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アートマガジンLR(エル・アール)

針生 一郎 ichiro hariu
丸木美術館館長

「芸術と人権」展をめぐって
名古屋 覚の一知半解への反論

 

 本誌前号にのった、名古屋覚の光州ビエンナーレ批評を一読して、あきれた。わたしは特別 展示「芸術と人権」の企画にあたり、ある意味で、この種の反応を標的として想定したが、それは主として日本政府筋、あるいはその手先として「自虐史観」を排撃し、問題の歴史教科書までつくった「新自由主義」陣営から出るだろうと思われたので、比較的若い「美術ジャーナリスト」がこんなことを書くのは予想外だった。
言い換えれば、筆者は自分の意見を述べているつもりで、その実、つくられ操作された偏見の構造に乗っかっていることを、全然自覚していないのに、わたしはあきれたのだ。
友人のうちには、あまりにお粗末な論文だから黙殺したら、というものもいるが、「針生一郎氏への質問」と副題にある以上、答えないわけにはいかない。

 彼の偏見が典型的にあらわれているのは、丸木位 里・俊の《南京大虐殺の図》にふれた部分である。

「この作品は、日本では現在も事実かどうかを巡って議論が続いている。『南京大虐殺』という〈仮説(ママ、正しくは仮設―針生)〉を、あたかも自明のことのように主題として描いたものだ。つまり、現時点ではフィクションとして表現されるべき主題を、事実として表しているところが非常にいかがわしい」

 だが、ここを読んだだけでも、名古屋覚が南京大虐殺をめぐるこれまでの「論争」の内容を全然知らないことがわかる。  

 わたしなりに(関係書を七、八冊とりだしてだが)、その「論争」経過を要約すると、中国の「南京大虐殺記念館」などの資料・証言収集や元日本軍将兵の手記・回想の出版続出に対して、一九七〇年代後半・八〇年代前半に鈴木明『南京大虐殺は幻だった』(文芸春秋)、田中正明の『・南京虐殺・の虚構』(日本教文社)など人数が多すぎるから疑わしいとする本が出たが、以前から調査研究をつづけてきた洞富雄、藤原彰、本多勝一その他の人びとが提出した多くの反証によって、虐殺でっちあげ=まぼろし説は完全に破産した。

 そこで防衛庁編戦史叢書『支那事変陸軍作戦(一)』や偕行社版『南京戦史』のように、殺害の事実はみとめながら犠牲者数をむりやり過少視する傾向がめだつ。だが、それについても、犠牲者が少数なら罪が軽くなるのか、と反論が出ているほか、軍隊経験のない世代で福島県いわき市に住む小野賢二が、南京攻撃に参加した厖大な日本軍中、大部分三十代の後備兵や補充兵を東北南部と新潟県から仙台に召集した特設師団、第十三師団山田旅団の兵士や下級将校の生き残りと遺族と交渉して、入手した十九篇の陣中日記をそのまま列挙した、『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』(大月書店)で、最大の虐殺現場とされる幕府山に関して捕虜総数を防衛庁本が一万四千余、そのうち非戦闘員を釈放し、反乱逃亡者もいて射殺約千名、偕行社本では捕虜六千名中処刑三千名とするのに対し、捕虜総数二万名近く、食糧供給も不可能だから非戦闘員もふくめ全員射殺の方針で、じじつ釈放・反乱・逃亡は一人もなく、三日がかりで全員虐殺し、死体処理だけでなお二日かかったことを明らかにした。  

 つまり現在では、南京での虐殺の事実を全面 否定する論はなくなり、犠牲者の数だけが争点となっている。にもかかわらず、明らかに自民党筋を黒幕とする「新自由主義」陣営の歴史教科書だけが、検定による修正後も南京大虐殺の事実性そのものについてなお論争がつづいているかのように記述したのだ。
なお当時南京に滞在した欧米人の証言は、いずれも客観的で貴重だが、近年翻訳されたジーメンス社員でナチ党員だったジョン・ラーベの『南京の真実』(講談社)には、南京市街地で殺された民間人はおよそ五、六万人以上という、ヒトラーへの上申書が収録されている。これに中国軍将兵を加えて十数万人とすれば、上海戦以後南京周辺までの犠牲者総数三十万人という南京大虐殺記念館入口の表示も、ほぼ妥当だとわたしは推定する。  

「そもそも私は歴史学者ではないから、『南京大虐殺』の真否そのものを論じる立場にない」

 名古屋覚はそうも書いているが、そんな安全中立の高見の見物をきめこむつもりなら、丸木夫妻の絵が事実を描いたか、フィクションとして表現されたかなど、口を出すべきではない。
もう十年以上前、大阪にドイツ文化センターがあったとき、ドイツ人と日本人が四人ずつ「明日の芸術」について報告したあと、わたしが最後の討論の司会をさせられた。その討論で日本人パネリスト中もっとも若い篠田達美が、「戦争中の美術について、針生さんが一番よく調べて書いてきたことは知っているが、もう戦争体験のない世代の方が多いから、わたしは針生さんとは違うアプローチで美術をみている」というと、会場でシンポジウムをビデオ・フィルムに撮影していたドイツ人青年が、「ぼくは篠田さんよりもっと若いと思うが、ドイツ人にとって、ナチの侵略や殺戮は父祖の世代のことで、自分は知らない、関係ない、とは絶対にいえない。知らなければ追跡調査して、その責任を負わなければならない」と発言した。
そこにドイツと日本の戦後の決定的な相違点があるので、篠田も大きなショックを受けたと、あとでわたしに語った。ただ、どんなに事実を追求しても、絵画の表現は絵そらごと、つまりフィクションとしてしか成立しないので、事実として描いたか、虚構として表現したかという問いは、もともとナンセンスだろう。

 丸木夫妻の《原爆の図》とは、死に行く被爆者の幽霊に似た群像の地獄絵風表現からはじまるが、ビキニ島水爆実験の放射能をあびた漁船を迎える焼津漁民の怒りを経て、広島被爆者中にいた米兵捕虜の死体や、引きとり手がないまま放置された朝鮮人被爆者の死体を鳥の群れがついばむ光景へと発展する。
さらに広島、長崎への原爆投下は、東アジア全域にわたる日本軍の侵略殺戮、抑圧に対する当然の報復だ、という諸外国の声に応えて日本国家の加害者の側面 をみつめるため、夫妻は《南京大虐殺の図》《アウシュビッツの図》《(日独伊)三国同盟から三里塚まで》の三部作にとりくんだ。
ただ《南京大虐殺の図》はほとんど丸木俊ひとりの手に成るらしく、軍刀で捕虜の首を斬る日本将校が無理な姿勢で、全体に説明的、通 俗的なところがある。それでもその後の《水俣の図》《沖縄戦の図》《足尾鉱毒の図》《天安門事件》《原発》《チェルノブイリ》まで含めて、通 観すれば戦後日本の美術家が大部分回避してきた重要な社会的主題を、丸木夫妻だけが共同制作でとりあげてきたことをみとめざるをえない。  

 わたしは当初、夫妻ともすでに故人で、その共同制作は国際的に知られているから、「芸術と人権」展の出品作家には入れなかった。だが、韓国ではいままで一度も作品が展示されたことがないと知って、最終段階で夫妻を加え、《南京大虐殺の図》と《原爆の図》第十四部、朝鮮人被爆者の死体を扱った《からす》を選んだのだ。ただし会場の見取り図がきたら、壁面 の高さは三・九メートルで、高さ四・一メートルの《南京大虐殺の図》は入らないおそれがある。丸木美術館からは代替候補として、幸徳秋水らの《大逆事件》で処刑された烈士たちの像があげられたので、一昨年秋、光州で展示責任者に会い、両方の作品写 真を見せると、彼は言下に「そりゃ、日本の加害・虐殺責任を追求した南京の作品がいい」と答えた。そこで最悪の場合、建物外壁にかけるか、内壁に斜めにして展示することを想定して、ともかくこの作品を送り出したのだが、会場どんづまりの奥の内壁に、ワイヤーを少しずらせば、そのまま収まる個所を発見して、展示問題は解決したのだ。  

 ついでにもう少しこの主題について述べると、十年ほど前、日本に滞在中の中国人美術家・郭培由が、中国では教科書にも出ているから南京大虐殺をだれでも知っているのに、日本では丸木夫妻以外それを扱った美術作品がないのはおかしいといって、いくつかの都市でその主題による個展をひらいたのち、日本人女性と結婚して、東京の王子駅近くに喫茶店兼南京大虐殺美術館を開設した。だが、そこを訪れてみると、二階の部屋いっぱいに陶製白塗りで眼をくりぬ いた犠牲者のマスクがならんでいるだけで、わたしが「なぜもっと虐殺の光景そのものを表現しないのか」とたずねると、「それは自分にはできない」という答えだった。そこでわたしが日本の美術家に虐殺場面 を担当させて彼のデス・マスクとの共同発表を提案し、彼も賛成した。  

 だが、有志美術家が十数人集まって話し合ってみると、敗戦後の日本政府は戦争の残虐面 をできるだけ忘れさせて、戦前の天皇制国家の体制をそのまま引き継ごうとし、近年は「南京大虐殺は幻だった」以下のキャンペーンまであいついだため、南京大虐殺を事実として受け入れているわたしたちにも、まだ集団的記憶のなかに刻印されておらず、イメージを描くこともできない状態であることがわかった。
それから半年ほど、わたしたちは中国の南京大虐殺記念館から図録をとり寄せ、日本で多くの写 真やフィルムを合成した映画『侵略』を上映し、何冊かの研究書を読んで学習した。おかげで一九九四年ごろ、ニューヨーク在住の中国人美術家たちが南京大虐殺を想像して描いた絵を送ってきて「南京一九三七年」展が神戸、京都、名古屋、東京と巡回したとき、東京展にだけ日本の美術家十人ほどと郭培由、それに中国帰還者連盟の元日本兵数人が賛助出品することができた。だが、そこにならんだのはいずれも小品で、ずっと前にひとりで困難な主題にとりくみ、やや通 俗的にしろあの大作をしあげた丸木俊の勇気と力量に、あらためて感嘆せざるをえなかった。  

 わたしはまた昨年五月、『戦争と罪責』(岩波書店)という著書に感銘をうけて、京都の精神病医野田正彰と「新日本文学」で対談した。この本は、主に中国で将兵のほか女子供も殺したため、敗戦後戦犯抑留所に入れられて自分自身の罪と認める告白書を書けば釈放され、帰国後も戦犯と公言して日中平和友好運動を担ってきた七十代、八十代の人びとを歴訪すると、一様に罪の自責が抽象的すぎるので、その何人かを中国の殺人現場につれていき、遺族や近隣の人びとから犠牲者の生活ぶりを聞いて、ようやく罪の意識が具体的になる経過を書いたものだ。
著者は、ベトナム戦争や湾岸戦争、ボスニア、コソボ、チェチェン、ルワンダなどの民族紛争も現地調査して、加害者の側に後遺症としての精神病が多くあらわれるのに、元日本兵だけが残虐行為を家族にも語らず、精神病にもならずに大半死んでいったという。なぜそうなるかとたずねると、野田は、日本では精神病医にかかることを恥とする空気が強いせいもあるが、それよりも軍隊では人間的感情があるうちは一人前の兵士ではない、鬼になれといわれた。要するに中世の軍隊だったのではないかと示唆した。  

 だが、その対談以後わたしは考えつづけて、上官の命令も「鬼になれ」もきっかけや口実にすぎず、追いつめられたどたん場で露出するのは、自分が生き残るために邪魔になるものは、みな殺しでもかまわないという、「動物的」エゴイズムだろうと思い至った。
その伏線として、わたしは光州ビエンナーレ「芸術と人権」展のカタログ序文に、十九歳で敗戦を迎えて「滅私奉公」の合い言葉のまま侵略戦争に荷担してきた自分を深く恥じ、私的欲望にもとづく私的コミュニケーションのなかから、「おかみ」の意味の「公」ではなく、民衆の内的規律としての「公共性」の論理を形成するため、文学芸術の批評を仕事としてきたが、未形成の公共性の論理は高度資本主義の商品の論理にたえず圧倒され、多くの芸術家は「アイデンティティさがし」の袋小路におちいって、抑圧され、しめだされた他者の人権などに眼をむけなくなった、と書いたことがある。
そういう文学芸術の戦後史を重ね合わせると、「日本人が敗戦後、戦争の罪に苦悩する能力を養わなかったから、自分さえよければ他人のことはほったらかしという、今日の無責任官僚、汚職社員、すぐキレて人を刺す少年ばかりの状態になった」という、野田正彰の『戦争と罪責』での指摘がいっそうよくわかる。
だから、半世紀おくれても戦争の罪悪を発握・調査・表現することは、アジア諸国の日本批判に迎合するためではなく、政治・経済・文化のあらゆる面 で制度疲労のどんづまりに達した日本が、敗戦の原点にたち帰って内的再生をはかるため、不可避の作業だとわたしは信ずる。  

 名古屋覚が安易に「美」の概念をもちだしたから、東大大学院で六年美学を専攻したわたしの近年到達した結論も書いておこう。
前掲の戦後日本芸術史素描は、十八世紀イギリスのアダム・スミスが「万人が狼同士」と形容した、資本間の弱肉強食のエゴイスティックな争いが、何の歯止めもなく日本にふりかかったことを意味する。それをこえる目標としてアダム・スミスは、「コモンウェールス(公共財産、または共和国)」を提出したが、イギリスの同時代の経験哲学者たちは「紳士」の条件としての「趣味」つまり美的判断力に「狼同士」の争闘の調節弁をみいだした。そのイギリス経験哲学と西欧の理性優位 説に対し感性の復権をめざしたオランダのライピニッツ=ヴォルフ学派を発展させて、カントが十八世紀末に学問は真、道徳は善を追求するように、芸術は美を追求すると、精神領域と価値にまで社会的分業を貫徹したのだ。
だが、そのカント哲学でも「美」と「芸術」は完全には重ならず、むしろ両者の矛盾相剋をとおして「美」の概念も「芸術」も変転してきたのが実情である。まして十九世紀末までにすでに「滑稽」や「醜」のカテゴリーすら「美」の概念に包摂された以上、多くの人が眼をそむけるような事態にメスを入れる芸術を、「美」の名目で非難する権利は誰にもない。  

 「芸術と人権」展は政治的メッセージのせいで日本のマス・メディアでは一般 に敬遠され、NHK新日曜美術館も朝日新聞学芸欄も第三回光州ビエンナーレではアジア・セクションを重点的に紹介した上で、「針生一郎企画の特別 展示『芸術と人権』もあるとか、それもアジア中心だったとか、一言ふれただけだ。
そのなかでは千葉成夫が二つの新聞で「芸術と人権」展に言及した上で、光州ビエンナーレ・アジア部門・をそのまま新潟と宇都宮に巡回させた「見えない境界」展でもっともくわしく論評した。
千葉の論は無知と偏見の上に居直った名古屋覚の論とは質的に異なるが、根底の芸術観では共通 するところもあるので、わたしが『美術評論家連盟会報』第一号に書いた反論をここに要約しておこう。  

 千葉はこの特別 展の人選にはメッセージ性(主観性)を重視する針生の考え方が反映されているが、メッセージでの直接性に依存する作品は、メッセージ一辺倒になるか、メッセージと表現の中間地帯を彷徨するかで、ただ針生の人選中でもキーファー、サビエ、申鶴○、柳幸典、陳界仁、ハルソー、凌飛らは、「直接性から一歩引いたところで」すぐれた表現となっているという。
わたしは一九七〇年代以降の日本の美術が、社会的主題をほとんど喪失したことを不健全だと思うが、社会的主題のない作品を批評の対象からしめだす態度をとったことは一度もない。
メッセージの問題では、千葉のいうように直接性から一歩身を引けば、芸術的オブラートのような「表現」が成熟するのではなく、表現が成立すると同時にメッセージが生まれるので、私の選択基準もその意味では表現の質以外の何物でもない。
たとえば、中国の戦場で捕虜をむりやり銃殺させられて以来、その元凶としての天皇制批判を企図していた山下菊二は、シルクスクリーンによる写 真の転写とモンタージュの方法によって、中国人捕虜と昭和天皇、菊の紋つきの馬車、東条以下の将軍と重臣たちを出会わせ、現実にはありえないその直接性によって、かえって名古屋の指摘とは逆に多義的な想像力をかきたてる。
従軍慰安婦の主題を南方戦場を舞台に幻想的に描いていた富山妙子は、狐を天皇制の象徴とすることによって、朝鮮人慰安婦をメールヘン風に表現しえた。これらの表現上の工夫を、わたしは何よりも重視したのだ。  

 つまり、千葉も名古屋もわたしからみれば、ビエンナーレのカタログ序文に書いたように、「芸術の自律性」とは本来、作者が政治・経済・社会・文化のあらゆる問題(主題)を、芸術固有の表現方法でとりあげながら、検閲や社会的タブーに抗して一作ごとにみずからたたかいとるものなのに、七〇年代以降の日本では、ここからあそこまでと垣根にかこまれた領域のように実体化して、主題も表現もそのなかで完結するかのようにうけとった芸術観に立脚している。
それは経済大国の現実に自足する心境の反映にすぎず、他者との関係を切りすてた「アイデンティティさがし」の風潮とあいまって、社会的主題の喪失にみちびいたのも当然だろう。  

 これもカタログ序文に書いたことだが、わたしは七〇年代以降の日本美術にあきたらず、韓国その他アジアの民衆美術運動やドイツのヨーゼフ・ボイスなど、主として外国の美術を糧に人権芸術の思想を深めてきた。だが、ボイスはすでに第二回光州ビエンナーレで紹介されているので、ドイツ人ではその友人と弟子にあたるハンス・ハーケとキーファーを特別 展示の柱としようとした。ところが、ハーケは出品するなら韓国企業を批判する新作を、というので、若干の資料を送り在米韓国人のアドバイザーを紹介したが、二〇〇〇年初頭になって新作をつくる時間がないと、ことわってきた。
キーファーは参加を承諾したが、スケジュールが過密で新作はつくれないというので、豊田市立美術館所蔵の代表作を借りだす承認を得た。ただあまりに大作で重く、その一点の梱包・輸送だけで、ビエンナーレ事務局が日本からの出品全部にわりあてた予算を上まわることがわかり、開会一ヶ月前にソウルの国際画廊に頼んで、レリーフ状作品《波涛》を借りることにしたのだ。
それとウディチコの立体作品《ポリスカー》を同室にならべたことを名古屋は「ミソもクソも一緒」というが、わたしはそう思わない。ウディチコ作品は名古屋のいう国立美術館ではなく、広島市現代美術館の貸し出しだが、わたしは同館でひろしま賞受賞記念ウディチコ展を見、作家と語りあって感銘をうけた。
ポーランド出身でいまアメリカとカナダで暮らす彼は、国営で一方通行のメディアしかないスターリン主義的社会主義の弊害を知りつくしているから、民衆間の相互通 行のメディアを発明してそのまま作品化する。若者むきの携帯テレビ電話、手押し車にラジオや電話をとりつけたりした「ホームレスの乗りもの(ポリスカーをそのまま活用した出品作はその一例)」、高層建築の外壁に躍動する民主の映像を投射するプロジェクトや、原爆ドームや廃墟の風景に語り手の両手だけを映し、被爆体験のナレーションを流す広島制作のビデオ作品も興味深い。  

 ノールウェイのサビエは未知の作家だったが、わたしあてにきた手紙と作品写 真をみて東邦画廊が個展をひきうけ、数回つづいてその反響が大きいので、朝日新聞社が去年、小田急、下関、刈谷美術館の巡回回顧展を主催した。それに先だってわたしは一昨年、ヨーロッパの国際展をみてまわるついでにノールウェイにたち寄り、はじめてサビエと会った。そのとき彼がわたしを撮影したスナップ写 真をもとに、すでにわたしらしい人物の登場する三幅画は巡回展に出品されている。
ビエンナーレにわたしらしい肖像が出品されているのは、むろん予想外だったが、《エミグラント(亡命者、流民)》と題されているので、人権を追求するには国家の壁をこえなければならない、という思想の表現として受容したまでである。
名古屋覚はまた、北朝鮮による日本人拉致疑惑を扱った作品がない、と何度もくり返しているが、北朝鮮批判をおそれる理由もそれをはばむ事情もないにもかかわらず、発見され確認された拉致者が一人もなく、ましてそれを主題とした美術作品を一点もみかけない現状では、無理無態な言いがかりにひとしいと反駁すれば足りるだろう。

 

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