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バラード          星 洋一

 
 川は流れる。
 その清水は透明に輝いて、
 深く心の痛みを流し去ってはくれない。
 ただ、時間だけを溶かして、
 静かに、ゆっくりと流れていく。

 男は川辺に座り、ぼんやりと川の流れを見つめていた。
 安物の灰色のジャンパーの背を丸め、中途半端に伸びた髪を無造作に木枯らしに吹
かせている姿は、世捨て人のように老けこんでいる。しかし、彼の顔立ちはまだ若く、
深い陰さえなければ少年のようだった。
 側で小さく火が燃えている。しかし、その炎は身体を暖めるにはささやかすぎた。
男の抱えた寒さはもっと深いところにあるようだった。河原ではしゃぐ子供達の歓声
も、橋を渡る車の騒音も、男のまとう空気に触れたとたんに凍りついて、その意味を
失ってしまった。
 男は懐から封筒を取り出し、それをそっと火にかざした。
 淡い緑色の封筒はオレンジ色の炎に触れ、端の方から黒く色を変えていった。男は
手を離して、封筒の全てを火にくべた。
 炎が封筒にまとわりつき、その中身ごと灰に変えていくのを、男は見届けなかった。
その瞳は川面を見つめたまま、空っぽだった。
「何をしているんですか?」
 男の背中に、秋の雲のように静かな女の声が呼びかけた。その声は単なる音ではな
く、赤子の頬に触れる指先のように優しい感触があった。
 男は川面から目を上げ、しかし、振り向かなかった。
「死んでしまったのです」
 男の声は低く静かに、抜け殻のようにかさかさとしていた。

 女は臙脂のコートに身を包んで、男の後ろにたたずんでいた。
 男と同じぐらいの年頃で、顔立ちにも少女の面影が残っているけれども、その表情
の穏やかさは男よりも大人びて見えた。
「死んでしまったのですか」
 黒い灰になってちりちりと縮んでいく封筒を見下ろしながら、女は言った。
「大切な人でした」
 男は再び、川面に目を落とした。
「それなのに、失ってしまった」
 女は黙って、火の側に腰を下ろした。ゆらめく小さな炎を瞳に映しながら、消えて
行く文字を読み取ろうとするかのように、燃える封筒を見つめていた。
 そのまま、封筒が燃え尽きようとするまで静かに見つめていたが、やがてそっと口
を開いた。
「愛していたのですね」
「わかりません」
 男は振り向きもせず、小さく答えた。
「ただ、一つだけ確かなのは」
 男は懐から次の封筒を取り出し、尽きようとする炎をそれに移した。
「愛していると言うには、たぶん、私には何かが足りなかった」
 炎は、新しい薄緑の封筒をかじりながら、次第に大きくなっていく。男はそれを、
燃え尽きた封筒の灰に重ねるように置いた。
 一陣の木枯らしが吹き、男の前髪を乱して過ぎた。風は炎を激しく揺らし、いくつ
かの灰のかけらを宙に舞わせたが、火は吹き消されることはなかった。
 男はまぶたにかかった前髪を右手でかき上げ、その手のひらを額に当てたまま止め
た。
「どうして、もっとわかり合えなかったんだろう」
 男はうつむき、目を覆い隠すように手のひらを下げた。
「私は愚かだった。何も知らなかった。あの人を傷つけていることさえも」
 親指と中指でこめかみを挟むように押さえ、そのまま、じっとしている。その目元
は手のひらの陰になり見えなかったが、口元はきつく噛みしめられていた。
 女は何も言わず、川面を見つめながら、次の言葉を待った。
「だから、私は殺したんです」
 しばらくして、男はそう言った。手のひらに、額を握り潰さんばかりの力がこもっ
ているのがわかる。
「もう、誰も傷つけちゃいけない」
 その声には何の感情もなく、乾いていた。
 そして沈黙。せせらぎが時を運び、子供のはしゃぎ声と町の音がそれに重なる。
 炎は全てを灰にして、やがて消えていった。

「死んでしまったのは」
 時を待ち、女が静かに言った。
「『恋』ですね」
 男は額から手を離し、顔を上げた。
「どうして」
「わかるからです」
 女は、振り向かない男の後ろ姿に微笑んだ。
「残された『愛』が、行き場を失って困っている」
 男は、陰を宿した目を開いて、鏡のようにちらちらと光を反射する川面を見つめた。
男は振り向かず、女もそれ以上、何も言わなかった。
 静けさ。しかしそれは包み込むように優しかった。やがて、男は口元をくずした。
「今は、それで良いんじゃないですか」
 励ますでもなく、独り言のように女は言った。
「たとえ、あなたが『恋』を葬ってしまおうとしても」
 女は両手の指先を突き合わせ、その手のひらの中に何かを包み込むように、そこに
生まれた空間を愛しげに見つめた。
「いつか、『恋』は再び甦ってしまうでしょう」
 男は、苦笑するように目を細めた。
「困ったものだ」
「困ったものですね」
 女は指先を逸らし、両手のひらを合わせて空間を閉じた。そのまま指を折り、互い
の手のひらを暖め合うように組む。
 男は、ふと気付いたように、ポケットから何かを取り出した。それは、手のひらに
すっぽりと納まってしまうほどの、小さなハーモニカだった。
 あら、と女は首を傾げて微笑んだ。
「失って、一つだけ、知ったことがあるんです」
 男は小さく微笑んで、手のひらのハーモニカを見つめた。
「ため息で吹くと、いい音が出るんです。ブルースハープは」
 ハープを両手で包み込み、男はそれを口元に当てた。凍える手のひらを吐息で暖め
るかのように。
 やがて、遠くから聞こえてくる泣き声のように、その旋律は始まった。呼吸と共に
生み出される音色は、痛む心を映して切なく揺れる。それは時に重唱し、時に波打ち、
波紋となって広がり、せせらぎと一つになった。
 誰も聞いたことのない、二度と奏でられない、この瞬間に生まれ、風に消えていく
バラード。
 それは寂しく、そして、暖かかった。



              あの夏の光の中で
                君は笑っていた
                  君は笑っていた
                 まぶしげに目を細めて

              見つけたものは
                 探していたもの
               気付かないふりをしていたことに
                はじめて気が付いたこと

              それを告げたときから
                    後戻りできずに
                 言えなかった言葉と
                  聞こえなかった言葉が
               今もかけらとなって
                      宙に舞って

              あの夏の光の中の
                   壊せない思い出
                 君は笑っていた

                      君は笑っていた
    


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