君はカラスという名の鳥だね。聞いたことがある」
 少年はカラスを見上げて、声をかけた。言葉が解ったわけではあるまいが、カラス
は彼の方を向き、首を傾げた。
「カラスか。黒い翼にはふさわしい名前だ」
 彼は両腕を広げ、魂を解放する。力が形をとって彼の背中で膨れ上がり、一気に展
開して漆黒の翼となった。
 優美な翼を一杯に広げ、彼はこの世の風を受けた。彼の力は、この世で活動するの
に十分であるようだった。
「僕もそうしよう。僕の名はからす。からすだ」
 一度だけ大きく羽ばたき、からすは宙に舞い上がった。浮遊する感覚に彼は酔いし
れた。すべては自由だった。
 彼は身体を空を切る形に洗練させた。一羽のカラスに変化したからすは、風に身を
任せ、無限の空を流れていった。



      きっと天使になれるはず        星 洋一

 その部屋は遠近感を狂わせる力があるようで、囲まれた空間でありながら計り知れ ない奥深さがあった。並列に並べられた長椅子の群は、その空間の最深部の存在に向 かって跪いているかのようだった。薄暗い中、雲間から地上を射す太陽の光のように、 天窓から導かれた光が道筋を作り、壁のステンドグラスは虹のような光の玉を中に投 げかけていた。教会とは、高度に演出された空間であった。  ことりは入り口にたたずみ、この神聖なるものを祭る造形に見入っていた。このよ うな光景は、彼女にとって初めてではなかったが、実際に物質的に作られたものを見 るのは初めてであった。  ことりは教会の中に足を踏み入れた。長椅子の向こうで、自分より背の高いほうき を持った女の子が一人で床を掃いていたが、入ってきたことりの白い姿に気づくと、 ほうきを動かす手を休め、じっと彼女を見つめた。無表情なその瞳は訪問者の表情の 下の、隠された魂の本質をとらえようとするかのようであった。ことりは女の子の視 線に戸惑いながらも、彼女に微笑み、軽く礼をして奥に入っていった。  奥の祭壇には、青銅の神像が祭られていた。その姿は男のようでもあり女のようで もあり、若者かと思えば、その目は老人のように深く、この世のすべての人であり、 それでいて人間にあらず、両手を広げ、優しい眼で人々を見下ろしていた。 「いらっしゃい。こんな小さな教会へ、よくいらしてくださいました」  神像に見入っていたことりは、彼が来たことに気づかなかった。いつの間にか、彼 女の側に礼服を着た神父が立っていた。まだ若く、誠実そうな顔に憂うような目を持 った神父だった。  突然声をかけられたのだが、その声がとても穏やかだったので、ことりは安心でき た。神父はまるで、この教会の一部としてはじめからそこにあったかのようだった。 「これが、神様のお姿ですか?」 「ご想像と違う感じですか?」  神父は微笑み、神像の顔を見上げる。 「これも神のお姿。あなたの想像したお姿もまた真実。信じる人の数だけ、神のお姿 はあるのです。神は愛です。一つの形のあるものではありません」  ことりは神父の言葉にうなずいたが、陰でふと目を伏せた。 「神が人を創り出してから、どのくらいの時間が経ったのでしょう。人は神を忘れ、 欲望のままに生きようとしています。最近はここに礼拝に来る人の数も減ってきまし た。あなたのように、教会に新たな人が来てくれるのはとてもうれしいです」  ことりが振り向くと、神父は優しく透き通る目で彼女を見ていた。その目には明ら かに期待があった。ことりはその目を裏切りたくはなかったので、微笑んだ。  その時、ことりは視界の端に、もう一つの視線を捉えた。掃除をしていた女の子が、 まだほうきを止めたまま、ずっとことりを見つめているのだった。 「スミレ、この方はお客様です。じっと見ては失礼ですよ」  スミレと呼ばれた女の子は、首をすくめて再び床を掃き始めた。 「あの子は小さい頃両親に捨てられ、ずっとここで養ってきました。この欲望社会が 産み出した子供です。少し人間不信なところがありますが、大目に見てやってくださ い。あの子が信じられるものは、神しかいなかった」 「いいんですよ。悪意のない眼ですから」  そう言ったものの、ことりは本質を見透かすようなスミレの視線に計り知れないも のを感じていた。スミレはことりを初めて見たときから、普通の人間とは違うものを 感じ取っていたのかもしれなかった。 「明日の朝、礼拝があります。よかったら来て、共に祈ってください。それでは、私 は勤めがありますので、失礼します」  神父はそう言うと一礼し、奥に下がっていった。後には、スミレが床を掃くさざ波 のような音だけが残された。  ことりが外に出ようとしたとき、ほうきの音が再び止んだ。ことりは、スミレにま た見つめられているのに気が付いた。その瞳は寂しげな中にも微かな光を秘め、こと りの中に何かの影を探し求めているかのようであった。 「またね」  その視線にどう答えればいいのかわからず、ことりはスミレにむかってにっこりと 微笑んだ。しかしスミレは、何か気落ちしたように、目を伏せるだけだった。  スミレの様子に、ことりは胸が痛んだ。しかし、ことりはスミレが目を逸らした瞬 間、その瞳の中に確かに感情のきらめきを見た。スミレの魂は石ではなく、確かに生 きているのだということ。それがことりにとってはわずかな救いだった。  自分は流れ行く時間をたっぷりと使ってこの世界をさまよいながら、いくつもの救 われない魂とすれ違って行かなければならないのだろう。そして、自分の無力さを知 り、いつか神様の御心を知るのが使命なのだ。しかし今のことりには、姿なき神様の かたちよりも、目の前にいるスミレの寂しげな瞳が気になって仕方がなかった。  明日、また来よう。ことりはそう心に決める。神様の姿を探すために、そして、ス ミレの魂をもう少し見つめているために。寄り道をする時間だけは、豊富に与えられ ているのだから。  神、光、秩序、敵対勢力、教会。  からすにとってそれは憎むべきものでも何でもなかったが、闇の園の対極にあるも のとして興味はあった。  上空からの眺めを楽しみながら、風に乗って海の見えるところまで流れてきたから すは、目下にそれを見つけた。海を見下ろせる静かな丘の上に建つあの建物は、教会 と呼ばれるものに違いない。  すぐにでも舞い降りてよく見てみたかったが、思いとどまった。闇の魂とひっくる めて見られるのは心外だが、自分がどちらかと言えば闇の側に含まれるということを からすはよく理解していた。そんな自分が教会に入るということは、自分にその気が なくても、堂々と戸を叩いて敵陣に入り込むようなものだ。  でも、人の形をとっていれば、まさか普通の人にはわからないだろう。問題ないさ。 からすは決心し、翼を縮めて降下していった。  教会の正面に降り立つと、からすはすぐに金髪黒服の人の形をとり、黒い翼を隠し た。顔の造りも人から好意を持たれる形にしたつもりだった。だから、こちらからも 友好的に振る舞えば大丈夫。よし、と気合いを入れ、からすは入り口に向かって足を 踏み出そうとした。  それは、教会の入り口の扉が開き、ことりが姿を現すのと同時であった。  からすはその少女が人間ではないことを一目で見抜いた。と言うより、彼女が自分 と同じ存在であることを感じたのだ。そして同時に、彼女が自分と対する存在である ことも。  その少女は光の園から来た魂であった。  丘に吹く風になびく腰までありそうな黒髪は、白い服によく映えた。からすを見つ める瞳には驚きはあるものの、憎しみはなかった。闇の園の連中が彼女を見たら、そ の純な魂に顔をしかめるのかもしれないが、からすはその少女を美しいと思えた。そ れは彼にとっても少なからずうれしいことだった。自分はそれほど黒く染まっていな いのだ、と。  地上界に来て初めて出会ったのが人間ではなかったのは、からすにとって意外なこ とであった。しかし、この出会いはとても幸運な出来事なのかもしれなかった。たと え自分と反対の立場にある魂だとしても、精神界から来た者同士として、理解しても らえるかもしれない。  敵ではないんだ。自分のありのままの心を見せればいい。  からすは少女にむかって微笑みかけた。  ことりにも目の前の少年が闇の園から来た魂であることはすぐにわかった。なのに なぜだろう。あれほど憎むべき対象だと教えられてきたのに、今目の前にしてそれほ どの憎しみは覚えなかった。むしろ、根底に相通じるものを感じたのである。しかし、 その不思議な感情は彼女を戸惑わせた。  忘れてはいけない。自分は光の園から来たということを。  少年は邪気のない笑顔を浮かべた。 「やあ」  ことりは思わず彼から視線を逸らせてしまった。後ろ手に扉を閉め、周囲に誰もい ないことを確かめ、声を潜める。 「闇の園から来たの?」 「ああ」 「どうして? 地上界はいいところじゃないって、闇の園じゃ教えてないの?」 「まあね」 「帰りなさいよ。本当にいいところじゃないんだから」  言い終わると、ことりは少年の脇をすり抜けて歩き出していた。どうして彼を拒も うとするのか、ことりにもわからない。まるで他の誰かに動かされているようで、辛 かった。  少年はついて来て、ことりの横に並んで歩いた。 「僕はからす。闇の園が嫌になって、逃げてきたんだ。この世界のことを教えておく れよ」 「あなた達は悪魔って呼ばれて、嫌われているの。知ってるでしょ」  ことりは振り向かずに答えた。きつい言葉を言わなければならない、苦痛にゆがん だ顔を見せたくはなかった。 「そんなことは構わない。きっと、ここの方がましだと思うんだ」 「悪魔達は時々この世界にやってきて、死後に魂が闇の園を選ぶように、人の心を邪 道に誘うの。・・・これ以上言わせないで」 「それは誤解だ!」  ことりはからすを振り切るように、歩調を早める。 「僕は違う。他の奴らとは違うんだ。一緒にしないでくれよ!」  ことりはぎゅっと目をつぶり、振り向かなかった。 「ちくしょう、どうしてこうなんだ! どこへ行っても・・・」  からすは歩みを止めたようだった。胸が痛み、ことりは歯を食いしばった。 「お願いだ! 僕を見てくれ!」  その悲愴なまでの叫びに、ことりの足はついに止まった。振り向いたことりもまた、 泣きそうな顔をしていた。       からすは翼を生やしていた。艶のある黒い翼の造形に、ことりは目を見張った。そ の翼は、教えられたような邪悪な形ではなかった。色が違うだけで、その姿形は自分 たちのものと同じであった。いや、むしろ、ことりはその整った羽先は今までに見た どんな翼よりも美しいとさえ思った。 「わかるだろう? 僕は飛膜持ちの他の奴らとは違う」  うつむいたからすの表情は苦痛に溢れていた。それはずっと昔からふさがらないま まの心の傷から流れ出した、透明な血だまりの重さであった。 「この翼のせいで、僕は闇の園で迫害され続けてきた。悪魔にも、天使にもなれない 翼・・・ この半端な翼を背負ったまま、僕はどこに行けばいい?」 「・・・半端なんかじゃないわ」  からすは顔を上げた。ことりは潤んだ瞳で、微笑んでいた。 「立派な翼。黒曜石のように強靱で、美しい翼。それがあなたの翼なの・・・」  嘘偽りのない言葉だった。からすは救われた笑顔を浮かべた。 「あたしはことり。ごめんなさい。あんなひどいことを言って、あたし、どうかして た。あたしだって、あんなこと言えた立場じゃないのに・・・」  ことりは肩をすぼめるようにして、少し背を丸める。肩の後ろで彼女の力が光とな り、白く輝く繊維となって集結した。ことりが両腕をゆっくりと開くと、それは綿毛 の膨らむ勢いで左右に伸長して、白い翼を織り上げた。その羽毛はまるでガラスの糸 でできているかのようで、輪郭がたどれないほど繊細であった。  からすはことりの純白の翼に、目を細めて見とれた。 「本当なんだ」 「なに?」 「天使の翼は、見るだけで人の心を浄化するって話。目が痛いぐらいだよ」  からすはそう言って笑った。ことりは恥じらうように目を伏せ、しかし、微笑んだ。 「飛ぼうよ。こんなところを、人に見られたらまずいだろう」 「そうね」  もう光と闇の間に隔たりはなかった。二人は白と黒の翼を羽ばたかせ、空に舞い上 がった。足下に海辺の町が見える。 「地上界って、本当はどんなところ?」 「実はあたしも、ここに来て長くないの。だからまだよくわからない」  宙に浮かび、町を見下ろしながらことりは言った。 「憎しみ、優しさ、喜び、悲しみ、すべてが入り交じった混沌の世界。物質に束縛さ れた世界。罪がある世界。死がある世界。・・・だから辛い世界だと教わったけれど、 でも・・・」 「でも?」 「やっぱりこの世界が、人間の魂の生きるべき世界だと思うの」  からすはことりの横顔を見つめる。優しさと憂いを含んだ彼女の瞳は、しかし、地 上の光景とは別のものを見ているかのようだった。  そう言えば、ことりはどうして地上界に降りてきたんだろう。からすはふとそう思 ったが、口には出せなかった。  例えば、この世界はすべて確率で成り立っているとしよう。確率は誰にでも平等に 働くはずだ。もし、二分の一で勝てる勝負で何度も負け続けるようなことがあるとす れば、それは相当運が悪いか、あるいは何者かが何らかの力を及ぼしているからに他 ならない。  逆に、この世界で起こることはすべて必然であるとすれば、その物語を記述したの は何者なのか。  運とは何だ? 力を及ぼす者とは何だ? 必然を決定したのは誰だ? 「神は居るのさ」  若者は闇に向かってつぶやいた。 「高いところで笑ってやがる」 「ほう」  闇の中に溶け込むように、もう一人の男は腕組みをしていた。 「で、お前はその神を信じているのか」 「まさか」  若者は吐き捨てるように言った。 「じゃあ、何も問題はないな」  黒い男は、にやりと口を歪めた。唇の隙間からのぞく、黄色く尖った犬歯が、牙の ように光る。 「さあ、お前の欲望のままに。俺が力を与えよう」  闇が形をとって伸縮するかのように、骨張った手を差し出す黒い男。長く伸びた爪 は邪悪に歪んでいたが、若者はその手を恐ろしいとは思わなかった。むしろ、その闇 の中に自分が吸い込まれていくような快感を覚えた。  そして、若者の目に、邪な暗い光が宿った。  日曜日、波の音の聞こえる丘に朝日が柔らかな光を投げかける中、ぽつり、ぽつり と人々が教会に集まり始めていた。小さな子供を連れた母親、腰の曲がった老人。片 手に聖書を持った若者が駆け寄り、老人の手を取った。  ことりとからすは、翼を広げて宙に浮かびながら、その様子を見下ろしていた。 「よかった、結構集まってるみたい」 「でも、やっぱり少ないんじゃないかな」 「・・・そうかな・・・」  確かに、教会がいっぱいになる人数にはほど遠い。しかし、昨日神父の話を聞いて、 二、三人ぐらいしか集まらないのではないかと心配していたことりには、それでもう れしかった。 「あなたは、やっぱり行かないの?」 「僕はいいよ。まだ、慣れてないし、人も多いし」 「そう・・・」  ことりは、からすに無理強いはしなかった。光の側の自分でさえ、大勢の人の中に 混じるのは少し恐い。 「じゃ、行って来るね」  ことりは白い翼を羽ばたかせ、滑るように下に舞い降りていった。そのまま地面に 降り立って、地上の人に姿を見られるわけにはいかないので、ことりは目を閉じ、精 神を凝縮させる。ことりの白い姿が縮小していき、小さな真白い鳩になった。  からすは、そんなことりの姿を寂しげに微笑んで見送っていた。が、急にその眼が 鋭くなる。教会に入っていく人の中に、不吉な波動を感じたのだ。それはからすにと って不快で、かつ馴染みのあるもの。闇の園に住む者の邪悪な意思の波動だった。  奴らが近くに来ている。しかし誰と特定はできなかった。からすは、様子を見るた めに、ことりの後を追って地上を目指した。 「今日はここまで、来週は、第二十一章の五節目から読みましょう」  長椅子の列にまばらな人々の頭上に、ステンドグラス越しの色とりどりの光が斜め に射し込む。薄暗くも神秘的な教会の天井に、神父の声が厳かに響いていた。人の形 に戻ったことりは、開かれたままの扉から、足音をたてないように中に入り、人々の 後ろの方の椅子に腰をかけた。神父は、そんなことりに気付いていないような素振り だった。  神父は聖書を閉じ、教壇の傍らに置いて、礼拝者の顔を眺め回した。 「・・・また減ってしまったようです。神は嘆いておられるでしょう」  そう言って、小さくため息をつく。 「我々は、神の手によって創造されたということを忘れてはなりません。神は、我々 すべての父です。しかし、今、人々は神を捨て、その恩を忘れようとしています。嘆 かわしいことです。  街では、犯罪や暴力が増えていると聞きます。神の教えに背く人々によって、不正 が行われ、略奪がなされ、血が流されているのです。このまま人々の心から神が離れ ていくのなら、神が裁きの決意をされる日も近いでしょう」  神父の表情が急に厳しくなる。人々は息をのむように、その言葉に聞き入っていた。 「裁きの日、神がこの世界を作り直される、その最初の日です。裁きの日、大地は揺 らぎ、人の造りしものすべてを瓦礫と化すでしょう。雷の剣は大地を薙ぎ払い、邪悪 な意思を打ち倒すでしょう。地から吹き出す劫火は悪しき文明を焼き尽くすでしょう。 そして最期に、大洪水が大地をおおい、すべてを洗い清めます」  神父の声は次第に高まり、凄みを増していく。言葉もなく手を握りしめる人々。小 さな子供が泣き始めた。  ことりは愕然とした。こんな話、光の園でも聞いたことがない。神様が世界を滅ぼ す、人類を皆殺しにするなんて! 子供の泣き声が耳につく。疑惑と不安と、そこは かとない恐怖の中で、ことりの頭は混乱していた。  前の人から、何かが回されてきた。帽子、裏返した帽子、何かが入っている。紙幣、 コイン、紙幣、コイン、コイン、なに、何なのこれは?  神父の声、泣き声をなだめるように、急に優しくなる。 「怖れることはありません。救われる方法はあります。神を信じ、教えを守り、祈っ た者だけが、神の偉大なる掌の上に救われるのです。そして、神に救われた者だけが、 新しく始まる世界で生きる資格を得るのです」  神父の声を虚ろに聞きながら、ことりは、傍らに誰かが立っているのに気がついた。 スミレだった。無表情な瞳をことりに向け、何かを待っているようだった。はっ、と 気がつき、ことりは帽子を差し出した。中に何も入れぬまま・・・もっとも、中に入 れる持ち合わせなどなかったが。  スミレは黙ってそれを受け取り、長椅子の上に置いて、自らも腰かけた。そして、 胸の前でその小さな手を組む。 「祈りましょう。救われることをを願って」  神父が教壇の前で手を組む。人々も一斉に手を組み、厳かに祈りの詠唱が始まる。 ことりはそれを真似ることもできぬまま、おろおろと周りを見回すだけであった。  本当にみんな、それでいいの?  ふとスミレの横顔を見てみる。彼女は目を閉じ、胸の前で手を組んだまま微動だに せず、その口から一言一句違わず憶えた祈りの言葉を紡いでいた。  祈りのこだまする中、ことりは惚けたように、何もできずにいた。  週一度の礼拝の終わり。身に染みついた慣習。人々は静かに席を立ち、神の御心に 想いをはせながら、それぞれの家路につく。二、三、神父に話をしに行く者もいる。  まるで、何もなかったかのよう。さっきの世紀末の警鐘なんか、きっといつもの聞 き飽きた作り話なんだ。ことりは惚けたように座ったまま、そう思った。それとも、 みんなあの世界の終わりの話を信じていて、それを抱えたまま生きているの? まさ か、世界の終わりを望んでいる?  神父がことりの方を見て、にっこりと微笑んだ。それに気がついたことりは、我に かえり、はじかれるように立ち上がった。 「よく来てくださいました」  ゆっくりと、ことりの方に近付いてくる。ことりはおずおずと口を開いた。 「あ、あの・・・」 「何か?」 「神様は、そんなに恐ろしい方じゃありません。世界を滅ぼしたりなんて、きっとな さらないと思います・・・」  神父は、少し顔を曇らせた。 「私も、そう願いたい。しかし、人間が神の望まない世界を作るなら、神はいつか、 人間を滅ぼし、新しい世界を創造されるでしょう。人間の作りだした文明など、神の 壮大なる世界においては、ささいな物事なのです」  演技に見えない。ことりは、神父の悲しげな瞳の奥を見据える。彼は心底、この話 を信じているんだ。最初は誰かの作り話だったんだろうか。それとも、本当に神様か ら聞いた話なんだろうか? 「それでは、私は懺悔を聞く勤めがありますので、失礼します。お時間がありました ら、また後で」  礼服を翻し、神父は奥に消えていった。お布施の入った帽子を抱え、とことこと後 を追うスミレ。ぽつんと取り残されたことり。解けない疑惑の答えをもとめ、すがる ように礼拝堂の奥の神像を見上げてみる。しかし、その慈愛に満ちた青銅の表情は変 わるわけもなく、沈黙の中には何も見いだすことができなかった。  教会の屋根の上に、ふわりと一羽のカラスが舞い降りた。カラスはくるりと辺りを 見回し、人間が誰も見ていないのを確認すると、その魂を広げ、人の形を取った。か らすはそのまま屋根の上に座る。  さっきの嫌な波動は、一瞬で消えてしまった。しかし、教会の中の人はほとんど出 てしまったのに、どうしてだろう、まだ近くにいるような気がする。からすは険しい 目つきで、どんなに小さな波動でも網にかかるよう、周囲に感覚を張り巡らせた。  弱々しく揺らぐ波動を感じ、からすは地上を見下ろす。教会の中から、ことりがと ぼとぼと出てくるのを見つけた。元気がない。魂に迷いがある。どうしたんだろう、 何か悩みがあるなら、力になってあげたい。闇の波動のことはさておき、からすは少 し気を緩ませ、ことりに努めて明るく声をかけた。 「ことり、礼拝はどうだった?」  ことりはよろよろと辺りを見回し、ようやく屋根の上のからすを見つけた。 「ああ、からす、降りてきたんだ・・・」 「どうしたの、うかない顔だね」 「うん・・・」  うつむくことり。からすは心配そうに、身を乗り出した。 「・・・ねえ、からす、闇の園にも、神様っているの?」 「魔王のこと? いるって言う話は聞いたことがあるよ」 「会ったことはないの?」 「見たこともないね。上位の連中は、魔王は存在するって言ってるけど、実際にいる のかどうか、わかったもんじゃないよ。秩序も何もない闇の園のことだから、魔王が 実際にいたって、統治しているわけでもないしさ」 「やっぱり、そうなんだ・・・」  ことりは一層落ち込んだように見えた。  何を悩んでいるんだろう。からすにはことりの質問の意味がわからなかった。それ より、結局自分がことりのために何の力にもなっていないことに、からすは戸惑った。 あわてて、話題を変えて取り繕おうとする。 「ところでさ、ことり、気を付けて。近くに・・・」  からすの言葉は、ことりの静かに、の合図で妨げられた。教会の中から、自分の背 よりも長いほうきを持った女の子が出てきたのである。からすは、屋根の上に身を隠 した。・・・どうして隠れたんだろう。見られても別に良かったのでは? もう少し 慣れなきゃな、と思いながら、からすは教会の屋根の上に寝ころんだ。影もなく青い 空。ことりの心中をわかってあげられない自分が情けない。  スミレは、人が出ていった後の教会の階段を掃き始めた。一段ずつ丹念に掃いて、 ほこりを下に払い落としていく。スミレの頭の上で、ほうきの柄の先端が空に弧を描 いていた。  うつむいて、ただ黙々とほうきを動かすスミレ。内に秘めた心の影を紛らわそうと するかのように、階段を掃き清めていくその姿を、ことりはとてもいじらしく思った。 ただ黙って見ているのが何だか悪い気がして、ことりはいつの間にか、ほうきの柄に 手を添えていた。スミレは驚いたように、ことりの顔を見上げる。 「手伝うよ」  ことりは優しく微笑んでそう言った。しかし、スミレは視線を逸らし、首を横に振 った。 「スミレがやる・・・ 神父様のお言いつけだもん」  そうか・・・ 誰よりも慕っている神父様のためだから、自分の手でやるのが当た り前なんだ。ことりは一つうなずき、ほうきの柄から手を離そうとした。しかし、そ の時、ことりはスミレの瞳の色が急激に変わったように見えた。それはまるで子猫の 瞳のように、怯えと悲しみを含んだ光だった。次の瞬間、スミレはほとんど反射的な 動きで、離れ行くことりの手のひらをつかんでいた。  ことりはびくっとして、思わず身をこわばらせた。実体化した精神体と、普通の人 間の肉体とは、外見は見分けがつかないが、性質は根本的に別のものである。触れた 相手の感覚神経に信号を送り、擬似的に皮膚の触感を伝えることはできるが、それは 現実の肉体の触感とは微妙に異なる。そのことに気づく人間は滅多にいないが、普通 の人間ではないということがばれる可能性はゼロではなく、そのため、ことりをはじ め、地上界に降りてきた精神体はみな、普通の人間との身体的な接触を過度に恐れて いた。  しかし、それは杞憂に過ぎなかったようで、スミレはことりと普通の人間との違い に気づいた様子はなかった。ただ、ことりの手のひらの感触を確かめるように、小さ な手のひらでおそるおそる握りしめ、白く細い指の間につぶらな指先を這わせ、そし て、落胆したようにうつむいて、スミレはことりの手を気まずそうに離した。  肉体という殻に阻まれ、スミレの心を直接読み取ることはできない。しかし、こと りはその瞬間、最初に会った時、スミレの視線が求めていたものの正体がわかったよ うな気がした。手のひら。母親の手のひらの温もり。スミレは、母親が恋しいのだ、 きっと。  ことりは膝をついて身をかがめ、スミレを胸に抱き寄せた。ほうきが踊り場に倒れ て、乾いた音をたてる。触れ合うことへの恐れが消えたわけではないが、ことりの心 がそうせずにはいられなかった。あたしは、母親の代わりにはなれないかもしれない けれど・・・ 「・・・いい子ね、スミレちゃん」  スミレは突っ立ったまま、されるがままになっていたが、抵抗もしなかった。優し く髪を撫でることりの手のひらに、スミレは少し目を細めた。 「お母さんを許してあげてね。きっと、何か、どうしようもない理由があったんだと 思うから・・・」  きっと、神父様もこう言ってスミレを諭しているのだろう。この小さな魂には、酷 な要求かもしれないけれど・・・ 「・・・いらない」  しかし、スミレは、ことりの耳元で小さくそう言ったのだった。 「いらない・・・ 神様が、守ってくれるから」  嘘だ、顔を見ずともわかる。母親がいらないなんて、嘘だ。しかしそれは、スミレ の小さな心が、母親がここにいない現実を受け入れるために、自分自身につかなけれ ばならない嘘なのだろう。そんなスミレの、幼い魂の陰りを払うために、どんな言葉 をあげればいいのだろう。ことりは喉まで出かかった気持ちを言葉にできず、ただ、 スミレのか細い肩をぎゅっと抱きしめた。 「・・・痛い」 「あっ、ごめんね」  ことりははっとして腕をほどき、スミレを離した。突然に解放され、スミレは寂し げにうつむいていた。ことりは、スミレのその様子に心が痛んだが、かといって何も できないこともわかっていた。母親の代わりになることができるわけもなく、また、 母親のことを思い出させたところで、いたずらにスミレの心の傷を広げてしまうだけ なのかもしれなかった。  だから、ことりは、傍らに倒れたほうきを拾い上げ、スミレの前に差し出した。 「はい・・・ がんばってね、神父様のために」  スミレは上目づかいにことりを見て、こくりとうなずき、ほうきを受け取った。そ して再び、階段の掃き掃除を始める。  ことりは、スミレが掃いた後の階段に腰掛け、ほうきを動かすスミレの手もとを見 守っていた。自分を捨てた母親を憎みきれず、かといって許しきれず、知らずに母親 の温もりを求めてしまう手のひらと裏腹に、心は母親を忘却の彼方に押し込めようと して・・・ この幼い魂は、なんと、過酷で孤独な戦いをしているのだろう。そんな 自分を支えるために、神父様を慕い、神様を信じて・・・  そこで、ことりはふと思う。スミレにとって、神様とは一体何なのだろうと。母親 に代わって、守ってくれる神様。唯一、信じられる神様。それはきっと、人類に裁き を下す脅威の存在ではなくて・・・ 「ねえ、スミレちゃん。神様って、どんな人?」  ことりは、スミレにそうたずねてみる。スミレは、手を休めないまま、ことりを振 り向いた。 「神父様が言ってたみたいに、恐ろしい人? 世界を滅ぼしちゃうのかな」  スミレは、ほうきを動かす手を止め、ことりの物憂げな顔を見上げた。その眼は、 何か悲しげだった。 「・・・とても優しい人。でも、悪い事には厳しいの。それに、みんな信じてくれな いから、とても悲しんでる。だから厳しいの。怖いこと言うけど、本当は、とても優 しいの・・・」 「・・・そうなんだ」  ことりは微笑んだ。舌っ足らずなスミレの言葉。しかし、スミレは神様の姿を見て いるに違いない。いつも側で見ていて、きっと、神様のことを一番良く知っているの だろう・・・  懺悔室はとても狭い。狭いことに意味のある空間だ。たった一人の言葉を聞き、た った一人に言葉を告げる。顔は見えずとも、相手の心が見えるようになる部屋。 「さあ、何でも、懺悔してください。私が聞き届け、神に代わって道を示しましょう」  ごく小さな窓の開いた、薄い仕切り板の向こうには、今、一人の若者がいるはずだ った。 「・・・俺は最近、無性にある人を殺したくて仕方がない」  若者の低い声は、ただならぬ様子だった。神父は聖書を握りしめる。 「憎んでいるのですね」 「ああ、憎い。ぶち殺してやりたい。奴は俺を裏切った。俺が一番助けを必要として いるときに、奴は俺を見捨てたんだ。そのおかげで俺は、仕事も名誉も、今までの人 生も失ったんだ!」  声が震えている。こんな時は、自分は穏やかにならねばならない。神父は優しい声 で、壁の向こうの若者に告げた。 「その人の罪を許すのです。神は言っておられます。人が悔い改めるとき、その人の 罪は心の奥底に消える、と。あなたは若い、これからいくらでもやり直せるでしょう。 人の罪を許す広い心を持てば、あなたは一段と大きな人間になり、人から尊敬される ようになるでしょう。  それに、懺悔に来られたと言うことは、あなたの心が、本当は人を殺したくないと いうことを示しているのです。あなたには、その人を殺しても何も始まらないという ことがわかっているはずです。もっと、自分の心に素直になりなさい」  壁の向こうの若者は、しばらく沈黙した。やがて、若者はぽつりと言った。 「それは無理だ・・・」  壁の向こう。若者が跪いている。胸の前で、手を組んだ祈りの姿勢。しかし、組ん だ掌の中にあるのは・・・禍々しき、黒い拳銃。引き金にかけられた指先に、今、力 がこもる。 「俺が殺したいのは・・・」  教会の奥で、悪意が膨れ上がった。  闇の波動を感じ、からすは跳び上がった。悪魔が、この屋根の下にいる!  ことりも、不快なただならぬ波動を感じ、その底知れぬ不安と恐怖に立ち上がった。 スミレも何かを感じたように、教会の中を振り向く。  魂を貫く雷鳴のように、一発の銃声が響いた。  懺悔室の天井の漆喰の破片が、目の前をぱらぱらとこぼれ落ちる。真上に向けた銃 口から、煙が立ち上っていた。  馬鹿者、なぜ神父を撃たなかった! 内なる声が若者をなじる。しかし若者は、自 分でも思っていなかったほど冷静だった。神父を殺したところで、彼が殉教者になる だけだ。神は殺せない!  若者は懺悔室の扉を蹴り開ける。外に駆け出ると、反対側から飛び出してきた神父 と目が合った。すかさず銃口を向ける若者。しかし、引き金は引かなかった。  どうした、早く殺せ! 「だめだ、神を殺すなんてできないんだ!」  若者は内なる声に必死で抵抗した。さいわい、その力は若者の身体を乗っ取ること ができるほど強くはなかった。  神父はらしくもなく羊のようにおびえ、銃口の前で硬直していた。説得しようにも、 唇が震え、うまく言葉を紡ぎ出せない。そんな神父に、若者は叫ぶ。 「答えろ、神はなぜ、俺を見捨てた! 全知全能の、大いなる愛である神が!」 「・・・あ、あなたの身に、どんな不幸があったかは知らないが・・・」 「俺が答えてやろう! 聖書にはこうある、神は自らに似せて人間を造られた、と。 人間はこんな下劣な動物だ。だから神も下劣な存在なんだ! 神は楽しんでいるんだ! 人間が神になったらきっとそうするように、世界に飢餓をもたらし、貧困をもたらし、 戦争をもたらし、一人の人間を不幸でいたぶって楽しんでやがるのさ。そうだろう!」 「それは違う・・・」 「どうしてそう言いきれる! 貴様は神を見たことがあるのか! 違うというなら、 俺に本当の神の姿を見せてみろ!」  唾を飛ばし、目を血走らせて叫ぶ、若者のその言葉に、神父は息をのむ。唇を噛ん だまま、答えることができなかった。 「神父様!」  ことりが叫び、駆け寄って来たのはその時だった。ことりは目の前の二人がそれぞ れどんな状況に置かれているのか、理解するまで少し時間がかかった。危険を察知し、 足を止めたときには、もはや手遅れだった。 「来てはいけない!」  神父が叫ぶより、若者が床を蹴る方が一瞬早かった。若者はことりの腕をつかみ、 乱暴に自分のもとに引き寄せた。ことりは瞬間、頭が空白になり、抵抗することもで きなかった。ことりに銃口が向けられ、神父の口元が引きつる。 「神は俺から全てを奪った。だから、俺も神から奪い返してやる! 金を持ってこい。 毎週、礼拝の名を借りて、信者を恐喝してぶんどった金を、金庫の中にでも貯め込ん でいるんだろう!」 「恐喝だなんて・・・!」 「早くしろ! この女の頭が吹っ飛ぶぞ!」  ほう、そう来るか。それもいいだろう。いずれにせよ、もう、後には引けないのだ ・・・  若者の頭の中に、内なる声が嘲笑するようにこだまする。振り払うように、強く頭 を振った。銃を握りしめる手が震えている。  ことりは、一応、されるがままになっていた。落ち着いて考えてみれば、実体化し ているとはいえ、もともと精神的存在であることりには、銃のような物理的攻撃手段 は通用しないのだ。逃げるのも簡単だ。一度非実体化して、若者の腕をすり抜ければ いい。ことりに銃口が向けられているうちは、神父の身は安全だ。  しかし、なんだろう、この嫌な感触は。つかまれた腕から浸透してくる、黒い念に 虫酸が走り、ことりは顔をしかめる。毒が徐々にまわっていくように、しびれに似た 感覚が同心円状に広がっていく。  いやっ! 何なの、これは!? ことりは思わず、若者の腕を振りほどこうとした。 しかし、非実体化したにも関わらず、ことりの腕はつかまれたまま。・・・精神体が つかまれている? 逃げられない! 「気をつけろ、そいつは悪魔にとり憑かれている! 拒め、ことり!」  天窓から、からすの叫び声が聞こえた。悪魔! ことりの魂が、反射的に拒絶の壁 を形成する。しびれが波がひくように追いやられ、つかまれた部分に焼け付くような 感覚が走る。 「あっ!」  逆性の魂同士が、火花を散らすように反発し合い、腕から若者の手をはじき飛ばし た。その瞬間の痛みに、ことりは小さく叫び声をあげた。 「ぐうっ!」  一歩跳びすさった若者から漏れたうめきは、若者のものではなかった。若者の姿が 二重に見える。いや、違う。若者の身体から、別の精神体が抜け出ようとしているの だ。 「ことりっ!」  からすは非実体化して天窓をすり抜け、床に飛び降り、ことりと神父を守るように 立ちはだかった。もはや、人目にかまってはいられない。今、目の前に、憎むべき邪 悪がいる。若者から抜け出ようとする、別の存在の形がしだいにはっきりとしてくる。 その魂に、からすは見覚えがあったのだ。 「貴様は、こうもり!」  今や、それは若者から完全に分離し、人間の形になった。上から下まで黒ずくめで、 その顔は残虐に歪んでいた。真性の悪魔、心底から闇の魂だった。邪悪な波動がから すとことりを打つ。  神父は、目の前で演じられている、正気を疑うような光景に呆然として見入ってい た。黒い男、黒い少年、白い少女。この三人の存在は一体何なんだ? 黒い少年は、 あの男を悪魔と言った。確かに、心臓をざらりと撫でられるようなこの恐怖は、まさ に悪魔的と言える。しかし、黒い男は創世記の扉絵にあるような怪物ではなく、醜悪 ながら人間の姿をしているではないか! 神父は、今までの知識が、ゆっくりと崩れ ていくのを感じた。  黒い男は、からすの姿を認めると、にやりと口を歪めた。 「ほう、貴様か。面白い邪魔が入ったものだ。天使と共に現れるというのも、また妙 な取り合わせだな」 「僕のこの世界での名前は、からすだ。もう、闇の園での、弱い僕じゃない!」  からすの眼光が鋭くなる。一つの光景が、からすの心にまざまざとよみがえる。飛 膜を持つ魂たちに囲まれ、一人、黒い羽毛を生やした幼い少年。飛膜は自らを誇示す るかのように少年の頭上を覆い、嘲笑がこだまする。涙をのみ、瞳に憎悪を宿す少年 ・・・  ことりは、からすの背中に触れられない暗い憎しみの波動を感じ、思わず後ずさった。  こうもりに離脱された若者は、支えを失ったように一瞬ぼうっとしていたが、すぐ に我にかえり、銃を握り直した。 「彼を操っているのはお前だな。彼を解放しろ!」 「操る? まさか。この道を選んだのはあの男だ。私は手助けをしたに過ぎないよ」  もう、後には引けない・・・ 悪魔のささやきが、若者の心にくさびとなって突き 刺さっていた。そして今、若者は自分の意志でもって駆け出す。これまで、事態をお ろおろと傍観していた少女のもとへ・・・スミレのもとへ。 「逃げなさい、スミレ!」  迫り来る恐怖に足のすくんだスミレには、神父の言葉も意味をなさなかった。抵抗 できぬまま若者に抱え上げられ、頭に銃を突きつけられる。その口元はおびえ、泣き 出すこともできなかった。 「動くんじゃない、言う通りにするんだ! さっさと金を持ってこい!」  若者の言葉に、一瞬、まさしく全ての動きが止まる。神父は、自分の心臓の鼓動す ら止まり、魂が身体から半ば抜け出たような絶望感を覚えた。  こうもりは、かかか、と耳障りな高笑いをした。 「そら見ろ。私は何もしていない。彼自身がこれを選んだのだ。後は、邪道に向かっ てまっしぐら。そしていずれは、闇の園へようこそ・・・」 「嘘だ!」 「何が嘘なものか。人の心が邪道を望むのだ! 我々は、それを加速させてやるだけ でいい」 「嘘だ、信じるものか! 馬鹿なことはやめるんだ、お前は、悪魔に騙されているん だぞ!」  からすの叫びに、若者は身を固くするだけだった。銃を握りしめる手に、力が入る。 「説得など無駄だよ。なぜなら、人間は生まれながらに邪道だからだ。邪道こそ、人 間の本来持っている欲望そのもの。魔王様のもとでこそ、魂は自由を得るのだ。生ま れた時から魔王様に見捨てられていた貴様には、到底わかるまいがな」  かつてのように、からすを嘲笑するこうもり。しかし、からすはもう、ただ涙をこ らえるだけの小さな魂ではなかった。 「・・・お前は、相変わらず魔王の犬なんだな」 「何だと?」 「お前は昔からそうだった。お前は、上に立つ魔王と、僕のように迫害された魂の間 でしか、自分の存在を確かめられない魂なんだ。それがお前の弱さだ!」 「貴様、何を言う!」  からすは深い孤独を秘めた、不敵な笑みを浮かべた。それは、心の傷を武器に変え た者の、あまりにも悲しい強さだった。 「僕は違う。ずっと自分だけを信じて存在してこられた。お前らのおかげでな!  はっ、魔王が何だって言うんだ! お前だって、魔王の存在をその目で見たことも ないくせに!」  図星をつかれたのだろう。こうもりの顔が歪み、赤黒く染まっていく。地の底から 響くようなうめきが、その口から漏れた。 「貴様、魔王様を侮辱するか! 貴様など、この場で消滅させてくれる! 真の強さ というものを、その目に見せてやる!」  こうもりの背中でばきばきと音が鳴り、どす黒い骨張った腕がせり出していく。背 丈が倍になるほどそそり立つと、その腕は左右に大きく指を展開した。親指は鋭い鉤 爪と化し、残りの指は肘の長さより細長く伸び、それぞれの指の間には薄くとも強靱 な飛膜が張り巡らされていた。 「見よ、これぞ真の悪魔の翼! 貴様のような軟弱な翼とは違うんだよ」  見るだけで恐怖を与え、吐き気をもよおさせる悪魔の飛膜。神父は思わず、うめき 声を上げて後ずさった。宗教絵画で何度も目にしたはずの、想像上の悪魔の構図。し かし、今実際に目の前にいる悪魔の翼には、人の心を闇で覆い尽くす確かな力があっ た。 「おのれの弱さを思い知るがいい!」  邪悪なる翼を掲げ、からすに襲いかかるこうもり。その口は耳まで裂け、残虐な喜 びに奇声を発する。鉤爪が残像を残し、からすの頭上に振り下ろされた。 「からす!」  切り裂かれるからすの姿が脳裏に浮かび、ことりは思わず眼をつぶっていた。しか し、その耳に聞こえてきたのは断末魔の声ではなく、からすの怒気をはらんだ低い声 だった。 「・・・誰の翼が軟弱だって?」  薄目を開けることり。からすは、漆黒の翼を生やし、それを楯にしてこうもりの鉤 爪をしっかりと受け止めていた。瞬間、こうもりの顔が驚愕に歪み、からすの瞳が刃 の光を放つ。からすは翼を素早く薙ぎ払い、逆にこうもりを投げ飛ばした。長椅子の 群を薙ぎ倒しながら倒れ込むこうもり。黒い翼の生み出した一陣の突風が、神父の法 衣を、ことりの白い衣を、若者の前髪を揺らして吹き過ぎた。 「・・・やってくれるじゃないか、少しは強くなったようだな。今度は本気で行かせ てもらう!」  長椅子の破片を払いながら起きあがり、飛膜を構え直すこうもり。残忍な眼が赤く 光る。 「受けて立つ! 消滅するのはお前の方だ!」  からすの漆黒の翼が毛羽立ち、今にもつかみかからんばかりに羽根を拡げる。激し い戦いへの予感に高揚し、からす、般若の形相となる。  からすとこうもり。お互いの憎悪の波動が激突し、黒い戦慄が衝撃波となって吹き 荒れる。ことりはその波動を受け、背筋を撫でられるような悪寒を覚えた。美しかっ たからすの翼が歪んでいくのを、止める言葉が見つからなかった。  二つの黒い魂は、同時に地を蹴り、交錯した。物理的限界すら精神力によって決定 される、実体化した精神体同士の激突は、すさまじいものだった。振り下ろされる鉤 爪を、からすは翼で受け流し、殴りかかる黒い翼を、こうもりは逆に鉤爪で引き裂こ うとする。突風が二人を巻き上げ、からまるように床に激突する。黒い羽根を撒き散 らし、飛膜を引き裂かれながらの、魂の削り合い。最後に残っているのはどちらの破 片か、それだけの勝負。  目前で繰り広げられる人外の戦いに、神父は息をのまれ、ただ行く末を見守ること しかできなかった。若者もスミレに銃を向けたまま、自分の意志と離れたところで勝 手に始まってしまった戦いを、戸惑って見ているだけだった。スミレの幼い瞳は、目 の前の理解しがたい状況にただ恐怖し、涙を浮かべていた。  ことりは立ちすくむ。その胸に様々な想いが去来していた。  だめだよ、からす! 争いは人の心をすさませるだけ。暴力からは何も生まれない よ! ことりの胸の内に、言葉にならない想いが充満していく。  神父様だって、神の愛を説くことが一番大切であることはわかっているはず。あの 若者だって、不幸な目にあっても、神様を憎んでも、それでもなお、神様の存在を信 じているのに! 本当は、神様が叫びに答えてくれることを求めているのに! あふ れそうな想いを押しとどめるように、胸を抱くことり。  光を、心を透明にする力を!  瞬間、ことりの全身がまばゆく輝いた。  その瞬間、神父も、若者も、スミレも、からすとこうもりすら争いの手を休め、光 の源に目を奪われた。  燐光を発することりの身体。胸から無数の白い光の粒子が生まれ、それは長い尾を 曳きながら、ゆっくりとことりの周りを飛び回る。粒子はやがて、長い光の繊維を引 き連れ、ことりの肩の後ろに集結する。  二筋の光の繊維が、縒り合い、別れ、融合し、ひとひらの繊細な羽根を織り上げる。 いくつもの羽根が束となり、たんぽぽの綿毛のように両肩の後ろで膨らみ始める。や がて、綿毛はゆっくりと左右に伸長し、羽毛に覆われた力強くも優美な腕部が形成さ れ、純白の光の翼となる。  しかし、後から後から織り上げられていく羽根は、二枚の翼を覆い尽くしてもなお 生成され続け、ついに、翼は上へ下へ分裂を開始する。六枚に成長したまばゆい翼が、 ことりの背面いっぱいに広げられ、太陽の如き光輪を描く。輝きの中で、ことりは白 いシルエットになった。  からすは、ことりのその姿に目が眩み、正視できなかった。しかし、薄く開いたま ぶたの向こうに見えることりの影は、美しかった。綺麗だ。それ以上の言葉が、全て 嘘になるほど。 「・・・そんな馬鹿な! この力、貴様、何者だ!」  こうもりが目を覆いながら、驚愕の声を漏らす。驚きももっともだ。六枚もの翼を 生成できることりは、光の園でも上位の神官並みの器を秘めているに違いない。 「おのれ、貴様のような天使が、なぜ地上界に降りているんだ!」  ことりの光に圧倒されながらも、こうもりは飛膜を掲げ、精一杯威嚇した。しかし その姿は、慈愛の女神像に向かって鎌をもたげる蟷螂のように悲しかった。  光と闇に特化した魂は互いを拒絶し合い、ぶつかり合えば、互いを相殺し合うだけ である。つまり、純粋な光と闇の戦いにおいては、持てる器の大きさが、即、勝敗に つながる。こうもりは、目の前の天使にとって自分は敵ですらないことを、この光の 中に認めるべきであった。 「があああっ!」  必死の雄叫びをあげ、こうもりは、その鉤爪の矛先をことりに向ける。ことりの姿 に見とれていたからすは、こうもりの攻撃を止めようとするも、間に合わなかった。 こうもりはまばゆい光に顔を歪めながらも、天使の翼を断ち切らんとその鉤爪を振り 上げる。しかし、やけっぱちの攻勢もそこまでであった。  ことりは目を閉じ、力を放出した。六枚の翼から放たれた数え切れないほどの光の 粒子が、ことりの周りを、教会の中を、吹雪のように吹き荒れる。ことりの目前に迫 っていたこうもりは、その奔流を正面からまともに受けた。 「うわあああっ!」  こうもりの翼の黒い飛膜が千切れ飛び、表皮が溶け、翼は骨まで粉々になって消滅 した。光はとどまるところを知らず、闇に対するエネルギーでもって、こうもりの精 神体をも焼き尽くさんとする。 「ぐうううぅ、おのれ、憶えておれっ!」  苦痛のうめきと共に、こうもりの姿は反転するように消えた。消滅したのではない。 地上界を逃れ、闇の園へ転移したのだ。正しい判断だ。この場にとどまっていたら、 本当に消滅してしまう。  そう、この場にとどまるのは危険だ。からすは、背中の翼から黒い羽根が次々とは がれ落ちていっていることに気がついていた。しかし、からすは逃げることなく、こ とりの姿に目を奪われたまま、その光を全身で受け止めていた。  エンジェル・ハロウ。心の闇を払う光。  天使の翼は、見るだけで人の心を浄化する・・・  暖かな光の中で、神父は思う。自分は何を怖れていたのだろう。人々の心が神から 離れていくこと? それとも、神の愛を説く自分から離れていくこと? いや、自分 は本当に神の愛を説いていたのだろうか。世界の終わり、裁きの日、最近、そんな話 しかしていなかったような気がする。自分でも耳を覆い、叫びたくなるような、残酷 な予言。それは、古人の記した黙示録から得た知識に過ぎなかったはずだ。そもそも、 自分の信じた神の姿とは、伝えたかった神の力とは、このような暖かな光ではなかっ たのか。  大丈夫、人々はきっと神を忘れない。なぜなら、彼女が地上に降りてきたから。目 の前の白き翼の少女こそ、まぎれもなく、神の使わされた使徒に違いない。私は信じ る。彼女こそ、神の愛を地上にもたらすために降り立った天使なのだと。  柔らかな光の中で、スミレは感じる。心臓をわしづかみしていた、恐怖という名の 魔物の黒き爪が、白き光の中で影を失っていく。凍りついていた心が、穏やかに融か されていく。その光は、神父様の優しい手のひら。そして、初めて瞳を開いたときの、 母親の愛に満ちたまなざし。  かすれかけた記憶がよみがえる。あの日、粗末な毛布にくるまれた彼女は、教会の 扉の前に置き去りにされた。最後に母親に抱きしめられたときに聞こえたもの、それ は悲痛なすすり泣き。頬に当たる涙の体温。スミレは初めて、母親の胸を、ただ懐か しいと思った。  忘れようとするでなく、求めようとするでなく、ただ、懐かしいと。  貫くような光の中で、若者は思う。この光は一体何だろう? 人生への絶望も、神 に対する憎しみも、そして、神を憎んだことへの罪悪感も、全ての闇を吹き消すこの 光は。あの少女が天使だとすれば、この光すら神の力のごく一部なのだろうか? だ としたら、自分は何と偉大な心を敵に回そうとしたのだろう。憎むことはおろか、あ まつさえ殺したいとさえ考えてしまった! 若者はそんな自分を恥じる。しかし、そ んな後悔さえも、この光は吹き消してしまうのだった。  若者の、スミレを抱えていた腕の力が緩み、そっとスミレを床に下ろした。若者は 跪き、拳銃を床に置く。そして、自由になった両手を、胸の前で組み、静かに目を閉 じた。  肌を焼く光の中で、からすは思う。さっきまでの自分は、一体何だったんだろう。 憎しみと怒りに支配された自分。こうもりとの戦いの中に自分の存在を感じ、快感す ら覚えていた自分。闇の園で迫害されながらも、自分の存在をあきらめずに、消滅す ることなく生きて来られたのは、ただ単にいつか復讐することを夢見ていたからだっ たのだろうか。何と暗い欲望に動かされていたのだろう。  結局、自分は悪魔の端くれでしかなく、どうあがいても天使には近付くことができ ないのだろうか・・・  それでもいい。このまま、ことりの全てを受け止められたなら。  からすの黒い翼が消滅する。力つき、がっくりと膝をつくからす。  その気配に目を開いたことりは、今にも消えてしまいそうなからすの姿を目の当た りにした。愕然として飲まれる息と、腹の底からの叫びが胸の辺りで衝突し、衝撃が ことりの心を激しく揺さぶる。そしてことりは、自分が無制限に力を使いすぎたこと にはじめて気がついた。 「からす!」  かろうじて発せられたことりの叫びに、光の粒子の奔流が虚空に消える。六枚の翼 も光を失い、萎縮して吸い込まれるようにことりの中に消えた。 「からす、からす! ・・・ああ、どうしたらいいの!?」  駆け寄ることり。その目の前で、からすの姿はだんだん小さくなり、一羽のカラス に形を変えた。カラスはおぼつかない足取りで立ち上がり、くっと首を曲げて、黒い 瞳でことりを見つめる。ことりは膝をつき、手をさしのべて、カラスを胸に抱きしめ た。小さな魂、でも、確かな感触があった。 「よかった・・・ 消えないで、からす・・・」  ことりの瞳から一粒の光の雫がこぼれ、カラスの背に落ちて吸い込まれた。カラス は一度、まばたきし、翼を開いて、ことりの腕の中から飛び出した。二、三、羽ばた いて風をつかむと、教会の屋根の下で一旋転し、開いた扉から外に流れていった。 「ああ、からす・・・」  戸口まで後を追うことり。しかし、海からの風に吹かれ、カラスはすでにどこかに 姿を消していた。  光は失われ、みな夢から醒めたように我に返った。神父はスミレの名を呼ぶ。スミ レは神父に駆け寄り、その腕の中に飛び込んだ。  若者は、膝をつき手を組んだ姿勢のまま、微かにすすり泣いた。光が消えた後、彼 の心には罪悪感が残された。しかし、彼の頬に伝うものは、悔い改めた者だけが流す 清らかな涙だった。  波の音が聞こえる。太陽はまだ低く漂っている。ことりは教会の戸口に、ただ立ち すくんでいた。色々なことがあったような気がする。でも、ほんのわずかな時間の出 来事だったんだ。  大切な友達に、何ということをしてしまったんだろう。ことりは自己嫌悪に陥って いた。からすは闇の魂だということはわかっていたのだから、こうなることは予想で きてよかったはずだ。なのに、ことりは衝動的に、自分の力を無制限に使ってしまっ ていた。  ことりはカラスの消えた空を見上げる。からすは自分を嫌って、去ってしまったの だろうか。あんなにひどく傷つけてしまったのだから、嫌われても仕方がない。でも、 どうしてだろう、からすがここにいないことが、こんなにも寂しくて、辛い。からす と出会う前は、ずっと一人だったのに、今、泣きそうなほど弱くなってしまっている ことに、ことりははじめて気づかされた。  やっぱりだめだね、あたし。ことりはうつむき、そのまま教会から出ていこうとし た。 「お待ちください」  しかし、神父の声に呼び止められた。 「あなたは・・・ 天使様でいらしたのですか。そんなお方であったとはつゆ知らず ・・・」  ことりは、胸が痛んだ。あたしには、天使の名で呼ばれる資格なんかない。だって あたしは・・・ 「お気になさらないで。あたしは、神様のお言葉も承っていない身ですから・・・」 「しかし、あなたは光でもって我々の道を正された。・・・私は、今まで、ずっと間 違っていたのでしょうか」  ことりは神父を振り向いた。神父の足下にすがるように、スミレが顔をのぞかせて いる。 「あたしにも、神様がどんな気持ちでおられるのか、わかりません。・・・ただ、こ れだけはあたしにもわかります」  そう言って、ことりはスミレの瞳を優しく見つめた。 「スミレちゃんにとって、神様とは、神父様、あなた自身なんです。・・・どうか、 スミレちゃんがこの世界に絶望しないように。教えてあげてください、この世界のす ばらしさを」  神父はスミレを見下ろし、その髪を優しく撫でた。スミレは目を細め、父親を慕う ように神父を見上げる。ことりは微笑み、きびすを返して歩み去ろうとした。 「最後に一つ、教えてください。私は、恥ずかしながら、彼の問いに答えることがで きなかった。  ・・・神は、確かに、居られるのですか?」                   神父に背を向けたまま、ことりは目を伏せた。その表情に影がさし、瞳は、心の深 みを見つめていた。心のずっと奥深く、光と闇が渦巻き、せめぎ合うところ。  波の音が聞こえる。そよ風が、ことりの長い黒髪を揺らす。  やがて、ことりは目を細める。口元は微笑みを形作った。  そして、ことりは神父を振り向き、 「ええ」  とだけ、告げた。  それは優しく、温かく、全てを包み込む笑顔だった。 *    *    *  水平線と空の境界がわからなくなる時間。満点の星空に欠けた月が映える。ことり は一人、海にせり出した高い断崖の縁に腰掛け、足下の闇に響く波の音を聞きながら、 深く想いに沈んでいた。  ふと、背後に気配を感じ、振り返る。 「からす・・・」  一瞬、喜びにほころんだかと思えた表情は、すぐに罪の意識に陰り、ことりは目を 逸らしてうつむいてしまった。  金髪黒服の少年は、黙ってことりの隣に腰を掛けた。 「ごめんね、からす。あたし、本当にひどいことを・・・」 「いいんだよ。ことりが、僕のことを悪魔扱いしていなかった証拠じゃないか」  からすの声は優しかった。その優しさが、一層ことりをみじめにさせる。 「でも、あたし、自分を許せない・・・」 「あの時、君はとても綺麗だった」  ことりは、はっとしたようにからすの横顔を見つめる。しかしからすは、じっと空 の彼方の星を見ているだけだった。 「君はまぶしくて、綺麗で、僕はただ見とれているだけだった。光で皮膚が焼かれて いるのに、熱くなかった。むしろ、温かくて心地よかった。こうもりと戦っていたこ とも、憎しみも怒りも全て忘れてしまっていた。闇の園での忌まわしい記憶も、悪魔 にも天使にもなりきれない自分も、全て許せるような気がした。  消滅するということが、これほど安らぐことであるならば、このまま消えてしまっ ても構わない。本気でそう思ったんだ」  からすはそこで、ふとことりに目を合わせた。 「でも、君が僕のために泣いてくれたから。僕のために悲しんでくれる人ができたか ら、僕は、まだ消えちゃいけないんだなって。ほら、もうすっかりもとに戻ったよ。 ・・・天使でも悪魔でもない、もとのままだけどさ」  そう言って、両手を広げておどけてみせる。ことりはわずかに表情を崩した。しか し、目を逸らすとすぐに笑顔は消え、見えない水平線の辺りをじっと見つめる。月影 に青白いその横顔は、美しくも深い憂いの中に沈み、見つめるだけでからすは胸が痛 んだ。 「あのさ・・・ 君はとても素敵な天使なんだから、もっと自信をもっていいと思う よ。・・・元気を出してよ。じゃないと、僕、さよならを言えない・・・」  その、最後の言葉に、ことりはからすの横顔を振り向いた。聞き間違いであること を、そのまなざしの中に確かめようとするように。しかし、からすの瞳は辛いほど真 剣だった。 「ごめんね、いきなり・・・ でも、永遠の別れってわけじゃなくて、少し、距離を 置こうと思うんだ。きっと、一緒にいても、今度みたいに、僕は君の足を引っ張って しまう。僕はもっとがんばって、強くならなきゃいけないんだ。   ごめん、本当に。僕だって辛いし、君にも辛い思いをさせてしまうのかもしれない。 でも信じて。僕はいつだって、君のことを想っている。そして、僕の翼が白くなって、 君にふさわしい魂になれたら、きっと・・・」  からすは、腕が引かれているのに気がついた。ことりは、からすの黒衣の袖をぎゅ っと握りしめ、うつむいていた。その拳が微かに震えているのが、袖を通して伝わっ てくる。 「いやだよ・・・ 一人にしないでよ。あたし、あなたが思うほど強くないもん。だ って、あたし・・・」  ことりは、そこで言葉につまった。足下で波が砕ける。からすは胸を痛めながらも、 ことりの横顔を見つめ、じっと次の言葉を待った。  やがて、ことりはぎゅっと目をつぶり、口を開いた。 「あたし、天使なんかじゃないもん。みんなの思うような、天使じゃないの!」  一度決壊したら、後は止めどもなくあふれ出すだけだった。吐くように言葉をつぐ 横顔は、見ているからすにとっても辛かった。しかし、今、傷つけてでも毒を外に出 すことが必要だった。 「あたし・・・あたし、堕とされたの。嘘をついた罪で、光の園から堕とされたの! だから、地上でもっと修練して、光の園で認められて、天使の資格をもらわなきゃい けないのに・・・」 「・・・ことり」  からすは、ことりの頬にそっと手を添えた。振り向いたことりの瞳は潤み、雛鳥の ように救いを求めていた。光を届ける一方で、一人悩みを抱え、苦しんでいたことり。 からすは、それに気づかなかったことに罪悪感を覚え、別れを告げようとしたことを 後悔した。しかし・・・ 「本当は弱虫で、臆病で、ずるくて、いつも逃げてばっかりで・・・ 自分を守るた めなら、自分だってごまかせる。笑顔だって作れる。傷つきたくないから、本当のこ とを言うのが辛いから、だから・・・だから・・・」  弱々しく震える声に、からすは胸が一杯になった。ことりの震える肩に不器用に手 を回して、そっと抱き寄せる。ずっと側にいたい。でも、ことりが本当の天使になる ためには、なおさら、闇の側の自分が一緒にいるわけにはいかなかった。  だから、せめて今だけは。  ことりは少し身を固くしたが、やがて、ごく自然に、からすにその身を預けた。 「君は弱いんじゃない、優しすぎるんだよ。・・・もう、一人で抱え込まないで。君 は一人じゃない。・・・どんなに離れていても、一人じゃないから・・・」  ことりの髪を撫でるからすの手のひら。そうされているだけで、心の中のよどみが しだいに薄れていくのを、ことりは感じていた。はじめて、素直になれる人に巡り逢 えた。それなのに、手を離せば、この安らぎは遠ざかっていってしまうの?  今、すぐ側に、受け止めてくれる人がいる、哀しみ。ことりは、からすの胸の中で 泣いた。もうすこしだけ、このままでいて欲しいと。  ことりは、からすの手のひらから、ゆっくりと浸透してくる何かを感じた。自分に 欠けていたものが満たされていくようで、それは温かくて、心地よくて、うれしくて、 そして・・・  少し、怖かった。       −きっと天使になれるはず− END

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