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アートマガジンLR(エル・アール)

原川 佳子  harakawa

『クレージーボーイ・ギャラリー』
スリヤット(S・ブアマル)氏/ディヤノ・プルワディ氏

インドネシア・バリ島 民主改革後の2000年6月

『支配する王』と『オラン・ギラ(気狂い)』-1-

 

目の前で亡霊が俺をあざけていやがる
俺は心を空にして座った
もう、目もうつろなまんま、脳味噌もまったく働かない
「火をつけろ、おまえを燃やしてやろうか?」と、亡霊がそそのかす
俺はちっぽけな脳みそで、水をぶっかけてその火を消してやる
それだけさ
描く事は地獄
針地獄の上を歩いているようなもんさ
俺達の袋小路で、
それでも引掻き傷は、長い歴史の中で新たな象徴を生んでやがる
牛の糞も「食べ物だぜ」と、守護霊を騙してやる
奴は食った
糞の食いカスは俺達のもんさ
亡霊の王はぶち切れ、怒り真心頭
俺達が奴の本当の顔を引掻いて描いたからだ
悪魔と悪鬼、悪霊や呪術者やらが、大袈裟な会議をはじめる
カネとは縁のない奴にしてやる、と  
俺達を裁き、脅した
俺たちはせせら笑った
カネがなんになる? 亡霊と気狂いはカネには興味がないんだ


 『クレイジボーイ・ギャラリー』
 スリヤット(S・ブアマル)
 
1970年4月13日生まれ インドネシア マラン出身
 ディヤノ・プルワディ氏
 
1971年7月5日生まれ インドネシア ジャワ島出身 

インドネシア・バリ島芸術家村ウブド近郊タマンサリ廃屋の自主ギャラリーのパンフレットより翻訳引用

 1998年の民主化改革前のインドネシアでは、スハルト前大統領の独裁政治や、東ティモールでの国軍を批判する文化人、ジャーナリスト、芸術家などが多数いると、多方面の情報から目に耳にしていた。50〜60年代、日本でもにわかに巻き起こった『反芸術』に近いものかも知れない。その当時は、今よりもそれが自由に溢れていた時代であった。当時は、『反芸術』という意識より『自由』に表現、行動するといったスタンスだと、捉えてはいるが。70年安保闘争以前の『反芸術』という枠で括られたモダンアートは、その後の世代に、嫌でもある種のタブー扱いのガイドラインを、無意識に刷り込んでいく。

 その安保闘争後、山奥に移転した美術大学の坂は、羊小屋の隣。明治時代のような具象絵画を、一日で素早く仕上げ、さんざん色を濁らせて描いたお受験後の大学生活は、無気力な老人のようにだるい気分で坂を登る事だった。80年代の当時、その美術大学では『もの派』や『ポストもの派』という言葉が、聞こえてきた。50〜60年代の日本の『反芸術』については、聞こえなかった記憶がある。(『ダダイズム』については、教えてような気はするが)『自由』に、『日常』から『政治』まで、疑問や提示、批判を表現する事がモダンアートだと思っていた私は、その見識が違っていたんだな。と、授業は次第にさぼっていった。そこで何を教えていたのか、今でも覚えていない。取りあえず、アートらしきものを制作し、グループ展や個展らしきものをしてはいたが、展覧会終了後の消耗感と、得体知れない閉塞感によって、あくまでも気が向いたら制作する。という意識でいた。

 「本気でやっても…」という虚無感は、どこから来ているのか。漠然と判りかけた時に、制作も自然に辞めていた。「日本は『敗戦国』という国際政治社会の立場上、『反芸術』は排斥される存在なのかも知れない」妄想に近いこの考えは、「戦後に『天皇制』が残された理由は、単一民族の『絶対的な象徴』として、国民を服従させる力がある。いざという時には『アメリカの最前基地』として…」と、段々エスカレートしていく。しかし、それが公に確証される事が出て来ない限りは、被害妄想の強い危ない奴として扱われる。それについて、他人に話す事も思考すらも辞めていた。

 その後、91年に気紛れに出掛けたインドネシアで、現在の日本にはない、多様性の伝統文化と急激なモダニズムへの表現の共存に興味を覚えた。はじめは、呪術的な魔の匂いがする怪し気な森に誘われように、水木しげるの世界さながらの魑魅魍魎の仮面や木彫り、石彫寺院などを巡り、地元の僧侶や呪術師に会い、彼等の世界観などの話しを聞きに行った。聖と俗。善と悪。太陽と月。男と女。光と闇。山と海。これらの二元的な対比関係は、インドネシアのアニミズムの習慣に伝承されている。

 特に『善と悪の戦い』は、ジャワ島、バリ島に根強く残るガムラン演奏や舞いの伝統芸能、ワヤン・クリッという影絵芝居に、非常に多く残されている。村や町での祭りの奉納劇には、必ずといっていい程、上演される。『亡霊の王』『悪魔』『悪霊』『魔女』という役割が登場し、これらは『支配する者』として、戦いを始める存在に位置する。『民衆』『善の国王』などの『支配される側』も怒り出し、同じように戦い始める。合間に道化役者や動物、恋愛物など登場しつつ、卑猥なシーンもあり、ドタバタな喜劇を繰り広げる。深刻な場面やストーリーですら、陽気な世界だった。

 『支配する者』と『支配される側』との戦いではあるが、「これが悪、あれは善」といった絶対主義ではない。どちらともなく始まった戦いは、勝敗を決めずに延々と続けながら、幕を降ろしてしまう。善も悪も戦っているうちに、立場が逆転したり、どちらも悪になりうるといった、収拾つかずのストーリーである。完全徴悪の成立しない『正義なかの悪』、『悪のなかの正義』という曖昧な境界を保ちつつ、加害者も被害者も、実に素直に対等に戦ったままで終わる。

 『支配する者』とは、長年に及ぶ植民地化された中で、語り継がれたアイロニーであろう。第二次世界大戦後に独立しながらも、今でも多く皮肉に語られている。外国人の私でさえ、これらの奉納劇を多く観ながら、『莫大な資産を独占する一族のスハルト大統領』の事を思い浮かべてしまう。老若男女問わず、大声で笑い、やじを飛ばすインドネシアの人々は、その『支配する者』の事を、念頭において観ているんじゃないだろうか?と、彼等の眼をつくづく見入る。

 私を最初に案内してくれた観光ガイドは、バリ島の伝統芸能の踊り手だった。石彫寺院や伝統芸能、絵画などを説明してくれる合間に、この『支配する者』と『支配される側』の話をはじめる。はじめは一言ふた言だったが、外国人である私に、段々、インドネシアの政治に対しての本音をぶちまけ、怒り寸前の言葉も飛び出すようになっていった。
「この国では、多くの若者は仕事が無いんだ。貧しい人も多過ぎる。バリ島は農業か観光産業ぐらいだ。それにありつけても将来的には難しい」
「インドネシアは、独立してもまだ、先進国の植民地だ」
また、『莫大な資産を独占する支配する者』に対しては、『配される側』は「心の中だけで葛藤するしかない」という答えだった。
当時は、政治批判などは公然とは出来なかった。『心の中だけ』に留めておく事だけだったのだろう。

 観光客のメインストリートを歩く。
「バロン。バロンダンス」
薄手の紙で出来たチケットの束を背丈以上に翳し、ひとりひとり観光客に片言の英語で話し掛ける少年の真剣な眼差し。
「トランスポート。トランスポート」
ハンドルを両手で動かすゼスチャーをして、そればかり叫ぶ中年の男性達。
「ドリンク。アクア」
ミネラルウォーターの製品名を言い、ドリンクとスナック菓子を詰めた大きな竹籠を抱えた年輩の婦人。それらに混じって
「カワイイですね〜」「どこへ行くの〜?」「しかとすんな。ブス」
と日本語で、バイクに跨がりながら叫ぶ、若い男性達が女の子を取り囲む光景。
僅か数十メートルのメインストリートは、それらでやたらと賑う。観光客に法外な値段で、みやげ物を売りつける。外国人を捜しては、客引きから様々なお相手をする事。公然と目に付く光景は、『俗』として単純には片付けられない。そこを歩いた後は、何故かやり切れない。

 何度もインドネシアへ行くうちに、自然と『支配する者』に対して、ここでの表現を少しずつ、捜し始めていた。作品の制作や発表活動もしないで、インドネシアにばかり行ってどうするんだ?ニューヨークやヨーロッパのモダンアートを観て来たらいいのに。
時々、友人達から言われる始末になった。自分でも「そうだよな」とは思いつつも、半年と間を開けずに飛んで行く、完全なリピーターになってた。漠然とした気持が揺れ動いた。それが多大に占めているだけで、政治的な表現に関心があるという根拠は余り無い。理論の成立し得ない、渾沌としたやり切れない感情の、かなり浅はかな理由だ。

 1994年、私は長期滞在の暇がてら自転車でバリ島・ウブドの芸術家村を廻り、自分の作品のファイルを持ち歩いていた。知り合った人達で見せても大丈夫だろう。と感じたらファイルを見せた。作家だけでなく、普通の人達までも熱心に、作品のファイルをたらいまわしに見てくれた。長期滞在を繰り返したジャワ島、バリ島での飛び込みだけで、多分、それらを見た人達はどこかで個展をした時ぐらいの数にはなるだろう。

 インドネシア人はまず、人見知りしない。赤の他人に対しての好奇心は強く、どこの国から来たのか。何歳だ?人なつこく陽気に話し掛けて笑う。私みたいなリピーターには、インドネシアの何処が好きなのか?と、熱心に尋ねてくる。私はこういう奴だ。カタコトしか言葉の通じない彼等と、直接的にコミュニケーションを計るうえでも、作品のファイルを見せ続けた。

 多くのギャラリーやアトリエを見て廻った。宗教的な伝統絵画に混じって、若手の抽象絵画が、ちらほらと展示され始めていた。
話しを聞けば、最近になって抽象絵画の事を学んだらしい。ウブドの芸術家村のはずれ、田んぼのあぜ道の見えるストリート沿いには、若者達が建設中のレストランやら、コンクリートのブロック壁にトタン屋根の狭いスペースで、モダンアートの臨時展覧会のような事を始めていた。プロレスラーのような体格でトランクス一丁のまま、ターザンのごとく大声で喚き散らしてばかりいるアメリカ人のニューペインターが、木とゴミの化物のようなオブジェが入口に置かれた倉庫並みのでかい廃屋を、地元の若手作家を集めたギャラリーにしていた。
「週2回は油絵を教えているから来い」
と、捲し立てる傍で、吠える犬に水をぶっかけ、握りこぶしの両腕をあげ大声で叫ぶ。
「また、来ます」
思わず後ずさりし、ストリートに出ても、まだ、でかく叫び続けていた。前のワルン(よろず茶屋のようなもの)のベンチで、時間をつぶす数人の地元の人達が
「また、はじまったよ」
と、にやにや笑っていた。

 南国の晴れた日には、土産物から絵画まで、店先や壁にどかどか看板のように置かれていく。それはカラフルに、色付いた商魂の逞しさ。椰子の木と田んぼの残る、のどかなストリートにあるモダンアートのアトリエ兼ギャラリー兼土産物屋も、でかいキャンバスからスケッチまでも、表の壁に立て掛けていく。ジャンク・アートやニューペンティングの精神を引き受けたような、そうでないような。野性的に、衝動的なアクのあるインパクトの強い絵が、際立って増えていった。空港からの観光客が、ウブドの芸術家村まで行くには、モダンアート・ギャラリーの在る、この一本道のストリートを通過しなければならない。外貨を持つ欧米人は、結構面白がって、1号5千円ぐらいで買うと聞く。随分、いい商売だな。と計算するが、ここでは家族が1月暮らしていくには1万円位かかるから、相当な金額を費やしている。と考え直す。絵の具などは輸入品のため、100号で描く絵は多分1年間分の生活費位だ。原価コストから、当然高い値段になるのだろう。

 しかし、これらのモダンアーティスト達は1枚売れたら、1年間の生活費に相当する100号を2〜3時間のスピードで描いては、また描く。輸入品の高級絵具を、薄く伸ばして細かく描くウブドの伝統絵画のひとりは言った。
「わけのわからない、でかい絵ばかり素早く描いて、まるで『オラン・ギラ(気狂い)』だ」
観光産業に勤めるスマートなマナーの人達とは違い、これらのモダンアーティスト達は、かん高く早口に話し、愛想笑いなどもなく、作品以外は眼中なしといった感じで、あれよあれよ。と全身を使って素早く描く。しかし、絵は、それでもまだ何処か『鬱屈』を出さないままに、押さえている何かが感じられた。そのジレンマは、日本にも共通している『鬱屈』にも似てはいるが、閉塞されたままで萎縮しているのとは違い、明らかに打破しようとしている力が強かった。南国気質の陽気で野性的な『鬱屈』。その『鬱屈』はインドネシアの民主改革後、一気に爆発した。

 この長期滞在から帰った後、すぐに神戸大震災、オウム真理教『地下鉄サリン事件』、少年達の犯罪へと報道メディアは垂れ流し状態。特にオウム真理教は、絶対悪を吊るし上げんとばかりな徹底ぶりで、閉息された空気が社会を包んだ。この後、「少年法『改正』案」(そこまで?)「新しい歴史教科書をつくる会『検定教科書』」(はじめは某マンガ家のぶちかましギャグだと受け取っていた)
「日米ガイドライン『有事法制』」(核兵器の敗戦国が?)「通信傍受法」(電話もFAXもメールまで?)「国民総背番号制」(ICカードで個人情報の総てを記録?)など、戦前の日本のような、まさしく冗談めいた政治情勢へと、急速に変わりつつある。文化は社会情勢の映し鏡なようなもの。日本では、個人も共同体でも、発露出来ない無意識的なガイドラインがある。戦後から長くじっくりと築かれたそれは、容易には解決出来ない『病』なのだろう。

 数年間、何かのはずみで制作と展覧会を再開したが、頭の何処かでは、ウブドはずれのストリートの、わけのわからないギャラリーが引っ掛かっていた。自分の作品の発表場所である日本との比較をし始めていた。作品のレベルの高低ではない。社会の背景にある歴史や政治状況からの相違を、足りない頭で考えていた。

 長年、ヨーロッパの国々の植民地だったインドネシアは、第2次世界大戦後、独立戦争で勝利を収めた。この若い国家では、教育や伝統文化の語りの中に、庶民に強く独立国家の意識が根付いている。誰の侵略も、もう許さないとばかりに、そこは非常に誇り高い。また、多様な民族、宗教や言語、異なる伝統文化でありながら、国家としての統一も強い。普段は非常にフレンドリーで、陽気な国民性を持ち、共同体社会での結束力と宗教による信仰心のかたくなな生活を過ごす。家族、親族、地域社会を個人よりも最優先させる『共存』意識が勝る。そして、1万3,000以上の島から構成される島国であり,民族,言語,文化,生活様式などは非常に多様である。
しかし、行政システムは中央集権的な体制となっており、宗教省なども設けられている。国民には、統べて『唯―神への信仰(トゥハン)』を掲げている。その『唯―神への信仰(トゥハン)』は、イスラム教、ヒンドウ教、キリスト教、仏教、とそれぞれ異なる宗教の神の化身となりながらも、それらを包み込む『唯―の宇宙神』という存在である。
国の統一言語である『インドネシア語』も、多数の欧米の植民地とされた島々での貿易用語だった『マレ−語』を母体に、独立後、新たに選択されつくられた公共用語で、初等教育から、これらを学ぶ事になっている。例えば、『ジャワ語』は、同じジャワ島出身同士で話すが、それ以外の地域の人とは、『インドネシア語』を話す。教育や新聞などのメディアは、『インドネシア語』だか、地域社会では、それぞれの伝えられてきている言語を話す。といったバイリンガルが、インドネシア人である。独立後の統一言語での選択で、ここインドネシアの島々はオランダ、ポルトガルといった異なる国々の植民地だった事と、ジャワ島などのイスラム教が多数派を占める中央政権の『ジャワ語』も、他民族の多様性を尊重するうえで、公共用語には適用せずに、あえて貿易用語の『マレ−語』を選択した。
また,国家原理に『パンチャシラ』という5項目が掲げられ,初等中等教育から『パンチャシラ』道徳を基礎としている。『パンチャシラ』とは?唯―にして全能の神への信仰?公正にして礼節に富む人道主義?インドネシアの統一?協議と代議制による英知に導かれる民主主義?すべての国民にとっての社会的公正である。独立後の言語と宗教では、多様性を残し、尊重したうえでの新たな『唯―神への信仰(トゥハン)』という理念と、『インドネシア語』という統一言語。『多様性の中の統一』という国を揚げてのスローガンも、ここに由来している。

 1995年、バリに長期滞在して知り合った日本人女性から、日本に来日したバリ人の青年を紹介された。彼は画家を断念し、輸入業の会社を設立したばかりの20代半ばの青年だ。アナーキーなモダンアーティストの事を話してくれた。バリ島クタ海岸の近く、ほったて小屋に住む或一人の青年を、地元の人達は『オラン・ギラ(気狂い)』と呼ぶ。(インド洋の荒波のサーフィンポイントと、夕陽の美しい観光地ではあるが、これでもかというぐらいに土産物とホテルが立ち並ぶ。当時は、ビーチや路上の押し売りは半端ではなく、それに伴って観光客と地元の人達でやたらと賑わう)20歳そこそこの『オラン・ギラ(気狂い)』は、南国の習慣であるマンディ(水浴び)もせず、ろくに食事も摂らずに、年中制作をしている。クタ海岸や道端から大量のゴミを拾い集めては、コラージュやオブジェをつくり、彼の小屋は、さながらお化け屋敷のように床から壁、天井まで余す事なく、それらの作品がひしめきあう。金色に夕陽が染まる頃、海岸を徘徊し、マリファナの売人から、観光客の売れ残りのそれを譲ってもらい、客にあぶれて陽の沈むのを眺めている娼婦と夜を過ごす。
一夜だけ共にした女性の性器を、拾ったゴミの紙に描く。その性器のスケッチは、大量に彼の寝床に散乱。

 ただでさえ、アクの強いモダンアーティスト達の中でも、とりわけ際立った存在らしく、地元の保守的な作家達からは、ただ『オラン・ギラ(気狂い)』という存在で、口コミの噂だけは、遠くにまで拡がり伝わっていく。少し咳き込んだだけでも、100m先ではブラックマジックに掛けられた。などど、拡がるような噂社会ではある故、この『オラン・ギラ(気狂い)』も、どこまで本当の話しかは疑わしい。
ただ、観光地の消費されたゴミに、行き場のない病を表現するといった存在は、『支配する者』と対称的に位置する『支配される側』の象徴として、浮き彫りにされる。
「バリはまだ、保守的な作品が多い。過激なのはジャワ島のジャグジャカルタやスマトラ島の方だ」
何が過激かというと、社会情勢の批判めいた作品で、人々の怒りや悲しみを表現し、政府から睨まれている存在だからと言う。
「日本の方が、そういう意味ではもっと自由なんじゃないか?」
そういう表現は過去の産物扱いか、余り情報として公にされない。と説明したが、彼は理解しなかった。

 1998年。インドネシアは、急速に経済が悪化し、ルピアの貨幣価値が暴落する。物価は3倍近く跳ね上がり、失業者が増加していく一方だった。各地で暴動やデモが起こり、学生達が国会議事堂まで抗議に乗り込んで行った。スハルト大統領は辞任し、デモの学生達は歓声をあげた。TVでは、眼を潤わせ、褐色肌から白い歯をみせて、無邪気に勝利を喜ぶインドネシアの人々が映った。スハルト前大領の独裁政治から民主改革後、誕生した多くの政党やさまざまな民族は、その後、地域紛争や小競り合いを始めた。クタ海岸の『オラン・ギラ(気狂い)』の青年は、デモに参加する為、ジャワ島へ渡ったとの事だった。その変わりに、政治批判から社会への不満まで、『自由化』された多くの『オラン・ギラ(気狂い)』のアーティストが出て来たという。モダンアートからロック、演劇やマス・メディアまで、憚るガイドラインが無い時代になった。

 本音丸出し。感情剥き出し。70年代後半、パンクロックでSEX PISTOLSがデビューした。レコードジャケットはエリザベス女王にピンを刺したコラージュだった記憶がある。当時のイギリスは不況真っ最中。多くの若者は行く先が不安定。その後、ニューヨークからはバスキアなどのニューペインターが登場する。どちらも社会での『支配される者』の表現は、動物的でありながら『支配する者』へ、ストレートでかつ計算された表現をする象徴だった。

 テクニックや洗礼された美的感覚。モダニズムの美術史を踏まえたうえでの造形。西洋芸術の教育や哲学、歴史観から個人の表現を構築する事とは相異なって、例えば、楽器が演奏出来ないまま、パンクで『時代の鬱屈』を表現する。伝統から一気に飛び越えた、美術的な観賞からは判断出来ない本能的な表現に、閉塞感は無い。コンセプトとは、他者に対しての意志であって、素材やスタイル、形や限定されたテーマではない。と、いわんばかりに知っている限りの手法を使って描き捲る。日本なら、同一人物が描いたとは思えない分裂的な表現手法でも、その精神でぶつかっていくのが、ウブドでは多かった。

 もともと、日本のモダニズムは、多くは農村の民衆文化からスタートした。比較的スムーズに西洋化の影響を受けながらも、自分達の根強い共存意識は残る。しかし、70年安保終焉後から、近代化の過程を政治的な葛藤なをせずに受け入れた事は、個人主義を確立出来ない状態のままで、共存意識も表面だけが上滑りし、ただ時代の流れに依存する事にもなりかねない。それは少数派の葛藤や抵抗を受け入れずに、大多数派の共同体に吸収されてしまう危険性を孕む。誰かが「イエス」と答える。大多数も皆習え。「イエス」と答える。そして、昨日まで「ノー」だった人も、習うままに「イエス」に賛同する。本当に怖いのは、説得されもしないのに「イエス」に移り変わっていく現状で、「イエス」と「ノー」と、更にそのどちらでもない事のまだら模様に耐えられない事に、社会としての脆弱性を強く感ずるのは私見だろうか。

 昨年の、アメリカへのイスラム教徒の自爆攻撃は、踏み滲まれた民族の独立と紛争の果て、双方向に被害者意識を持ち続けた闘争の手段であろう。長い歳月に及ぶイスラム教とユダヤ教、キリスト教との紛争は、どちらが先に嗾けたという事で終結のつく問題ではない。しかし、日本のメディアは、簡単にその部分だけを切り取って、事件だけの悲惨さを訴え流し続ける。どちらも、簡単に「イエス」「ノー」とは、賛同出来ない問題でも、まるで表面上では葛藤のないように、日本から自衛隊は派遣されていく。

 しかし、インドネシアはそうではなく、民主改革前には、政治批判をする『テンポ』というジャーナル雑誌は30回以上に及ぶ発行禁止。映画、小説なども一般解禁を喰らいながら、長らくしぶとく粘る。鷹揚な支配者と、その貧しい庶民との戦いなどの伝統芸能でも、植民地時代から昔の歴代人物の名前を摺り替えて、皮肉を楽しんでいた土壌はそれこそ長い。植民地時代からの伝統文化も、民主化をきっかけに爆発したモダニズムの表現でも、根っこは変わらない。「イエス」「ノー」も、少数派から大多数派までが、互いに葛藤しながら鬩ぎあいを続ける。民主化後の政党はタケノコのように、それぞれの主義がぶつかり小競り合いも続く。互い違いの宗教と民族から、政治まで収拾つかない事体に陥っても、「真実はひとつではない。長年の歴史から多方向の局面の葛藤があってこそ、均衡のある世界に向かっている」と、語っているかのようだ。それを受け入れる土壌は、独立後の『多様性の中の統一』という理念によって、育まれて来た事に他ならないだろう。

 モダンアートのスタイル、表現、思想の幅広さも、時代の分裂的な思考の断片化として現れたのではなく、国の未来の新たな可能性を模索していくうえでの葛藤の過程だと、捉えてみる必見はありそうだ。

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