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名前: windy <E-mail>
題名: ガラスの靴は聖子しか履けないけど・・・
日付: 2001/07/28 07:12:48
返答先リンク: msg5/03894

7月26日に、アートシアターさんが書いたメッセージは>以下です。

>20th partyは彼女自信の作詞であることに意味があると思うのだが。


確かにこういう曲を作った事はファンにとっても、聖子に
とっても意義があることだとは思います。

でも20年という歴史の重さにこの曲は耐えきれていません。
メロディーはいいんですよ。声質も最高。
ただ、そのメロディーにのせた詩が風に吹かれて忘れ去られそうだから。

せっかくなら、聖子のことを一番よく見てきた松本さんに
客観的な作詞をしてもらいたかったけど、セルフ時代も含めての
20年となると、聖子以外にこの曲の歌詞をうめる人は見つかりません。
いってみたら、ガラスの靴を履けるのは聖子しかいなかったのです。

でも、ただのお祭り騒ぎのような詩になってしまいました。
聖子の意図するところは、「ファンのみんなと一緒に楽しく、
20周年を祝える(コンサートでも盛り上がる)曲にしましょう」
ということだったのでしょう。その意図は成功したと思います。

けど、祭りの後には残酷な詩です。家でひとり、聞く曲じゃないし。
個人的には部屋でひとり、20年を振り返れるような詩を
期待したのですが、そういう人は少数派なんでしょうね。

部屋でひとり聞けるような名曲を作ってもらいたいものです。

ある人が言っていたのですが、聖子のセルフ作品は、
かなりコンサートを意識した(コンサート上での動き)作りに
なっていると。たぶん、聖子もコンサートの構成や曲の流れ
を考えながら、曲を作っていたんでしょうね。

これは私だけが思うことではないでしょうが、聖子の一連のセルフ作品は
コンサート上では異常に輝きを放っているということです。
本当にコンサートで映える曲が多いのです。

結論として、聖子のセルフ作品はコンサートで踊りながら歌う聖子を
見て初めて、その曲の良さが分かるという不思議な構図なのです。

コンサートの後、家で聖子のその年のアルバムを聞き返すと、こんな曲
だったかな?と首をかしげることが今まで多々ありました。

それだけ聖子自身の存在感がその曲の付加価値を高めているのでしょうね。