(へきりゅう こしや さしや)
日置流腰矢指矢
日置流腰矢指矢'97.2.11撮影
(1)日置流弓術
薩摩藩では、藩主をはじめとして、家臣・郷士共に武術の錬磨に務めたが、なかでも、島津義弘の子第十八代藩主家久は、日置流元祖の日直弾正忠正次の正統を伝承した吉田一水軒印西の高弟で、浮田中納言秀家の家臣本郷伊予守義則に、自らも師事して、弓術を学んだ。
家久は、父義弘の家臣で加治木在住の東郷長左衛門重尚の射術の非凡さを見て、我が師本郷伊予守に師事させた。
数年にして奥義を伝授された長左衛門は、薩摩藩弓術師範として、藩士を指導するかたわら、広く他流を学び、その長所を取り入れて、実戦的な弓術の射法として日置流弓術を完成した。
県内で、日置流射法を伝承しているのは、出水地方だけで、他の地区は、型の流麗な小笠原流射法が主流である。
(2)腰矢指矢
鉄砲の出現により、戦いの様相はー変し、弓を主体とした戦法は疎外され、従って弓術も軽視された。
第ニ十八代藩主島津斉彬は、「弓術は我が邦武術の根本にして、由来久しく最重要のものなり、・・・敵合の射術の如き、徒らに、書伝のみに秘し置かず、広く門弟中に師事せざるべからず」として、第十四代伝承者東郷長左衛門実敬に、その研究を命じた。
実敬はその子源四郎重特と共に、江戸に居ることー年、帰郷して脇槍の射法を採り入れて腰矢と名付け、組弓を主体として、その進退押詰め等を研究し、腰矢、指矢の射法を完成させた。
(3)腰矢・指矢の射法
腰矢指矢は十名からニ十名の射手の組弓が基本であるから、整った隊形で、大将の指揮の下、一糸乱れぬ規律のもとに、射法を行い、敵を圧倒する戦法である。織田信長の用いた鉄砲のニ段構えの戦法より考案されたものであろう。 日置流腰矢指矢'97.2.11撮影
(ア)指矢(数矢)
大将の号令で、横一列に並んだ射手は、折敷(左ひざをつき腰を落し、右ひざを立てる)の姿勢で、矢を矢つぎ早に発射して、敵を威圧・動揺させて、敵の気勢をそぐ。
(イ)押詰(前進)
奇数の射手は、体を低くした姿勢で一歩半前進して矢を放つ。その間に偶数の射手は矢をつがえ、三歩進んで矢を放つ。
左右両翼の者は前・横・後の敵に目を配りながら、その後は奇数、偶数組共三歩ずつ前進して、敵陣に肉薄していく。
(ウ)突撃
敵陣間近かに迫ると、押詰しながら身を更に低くして、矢をつがえ放ち、矢玉が尽きると、全員一緒に歓声を挙げて敵陣に突入するのである。
実戦向きの戦法として考案されたと思われるが、何せ矢の届く範囲が鉄砲の比でなく, また必殺の道具でもないことから、武術の鍛錬として今に伝承されているのであろう。

(4)出水の日置流腰矢指矢
東郷重特の門下生として数年修業した麓郷士溝口武夫の「溝口武夫先生伝記」に、その伝授について詳細に書かれているが、紙数の都合上割愛する。

(出水市文化財保護審議会会長 秀島 實,『広瀬川』より転載)


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