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小林書生                小葉利夫

 
  その日は、走り梅雨も一段落して日々勢力を増す六月の太平洋高気圧が日本列島を
独り占めしていた。
 梅雨入り独特のねちっとした空気とどんどん気温があがる初夏の太陽をにらみ付け
て、その少女は汗だくになって、あやとりのドアをノックした。
「はじめまして。矢神さんはいらっしゃる」
 どう見ても高校生にしか見えない童のような少女は、はにかみながらぺこりと一礼
して入ってきた。
 無地のブラウスに紺のスカートという、まるで制服のような地味な出で立ちで頬を
赤らませて矢神の前に立った。
「どこかで会いましたっけ」
 矢神は、きょとんとしてその少女の人となりを物色していた。まるで、覚えがなか
った。矢神は書生という立場上、一度会った人の顔と名前は確実に記憶しているのだ。
「はじめまして。今、大森さんの書生をさせていただいている小林薫です」
 明子は小姑よろしく、唇を真一文字にむすんでその娘をにらんでいた。
 矢神はおたおたして、
「しかし、君は女性だろ」
 大森一角は、男性の書生しか取らない。男の世界に、女を入れるとややこしいこと
になるからだ。しかも彼女は、危険で汚いアンダーグラウンドを任せるほどしたたか
なところはなかった。まるで、童女だ。
「女がどうかしましたか」
 彼女は誰はばかることなく、下から矢神の顔色をじろじろと観察していた。まるで、
長年の恋人同士のようだった。
 明子は歯をきしませて、叫びたくなる衝動を必死で押さえていた。
 そんな明子の心を知らず、小林という名の少女はキャキャと叫んで、矢神の手を取
った。
「やっと、先輩に会えました。大森さんが何度もお話するもんだから、すごく興味が
あったんです」
 明子は、眉間にしわをよせて、
「娘さん。ご用件はなんです」
 腹の底から響くような小さな声で詰問した。
 少女は、妙に静かな口調で、
「依頼です。逆前市警少年課のある人間が、売春の斡旋をしくんでいます。受けてく
れますか」  
  明子は、目を細めて、
「お話を聞かせてもらいましょう」
 売春は卑劣な行為である。特に、まだ判断が身についていない少女を食い物にする
売春は、必ずといっていいほど麻薬とヤクザが絡む。今、ちまたのマスコミは軽いタ
ッチであっけらかんと報道しているが、売春がもとで人生をつぶした人は数えられな
いだろう。その元締めが警官だというのだから、公安も地に堕ちたものである。

 私、有藤理恵。今回は、ほとほとあきれる依頼です。市民の模範となるべき警官が、
あろうことか低俗な売春に手を出しています。まあ、警官といえども人間だから魔が
刺すこともあるでしょうけれど、問題はその事件を内々のうちに処理してしまおうと
いう、国家権力者のエゴです。普段、ちょっとした交通違反は取り締まるくせに、身
内の問題となると握りつぶしてしまう公安の体質に、怒りをとおりこして、只々あき
れるばかりです。

 理恵があやとりに入ると、妙に深刻な顔で矢神と明子が顔をつきあわせて話しを聞
いていた。矢神は、しょんぼりとして難しい顔をしていた。矢神ら、三人はまるでメ
ロドラマの三角関係のもつれみたいだったので、からかってやろうかと思ったけれど、
事態はそんな単純なものじゃなかった。
 少女は首をうなだれて、じっと下を見ていた。褐色の瞳から、ぽつりぽつりと涙が
こぼれていた。矢神は、彼女のとなりに座って手をぎゅっと握りしめていた。
「もう気づいていると思いますが、私は売春をしていました。自分では、もう大人の
つもりだったんです。あさはかでした。テレクラで知り合った見ず知らずの男性が、
私の最初の人です。その人は十万円ほどくれました。始めてだから、すごく痛かった
んですけど、中学生の私にとって、それは目を見張るばかりの大金でした。すぐに、
ブチィックに走ってぜんぜん似合わないスーツを買いました」 少女は、泣きじゃく
っていた。自分のしでかした過ちを誰かに聞いてもらいたかったのだ。矢神は、力を
こめて彼女の手を握っていた。
「スーツにバッグ、フェラガモの靴にダイヤモンド。ほしいものは山ほどありました。
たった一回のセックスで何万円もお金が入ってきました。ぜんぜん似合わない口紅を
つけて、怖い者知らずで繁華街を歩いていました。世の男性をなめきっていました。
利用していたつもりだったんです。実のところは、低俗な欲望の犠牲になった愚かな
女だったんです」
 小林薫は、ぐっと歯がみして真っ赤な目で虚空をにらみ付けた。
「私は少年課の警官に補導されました。本当に怖かった」
 それはそうだ。素人が警官に職務質問されたら、誰だってびびってしまう。まして
十代の女の子なら、とてもじゃないが反抗できないだろう。
「その男は沼口といいます。最初は、緊張をほぐそうとあれこれかまってくれました。
ちょっと若い長身の男で、私はほっと息をつきました。信用してしまいました」
 ここまでは、ふつうのよもやま話である。ここで、彼女が交番に行き質問を受けて
両親が引き取れば、それで解決する問題なのだ。
わざわざ、私立探偵が口を出す話じゃない。
「沼口は優しそうな顔をして、私を引っ張っていきました。私も、本当に反省してい
ました。ところが、沼口はアパートに連れ込んで私を突き飛ばしたんです。道ながら
の穏便な様相は消えていました。それから・・・」
 小林薫は、そこで話を切って嗚咽した。そこからは、とても話にならないだろう。
「分かりました。もう、いいです」
 矢神はいたたまれなくなって話しを切った。矢神は、にっこりと笑うと、
「大森さんは厳しかったでしょ。何日ぐらい監禁されました」
 小林は涙を拭いて、舌を出すと、
「最初はびっくりしましたよー。出られないのかと思いました」
 矢神は、おかしくてたまらなかった。大昔、
矢神は暴走族の切り込み隊長として、暴れまくっていた。夜中じゅう、喧嘩と暴走に
明け暮れていた。そして大森の車と事故を起こし、
それから十年以上、大森の世話になっているのだ。
「六ヶ月も部屋の中ですごしました。ほんとに気が狂いそうでした」
 大森一角もずいぶん年をとったもんだ。矢神なんか一年以上、家から一歩も出られ
なかった。
 大森は、暴れる矢神を、鬼のような面相で押さえつけて机に向かわせた。矢神は、
腕っぷしは強かったけれど、そのころの大森一角には歯が立たなかった。禅僧の坊主
でも、ここまで厳しくないだろう。
「分かりました。前向きに対処すると伝えてください」
「お願いします」
 言って、少女は事務所を出ていった。どこか、ミルクの匂いのする愛らしい人であ
る。
 理恵は、どこか安穏として、
「可愛い女の子ね、矢神さん」
 言って、理恵は二人の顔色をきょろきょろ見ていた。矢神はおたおたしていたけれ
ど、明子の方は涼しい顔をして、
「ほんと、矢神さんにぴったり」
 つんとして、無視していた。理恵は、そんな二人の態度がおかしくてたまらなかっ
た。
そのとき、電話が鳴った。送電線の向こうは当然、大森一角である。
「はい、ちょっと待ってください」
 理恵は、受話器を両手で押さえて、
「矢神さん。大森さんから電話が入っているよ」
 矢神は失笑していた。困っていた。今度の依頼は、なにか猥褻なものがあるからだ。
「はい」
「小林から話しは聞いただろう。おまえのところなら解決できると思うが」
「はあ」
「やってくれるか」
「実は、泣かれちゃって。肝心の話しは聞いていないんです」
「じゃ、私から話そう」
「はい」
「マトは沼口孝夫。警官の皮をかぶった女郎屋だ」
「はい」
「中学生高校生を中心に、少女に客を紹介して利益を得ている。警官という立場を利
用して、売春少女を摘発する。あとは、黒手帳をちらつかせて自分の配下におくとい
う外道だ。そいつをブタ箱にほりこむ証拠を見つけてくれ」
「分かりました」
 大森は急に、声をあげると、
「薫ちゃんはどう思う。気に入ったか」
 矢神は、声をひそめて、
「また、その話しですか」
 どう応えていいか困っていた。
「素直でいい子だぞ。器量よしだし根が明るい。その気があれば、一生面倒見てやら
ないか」
 矢神は照れてしまって、
「いいですよ、そんな甲斐性なんかありませんから」
 大森は、疲れた声を出して、
「そろそろ結婚してくれ。一度、あずかった以上、私が里親だ。おまえのご両親にあ
わせる顔がない」
「すいません」
「じゃ、依頼の件はよろしくな」
 言って電話は切れた。明日から、沼口の身辺調査にかかる。それには、厄介だけど
菊地の協力が必要なのだ。
 矢神は、すぐに菊地に連絡を入れた。

  なんたる部屋だ・・・。
 矢神は、何度連絡を入れても反応がないので、菊地のマンションまで190Eで飛ばし
てきたのだ。管理人に、身分証明として免許書を出して合い鍵を借りると、彼の魔窟
へ足を踏み入れた。
 部屋の中は、脱ぎ捨てのシャツやズボン、灰皿に空き缶と1DKの部屋は、ゴミ溜
めだった。
 テーブルかわりのジャン卓の上に、山と積まれたゴミの数々。
 ビールの空き缶。タバコの吸い殻。コンビニの弁当。飲みかけのペットボトル。缶
コーヒー。数字をメモった紙屑に競馬新聞。赤鉛筆。
  よくこんな劣悪な部屋で生活できるものだ。矢神は、あきれるのを通り越して感心
していた。
 菊地はベッドの上で、よだれを垂らしながら熟睡していた。あれだけ、電話をかけ
たのに反応のなかった男だ。マグニチュード7の地震が起こっても起きないだろう。
 矢神は、いてもたってもいられず、まず流し台にわんさか積まれた食器の洗い物を
片づけることにした。食器に洗剤でごしごし汚れをおとして、積み上げていると、
「サッちゃん、いたのか」
 菊地が起きてきたようだ。しかし、サッちゃんって誰だー!
 矢神はほとほとあきれていた。もう、いい年なんだからきちんと暮らしてほしいも
のだ。矢神は、小さくため息をつくと、
「菊地さん。もっと、まともな生活はできないんですか。小学生でも、もっとちゃん
としてますよ」
  菊地は、ぼさぼさの頭を掻くと、
「矢神か。何のようだ」
 ふわあーと大きなあくびをついた。
「仕事ですよ。明日、朝一であやとり、に来てください」
「めんどくさいなー}
 矢神はいいかげん、いらいらしていた。語気を荒げて、
「あやとり、の責任者は菊地さんですよ。本来なら、率先して事務員を引っ張る立場
なんですよ」
 菊地は、眠たそうに目をこすって、
「うるさいなー。キンキン声を出すな。頭にひびく」
 矢神は再度念押しした。
「明日、ちゃんと来てくださいよ」
「分かった。前向きに努力する」
 どうして素直に、はい、と言えないのだろう。菊地は、めんどくさそうに手早く着
替えると、
「この部屋を片づけといてくれ。俺は、ジャマだろうから外をぶらぶらと散歩してく
る」 矢神は、頭を抱えていた。この人が責任者なんだから、あやとりは前途多難で
ある。
 しかし、なんで矢神が彼の部屋を片づけなくてはいけないんだ。
 ほんとに、菊地はやさぐれのわがままな男である。

「なんか、淫らな臭いのする依頼だな」
 菊地は、やたら楽しそうだった。こういう下世話な仕事をやらせたら、日本一だろ
う。「しかし、男の性欲が減る一方のこのご時世に、元気な奴もいるんだな」
 菊地は、にたにたと理恵の顔を見ていた。理恵の方は、照れてしまって居心地が悪
そうだった。
「そいつにあやかりたいよ、まったく」
「そんなに具合が悪いんですか」
 大の男が、なにを喋っているんだ。こういう非常識な大人がいるから、援助交際な
んかが流行るのだ。
「寝起きもわるけりゃ、朝立ちもとんとご無沙汰だ」
 理恵は拳で、ガツンと殴りつけた。こう見えても、瓦三枚ぐらい平気で割ってしま
う彼女である。菊地は頭を押さえて、
「本気で痛い」
 うめいていた。
「よし。とりあえず、沼口の素行調査といこう」
 菊地は、ちらっと腕時計を見て、
「今からなら、出勤時間に間に合うだろう。二十四時間、沼口を追い回すから」
「はい」
 菊地がネクタイをあわせている間に、矢神は190Eを取りに走った。菊地は、理恵の
スッピン顔をじろじろ見て、
「いい虫は付いてもいいんだぞ」
 まじめな顔の菊地を、ひっぱたいた。どっちもどっちだ。
 こうして、沼口を追い回すことになった。しかし、この男は実にきたない男である。
只の猥褻犯ではない裏の人脈が、大木に巣くうつたのように誰はばかることなく息づ
いていた。

「ふーん。意外とかっこいいんだな」
 沼口孝夫という人物は、長身ですらっとした警邏の小ぎれいな制服をまとっており、
同僚受けも良かった。顔も面長で、一重の涼しい目元をしていた。なんの問題もない。
「なんか嫌な予感がします」
「おまえもそう思うか」
 菊地は、眉間にしわを寄せて沼口をじっくり観察していた。たしかに、何の問題も
ない。
それが気に入らなかった。警官という仕事はとかくストレスの溜まる仕事である。安
月給で人の嫌われ役に徹しなければいけない。一端、署内に入ると同僚も後輩もすべ
て立身出世というジャングルジムの競争相手である。外に出れば、警官というだけ他
人の模範となるべき立派な人間を気取らなくてはいけない。刑事ドラマなんかでは颯
爽と登場するけれど、実際は雑務やこそ泥の処理に奔走する、本当に地味な仕事なの
だ。
「なんか臭うな」
「どんな臭いがします」
 菊地は、沼口をじっとにらみ付けながら、
「権力の臭いかな。とにかく、シリを追いかけてみよう」
 菊地は、沼口から目をはなさなかった。大森から依頼を受けた問題の人物は、好人
物の人気者であった。かなりヤバイ奴である。
「沼口から目を離すな」
 言って、菊地は携帯電話をトントンと叩いた。非常の時は、携帯を使えという合図
である。
「俺は沼口のねぐらを当たる。どうも、納得がいかん」
「いってらっしゃい」
 矢神は、かるく笑って手をふった。新人類と呼ばれる人間が、矢神から始まってい
ることをすっかり忘れていた。
 菊地は苦虫を噛んだような顔をして、外を出た。なんとも予測のつかない空だった。
「OK、徹底的に洗おう」
 菊地は、誰に告げるでもなくそう独りごちた。

 十二時か・・・。さぼってないだろうな。
 菊地は、バスの中で固形のビスケットと缶コーヒーを胃袋に流し込むと、沼口のね
ぐらに足を向けた。
 沼口は、寮に入らずマンションで一人暮らしをしていた。だいたい、それ自体が不
穏な兆候である。
 菊地は、合い鍵を使わなかった。使う必要がなかった。奴のマンションに、先に潜
り込んだ先客がいたからだ。
「まいどー」
 菊地は、なんとも間のわるそうに玄関を開けた。ピカピカに磨かれた革靴が、四、
五足並んでいた。
 出てきたのは、やくざ様ご一行である。さすがの菊地も背筋が凍る。
「なんだ、おまえは」
「水質検査を実施中でして、お水はおいしいですか」
「帰れ帰れ、バカタレ」
「はい、ごもっとも」
 菊地はすごすごと引き下がった。いくら菊地でも、こんなヤバイお兄さんご一行と
もめ事を起こせば、リンチどころかミンチになってしまう。
 しかし、これで沼口の裏の顔はわずかながら分かってきた。沼口は、その筋とつる
んでいるのだ。
 菊地は外に出ると、携帯をひねり出した。
「矢神。もう、張り込みはいい。バス停まで迎えに来てくれ」
 言って、空を見上げた。
 そうか、今日は雨だったのか。
 菊地は、妙にせつない気持ちだった。菊地は誰を哀れんでいるのか、自分でも検討
がつかなかった。
「どうしたんです。まだ、早いんじゃないですか」
「いや、だいたい分かった。一端、ひきあげだ」
 菊地は、むずかしい顔をしていた。心底、困っているようだった。
「沼口に、その筋がくっついているんだ。まいったな」
 矢神は妙にしおらしい態度を取る菊地をみて、不思議な顔をして彼の顔をじろじろ
見て
いた。さすがの菊地でもヤクザは怖いのだろうか。しかし、菊地だってヤクザみたい
なものだ。
「蛇の道は蛇でしょ。目には目を、歯には歯を。ヤクザにはヤクザを」
「おまえ、俺をおちょくってるのか。俺は、カタギの探偵だよ」
「あのね」矢神はあきれて、
「どこの世界に、平気で犯罪をおかす私立探偵がいるんですか」 
 菊地はきょとんとして「一理あるな」
「菊地さんほど、殺しまくる人なんて日本中どこをさがしてもいませんよ」
「おまえは、勘違いしているぞ。兵隊をわんさかつれて民間人をいじめちらかす奴ら
がヤクザだ。俺は、一匹狼のアサシンだ。生き方がちがうんだよ」
 矢神は釈然としないようすで、
「そうですか。僕には同じように見えますけれど」
 菊地は、ぶすっとふくれて、
「もう、いいよ。傷つくなー」
 別に、菊地はおびえているわけではない。困っているだけだ。ヤクザがからむと、
どんなに些細な事件でも、二重三重にややこしくなる。奴らは、拘置所に入ることな
んか屁とも思っていないし、後からねちねちと因縁をつけてくるのだ。警察だってそ
んな厄介者と関わりたくないし、他の仕事だって山ほどある。現行犯でしょっ引くこ
とはあっても、簡単な事情聴取で終わらせてしまう。ヤクザの武器は、銃でもナイフ
でもない、どこまでも付け狙うその執念深さなのだ。
「とりあえず、気長にさぐりを入れてみるわ。あまり期待しないでくれ」
 矢神は、エアコンのスイッチを切ると、
「いいえ、期待しています」
 妙に、おどけた調子で応えた。 

「どうです。繁盛してますか」
 菊地は、深夜一人で沼口のマンションを覗いていた。コウモリがバサバサと飛び回
る不気味な夜である。
 菊地は、本当はこんな仕事はいやなのだ。ヤクザと殺し屋はぜんぜんちがう。殺し
屋は絶対に、民間人をまきこまない。しかし、ヤクザはちがう。ヤクザは寄生虫のよ
うに、弱い者から体液をしぼれるだけ搾り取る。けして、殺人のような大それた犯罪
は犯さないけれど、一度、弱みをにぎられたら、もう被害者は廃人になるまでしゃぶ
りとられる。
「沼口さんよー。もっと、べっぴん女はつかまらないのか。客足が遠のいているぜ」
 沼口は薄ら笑いを浮かべて、
「不景気ですからねー。それは、政治家に言ってください」
 男はぶすっとして、水割りを飲んでいた。
沼口は、冷たい目をいてつかせ、
「それより、総会屋の件はきっちり教えてください。株主総会の動きしだいで、僕の
出世が、かかっているんですから」
 男は、めんどくさそうに、
「分かっている」
「頼みます」
 菊地は、盗聴器をしかけていない。しかけるもなにも、部屋に入れないのだから、
当然だ。しかし、菊地は器用な男で、素人読心術で大筋はつかんでいた。
 沼口は、少女を世話するかわりに、その筋の情報を手に入れているのだ。
 菊地のもっとも嫌いなタイプだった。

 帰り道、そのやくざの中で一番話しの分かりそうな男を尾行した。ワインレッドの
背広を着た、その男はわりと大柄で目が鋭く顎骨のでっぱった無頼漢というような風
体である。あんまり、仲良くなりたくない部類だけど、そいつが、あの部屋では一番
まともそうだったのだ。
 無頼漢が他の三人と別れて、車のキー持ち出した時、菊地はそっと忍びよった。
 うまくいけよ。 
 息も尽かせぬ早業で、左腕と腰と右足を持ってひょいと男をころがした。ウッとう
めく無頼漢を見下ろして、そのまま革靴を口の中に押しやった。
 菊地は残酷な笑みを浮かべると、
「ちょっと窮屈かもしれないけれど、勘弁してくれ。話しを聞くだけだから」
 言って、ぐいぐい革靴を口の中にほりこんだ。無頼漢が呼吸困難でもがいていると、
菊地は革靴をみぞうちへ力任せに蹴った。無頼漢が気を失うと、菊地は廃ビルの陰へ
隠れた。
  菊地は、ハンターナイフを持ち出すと、気絶した無頼漢のシャツに手をふれた。下
着までナイフで破ると、彼はすっぱだかで横たわる毛のないクマのようななさけない
風体になり、なんともしまらない。
 菊地は、このクマをどう料理しようか、残酷な思いを頭に描きながら、タバコに火
を付けた。菊地にとって、人を殺すのは快感だ。まして、今はこの外道をどう虐めよ
うと誰も文句は言わない。菊地にとって、最高のトランキライザーだった。
 菊地は、ジッポライターでハンターナイフをあぶり出した。ナイフがほどなく真っ
赤に色づくと、のんきに気絶しているクマの右胸に押し当てた。
「ギャー!」
 肉の焦げるじりじりとした音がした。暴れるクマを、菊地は押さえつけてそのまま
ナイフを押し込んだ。どす黒い体液がしたたり落ちた。
「おはようさん」
 菊地は間の抜けた声でナイフをしまった。クマは右胸を押さえながら、ガタガタ震
えていた。それは、深夜の冷え込みのためだけじゃないだろう。
「気分はどうだ」
 クマは返事ができなかった。菊地の目の奥に光る冷酷な憎しみの火を見たためだろ
う。「沼口孝夫はなにをねらっている。教えてくれないか」
「だれだ、おまえは」
 菊地は、革靴でクマの右胸を思い切りけ飛ばした。クマは甲高い悲鳴をあげた。
「素直にしゃべらないと、この程度じゃすまない」
 静かな声で念押しした。
「た、たすけてくれ」
 クマだって、生粋のやくざである。哀れな民間人を何度となく泣かせてきただろう。
だからこそ、菊地がうそをいっていないことがよく分かっていた。
 菊地はレコーダーを出すと、スイッチを押した。
「さあ、喋ってくれ」
 クマは観念したように、下を向いて喋りだした。
「沼口孝夫は、俺たちと組んで裏の情報を集めているんだ。麻薬や売春、株主総会ま
で奴に情報を教えている」
「それから」
「今、沼口は総会屋の情報を集めている。G銀行の総務部の経営がガタガタで、その
情報を流してやったら大喜びしていた」
「沼口はなにをねらっている」
「出世だ。今の情報を幹部に流したら、奴は私服警官になれるといっていた」
 外道メ!
 菊地は、腹が立ってしかたなかった。少女の体で、自分の出世をもくろんでいるの
だ。
「ありがとよ」
 菊地は、大事そうにレコーダーを抱えて立ち去った。クマは素っ裸で、じんじんと
痛みを増す右胸を押さえて、途方に暮れていた。
 
  菊地は、昼をとっくにすぎてから、あやとりに顔を出した。報告書とレコーダーは
すでに、逆前市警に送ってある。
「沼口はどうなった」
 菊地は、眠たそうにコーヒーをブラックですすると、切り出した。
「懲戒免職になったそうです」
「それで」
「それだけです」
 菊地は、ブラックを二度おかわりして、きついニコチンで目を覚ますと、
「冗談だろ。あれだけの悪党だ。ブタ箱がお似合いだと思うぞ」
 矢神もしぶい顔をして、
「こんなもんですよ、今の世の中は。権力者の失態は、全部しっぽ切りで終わるもの
です」 菊地は、タバコを二、三本立て続けに飲むと、眉をつりあげて歯ぎしりした。
「チキショー。あいつだけはブタ箱にほりこみたかった」
  矢神も苦々しい口調で、
「同感です。薫ちゃんをさんざんもてあそんで甘い汁を吸っていたんですから。懲役
三年は実刑を受けるべきです」
 菊地は、なぜか煮え切らなかった。腹の底から、どす黒い怒りがこみ上げてきた。
「とにかく、逆前市警には貸しができたわけだ。今度、不祥事が起きたらマスコミに
テープを流してやる」
 二人ともため息をついていた。少女を手込めにして、女郎屋で働かせ、ヤクザから
情報を集めて、出世をねらう。こんな悪党はちんぴらの中でもめったにいないだろう。
 菊地は、自分の無力さに腹が立っていた。そして、国家権力という名の巨塔を誰よ
りも憎んでいた。
「おっはよう」
 理恵が学校からその足で、あやとりに入ってきた。まぶしい笑顔に、菊地は一筋の
救いを見た。
  菊地は、少年時代から裏社会を生きていた男だ。
 死、暴力、ドラッグ、セックス、詐欺、権力。
  人間社会の裏側を、うんざりするほど見てきた。古だぬきの始末だけが、彼の仕事
だった。
 理恵の屈託ない笑顔は、そんな菊地を少しだけ元気づけてくれた。
 菊地は、まぶしそうに理恵の横顔を眺めていた。
  もうすぐ、梅雨である。

                                   (FIN) 



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