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ゆすり 小葉利夫
八月。行楽には絶好の季節である。海にプールに登山、金持ちなら外国旅行もいい
だろう。だけど、むっとする空気の中で、こせこせと事務処理をする理恵や明子にと
って、夏は地獄だ。
あやとり、はエアコンがないばかりか、西日がもろに当たる劣悪な事務所なので、
体力のない彼女らにとって、電話番をするだけでも拷問みたいなものだ。
責任者である菊地は、というと、
「あの人、今日も顔を出さない気かしら」
明子は顔を真っ赤にしながら、不満をかくさない。だいたい、菊地のようないい加
減な男はどこへ勤めても通用しないだろう。複雑な過去があるのは分かるけれど、も
うちょっとマジメに勤務しないとみんなから見捨てられるぞ。
「おい。仕事は入っているか」
目を真っ赤にさせて、重役出勤の疫病神は、のっそりと入ってきた。どうせ、昨夜
も飲み屋をはしごしたんだろう。
明子は静かな調子で、
「私はちゃんと査定するから。今月の給料は楽しみに待っていなさい」
「おっ!上げてくれるのか」
菊地はどこまでもあつかましい。
「バカ。どういう神経しているのよ」
明子はむすっと膨れて、帰り支度をはじめた。こんなところで、青春のムダ使いを
するくらいなら、原宿でも行ってウインドーショッピングとしゃれ込む方がどれだけ
ましだろう。
「理恵。帰るわよ」
「ふぁーい」
素直に応じると、しまらない顔できょとんとしている菊地をしり目にとっとと、事
務所を後にした。
「おい。明子さんはなにを怒っているんだ」
不思議そうな顔をする菊地に対して、
「仕事をしてください」
矢神は、扇風機の前であたりまえのことをのたまわった。
私、有藤理恵。うだるような暑さで、みんなかなりバテています。冬になれば暖房
の前にたむろし、夏になればエアコンが恋しくなる、人間ってほんとわがままですね。
今回、菊地という男がはじめて、仮面を脱ぎます。彼の心の奥にくすぼっている暴
力の赤い火がメラメラと燃え上がります。
彼の心には、天使と悪魔が絶えず戦っているのです。
菊地は、見るともなしにつまらないワイドショーを眺めていた。
矢神も、連日の熱帯夜で眠れなかったのか
、いつしか深い眠りについていた。
いつもの平和な事務所である。閑散とした下町に、セミの鳴き声だけがジイジイと
聞こえていた。
午後五時になり、帰り支度をはじめている時、突然電話のベルが鳴り響いた。
「はい。あやとり」
菊地がめんどくさそうに、受話器を取ると、
「おう、居たのか。良かった良かった」
電信線の向こう側は、腐れ縁というべき窪田義郎である。
「なんだ、もう店じまいだぜ」
菊地は、眠たそうに応えた。
「極秘フロッピーが盗まれた。S02だ」
菊地の頭の中は、一瞬に過去へとフラッシュバックした。secretの頭文字Sが頭に
つく
ファイルは、極秘中の極秘である。S01が活動員のリストで、S03が活動報告書
である。そして、窪田の持ち出したS02は、裏口から流入する資金の流れを書き記
したファイルだ。
もし、この極秘ファイルが公安の目にふれれば、プラチナの牙は壊滅する。まさに、
トップシークレットと言っていい。
「バカヤロ!油断するからだ」
「すまん」
「で、俺に手伝えというのか」
菊地は憤然としていた。窪田は調子良さそうに、
「実は、また鉄火場を開くんだ。ぜひ、お前さんも来てほしい」
「なるほど」
菊地はペロッと舌をなめた。つまり、これは取り引きだ。菊地に軍資金を出すかわ
りに、仕事を手伝えと来ているのだ。バクチ好きの菊地である、断る理由はない。
「相手は誰だ」
窪田は一呼吸おいて、
「柴田和夫という青二才だ。なかなかひょうきんでおもしろい奴だったけれど、トッ
プシークレットを知った以上消すしかないな」
菊地の目の奥に、冷酷な火が灯った。
「まかせろ。殺しは俺の十八番だ。楽にあの世へ送ってやる」
「だったら、今夜でもライラックに来てくれ。
柴田の履歴と顔写真を渡しておく」
「OK」
菊地が受話器をおくと、すぐ後ろに矢神が突っ立っていた。どこか、苛立っている
様子だった。
「あんまりムチャしないでください。ほんとに捕まりますよ」
菊地はにやにやして、
「死刑になったら泣いてくれるか」
ちゃかす菊地の目を彼は、じっとにらみ付けていた。
東京二十三区、埼玉、千葉の方は、窪田直属の諜報員が担当した。菊地の捜索範囲
は神奈川の東南東、つまり日本有数の商業都市である横浜市を軸に、藤沢市鎌倉市逗
子市横須賀市三浦市である。
菊地は、窪田から兵隊を要求しなかった。菊地はプラチナの牙のあたりで、VIP扱い
されているけれど、所詮は客として招かれるだけで、内情に一切足を踏み込んでいな
いのだ。今回は例外だけど、それでも少し距離をおいておいた方が、後腐れなくてい
い。
で、この勝手な捜索にかり出されているのが、隣で190Eを運転している矢神である。
あやとり、に仕事がないので、矢神は腹も立てずに素直につきあっているのだ。
菊地はにやにやして、
「今度、お前も鉄火場に招待しようか。正真正銘のバクチはおもしろいぞ」
菊地の頭の中は、はや遊びのことでいっぱいである。本音を言わせてもらえば、S
02のファイルのことなんかどうでもいいのだ。
矢神は、すいすい車を走らせながら、
「僕はヤクザじゃありません。ごり押しされても行きません」
「そうか。一度知ったら病みつきだぞ」
「だから嫌なんです」
誰も、極道になりたがる人間なんかいない。
でも、菊地という男を見ていると、なぜかうらやましくなるのも事実である。
「着きましたよ」
190Eを横付けしたところは、コンクリが日焼けしたビルのすすけた事務所だった。
「よし。乗り込もう」
「本気ですか」
実は、ここは小さなところだけど、れっきとした暴力団事務所なのだ。
「いいとも。俺一人で行く」
言って、ずかずかと乗り込んで行った。
事務所の中に、三人ほど駐勤していて暇そうにテレビを見ていた。ヤクザというと、
座頭市のような切った張ったばかりの抗争をしていると思われがちだけど、実際は一
般人とさほど変わらないのだ。
「なんだ、お前は」
「いや、忙しいところを申し訳ございません」 痛烈な皮肉である。みんな、暇を持
て余しているのだ。
「柴田和夫という人間をご存じですか。ちょっと、はみ出したものですから懲らしめ
ようと思いまして」
菊地の目はいつになく鋭かった。
「私らと同業みたいだな」
パープルの背広を着た組長らしき人物が、葉巻をくわえて招き寄せた。菊地は素早
く写真を見せた。
「知らんな。なにをしたんだ、こいつ」
「それは言えませんよ」
「どこの者だ」
「銀座のライラックでしのいでいます」
「ほう」
組長は目を見開いた。その筋の者にとって、ライラックの地下活動は有名だった。
なんせ、プラチナの牙は只のヤクザじゃない。バックに自衛隊とCIAが控えているのだ。
もちろん、この組長もそこまで知らないだろうが、同業の噂は、雨水が地下水脈に吸
い寄せるがごとく、静かに広がるものなのだ。
「とにかく、こういう人間は知らん」
「そうですか」菊地は別に落胆しなかった。一筋縄で行くほど甘いものじゃないこと
は、しっかり分かっているからだ。
菊地は、名刺を出して、
「なにか分かったら連絡ください。それなりの報酬は出します」
組長は、じっと名刺を見ていたけれど、
「また、しのげるクチがあったらまわしてくれ。この名刺はあずかる」
菊地は、平気な顔で事務所を出た。なにも喧嘩を売りに来たわけじゃないのだから、
いざこざなんて起こらないけれど、それでもその筋の事務所に堂々と入っていく神経
に、あきれるのを通り越して感心してしまう。
「どうでした」
「ま、気長に行こうや」
「はい」
「一日、十件はまわるからな。覚悟しろよ」
言って、かるく口笛を吹いた。うじうじした男女のもつれより、よっぽど気合いが
入るのだろう。
「暑いなー」
菊地は、愚痴りながら六件目の事務所を後にした。蛇の道は蛇である。ああいう、
はみ出し者は、結局ダークサイドで生きる極道の掟にしたがって生きていくしかない。
わりと、ハイソなマンションを出て、菊地ははじめて弱音を吐いた。
「もう、奴は東京近郊からずらかっているんじゃないか。いいかげん、疲れたよ」
矢神はずっと車の中なので、そんなにバテてないが、
「いったん、あやとりに戻りましょう。ホシも逃げるのに必死なんです。じっくり、
時間をかけて捜索した方がいいです」
「そうだな。お前の言うとおりだ」
菊地は、じっとりと吹き出す汗を手持ちのタオルで拭うと、
「それに、ムリして嗅ぎまわらなくても、向こうから動いてくると思うしな」
S02の使い道は、たった一つしかない。いくら、柴田和夫が裏の世界に精通して
いても、あのファイルそのものでは金にならない。
銀行強盗のように、キャッシュを持ち歩いているわけじゃないのだ。
「菊地さんはマジメなのかいい加減なのか、分かりません」
思案を巡らしてむずかしい顔をしている菊地の横顔を見て、矢神はぽつりとこぼし
た。
あやとり、に戻って二人は顔をつきあわせて、神奈川県の地図をテーブルの一面に
広げた。地図に、今日出向いた事務所をしらみつぶしに、赤ペンでバツをつけていっ
た。
「うーん」
菊地は、うなって地図をにらみ付けていた。今日、まわっただけでは、まだ分から
ないけれど相当の組事務所は洗っているのだ。これからもこの調子だと、徒労に終わ
ってしまう。
「神奈川には、いないんじゃないですか」
「そうかな、やっぱり」
菊地は地図をにらみ付けて、
「まさか米軍基地にいるんじゃないだろうな」
菊地は、妙な寒気がしてたまらなかった。
もし、横須賀の米軍基地にいるなら、こっちはお手上げだ。しかし、柴田和夫にそれ
だけの力があるのだろうか。
「不思議に思うんですけど」
矢神は突然尋ねてきた。
「なんで、関東一円にいると、みんな信じているんです。北海道あたりで、温泉にで
も浸かっているかもしれないじゃないですか」
菊地は、かるく一笑した。
「奴がなぜS02を奪ったか、分からんのか。柴田はあれを元手に、プラチナの牙を
ゆする気なんだよ」
「はあ」
「現金や金塊じゃないんだ。C02は重要ファイルだけど、柴田にとっちゃ紙屑同然
だ。プラチナの牙と取り引きして、やっとおいしいご馳走にありつけるわけだ。北海
道でも沖縄でもいいけど、そんなところにいてどうやって取り引きするんだ」
「なるほど」
「柴田和夫は単独犯じゃないと、俺たちは見ている。一人でこんな危ない橋を渡るわ
けがない。だから、組事務所を渡り歩いたわけだ」
「なるほど」
矢神は感心していた。その執念を、探偵稼業にも分けてもらいたいぐらいだ。
今日の聞き込みは、ここで断念した。また、明日から出直しだ。
そのころ、窪田のプライベート携帯電話に、今回の騒動を起こした愚か者が連絡を
つけていた。
窪田は憎しみをこめた鋭い目をしていた。
「よ、窪田ちゃん。俺がだれだか分かるか」
窪田は歯ぎしりして、受話器を握りしめた。
「聞き覚えのある声だな」
「ギャハハハ。あんたもとぼけるねー」
「何の用だ」
「とぼけるとぼける。窪田さんも人が悪いねー」
男はちゃかして、勘にさわる甲高い笑い声をあげた。
窪田は怒声をあげて、
「用は何だ!」
怒り狂っていた。
「分からんのか、金だよ」
そう、この不愉快な相手は裏切り者、柴田和夫なのだ。
「愚かな奴だ。せっかく目をかけてやったのに」
「恩着せがましいこと言うなよ。取り引きだ。S02と引き替えに、キャッシュで五
千万円用意しろ」
窪田は、疲れたため息をついて、
「バカな奴だ。たった五千万円で命を売るのか」
淡々とした口調で話す窪田に、相手は苛立ちを隠さず、、
「用意するのかしないのか、はっきりしろ。俺は金が必要なんだ」
「分かった。金は用意する」
「よし。上野公園にお前一人で来い。すこしでも、不審な態度を見つけたら、S02
を公安にチンコロするからな」
「分かった」
「期待しているぜ、窪田ちゃんよ」
いって、大笑いしながら電話は切れた。窪田は一人で悲しい気持ちを抱いていた。
いくら裏切り者とはいえ、柴田和夫は窪田直属の可愛い部下だったのだ。プラチナの
牙の資金繰りを考えれば、五千万円なんて大金はたしかに痛みをともなう額である。
しかし、絶対の成功率を誇るスナイパーがいる以上、それは幻の身代金でしかない。
窪田は、只、柴田和夫が哀れに思えてしかたなかった。
しかし、柴田には消えてもらうしかなかった。
窪田は、疲れたため息をついた。また一人、部下を失ってしまう。
やりきれない。
柴田の暴走を押さえられなかった、自分の無力を心から憎んでいた。
窪田はすぐに、あやとりに連絡をつけた。
菊地の恐ろしさを、誰よりも分かっているのは長年連れ添ってきた窪田だった。
菊地は、最悪の戦場で十二年間も生き延びてきた。何百人といる敵戦場を一人で撃
破したこともある。情報戦が得意で、銃、ナイフ、地雷、バズーカーなどすべての武
器に精通しており、体力もサバイバル能力も超人並みだ。死神と呼ばれ、奴の進むさ
きは、敵味方問わず累々とした死体の山が残った。
菊地こそ、最強の戦士だった。
「菊地か」
窪田の声はすこし震えていた。
「そうだ。今から、レミントンと221狙撃弾を一発だけ渡す」
菊地のもっとも愛した武器は、芸術品のように磨き込まれたレミントン狙撃銃だっ
た。特別の仕掛けを施しており、ウエイトも普通のライフルより、十キロほど重い。
そのかわり、ピンポイント精度は三百メートル先の硬貨を射抜けるほど、正確である。
「場所は上野公園だ。正午二時に会うことになっている」
受話器を握る手が、汗ばんでいた。
「確実に葬ってくれ。あとは、お前しだいだ」
かすかな笑い声がして、電話は切れた。窪田の様子を知った実行員は、不思議そう
に尋ねてきた。
「やっぱり、新聞紙だけというのはまずいんじゃないですか。一応、見せ金として多
少の現金もケースに詰めるべきだと思います」
「いや、必要ない。柴田は死ぬ運命なんだ」
「しかし、菊地さんだって失敗するかもしれない」
窪田の目は、ギラリと光った。
「あいつを誰だと思っているんだ。奴の狙撃率は100パーセントだ。俺は、菊地が
任務に失敗したのを見たことがない」
窪田の剣幕に押されて、その場にいた実行員たちはたじろいた。しがない探偵事務
所の責任者でおさまっている菊地秀夫こそ、最強の戦士なのだ。
4WDのワンボックスが届いて、三人ほどの実行員が、あやとりの事務所に駆け寄
ってきた。
「早かったな」
菊地の目は、冷酷な殺し屋の凍るような瞳をしていた。
「私たちにできるのは、これくらいですから」
三人は、レミントン狙撃銃のおさまったベニヤボックスを丁寧に手渡すと、
「調律は、軍用から流出したテスターで組み直しました。コンマ一ミリの誤差もない
と思います」
「OK。信じよう」
「報酬の方は、窪田さんから聞いていると思いますが」
「分かっている。遊ばしてくれるんだろ」
菊地はへらへらとにやけた。
「はい」
「よし。後は任してくれ」
「すいません。何人も実行員がいるのに、結局、菊地さんに頼るしかないんです」
「しょうがねえよ。七面鳥を撃つのとは、訳が違うんだ。人様をあがめるのは、誰だ
って怖いさ」
「すいません」
「窪田によろしく言っておいてくれ。あいつは、妙に優しいところがある。頭目を気
取るつもりなら、仕事にいらない情を持ち込まない方がいい」
「はあ」
三人が帰ると、菊地はすぐに、レミントン狙撃銃を取り出した。
引き金に指を添えて、そっと引いてみた。撃鉄がカツンと乾いた音を立てた。完璧
なチューニングだった。これなら、どんな遠くの者でも、確実に射抜ける。
菊地は、レミントンをゴルフバックにしまうと、ソファーに横になった。
行動開始まで、あと四時間しかない。
菊地は、ゴルフバックをかついで、あやとりを出た。190Eに乗り込むと、ぐっと両
拳をにぎって背中を丸めた。はらわたに血液が流れ込む様子が、自分でも分かった。
この日は、いつになく気力体力ともに充実していた。さび付いていたコンセントレー
ションも、戦争屋時代の勘が戻りつつあった。
「よし!」
菊地は、いつになく上機嫌で190Eを走らせた。吹き抜ける風が心地よかった。
上野公園を見渡せる高層ビルの屋上に入ると、準備を整えて、スターライトスコー
プの
十字線をにらみ付けた。かんかん照りの中、汗を拭きながら、おろおろしている窪田
を見て、菊地は笑ってしまった。こんなしょぼくれた親父が、一癖もふた癖もある実
行員を束ねているのだ。並みの苦労じゃないだろう。どう見たって、サラリーマンと
しか見えないおっさんだけど、この男が日本の情報社会を支えている一つの杭なのだ。
窪田は、アタッシュケースを膝の上にのせてベンチに座った。約束の時間は、とっ
くに超えていた。
菊地は、たった一発の221をシャツで拭くと、弾装に込めた。頭の中が真っ白に
なるほど歯を食いしばり十字線をにらみ付けた。
スコープの左上に刻みつけられたデジタルメーターは、300mをかるく超えていた。
気の遠くなるような数字である。
例の愚か者があらわれると、菊地は瞬き一つしないでスコープの十字線にとらえた。
もう、柴田和夫は助からない。
柴田が、窪田に近づき始めた時、彼は引き金を引いた。サイレンサーの鈍い音とと
もに、ターゲットは吹っ飛んだ。
即死である。
菊地は涼しい顔をして、レミントン狙撃銃を片づけ始めた。
「どうした」
ツートンカラーの190Eは、大気を切り裂くようなスリップ音を立てながらパワーオ
フスピンターンをかけてきた。砂塵がさざ波のように、熱風を吹きかけた。
「乗って!」
目を丸くして突っ立っていた菊地を、ドアを蹴とばして、力づくで車の中へ引き込
むと、アクセルを踏み込んで、猛ダッシュで車を走らせた。
矢神はこわい顔をしていた。一切、ブレーキを使わずアクセルターンだけで、190E
を動かしていた。
「柴田にバックがいました。自衛隊くずれの超武闘派のヤクザです。もう、テロ集団
と言っていいくらいです。今、バイク六台に乗り分けて追ってきています」
言って、ベレッタ最新拳銃をわたすと、
「僕も、まだ死にたくありませんから」
菊地は、スライダーを引っ張ると、
「そうだな。俺も、まだやり残したことがある」
矢神は始めて、殺人を認めたのである。彼は、本当の争いの行き着くさきを始めて
知った。人間は神様じゃない、言葉を喋る動物なのだ。今、手渡したベレッタM92
Fがそのことを雄弁に物語っていた。
菊地は、不気味な笑みを見せると、
「お前、傭兵になれるぜ」
言って、後部ガラスに向けて拳銃を三発ぶっ放した。ガラスのクズが吹き飛ぶと、
「弾は何発ある」
「最低でも、一ダースは死体の山が築けます」
矢神は、歯を食いしばりながらハンドルを切っていた。
「やれやれ、人殺しなんて本当はしたくないんだけどな」
菊地は、うれしそうにベレッタM92Fを掃射した。45ACPを二秒で撃ち尽くすと、
「これで、消えてほしいな」
額に、冷たい汗をにじませながら弾装を取り替えた。しかし、相手はそんな殊勝な
奴らではなかった。
「本当に、これで終わりにしてくれよ」
菊地は、セミオートにレバーを切ると身を乗り出して、引き金を引いた。
本当に、見事だった。揺れる車内の中で、拳銃を扱うこと事態、ムチャクチャなの
に、菊地はその中で精密射撃を行ったのだ。
使った弾は、六発。たった、六発だった。向こうが追っかけるのに必死な中で、菊
地の撃った45ACPは確実に、敵の体を撃ち抜いていた。
「仕留めましたか」
矢神は、大きく息を吐くとアクセルをゆるめた。
「急所ははずしたから死ぬことはないだろう。もう、こんなことは御免だ」
矢神は、真っ赤な顔をして、
「菊地さんに蠅がまとわりつくはずですよ。これで、ますます敵を作ったはずです」
「俺の人生は、一生こんなもんだろ」
菊地は、本当に疲れた様子だった。本当の切った張ったを演じたのだ。相当の報酬
は覚悟してほしいものである。
「東京のマンションって、いくらぐらいするのかなー」
菊地は、気の抜けた声で尋ねてきた。矢神は、なにを聞いているのか分からなかっ
た。
「これを狙った奴らは、事務所まで押し掛けてくるぞ。今のうちに、ねぐらを変えた
方がいい」
矢神も、そのことはぼんやりと考えていた。
こんな卑劣な奴らに付きまとわれたら、最後は殺されるだろう。相手は、ちょっと異
常である。頭の回路が壊れているとしか、思えない。
「それも、できるだけ高級なところがいい。警視庁の近所なんか、最高なんだけど」
「二人はどうします」
明子と理恵のことを言っているのだ。口げんかしか知らない彼女らに、扱える相手
じゃない。
「辞めさせる。あたりまえだろ」
「そうですね」
菊地は、タバコをくわえると、
「それと、あいつに連絡をつけよう。スティーブアンダーソンの助力が、ぜひ必要だ。
窪田の力だけじゃ太刀打ちできない」
「いったい、何が起きているんでしょう」
菊地は、複雑な視線を向けると、
「俺たちは、格好のおとりだな。そいつら、日本乗っ取りを企てているぞ」
矢神は、真っ青な顔をして、
「まさか」
「知らんのか。プラチナの牙は、国家直属権力だぞ。あっちこっちで公安といざこざ
を起こしているが、すべて内々に処理している。その組織に対抗するということは、
そういう可能性がある」
「まさか、クーデターみたいな・・・」
冷房はガンガン効いているのに、二人の背中に冷たい汗がしたたり落ちていた。
「とりあえず、アンダーソンと連絡を付けよう。あいつは、裏の裏まで知っている。
どういう成り行きか、楽しみだな」
菊地は、ちっとも楽しそうじゃなかった。菊地は、おそらく事の真相に気づき始め
ている。連中が音頭を取って、旧態依存の権力の一掃を狙っているのだ。
連中がどういうスローガンを掲げるか、それは分からない。ただし、相当に血なま
ぐさい惨劇が待ち受けるだろう。
「やっぱり、整備工になれば良かった」
「遅いよ、もう」
最終戦争の幕開けである。二人の行き着くさきは、権力交代という血みどろの喧嘩
だろう。もう、行きつくところまで行っているのだ。
「はい、あやとり」
矢神は、預かったタバコをくわえた。一口だけ吸って、そのいがらっぽさにせき込
んでしまった。始めて、くわえたタバコは矢神の喉に灼熱の苦痛をあたえた。
それでも、矢神はタバコを離さなかった。苦しい顔で、スパスパと吸っていた。
「お前たちはクビだ」
「おもしろいジョークね」
菊地は、表情一つ変えないで、
「もう一度言う。責任者として、お前たちを解雇する」
「ちょっと待ってよ」
相手の声はおたおたしていた。
「元気でやれよ」
言って、静かに携帯を切った。菊地はなんとも寂しそうな顔をしていた。
「おまえ、目が赤いぞ」
菊地は、瞬きをして微笑んだ。
「寝不足ですよ」
菊地は、うっとりするような優しい顔で、
「一つだけ、聞かせてくれ。あの子たちを、どう思う」
「最高にキュートな天使です。僕は、二人とも大好きです。そばにいるだけで、幸せ
でした」
「そうか」
菊地は寂しそうな顔をして、彼の背中をバンと叩いた。
「泣くなよ」
「寝不足です」
言って、矢神は目頭を押さえた。理恵とも明子とも、これが今生の別れになる。
「俺たちは、まだ仕事が山ほど残っているんだ。本当の戦いは、これからだぞ」
「ええ」
菊地は、矢神が苦しそうに吸うタバコを盗み取ると、
「タバコはやめろ。体に悪い」
矢神は、泣きそうな目をしばたたせると、
「やっぱり、整備工になるべきでした」
菊地は、うまそうにタバコを吸うと、
「遅いよ、もう」
血がしたたり落ちるような、真っ赤な夕焼けが沈もうとしていた。この日は、今年
の最高気温を記録したキチガイのような一日だった。
(FIN)
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