薩州の宗社・国境鎮護の神
箱崎八幡神社
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| 箱崎八幡神社拝殿 |
箱崎八幡神社由緒記
- 鎮座地
- 鹿児島県出水市上知識町四十六番地
- ・JR鹿児島本線出水駅より車五分
- ・ 同 西出水駅より車五分
- 主祭神
- 誉田和命 (ほんだわけのみこと,応神天皇)
- 息長足比賣命 (おきながたらしびめのみこと,神功皇后)
- 高良玉垂命 (かうらたまだれのみこと,竹内宿禰)
- 御祭神と御神徳
- 御祭神は応神天皇を主祭神とし、神功皇后(応神天皇の母君)と竹内宿禰が配祀されており、応神天皇は仲哀天皇の第四皇子として筑紫の蚊田の里(今の福岡県粕屋郡宇美町)にお生まれになった第十五代天皇である。
- 御在世中、天皇は溝地を開き、農耕を奨励し、百済より裁縫の技術を伝え、呉の国より織工を召して機械紡績の道を開き、また学者を招き典籍を伝えて、わが国の文化の基を築くなど数々の偉業を残された。
- このような御神徳を称え殖産興業(商工業)の祖神・文化学芸(学問・芸術)の親神として仰がれ、また安産の御胞衣をお納めした縁故から、安産の神として崇められ、さらに昔から海外交通交渉のあることから交通の守護神でもあり、家内安全・商売繁昌の神でもある。
- さらに、凡そ七百年前、かの蒙古襲来(元寇の役)の折、俗にいう神風が吹き未曾有の国難に打ち勝ったことから「厄除け開運の神」としても有名である。
- 由緒・来歴
- 島津始祖、忠久公が鎌倉より山門院野田へ下向の途、筑前博多の沖で逆風に遭い乗船まさに難破しようとする折、筥崎宮に請願して難を免れ無事山門院荘之浦に着船できたので、当社を勧請したと伝えられる。
- 初め野田極楽寺(野田女子校の辺り)に建立、その後名古浦、六月田と遷り出水領主薩州家二代目、国久公の文明の頃(五百年余前)此の地を卜して当社を建立したという。
- また一説には、文永・弘安の頃、筑前博多に蒙古の襲来あり。その時、公命により島津久経公(三代)が同国箱崎の津に出運し、なかでも弘安四年夏、蒙古の大軍押し寄せた時、久経公は、八幡宮に御参拝ありて、一心に討滅を祈願せられしに霊験ありて殊勲を博されたことは史籍にも瞭らかなところであるが、凱旋の時にあたりて、すなわち八幡宮の御神霊を奉戴され帰国になった。薩州出水郷と隅州吉松郷の二ヵ所に勧請し、国境の守護軍神として厚く崇敬せられた。
- 島津義虎公(六代)は最も尊崇篤く永祿六年には御宝殿を造立している。然し、天正十五年の豊臣秀吉の征西、更に朝鮮の役には、出水領主薩州家は断絶し、出水の地は没収せられて秀吉の殿領となり、当社は別当寺の成願寺と共に破壊された。だが、慶長四年、朝鮮役の島津宗家義弘・家久父子の抜群の戦功により出水は再び島津家久公に与えられた。翌年公は、自ら出水に入部し、僅かの間に荒廃した山河を見て、まず当社と成願寺の復興を命じたのである。
- 出水郷二代地頭椛山久高は慶長十四年琉球攻めの主将を命ぜられ出陣に当たり戦勝を祈願し目出度く任を果たして佩用の鎧・太刀を奉納した。
- こうして当社は薩州の宗社国境鎮護の神として歴代藩主の尊崇厚く、大祭には必ず地頭が代参を勤めたのである。
- 明治維新後は別当寺成願寺も廃寺となり神領も多くは上地となり社殿も暫く腐朽した。そして明治十五年、氏子相計り義金を以て社殿を造営したが、その後、明治・大正・昭和の約百年を経て再び改築の期を迎えた。
- 昭和五十五年、氏子有志の募金により新社殿の再興を見たのである。
- また、昭和天皇御在位六十年奉祝事業として、平成元年十二月に社務所及び参集殿が氏子崇敬者の奉賛金により竣功され、今回、伊勢神宮御鎮座二千年、そして神社本庁設立五十年の記念事業の一環として、日本一の鈴(直径三m、高さ四m、重量二千五百kg)を吊る神門が平成十年十二月に竣功する。

- 社殿及び建築様式
- 本殿 権現造 木造銅板葺
- 幣殿・拝殿 権現造 鉄筋コンクリート造銅板葺
- 改築御遷座日 昭和五十四年十二月十八日
- 祭 儀
- ・春祭(祈年祭)三月二十五日
- ・月次祭 毎月一日、十五日
- ・建国祭 二月十一日
- ・例大祭 十月二十五日
- ・歳旦祭 一月一日
- ・夏越祭 七月中旬
- ・秋祭(新嘗祭)十一月二十五日
- ・七草祭 一月七日
- ・七五三 十一月十五日
- 宝 物 等
- 元帥伯爵 東郷平八郎直筆 「箱崎八幡宮」の書(写真準備中)
- 黒船のおきみやげ境内献籠
文:八幡神社禰宜 田上敬一氏

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