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高良台保育園
久留米は聖子、蒲池法子(現:神田法子)が生まれ育った街。79年7月に久留米を離れ、
そのあとで両親も上京した今、久留米に戻る理由は完全に消滅した。聖子も「墓参り」
という以外に戻れなくなってしまった生まれ故郷をご紹介。
久留米市 | ページトップへ |
福岡県南西部に広がる筑紫平野の中心にあり、市の北部に九州一の大河・筑後川がゆった
りと水をたたえ流れている。農産物の大集積地であり、商工業都市。久留米城の旧城下町
で人口約23万人。ブリヂストン・月星化成・日本ゴム・アサヒコーポレーションなどの工
場があり、ゴム製品とシューズの産額は日本有数。久留米の特産品は古くから木綿のかす
り(久留米がすり)などの織物製品。ごく小数の人が昔からの手織という織り方で国の重
要無形文化財に指定されている。聖子はこの地で生まれ、17歳4カ月まで暮らした。両親
の出身も共に福岡県で、父・孜(つとむ)さんは柳川市、母・一子(かずこ)さんは八女
市。両市とも久留米市の南方に位置する。全盛期には、市内のレコード店内に聖子神社と
いう神棚まで作られ、また同時期に人気を博したチェッカーズのメンバーも久留米出身と
いうこともあり、聖子やチェッカーズのメンバーの実家をまわるツアーも出現した。
久留米市マップ
石橋文化センター | ページトップへ |
写真:正面 ( JPEG 6KB)
久留米市出身でブリヂストン会長だった石橋正二郎氏が、会社の創立25周年記念に久留
米市に寄贈したもので、市立図書館、文化ホール、石橋美術館、市民文化会館、日本庭園
などで構成される大規模施設。ブリヂストンの社名はこの石橋の苗字が由来している(英
語でストーン・ブリッジを逆さにしたもの)ことは有名。聖子は中・高校の時にこの図書
館で勉強した。高校時代の聖子のバス通学ルート上にある。
久留米信愛女学院 | ページトップへ |
写真:正門( JPEG 21KB)/信愛学院高生( JPEG 16KB)/チャペル ( JPEG 19KB)/マリア像 ( JPEG 7KB)
高等部が聖子の母校。キリスト教のミッションスクール。中学から短大までの一貫教育を
行なうお嬢さん校で、カトリック教育で校風が厳格なことで知られる。聖子は中学の担任
に「あなたの成績では信愛はとても無理です」と言われてハッスル。短期間の猛勉強の末
に合格したとか。入学後、顧問のシスターが好きになりキリスト教研究部に入部。
デビューのきっかけとなったミスセブンティーンコンテスト[ラブアタックアイドル]
九州予選出場は2年生になったばかりの春休みに行なわれた。3年生の1学期まで在籍し、
その後の上京で東京・堀越学園高校に転校。両親は「芸能界で失敗してもいいように」と
信愛女學院に再転入手続きが出来るようにともとの担任に懇願していた。1年生の時の阿
蘇山で行なわれた新入生学年研修合宿で、聖子は先生達から「女神」に選ばれる。「女神」
は学年代表として全校生徒の前で聖書などを読みあげたりする重責をになった。高校生と
してのほとんどを信愛で過ごしたため、先生の善意によって聖子には信愛の卒業アルバム
が贈られた。信愛の中学・高校生は登下校で正門をくぐる際に、校舎に向かって一礼する
という校則がある。今は聖子が通っていた時代のチャペル(聖講堂)は校門奥にそのまま
あり、現在は新しいチャペルが正門前に建てられている。
制服は聖子の当時と同じままである。福岡のコンサートには、お世話になったシスターが
毎年来ているという。校門横にはマリア像がある。
西鉄久留米駅 | ページトップへ |
写真:西鉄久留米駅正面 ( JPEG 9KB)
聖子は川崎麻世のコンサートに行くからと嘘をついて母を連れ出し「ミスセブンティーン」
に出場するために利用したのがこの西鉄久留米駅。西鉄の終着駅である福岡市の天神は九州
最大の繁華街で、ミスセブンティーン九州予選が開かれた福岡市民会館へは天神駅から歩い
て10分ほど。思いがけない聖子の九州大会優勝で、蒲池母子は帰りの電車で大きな優勝トロ
フィーと巨大な花束を抱えて復路、車内で右往左往することとなった。一階はバスのターミ
ナルともなっており、聖子はここでバスを乗り換えて信愛女学院行のバスに乗っていた。信
愛はバスの終点で、信愛行きバスは5分間隔で運行され、かなりの本数出ている。聖子はよ
く友達とこの駅の甘味喫茶であんみつを食べていた。中学時代の同級生と初デートしたのも
この近辺の映画館。自宅へ帰るには、50、51番乗り場から船小屋行きバスに乗り国道209号
を南下し高良台下車。
聖子の生家(久留米市荒木町荒木1XXX番地) | ページトップへ |
写真:自宅玄関( JPEG 26KB)、荒木中学テニスコートから自宅( JPEG 19KB )
元実家。閑静な住宅団地の中にあり、平屋建てで敷地約80坪、門扉だけは取り替えられたが、
植木やブロック塀、家そのものは聖子が生まれ育った当時のまま今も残されている。
2000年頃建て替えられて生家家屋は残っていません。
角地で、前は荒木中学の土手、横は荒木中学。瓦は派手なオレンジ色で、近隣でもよく目立
つ。荒木中学校からもよく見え、荒木中の生徒にとってもこの家が聖子の生家であるは周知
の事実。中学校のテニスコートのすぐ脇に位置し、中学校への最短距離はわずか3メート
ル。中学校の裏門から聖子宅の門までも10メートルもない。近すぎるので、聖子は中学生に
なってから、いつも始業のチャイムが鳴ってから家を出るという、遅刻常習犯となった。休
み時間に家に忘れ物を取りに帰ったり、昼食を家で食べたりすることのも日常茶飯事だった
という。中学時代はテニス部に入部し、最後まで続けた。聖子が生まれた高良台病院もすぐ
近所にある。最寄りのバス停は高良台(こうらだい)で家から歩いて約7分。84年に父親の
孜さんが東京に転勤となったために、聖子は両親とはれてまた一緒に暮らすようになり、そ
れ以来、この元実家は貸し出されている。
荒木中学校 | ページトップへ |
写真:全景 ( JPEG 5KB)、
正門 ( JPEG 8KB)、
正門拡大 ( JPEG 8KB)
市立中学校で聖子の母校。福岡教育大学付属中学を受験したが、失敗し、この荒木中学校に
通うことになった。自宅の隣に位置する。聖子は遅刻魔だったのに、母・一子さんはPTA
会長だった。1997年11月に荒木中学校創立50周年記念として、聖子の寄付により校門が作り
直され、プレートにその旨が刻まれている。
JR荒木駅 | ページトップへ |
写真:正面 ( JPEG 11KB)、案内板 ( JPEG 4KB)
聖子宅から一番近い駅で、歩いて17分の距離にある。九州の大動脈である鹿児島本線の駅の
ひとつで、博多駅まで直通で行ける。今もこぢんまりした木造の駅舎が郷愁を漂わせる。蒲
池家では買い物などで外出するときは、この荒木駅ではなく、福岡市の中心街である天神に
直通する西鉄久留米駅のほうをもっぱら利用していた。写真集「聖子Photograph」に荒木駅
にいる聖子の写真が掲載されている。スカウトしたCBSソニーの若松宗雄氏の勧めで、福
岡市の平尾昌晃歌謡学院に週2回通うのに利用したのもこの駅。
荒木小学校 | ページトップへ |
市立小学校で聖子の母校。聖子は兄・光久(みつひさ)さんが通っていた久留米大学付設小
学校を受験するはずだったが、受験日当日に肺炎で寝込んで受験できず、荒木小学校に通う
ことになった。歩いて約15分の距離で、鹿児島本線の踏切を越えた所にある。聖子は約40分
近くかけて歩いて登校していた。小学校時代、聖子は放送委員で校内放送をしていた。家か
らは遠い。
高良台保育園 | ページトップへ |
聖子が通った保育園。自宅から歩いて約7分の距離。
高良神社
聖子が初詣で毎年行っていた神社。上京する前にも参拝した。
久留米大学
私立大学。80年11月2日に医学部学園祭で聖子はミニ地元公演を行なっている。
久留米大学付設高校
九州でも五指に入るという屈指の名門進学校。聖子は当時、ここの男子生徒と付き合ってお
り、下校時にわざと付設高校を通る路線のバスに乗ったりしていた。しかし、この路線に乗
ることすら信愛学院で禁止されていた。
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