1995年3月
相手方検証現場に臨み、相手方保管の別紙目録記載の物件について提示命令及び検証を求める。
一 相手方は、肩書地において、S産婦人科(以下「相手方医院」という。)を営む医療法人である
二 申立人○○Y雄(以下「Y雄」という。)及び○○N子(以下「N子」という。)は相手方医院との間で、平成4年12月20日、N子が相手方医院に入院し、相手方医院がN子の出産について適切な診療、分娩介助及び施術をする旨の診療契約、ならびに出生してくる新生児申立外○○T子(以下「T子」という。)のために、同人の出生介助及ぴ診療契約を締結した。
一 N子は平成4年4月に妊娠していることに気づき、同月17日に相手方医院を受診し以後妊娠中の経過は順調であり、入院以前に相手方医院で受けてきた定期検査でも特に異常は認められなかった。
二 N子の出産予定日は平成4年12月22日であったが、39週目の12月20日午前4時ころから陣痛が開始し、分娩徴候の少量の出血もあったため、午前9時頃相手方医院を訪れ受診したところ、子宮口が3〜4センチメートルであったため、そのまま入院の指示を受けて直ちに入院となった。
三 病室でN子は分娩監視装置を装着し、午後3時頃、助産婦が内診したところ、子宮口が8センチメートルであり、陣痛も強くなってきたので、助産婦の指示により分娩室に入った。
四 分娩室でもN子には分娩監視装置が装着されたが、間もなく心拍数が低下し始め、分娩監視装置を見た助産婦が慌てて医師を呼びに行くなどの対応をし、医師の指示により、体勢を横向きにしたりなどの処置が施されたが、その後も心拍数の低下は継続していた。また、羊水混濁は、この時点で「プラス3」と悪化していた。この時分娩室に現れた医師は、それまで直子が受診してきた相手方医院の院長であるS医師ではなく、今まで見たこともないO医師であった。
五 そのような状態のまま午後4時頃、O医師から「出産に入る」との指示があり、同医師はN子に対して吸引分娩を試みた。しかし、何度か試みた吸引分娩によっても娩出には至らず、この間にも心拍数は低下の一途を辿っており、N子が排出した羊水が混濁するなどの症状が現われていた。こうして吸引による娩出ができなかったため、O医師は帝王切開により胎児を娩出することとし、室外で待機していたY雄に対して「緊急に帝王切開をしなければならない。詳しいことは後で説明する。」と告げ、手術の承諾を得た。帝王切開の施行を決定した後も相手方医院内は慌ただしく看護婦等が走り回るなどの騒然とした雰囲気になり、なかなか手術が開始されなかった。かなりの時間が経過しようやく帝王切開の手術が開始され、T子が娩出されたのは午後5時17分頃であった。
六 娩出した時、T子は仮死状態であり、相手方医院が救急車を呼び、救急車内で蘇生器に入れられようやく産声をあげた。T子はK病院に転送され、未熟児センターで処置され、痙攣を起こすなどの症状があったが、何とか一命を取り留めた。
七 しかしT子は分娩時の重症仮死による無酸素性脳症により、最重度の脳性マヒの状態となり、自発運動はほとんどできず、首が座らず、体温の調節も自分ではできない状態となり、24時間全介護が必要な状態である。
八 N子の出産の経過は前記の通りであるが、Y雄及びN子は相手方医院に対して出産時の経過説明を何度か求めてきたが、出産後6か月以上経過した平成5年7月3日になってようやく相手方医院(S医師夫妻、O医師)の説明を受けることができた。相手方医院の出産経過、特に心拍数に関する説明は以下のとおりである。
1 出産当日の平成4年12月20日午後3時ころの心拍数は120拍であったが、その直後から心拍数は100拍、さらには60拍まで低下していた。 2 その後N子に対して酸素の投与を実施したが、心拍数は正常範囲には戻らず、午後4時20分には90拍、4時25分には60〜70拍にまで低下し、改善の兆候が見られなかった。 3 そこでO医師は仰向けに寝ていたN子に対し、横向きに寝るよう指示した。しかしこのような処置によっても心拍数は依然として回復することなく低下を続けていた。 4 この時点で何か新たな処置をしなければいけないと考えたO医師はN子を内診したところ、子宮口が9センチメートルまで開いていたので、吸引による分娩を試みた。しかし何度吸引を試みても娩出に至らなかったため、O医師はようやく帝王切開に踏み切った。 5 なお、分娩当日それまでN子の妊娠経過を診察してきた院長のS医師はこの日東京への出張ということで在院していなかったこと、及びO医師はこれまで一人では緊急に帝王切開をした経験がないことも申立人らに告げていた。
一 相手方医院の医師らは、診療契約における履行補助者として、妊婦の出産にあたり胎児の状態を的確に把握し、胎児に仮死の危険があるときは、直ちに帝王切開による急遂分娩をするなどして、仮死産によって出生した子に重篤な障害が生じることを回避すべき義務がある。
二 本件事故が発生した平成4年当時、胎児仮死の兆候を把握するために、胎児心拍数の変化を経時的に記録する分娩監視装置を備えて利用するのが有効であるとされていた。従って担当医のO医師としては、分娩監視装置によって胎児心拍数の変化を的確に把握し、胎児仮死の兆候を早期に発見し、発見したならば直ちに帝王切開による急遂分娩などを行なって胎児仮死の発生・進行を防止すべき義務があった。
三 前記のとおり、胎児心拍数の顕著な低下、羊水の混濁など明らかな胎児仮死の徴候である症状があり、この状態は午後4時20分の時点ではさらに強まっていたのであるから、遅くともこの時点でN子は帝王切開をする適応状態にあったのであり、O医師としては速やかに帝王切開により胎児を娩出すべき義務があった。
四 しかるにO医師は、前記諸症状から伺われる胎児低酸素状態を改善するための有効適切な処理を施さず、漫然とN子に体位の変更を指示し、さらには経膣分娩を続けた。ところが経膣分娩の試みも失敗したので帝王切開に踏み切ったが、最終的にT子が娩出されたのは午後5時17分であった。その結果T子は酸素欠乏状態となり、これを原因として無酸素性脳症を引き起こし、重度の脳性麻痺をもたらしたのである。
一 以上のような次第で、現在申立人らは相手方に対し債務不履行に基づく損害賠償の訴訟提起を準備中である。
医療過誤訴訟において患者に対する診療経過、検査結果等の資料となるぺきものは医療機関が作成し管理する診療録等であることは周知の事実であり、これが医療機関によって改ざんされることがあれぱその責任を立証することは事実上困難である。
二 本件診療録等は、いずれも相手方の手中にあり、このような場合医療機関としては、訴訟において不利になると予測される部分の改ざん.廃棄をしたい誘惑を禁じ得ないものであり、現に医療過誤訴訟の判決例の中でも改ざんが行なわれたとされた例は少なくない(最近のものとしては、名古屋地判昭和59年4月25日判例時報1137号96頁参照)。
三 ところで、N子がT子を娩出した後は救急車が呼ばれ、T子は蘇生器に入れられたままK病院に運ばれ一命を取り留めたが、帝王切開に入る前にO医師は「詳しくは後で説明する」ど言いながら、相手方医院の病室にいたN子に対してもK病院から戻ってきたY雄に対しても、何らの説明もなく、その後もO医師、院長であるS医師からも説明はなかった。
その後Y雄及びN子から何度となく相手方医院に対して分娩経過について説明を求める意思を表示してきたが先延ばしにされ、ようやく説明らしきものを聞いたのは、分娩後半年以上も経過した平成5年7月3日であった。しかしその説明内容も到底申立人らの納得できるものではなく、相手方の責任逃れに終始していたのである。
四 このような相手方の対応からすると、訴訟提起後相手方はその管理下にある診療録等を改ざんする危険性が極めて大きい、と言わざるを得ない。そのような事態を未然に回避するには証拠保全の方法しかなく、従って申立人らは本申立に及ぶものである。
一 戸籍謄本
二 報告書(申立人 N子作成)
三 母子健康手帳
四 身体障害者診断書・意見書(肢体不自由障害用)
五 身体障害者手帳
六 療育手帳
七 医学文献
一 疎各号証写 各一通
二 訴訟委任状 一通
三 資格証明書 一通
1995年3月 日
申立人ら代理人
弁護士 ○○ ○○○
同 ○○ ○○
水戸地方裁判所 龍ケ崎支部 御中
<省略>
(送達場所及び検証場所)
茨城県 市・・・・・・・・・
S産婦人科
○○N子及び○○T子にかかる
一 診療録
二 問診表
三 分娩監視装置記録
四 医師指示簿
五 諸検査写真・諸検査表・X線写真・超音波検査記録.心電図記録
六 看護記録
七 診断書控え
八 処方箋
九 医師引継書
一〇 病棟日誌・看護引継書・病院日誌
一一 保険診療報酬請求控え
一二 医師当番表
一三 その他診療に関する一切の資料