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スパイ          小葉利夫

 
 その日、菊地は荒れていた。唇を真一文字に結んで、ぎょろりと見開いた目の下に
隈がくっきりと刻み込まれていた。どうせ、借金取りに追われているのだろうと、み
んなはそう思って、知らぬ顔だった。だいたい、菊地は貧乏神なので、機嫌のわるい
時には、近づかない方がいいのだ。
 しかし、理恵だけは特別だ。
「どうしたの」
「昨日、高校時代の同僚に会ってきたんだ」 ぼそぼそとつぶやくと、また、ぶつぶ
つ独り言を言い出した。菊地は手のかかる男である。
「A証券会社の常務だ。自分はわんさか稼いでいるから、正義の味方だと言い切りや
がった」
「ふーん」
 理恵は、それのどこが釈にさわるのか、検討がつかなかった。
「資本主義の日本では、金持っている奴が正
義で、貧乏人は極悪だとよ」
 菊地は、こわい顔で歯ぎしりしていた。それは、菊地の勝手な思いこみだろう。た
しかに、お金がないと寂しいけれど、菊地が大金を手にしたって、どうせバクチに使
ってしまうのだ。猫に小判とは、まさにこのことだ。
 理恵はいいかげんにばかばかしくなってきて、
「そういう愚痴は、スナックでほざきなさい。まったく、つきあってられない」
 菊地は、ぶすっとして膨れていた。
「今日、その常務が来るぞ。名前は鈴木直樹だ。丁重にお迎えしてくれよ」
「ほんと!」明子は目を輝かせた。
「上得意だからな。できるだけ、角が立たないようにしてくれ」
 と、いうことは、問題の菊地だけ猫をかぶってくれればいいのである。理恵らは、
もう二年も私立探偵をやっているので、一般社会常識ぐらい分かっている。

 私、有藤理恵。今回の依頼料は破格です。
成功報酬、1000万円というとんでもない依頼です。ところが、仕事の内容が問題
なんです。某会社の産業スパイを頼まれました。
ドジを踏めば、あやとり事務員はみんな刑務所送りです。ほんと、簡単でがっぽり儲
かる仕事はないのでしょうか。

 しばらくして、あやとりの前の道路に勇壮なハイヤーが横付けした。こんな下町の
貸しビル群にとって、それはあまりにも不似合いだった。ため池に白鳥が泳いでいる
ようなものだ。
 鈴木常務が顔を出すと、菊地はすっとんでいって、ぺこりぺこり頭を下げて向かい
いれた。
 鈴木常務と菊地は、同窓生なのだ。だけど、社会人にとって、一介の探偵と証券会
社の常務では住む世界がちがう。二人の間にはれっきとした壁があるのだ。
 常務は、あやとりの中を見て呆然としていた。こんな薄汚れた鉄筋むき出しのビル
の中にはいるのは、始めてだろう。
「エアコンもないのかね」
 菊地は平伏して、
「せこい時代ですから」
 常務は汗を拭くと、
「そうだな。今、儲かっているのはパチンコ屋だけだ」
 菊地は、きびすをかえすと、
「理恵ちゃん。ノルウェーの森に行ってブルマン二つ頼んでくれ」
 理恵のいいところは、人を疑らないことと素直なところである。理恵は一も二もな
く駆け出した。
「なんかわるいね」
「いえいえ。仕事させていただくのは我々ですから」
 矢神は灰皿を出して、すっと消えた。
「依頼の件だがね」
「はい」
「ちょっと危ないものなんだよ。引き受けてくれるかね」
「詳細を伺いましょう」
 常務の切り出した仕事は、とんでもないものだった。某半導体メーカーの産業スパ
イをやれ、というものだ。スパイしろと簡単に言われても、言葉でいうほど生やさし
いものじゃないだろう。
「つまり、半導体の開発生産段階で、極秘にしている情報をかき集めてほしいんだ」
 菊地は目を白黒させて、
「そりゃ無理ですよ。部外者の私たちがどうやって情報を集めるんです。それに、こ
れは道をはずれた犯罪です」
「分かっている。ムチャクチャ言っているのも分かっている。でも、これは我が社の
存亡に関わる重要な問題なんだ」
 今、金融ビッグバンとかで、なにかと騒々しい時代である。金の流れがどうも不透
明になっているのだ。それは、証券会社でも同じだろう。倒産の危険があるというこ
とは、あながち嘘とも思えない。
 菊地は、頭を掻いて、
「弱ったなー」
 常務は身を乗り出して興奮ぎみに切り出した。
「500万円で不足なら1000万円ぐらい出せる。君の能力を高く買っているから、
相談しているんだ。たのむ、引き受けてくれ」
 言って、常務は深く頭を下げた。菊地は渋い顔をして、
「じゃあ、賭けましょう。さっき注文に行った女の子が、アイスコーヒーを持ってく
るかホットコーヒーを持ってくるか」
 常務は、呆気にとられて、
「そんなもので決めるのかね」
「人生はこんなもんです」
 常務は苦い顔をしていたけれど、渋々承諾した。今回の依頼は、有藤理恵にかかっ
ているのである。
 常務は真っ青な顔で、唇を震わせながら、
「ア、アイスコーヒーだろう」
「じゃ、僕はホットです」
 菊地は、静かに紫煙をくゆらせていた。
「ごめん、遅くなって」
 理恵がばたばたと階段をあがって、一呼吸ついてから、ドアを開けた。
「混んでいたの」
 理恵のお盆の上には、水滴がびっしりついたアイスコーヒーがのっかっていた。常
務はほっと息をついて頭を垂れた。
「僕の負けです。謹んで依頼をお受けします」
 常務は目を腫らしながら、
「ありがとうありがとう。この借りはきっと返す」
 菊地は分かっていた。サラリーマンだっていろいろとあるのだ。今のサラリーマン
はけっして気楽な稼業じゃない。
 こうして、産業スパイを気取ることとなった。これは、あやとり開業以来の大仕事
である。

 鈴木常務が話しを持ちかけた三日後に、もう菊地らは例の半導体メーカーに潜り込
んでいた。
 ま、A証券会社の常務という大看板をかかげての入社であるから、そう威張れたも
フではないけれど。
  仕事は、半導体製造の辛気くさいものである。ウォーターシャワーでミクロのほこ
りを落としてから、仕事となる。
 最初は、なかなか成果があがらなかったけれど、菊地も矢神も実に器用で根があっ
た。 入社一週間後に、もう一人前の働きをしていた。こういう仕事は我を殺して、
一つの部品になれば、わりと疲れないものだ。
 さっさと、あやとりなんか辞めて、この会社に勤めるべきである。
 こうして二週間、只黙々と単純労働を続けた。

 菊地は、実に抜け目のない男である。そして、悪知恵に関してはあきれるほど切れ
る男だ。
 開発室に二つ。総務課長の机の下に一つ。会議室に一つ。製造ラインに二つ。
 なんのことかよくわからないだろうけれど、実は、計六つの盗聴器をしかけていた
のだ。
 これは、もちろん半導体開発のトップシークレットを聞き出すためである。
 入社して二週間後、菊地は病欠で会社を休んだ。肺炎だと報告したので、五日ぐら
いは自由に動ける余裕を作るためだ。主任は苦い顔をしたけれど、病気ならしかたな
いと言って、彼に短期の休養期間を与えた。
 もう、俺はこの会社の正門をくぐることはないだろうな。
 菊地は、なんだか悔しかった。まともに仕事して、堂々と給料をいただいて、嫁さ
んを
もらって家族を築く。そんな普通の暮らしをするほうが、どれだけ幸せだろう。
 しかし、菊地は、もうそんな平穏な生活はのぞめないのだ。彼は、どこまでいって
も極道なのだ。

 次の日、菊地はプラチナの牙から借りたワンボックスに乗って、裏門に横付けした。
隣に、電波無線マニアの少年が童顔の顔をにこにこさせながら、座っていた。
「最高ですよ。窪田さんは人がいいから、あんまりドンパチは嫌うんです」
 菊地はムシした。なにが、最高なものか。今から行う行為はれっきとした犯罪だ。
「やっと、実戦で僕のうでを思う存分使えます」
 菊地は、チッと舌打ちして、
「ぼうや、刑務所に入ったことはあるのか」「いえ」
「だったら、黙っていろ」
 菊地は、ワンボックスのカーテンを閉めると、さっそく準備にかかった。菊地は、
どうもこの少年が苦手だったけれど、さすがに機械をあつかうのは、お手のものだっ
た。

「生産が遅れている!もっと、主任が手伝ってやれ」
「材料のシリコンが二日ほど遅れます」
「伝票が見つかりません」
「機械が故障しました」
「これ以上、ペースをあげると品質に影響がでます」
「今日中の搬入は無理です。トラックが渋滞に巻き込まれました」
「おい、コピーはどこだ」
「納期までにしあげろ」

 会社組織の中で、キカンジュウのように飛び交う情報を、こんがらがった頭で辛抱
強く聞いていた。少年は、機械の操作でてんやわんやである。最初の余裕はどこかに
消えてしまっているようだ。
 午前八時から午後十時まで、こんなキチガイじみたことが続いた。菊地と少年は情
報の激流にもみくちゃにされて、心も体も朽ち果ててしまった。
  菊地は、ちょっとこの少年を見直した。まだ、初日だけどよく我慢して仕事を続け
たものだ。
「おい、焼き肉は好きか」
 少年はぐったりして、
「僕はなんでも食べます」
「よし。いい店があるんだ。連れていってやる」
「はあ」生返事をして、ぼうっとしていた。無理もない。タフで売っている菊地でさ
え、頭がもうろうとしているのだ。
 菊地は、かなりこの小さなパートナーを気に入っていた。

 活動を始めてから、三日が過ぎ四日が過ぎ五日が過ぎた。さすがの菊地も疲れてい
た。
まして、未成熟な少年は、意識がふらふらだった。
「大丈夫か」
 菊地は心配になって、少年の具合をたずねてみた。
「たいしたことないですよ」
「ほう」菊地は生返事した。
「と、言いたいところですけれど、もうへとへとです」
 菊地は、この少年がますます好きになってきた。少年は、もう労働の限界を越えて
いる。それを、さとられないために軽口を言ったのである。
 こんな可愛い少年がどこにいよう。
 もし、自分に子供がいたら楽しいだろうな。
キャッチボールなんかしてみたいものだ。
 菊地は、まぶしそうに少年の横顔を見つめた。
「PCXはかなりいけます」
 突然、菊地の脳天を直撃する情報がもれてきた。
「開発主任によると、あと二ヶ月もあれば商品化できるそうです」
「ほう」
「マルチメディアや動画の処理に困ったそうですけれど、それでも処理スピードは今
までの1.5倍は保証すると言っています」
「よし。開発部も只、遊んでいたわけじゃないことは分かった」
「そのかわり、商品化には莫大な予算がかかりますよ。部長にOKサインをもらえるで
しょうか」
「その辺は、私から説得してみよう」
「はあ」
「そうか・・・。成功したか」
 そして、くぐもるような笑い声がして声が聞こえなくなった。菊地は、とっくに分
かっていた。
 この声の出所は、99.9パーセント総務課長のものだ。
 菊地は、大きなため息をついて背もたれに身を任せた。やっと、依頼主のご要望に
そう情報をつかんだのだ。もう、これ以上にこの会社のそばにいることはない。
 菊地は、少年に向かって、にっと笑うと、
「フルーツパフェでも食いにいくか」
「いつもいつも、すいません」
「いいよ、おまえにはそれだけの価値がある」
 言って、鼻歌まじりでハンドルを握った。

「おつかれさま」
 理恵は、にこにこして菊地の様子をうかがった。菊地もまんざらわるい気分じゃな
かった。依頼を完璧にこなしたあとは、バクチで大勝ちする時より気分がいい。
「矢神、生産ラインの状況はどうだ」
「菊地さんの考えているとおりです」
「言ってみろよ」
 矢神は咳払いを一つして、
「ラインの進行が、かなり甘くなっています。わんさか作って、在庫を増やすより、
新製品の開発を早めたいもくろみでしょう」
「上出来だ」
 矢神は失笑すると、
「でも、僕はあの会社が気に入りました。給料日まで働くつもりです」
 菊地はとまどって、
「おいおい。成功報酬1000万円だぜ。はした金のために、あくせく働くことはね
えよ」
「まあ、そうですが」
 理恵は横やりをいれて、
「いいじゃないの。矢神さんはあなたと違って、潔癖性なの。けじめぐらいきちっと
つけたいんでしょ」
「そんなもんかな」
 矢神はおどけて、
「サラリーマンも楽しいですよ」
 菊地は興味なさそうに、ぼそりと、
「まだ、新人だからかまってくれるんだ。あんまり、社会を甘くみない方がいいぞ」
 屈折しているが、事実である。最初は誰でも舞い上がってしまう。それが、五年も
たてば、つまらない労働にあきあきしてくる。世の中はそんなに甘くない。
「でも、一種の社会勉強ですから」
「あんまり、迷惑をかけるなよ」
「はあ」
 菊地は、窓をあけて深呼吸した。梅雨の中休みで、抜けるような青空が広がってい
た。

「しかし、変わりましたね」
 菊地は寂しい思いを描いていた。鈴木直樹は、けっして人気者になれるタイプじゃ
ない。けれど、誠実で努力家の男で、クラスでも一目おかれていた。
 そんな鈴木直樹も世間の垢に侵されてしまっていた。
 菊地のしょぼくれた顔色を見て、鈴木常務はしずかに、話しだした。
「ウチだけじゃないんだよ。会社という組織は、キツネのタヌキの化かし合いみたい
なものなんだ」
「それは重々分かっております」
 鈴木常務はタバコをくわえると、
「こんなきたない手でも出し惜しみしていたら競争社会に勝てないのが、今の現状な
んだ。
どの証券会社だって、多かれ少なかれダーティーな部分はある」
「世間知らずの僕が口だしできる問題じゃないのは、良くわかりました」
 菊地もライトをくわえると、
「いきなり生臭い話しで悪いんですけれど」
「何かね」
「成功報酬のことなんです。あやとり、は営利の私立探偵ですから」
 鈴木常務は、ハハハと笑って、
「きちっと仕事をしてもらったんだから、報酬をはらうのは当たり前だよ。精一杯、
色を
付けさせてもらうからね」
「安心しました」
「失礼な人だな、君は」
 菊地と鈴木常務は腹をかかえて、大笑いしていた。

 こうして、あやとりには1500万円程度の収入がありました。お金を持っている
人は、わんさか持っているんです。ちょっと社会の不公平さがいらだちます。
 でも、収入は破格だから、いいか。
  あやとり探偵事務所は、これからもがんばりますので、太っ腹なご依頼をよろしく
お願いします。

                                                     (FIN)





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