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アートマガジンLR(エル・アール)

暮沢 剛巳 takemi kuresawa

「勝負論とその彼岸」をめぐる対話

 

――「美術批評の誤状況論」っていったっけ? 君が美術批評の振るわない現状を告発したとかいう長編の批評。
――うん。

――それ、何か反響はあったの? 「よく言ってくれた!」とか、逆に「何言ってんだ、この野郎!」とか。

――ないよ(笑)。黙殺されたのか、そもそも読まれてないのかわからないけど、反響と呼べるものはほとんど何もなかった。必要な問題提起だと確信していたから書いたんだけど、挑発としては完全な失敗。結果 的に、徒労感だけが残ってしまった。
けど、失敗だったからこそ逆に、今の日本の美術ジャーナリズムにはまともな問題提起や批評がほとんどない、ただ夥しい情報だけが流通 しているっていう持論の正しさに、あらためて自信を持っちゃったけどね。リスクを冒したつもりだった発言が、実はリスキーでもなんでもなかったことには脱力しちゃったけど(笑)。

――あまり正しくあって欲しくはない話だけどね。でも、そういう現状に絶望しているなら美術批評なんかやめちゃえばいいのに。それでなくても飽きっぽい性格なんだし、他に活躍している若手同業者もいないから、励みもないだろうし。なのにここにまた首を突っ込んでくるってことは、君自身不満を抱きながらもまだどこかでこだわっているってことだろう?

――まあね。そもそも書くところもないし、無理に書いたところで読まれないって、体験的にわかっているのにね。社会的惰性っていうのは恐ろしいもんだよ。やめるやめるとあちこちで公言していながら、未だにやめられないし。もう狼少年状態で、またやめると言っても誰も信用しないから、最近ではそれすら言わなくなってしまった(笑)。

――ところで、君がその批評を書いた大きな動機が、椹木野衣の存在を強く意識した結果 だったって本当なの?

――本当だよ。美術批評が押しなべて低調ななか、例外的に「一人勝ち」している人だからね。そういう状況はそれなりの理由なしには産まれないわけだから、売れない同業者(!)としては、気になって当たり前だろ。

――そんなに卑下することもないさ。「一人勝ち」ってことは、彼以外は誰も売れてないってことなんだから(笑)。そんなことより、「BT」の5月号に載っていた彼の「日本・芸術・芸能――勝負論とその彼岸」って批評読んだ? 結構話題になっているみたいだけど。

――読んだ読んだ。僕自身、プロレスファンを自認する同業者としては、決して無視できない一文として興味深く読んだし、あれこれと言いたいこともあったんだけど…… ――けど?

――この前の「LR」にそれが加筆された完全バージョンが載ったでしょう? まったく予想外のことで驚いちゃって、それで一時は前言撤回。喉下まで出かかっていたそのあれこれをまた呑み込む羽目になっちゃった。結果 的には、またしても徒労に終わったわけさ。

――ふーん。何の予告もなく完全バージョンが出てくるなんて、そりゃびっくりしただろうね。当然のようにその加筆で、予想される批判や反論に対する先手が打たれていて、君の想定していた批判が通 じない部分も出てきちゃっただろうし。で、君としてはどうするの? ここにこうして出てきているってことは、前言撤回して黙ったままでいるわけじゃないってことだろう。

――まあね。あの完全バージョンを読んでいて、確かにいろいろな議論が補足されていて、前に書いたままの批判では通 用しないと思った。けど、僕が前に「日本・芸術・芸能」を読んだときに、理論的にも一番疑問が残り、また感情的にも一番反発した骨格の部分というのは、実はそっくりそのまま残っている。つまり、議論の骨格は依然としてネガティヴな言及の対象でありつづけているわけよ。

――それで、一度呑み込んだ言葉をまた吐き出そうってわけだ。

――そういうこと。ここまで深入りした以上は、彼のプロレス観は徹底的に追及しないといけない、今はそういう気分だよ。

***

――まず「勝負論とその彼岸」の内容を君なりに要約してくれるかい? あの文章を読んでない読者もいるだろうからね。

――うん。まず「BT」に発表された段階では、さしずめ「一見した限りでは、アートとプロレスはまったく無関係の別 物だ。しかし、作家同士の戦う闘技場として展覧会が機能し、また闘いが必ずしも公平にジャッジされるとは限らない(『八百長』がついてまわる?)ことからも、この両者にはまぎれもなく親近性が存在する。保守本流を標榜する従来の立場が『プロレス内プロレス』『アート内アート』ならば、過激な自己更新を試みる立場は『過激なプロレス』であり『過激なアート』にほかならない。スーパーフラットこそは、アートの制度に『セメント』を挑む『過激なアート』であって、さらにはそうした二項対立をも突き破り、ルールをも自ら作り出そうとする過激な自己更新、プロレスで言うところの『異種格闘技戦』なのだ」って感じだった。
要するに、『日本・現代・美術』の自己パロディめいた問題意識によって、村上隆らのスーパーフラットをアントニオ猪木の「過激なプロレス」や「異種格闘技戦」、さらにはその発展形である現在の「PRIDE」になぞらえて、アートとプロレスを徹底したアナロジーの下にとらえようとする試みだったんだよ。
そして今度の完全バージョンでも基本的な枠組みはかわってないし、こっちもそこに焦点を絞っていくよ。大仁田厚が出てきたり、岡本太郎や大竹伸朗が出てきたり、美共闘REVOLUTIONが出てきたりと、いろいろな論点が補足されていて議論が膨らませられているけど、そのいちいちに応接していてはキリがないしね。

――話を聞いている限りは面 白そうじゃない? 今までにないタイプの議論だとは思うし。

――うん、反発もあるんだろうけど、アートにもプロレスにも半可通 な知識・認識の持ち主だと、コロッと騙されちゃうかもしれない。

――でも、今回のバージョンアップは、やっぱり堀浩哉氏の議論に触発された部分が大きかったんだろうね。

――ああ、「境界線上の美術」のことね。そりゃそうだよ。「LR」の読者はご存知だと思うけど、「日本・芸術・芸能」よりも前に、椹木氏はこの「LR」の20号で「〈新たな分裂〉に向けて」って長文を書いていたでしょう。村上隆が小川直也を真似たパフォーマンスなんかを引き合いに出して、「日本ゼロ年」展を中心に、彼が関与した現代アートのプロレス的な文脈について展開していたやつ。
で、それに対して、堀氏が直後の21、22号で「境界線上の美術」っていう文章で批判的に応接していた。それに対する折り返しの応接は、既に「日本・芸能・芸術」の段階でも行われていたんだけど、今回のバージョンアップではそれがさらに本格的に展開されていたからね。

――君自身は、堀氏の議論を読んでどう感じたの?

――彼の言い分すべてに説得されるわけじゃないけど、「さすが!」とは感じたよ。昨年夏の長州力vs大仁田厚戦についてのコメントなんか極めて適切だし、村松友視の「過激なプロレス」との対比で語られる、彼が長らく暖めてきた「境界線上のプロレス」というプロレス観も、すごく刺激的だった。僕なんかよりずっと年長ってこともあるけど、長いファン歴で培った「プロレス的教養」は伊達じゃないってことかな。「ガチンコ」が「セメント」の誤りだって指摘していたのには笑えたけど(笑)。

――でもそれだけなら余談の域を出ないじゃない。椹木氏の議論に対する、本質的なツッコミという点ではどうなの?

――もちろん、すごく重要な指摘も為されているさ。例えば、前半の終わり近くには、「つまりここ〔展覧会〕では、美術は体よく作品を空間的に配置して上品な美的センスを云々する場所でなく、相手が壊れるまで徹底して戦いあう闘技場のようなものだ」という「〈新たな分裂〉に向けて」の一文が引用された後、次のように語られている。

ここでは勝負論は回避されている。彼らのゲームにおいて、誰がどう壊され、誰がどう勝利したのかという勝敗が、語られたことがない。勝敗の行方が欠落した格闘議論はありえない。しかしこれが格闘技を語っているのではなく、闘技場という場所の枠組み、つまりはゲームのルールの前提だけを語ることを目的としているのなら、むしろ積極的に回避されるのは当然だろう。なぜなら、ルールをめぐる格闘技戦においては、まだ格闘技そのものは成立していないのだから。

――なるほどね。スーパーフラットには格闘技にはつきもののはずの勝負論が欠落していると指摘しているわけか。これは本質的な問題提起だよね。

――うん。だからこそ椹木氏も弁明の必要を感じたんだろうね、「日本・芸能・芸術」の段階で早くも、大貫卓也、森村泰昌、明和電機、鳥肌実らの名を挙げて、彼らの作品を勝負論の地平で評価する必要性を強調している。それは確かにそうだろう。でも結局は、彼の最終的な意図は、その重要性をスーパーフラットの擁護へと転じることにあるわけよ。その証拠に、そのすぐあとには「村上が何よりも重視している当のものこそ『勝負論』の方なのだ」と書かれているしね。

――でもその程度のリアクションなら、椹木氏の今までの言説からしても予想の範囲内だろうし、第一「日本・芸能・芸術」の時点で既に出ていたものだろう。今度の完全バージョンでは、それはさらにどう展開されていたわけ?

――基本的には同じラインをさらに拡張しているわけよ。例えば、「日本・芸能・芸術」の時点でも既に

村上が一貫して主張していることのひとつに、「相手のルールではいくら戦っても勝てない」というものである。この場合の「ルール」とは、アートに即して言えば、近代以降、欧米が、美術史、美学、批評、美術館、教育、収集などなどをフルに駆使して構築してきた一代体系であり――中略――多くの場合、海外の展覧会で日本人のアーティストの占める位 置は、欧米のアートのハードコアに彩りを添える極東のエキゾティックな香りの域を出ることはまずない。村上がこのような状況を打破するために考えたのは、相手のルールの中で一定の評価を得て満足するのではなく、「こちら」のルールを向こうに認めさせ、そのなかで作品の評価を逆転させるという荒技だった。

と語られていたんだけど、完全バージョンではさらに

すなわち、村上隆のアート構想とその勝負論とは「ファインアートにおいて日本人主導のレギュレーションを作る」、ということにほかならない。そしてその勝負のための切り札となるのが、日本が遅れているがゆえに結果 的に斬新となってしまったオタクの世界の財産を、境界を破ってファインアートの世界に輸入することにあるのだと。

とまで言い切っている。明快と言えば明快だけど……。

――ここまで言い切っていると、何が何でも村上を擁護しようという彼の立場が鮮明に出ていて、逆に爽快かもしれない。で愚問だけど、ここでいう「荒技」とか「切り札」っていうのは、スーパーフラットのことなんでしょう?

――それ以外に何があるわけ? また(必要ないかもしれないけど)さらに補足しておくと、「こちら」のルールを向こうに認めさせ、そのなかで作品の評価を逆転させるっていうのも、明らかにプロレス的なアナロジーなわけさ。
ずいぶん昔の話だけど、猪木がモハメド・アリやウィヘルム・ルスカと戦った「異種格闘技戦」では、試合がどのようなルールで、どのような興行形態で行われるのかという政治闘争が、肝心の試合そのものと同じくらいに重要なファクターだった。
猪木がほとんどの「異種格闘技戦」に勝利したのも、この事前の政治闘争に勝利していたからだしね。また、レスラーである猪木が、本来ルールを共有し得ないボクシングや柔道という「異種」と遭遇することによって、従来のプロレスでは考えられないような殺気が生まれたことも確かだった。
椹木氏がスーパーフラットを語るのに何かとプロレスを参照したがる理由は、まさにここにあるわけさ。スーパーフラットは、従来の西洋中心的な「アート内アート」に対して、果 敢な「ガチンコ」(ママ)を仕掛けた「過激なアート」なんだって具合にね。殺気なんか全然感じないけど(笑)。

――なるほどね。スーパーフラット=荒技/切り札という彼の見解に同意するかどうかはともかく、少なくとも椹木氏がスーパーフラットをプロレス的な比喩で語りたがった理由は、この図式によってはっきりとわかるよね。

――こっちはそれにカチンと来ているんだけどね(笑)。もっとも、椹木氏はアートをプロレスのアナロジーで語るためには、「フィクションからリアルに至るまで、美術史への適合性からエンターテインメント的打算に至るまでのグラデーションをすべて、兼ね備えている必要がある」としているんだけど、とりあえずその条件がすべてクリアされていることは認めざるを得ない。
美術館はアリーナで、展覧会場はリングで、アーティスト=選手や作品=試合もある、それを見物してああだこうだという観客や専門家やメディアもいるし、興行も行われている、問題は誰が裁くのか、いかなるルールが適応されるべきなのかということだ、という類比が成り立っちゃうことは確かだし。そのアナロジーを抽出してくるあたりはさすがというべきなのかな。

――そこはさすがに、美術批評界のメインイベンターってとこなのかな。というか、「一人勝ち」しているだけに、他が前座とロートルばっかりなのかもしれないけど(笑)。で、君の読んだ限りでは、椹木氏はこの完全バージョンの発想源でもある堀氏の批判をほぼ完璧に論破していたように感じたの?

――いや、実はそうでもないんだ。例えば堀氏はスーパーフラットのことを「日本美術のフラットさという、すでに認知済みの属性の上に、あらゆるものをミソもクソも一緒に乗っけてローラーで押しつぶしたような、雑な俗流理論でしかない」とコテンパンなんだけど、スーパーフラットが「日本人主導のレギュレーション」であるとする椹木氏にすればこの批判は自説の骨格に関わるものなのに、実質何も反論していないし、また猪木の非マッチョ的な特徴と、村上の父権主義者ぶりを指摘して、両者を等号と結ぶ図式も批判の対象なのに、これに対してもほとんど何も反論していない。反論どころか、事実上追認してしまっている。完全バージョンで大幅に加筆された後でも、村上=猪木っていう図式自体はそっくりそのままだから、この個所に関しては、相変わらず同じ批判が成り立つんだよ。

――その堀氏の批判は、そのまま君の批判でもあるんだろう?

――もちろん。ただそれに関して述べる前に、僕が堀氏の批判も少し腰砕けだと感じていることに触れておかないとね。

――え、どういうこと?

――いや、つまり、堀氏は「椹木や村上隆が自らのやっていること、やろうとしていることを、異種格闘技戦であると自称することに、ぼくは異議はない」と書いているんだよね。スーパーフラットをあれだけコテンパンに批判しておいて、こりゃないだろうって感じだよ。
僕はスーパーフラットなんて異種格闘技戦でもなんでもないと思っているから、せっかく同調者を見つけたと思いきや、肩を透かされた気分だった。というか、スーパーフラットが異種格闘技戦だと認めてしまっては、僕がどう感じるか以前に、堀氏の批判自体が成立しなくなっちゃうんじゃないかという気がするし。

――確かにそうだよね。これだとせっかくの舌鋒鋭い批判が破綻しちゃうし、そもそも批判しようと思い立った動機自体がわかりにくくなる。でもなんで、こんな破綻が生じちゃったんだろうね。

――恐らく、堀氏にも彼らに共感する部分があったからなんだろう。共感といっても、同じ問題を共有する作家としての共感というよりは、プロレスファンとしての共感、猪木派としての共感、とでも言うべきなのかな。その意味では、これは論理の破綻と言うよりは手心なのかもしれないけど。なんせ堀氏は、今もそうなのかどうかはわからないけど、「かつて猪木が――中略――狂気に駆られて突き進まなければならなかった必然に、熱い共感を覚えたものであり――」と書いているくらいの猪木シンパだったらしいからね。

――なんか、話の流れがよく見えなくなってきたんだけど。

――つまり、堀氏とはほぼ同じ椹木批判の方向性を共有する僕が、恐らく決定的に異なっているのは堀氏が連中と同様の猪木派であるのに対して、僕が馬場派であるという点だよ。僕がスーパーフラットに何の共感も抱かないのは、実はそれが最大の原因かもしれない。

――なんか話が、全然違う方向に行っちゃったね。で、もう馬場は既に亡くなってしまっているし、猪木だって引退しちゃっている、それに馬場が作った全日本プロレスは事実上消滅し、猪木だって新日本プロレスとは一線を画しているのに、馬場対猪木という対立軸は今なお生きているわけ? そしてそれは、ここでのスーパーフラット話にも関わってくるわけ?

――当然だよ。今君が行ったように、確かに君の言う通 り、状況は昔とは一変しまっているけど、でも馬場対猪木、新日本対全日本という米ソ冷戦構造(の亡霊)のような図式は今なお残存している。少なくとも、両者がまだ現役バリバリで、両団体のTV中継がゴールデンタイムでオンエアされていたころのプロレス者にとっては、それはアイデンティティの根幹に関わる問題のはずだよ。堀氏にしたって、椹木氏にしたって、それは実感を伴っているはずだ。
椹木氏は、今回の完全バージョンで全日プロと日プロを勘違いするプロレス史の初歩的ミスを犯しているけど、これなんか対立構造を過度に意識しているがための間違いだろうし(逆に「LR」だからまだよかったよ。プロレス村でこんな間違いしたら、村八分にされるから)、堀氏なんて、馬場の十六文レコードにまで深く関与していたくらいだからね。僕なんかあれに収録されている馬場のNWA世界戦の実況に興奮した口だし、だからこそ、彼が猪木派だっていうのは、少し残念な気がしたんだけど。

――じゃあ何、馬場派の君としては、猪木派の椹木氏の説を生理的に受け付けないってことなの、これは?

――いや、さすがにそんなことはない。僕だって一応プロだからね、生理的な嫌悪だけを根拠に人や言説の批判はしないさ。そもそも、椹木氏くらいのレベルの相手にはそれじゃ通 用しないだろうしね。どういうことかというと、つまり、馬場派の僕からすれば、確かに猪木は苦手なことこの上ない嫌悪の対象なんだけど、逆に自分が馬場派ゆえに実感できる「猪木的なもの」が間違いなく存在する。そしてそれを突き詰めていけば、村上=猪木という椹木氏が依拠している図式そのものが崩れるはずだっていう確信がある、そういうことだよ。

――じゃあその君の言う「猪木的なもの」ってのが何なのか、それがスーパーフラットとどう関わるのか、語ってもらおうじゃない。そうしてもらわないと、話が見えないから。

――まあ細かいところにこだわるとキリがないから、基本的な枠組みだけね。ここは一応「LR」なんだし(笑)。まず真っ先に断っておかないといけないのは、馬場と猪木の関係の中でも最も重要な一つは、猪木プロレスの格を為す諸々の要素が、ことごとく馬場との対比で生まれた、馬場なしでは生まれ得なかったっていうことにある。
「過激なプロレス」は、「プロレス内プロレス」にとどまっている限り、相対的に小柄な分どうしても見栄えやスケール観で馬場に見劣りする猪木が、よりエキセントリックなファイトスタイルを確立する必要に駆られて生まれたものだし、さっきから話題にしている「異種格闘技戦」にしてももともとは、スター外人選手の供給ルートを馬場に独占され、カード編成に四苦八苦していた猪木サイドの事情から生まれた苦肉の策だった。
ついでながら、それは「日本人対決」というもう一つの策をも生んだんだけどね。「日本統一」とかいって、もともと統一されていた日プロを分裂させたのはお前だろうってツッコミたいんだけどさ、ホントは(笑)。その後もことあるごとに、猪木は執拗に馬場戦をアピールし続け、馬場はそれを無視し続けた(毎年改訂されるプロレス年鑑でも、猪木のライバル欄が常に「ジャイアント馬場」だったのに、馬場の方はずっと「なし」だったからね)。
長らく馬場のNO.2に甘んじていた日プロ時代のトラウマを引きずっていたんだろうけど、猪木は常に対立項としての、異化効果 の対象としての馬場を何が何でも必要としていたんだよ。古巣の新日本にちょっかいをだしたかと思えば、「K-1」との対抗戦をぶち上げたり、ここ数年の猪木がどうもダッチロールに陥ってしまっているのは、ジャイアント馬場という最大の仮想敵がいなくなり、視界が失われてしまったからだしね。

――そりゃあどう考えたって、猪木は馬場のNO.2に甘んじていられる性質じゃなかっただろうし、逆に猪木が馬場を必要としていたっていう説明も、確かに当たってはいるよね。

――で、あともう一つ補っておくと、馬場と猪木の関係は、時代背景もあってか、しばしば米ソ冷戦構造的なイデオロギー対立として考えられていたし(国際プロレスという第3項は、悪いけど考慮しなくてもいいだろう)、その場合は決まって、保守的、権威主義的な馬場は右で、革新的でアウトロー的な猪木は左って具合にたとえられていた。でもこれはまったくの誤解で、去年の全日本の分裂騒動で初めて表面 化したんだけど、馬場の独裁は極めてスターリン的なものだったし、逆に「異種格闘技戦」以降の、ひょっとしたら大昔の東京プロレスまで遡れるのかもしれないけど、一貫して支離滅裂な猪木の行動は、極めてファシスト的だった。個人の資質としては、左右のイデオロギー対立は全く逆なわけよ。
それに、70年代後半〜80年代前半に最もプロレスに熱狂した世代のファンなら誰しも知っていることだけど、反逆者を気取っていた猪木派の方が、興行やTV視聴率などのポピュラリティにおいては、実は多数派勢力だったからね。「保守的な」はずの馬場派の方が、実は抑圧される少数派だったんだ。でも、猪木・新日は原理上馬場・全日を必要としていたから、いくら優位 にたとうとも、絶対に潰せない存在だったし、実際に互いの力関係は、ときどき逆転もしていたしね。

――要するに、馬場対猪木の構造は、言われているほど単純なものではなくて、いろいろな意味での捩れ・逆転を孕んでいたってことだよね。その点は、確かに君のような馬場派の方が見えやすいポイントなのかもしれない。堀氏のような猪木派に内在した視点からは、そのあたりは見えにくいだろうから。

――でも、そんなことより、ここにある種の類似と差異を感じない、猪木とスーパーフラットとの?

――あ、そういえば……

――そう、まず類似の方から言うと、「反逆」とか「革新」をうたいつつも、実際は多数派としての数の論理を展開しているあたり、スーパーフラットは猪木派(猪木そのものじゃないよ、この差異には注意が必要だ)と同じメンタリティに立脚している。そのことはここ数年の「BT」を見るとよくわかるだろう。まさに今述べたような対立図式を持ち出して、新世代の表現としてのスーパーフラットばかりほとんど無批判に持ち上げて、それが敵対している対立軸が何であるのかはさっぱりわからないし、どこがどう「新しい」のかもわからない。もちろん、日本画科出身の村上氏本人は生々しく意識しているんだろうけど、昔のコンテクストなんか知らない若い読者にはわかりっこないし。それは、平山郁夫なのかも、加山又造なのかも、あるいは絹谷幸二なのかもしれないけど、一応プロとしてやっている僕にだってわからないしね……。
その対立軸の不在については、椹木氏だって認めざるを得なかったのか「もしも村上隆が新しいルールにおいて『アメリカに勝った』としても、その勝利を喜び、それを祝福してくれる『内部』を欠いていたとしたら……」と書いている。この状況から僕なんかが思い出すのは、猪木のことばかり持ち上げて馬場のことがほとんど載ってなかった某編集長当時の「週刊ファイト」の報道だよ(笑)。何の具体性もないし、そもそも実体がないのに、「権威」も「伝統」もクソもないって。

――では差異の方は?

――うん、今の対立軸の話でわかるだろうけど、スーパーフラットの対立軸って、極めて曖昧模糊としたものに過ぎないでしょう。少なくとも、猪木にとっての馬場のような誰にとっても明快な実体があるものではない。それは、観客にとっても極めて重要な問題のはずだよ。
プロレス観戦の期待感っていうのは、どういうカードが組まれているのかによる部分が大きいわけだから。誰と誰が戦うのか直前まで伏せられているってだけなら興行戦略としてありだろうけど、この場合はそもそもカードが組まれているのか、試合そのものが成立しているのかがどうか怪しいわけだし……。

――だから異種格闘技戦とは呼べないと……

――それもあるけど、あともう一つの差異に関して言うと、その異種格闘技戦で猪木が演出していた「魔性」や「狂気」なんて、スーパーフラットとは全く無縁だろう。スーパーフラットは徹底した戦略、マーケットリサーチの産物なんだし、であればそこから破滅的、刹那的な衝動や殺気が生まれてくるわけがない。僕自身が馬場派であるゆえに、猪木の捏造する「殺気」は嫌悪の対象以外のなにものでもなかったから、村上氏がそれを備えていないということは、逆説的に直観できるんだ。

――でもかたやプロレス、かたやアートでジャンルが違うんだから、そんなこと言っても仕方ないんじゃ……

――仕方なくはないよ。そもそも僕だって、このコンテクストじゃなきゃ「スーパーフラットには殺気がない」なんて批判を持ち出したりはしないさ。猪木=村上、スーパーフラット=異種格闘技戦というアナロジーを最初に持ち出してきたのは椹木氏の方だぜ。であればこそ、「スーパーフラットには殺気がない」という僕の批判はとりあえず甘受すべきなんじゃないのかな。反論できるのならすればいいんだし。

――まあそのあたりは彼がどう考えるかの問題だけど。でも確かに、馬場的な具体的対立軸の不在、「革新」や「反逆」のリアリティの乏しさ、狂気と戦略の違い、殺気の有無など、猪木=村上っていう図式はどう考えても成り立たないし、破綻しているよね。帰属するフィールドの差異もさることながら、それ以前に明らかに資質が違うんだから、結びつけること自体に相当な無理がある気がする。
でも、椹木氏くらいのレベルの人なら、文章を書く過程でそのことには気づいていたはずなのに、一体なぜ、こんな無理な強弁をしちゃったんだろう?

――村上=猪木ならば、その参謀を自認する身としては、新間寿になりたかったのかもよ(笑)。僕にはむしろ、高田を無理やり猪木にしようとした宮戸の姿の方がダブるんだけどね(笑)。まあそれは冗談だけど、この10年来いろんな局面 で二人三脚でやってきた村上隆をいかに擁護するのか、そこに彼が自分の批評の掛け金を見出していることは間違いないよ。

「リアルとフィクションとの激しい往還から、なにがリアルでなにがフィクションであるのかを一概に決めることができないようなシミュラクルの運動を組織すること――プロレスにおいてそれを可能にする振幅と速度を持った存在が唯一、アントニオ猪木であったことはいうまでもない」

と椹木氏は書いているけど、彼の批評の枠組みでは「プロレス」は「アート」に、「アントニオ猪木」は「村上隆」に置き換えられねばならないものなんだろうから。

――君はそう思ってはいないんだろう?

――もちろん。そんなの単なる事実誤認だよ(笑)。それは今までに証明した通 り。まあ例によって、彼がしきりにプロレスに言及するようになったのだって、もともとは村上氏に影響されてのことみたいだし。

――前も村上氏の小川パフォーマンスに刺激されていろいろと展開していたもんね。

――ああ、「アート関係者ノミナサン、目ヲ覚マシテ下サイ」ってやつね。そんなこと言われなくたって、僕は十分覚めているけど(笑)。でも当の村上氏がプロレスに関心を持ったきっかけは、それとも違うみたいだね。そのきっかけが大仁田厚のFMWだったってことが、今回引用されているコメントの中でも触れられているし、それにずいぶん前の話なんだけど、僕自身、どこかの展覧会場で村上氏が仲間連中と「ミゼット(小人)プロレスを見に行こう!」って盛り上がっていたのを見かけたこともある。
彼の言によれば、アートシーンに大仁田的な文脈をぶち込みたかったらしいよ。あの猥雑でうそ臭いエンターテインメント性にひかれたのかもしれないね。それにしては、「BT」に載っていたホンマタカシとの対談は、にわかファン丸出しだったけど(笑)。

――大仁田って、着眼点としては結構いいんじゃない?

――そんな気はする。っていうか、猪木とかに寄り道しないで、このまま村上=大仁田で行っていた方がよかったかもしれない(笑)。彼らが何と言うかはわからないけど(笑)。ただ、大仁田の場合、その台頭の背景には明らかにUWFに対する反動があったでしょ。新日本の道場プロレスから発展して、過剰なまでに格闘スタイルとルールを強調した結果 、ある種のエリート主義の中に自閉してしまったUWF。それに対して、全日本はU的な価値観によって蔑まれていたわけだけど、怪我でその全日本にさえ居られなくなった大仁田の存在そのものが、当時隆盛を極めていたUWFに対する最高のアンチテーゼだったわけだから。
それに対して、村上氏の場合は、岡崎乾二郎とか中村一美あたりが多分大仁田にとってのUWFのような存在だったと考えられなくはないけど、果 たして同じ図式が成り立つのかどうか。村上氏の図式には、UWFの居場所はなさそうだし。結局彼らは最終的に、「『ファイン・アート』なり『現代美術』というシリアスでリアルかつピュアな枠組みそれ自体が、実のところフィクショナルで不純な、笑いを含んだエンターテインメントの変種に過ぎない」ことを証明するアナロジーの対象を、大仁田ではなく、猪木に求めた。椹木氏によれば、大仁田は「全面 的なマゾヒズム」に侵されているので、アナロジーの対象としては相応しくないらしく、それがまた岡本太郎と村上隆の差異にも敷衍されている。馬場派の僕からすれば、これもまた一種のエリティズムなんだよね。

――確かにね、胡散臭さや毒気、それに議員になった点では共通 していても(笑)、大仁田よりは猪木の方が格闘色が強いからね。それに去年の長州戦なんかが典型的だけど、特に最近、大仁田は試合の勝敗そのものをどうでもいいと考えている節がある。今彼が執拗に対戦を迫っている猪木戦だって、恐らく試合を実現することが第一で、勝ち負けなんか二の次なんだろうし。「勝負論」にこだわる(?)村上=椹木にすれば、アナロジーの対象が大仁田では限界があるという判断があったんだろうさ。それが岡本太郎にまでつながるのかどうかは怪しいけど。

――多分彼らには、大仁田から猪木に「乗り換えた」って意識自体がないだろうね(笑)。だからこそ、一挙にというべきか、彼らの関心は大仁田から最近の総合格闘技に飛躍する。スーパーフラットの「日本人主導のレギュレーション」って発想自体が、この総合格闘技のリサーチから生まれてきたみたいだし。根城である「ヒロポンファクトリー」のホームページにそれ専門のBBSを設けるくらいだから、入れ込んでいることは入れ込んでいるんだろう。普通 のプロレスでは失われてしまった「日本人対強豪外人」という力道山的な図式は残っているし、アナロジーの対象としては確かに有効なのかもしれない。

――日本を代表するアーティスト=バーリトゥーダー・村上が、強豪外人アーティスト=バーリトゥーダーを迎え撃つ、というわけか。で、スーパーフラットは、メインイベンターであると同時に興行主でもある自分に有利に作られたルールというわけか。

――まあね。でも、ここにも基本的な認識の誤りがある。例えば彼らは、「PRIDE」のような総合格闘技を猪木の異種格闘技戦の系譜に、ひいては日本特有の「芸能」の系譜に位 置付け「日本人主導のレギュレーション」の口実にしているけど、これはどちらかといえば、グレイシー柔術の登場で一躍ブームになった、アメリカのUFC大会なんかの影響の方が強い、格闘技の国際的趨勢の中に位 置するものだよ。それに対して、旧UWF系の団体がアクセスしていったことが、日本における総合格闘技のブームのきっかけだった。というか、そのアクセスによって真剣勝負をうたっていたU系も実はプロレスの一バリエーションに過ぎないことがバレてしまって、格闘技ファンの関心がそっちに移ってしまったという方が正しいけど……それにしたところで彼らの議論では、その辺の経緯はすっぽりと抜け落ちている。

――そういや「PRIDE」も、そもそものきっかけはヒクソン対高田を実現するためだったものね

――その意味では、ルールを巡る政治闘争を重視する堀氏の指摘は全く正しい。高田にしろ船木にしろ、ヒクソンに惨敗したのは試合以前にその政治闘争で敗れていたからだ。まあU嫌いだった僕としては、あの惨敗には溜飲を下げたけどね(笑)。もともと猪木系列のあの二人は、かつて猪木がモハメド・アリやウィリー・ウィリアムスを相手に演じた失敗から、結果 として何も学んでいなかったわけだし、また日本が舞台だからといって必ずしも「日本人主導のレギュレーション」にはならないって説明にもなるだろう。それはまた、高いギャラふんだくられた挙句に、試合をキャンセルされてはたまらないから相手の言いなりになるしかないという、興行の論理に対する敗北でもあるんだけど。
とにかく、ルール一つで、ゲームの勝敗なんてどうにでもなってしまうことは確かだよね。同じベースを共有しているのに、頭のやわらかい桜庭和志が快進撃を続け、逆に頭の固い田村潔司あたりが低迷しているのは、まさにこの新しいルールにいかに対処しているか、逆にいえばUというかつてのルールをいかに忘れられるか、その対処の差がそのまま戦績の差にも直結しているからなんだし。

――総合格闘技のアナロジーに訴えたからといって「日本人主導のレギュレーション」の根拠足りえないっていうのは、まあその通 りだよね。それだとただ、その種の興行が日本で多く開催されているってだけの話なんだから。それより肝心なのは、君がスーパーフラットを異種格闘技戦じゃないと考えていることの方じゃないの。

――そうそう、すっかり忘れてたよ。これは去年、渋谷のPARCOでスーパーフラット展を見たときから感じていたことなんだけどね。この展覧会の主旨については、例えば椹木氏は

「アニメ、フィギュアに代表されるエンターテインメントと、絵画やインスタレーションに代表されるファイン・アートを、それらのジャンルを代表する需要層の階級差や歴史的正当性を無視する形で超並列(スーパーフラット)し、アートとサブカルチャーを接続する新しいルールのもとに総合してみせた」

と説明している。要するに、アートとサブカルチャーを同じ展覧会場=リングに乗っけたんだからこれは異種格闘技戦なんだってことだよね。

――ああ、堀氏が「ミソもクソも一緒」って批判していたあれね。

――うん。付け加えるなら、彼は「ただ同じリングに乗っけているだけで、勝敗が競われていない」とも言いたかったはず。「勝負論」という論点は、そうじゃないと出てこないし、だからこそ逆に、彼がスーパーフラットを異種格闘技戦とみなしているのにはびっくりしたんだけど。この点で言うと、僕なんかはまた違っていて、この会場=リングが全然「異種」じゃないと感じたんだけどね?

――え、それはどういうこと?

――あのコンセプトブックの中では真っ先に「平坦な画面 」「遠近感がない」「カメラアイがない」などなどとスーパーフラットが定義されていたでしょ。つまり、スーパーフラットというのは、様々な領域にまたがるクロスジャンルな特徴以前に、まず造形上の特徴から導かれた概念のはずだ。展覧会場でも、実際にそうした造形的な特徴を持った作品ばかり配置されていたでしね。
つまりこれだと、同傾向のものばっかりで全然「異種」じゃないわけよ。企画趣旨を鮮明にするんであれば、逆に「奥行きがあり」「遠近感がある」作品を持ち込むことで差異を強調する戦略だってありえたはずなのに、それはできなかった。村上氏本人のものなど一部の例外を除けば、展示作品自体の質が軒並み低くて、そういう形でグラデーションを強調したら、スーパーフラットの主旨自体が壊れてしまうから。本来は造形的な特徴から導かれたはずのスーパーフラットが、いつの間にかメディアのクロスジャンルの問題に、そしてさらには、「日本」というナショナル・アイデンティティの問題にすり返られている。

――あ、なるほど。クロスジャンルを強調する一方で、アートとしての特権性を手放さすにいるのは二股だもんね。「日本」の強調に対しても、旧左翼的な立場からの批判が可能だろうし。

――旧左翼的な議論も、もちろんできるけどここでは措いておくことにして、とりあえずクロスジャンルということにこだわるなら、最近伊藤豊雄とか妹島和世の建築なんかが「スーパーフラット建築」ってことで注目されているわけだから、そこにも注目しないといけないはずなのに、村上氏や椹木氏の視線がそこまで届いているとはとても思えない。そりゃそこまで視野を広げたなら、当初の意図とはかなりずれてくるだろうけど、クロスジャンルをうたい文句にしている以上は、フィールドの違いはもはや言い訳にならない、彼(女)らの建築作品なんかも考察の対象に含めるべきだよ。

――要するに、スーパーフラットは「異種格闘技戦」じゃなくて、同系列の作品ばかり集めた「純プロレス」であり、クロスジャンルという点でも不徹底であるということか。

――そういうこと。加えて僕は、そのクロスジャンルということに関しても異論があって、例えば村上氏はアートとサブカルチャー(彼の場合は、オタクといってもいいだろうから、以後はそう呼ぶけど)の文脈を繋ぐことで、「アートにオタクのコンテクストを導入する。それによってアートのステータスを向上させる」みたいなことを以前からしょっちゅう言っているし、椹木氏も一貫してそれを擁護してきたでしょ。

――まあ前からの持論だからね。それがスーパーフラットって命名されたのは最近だとしても。

――ところがそれは実はインタラクティヴじゃないというか、一方的な交通 に過ぎないわけよ。僕もオタク文化に多少の関心はあるけど、彼がアートの側を「代表」したのと同じ論理で、オタクの側を「代表」して誰かが「オタクにアートのコンテクストを与えてオタクのステータスを……」といった主張を展開しているなんて話は聞いたことがないし、大部分のオタクは恐らくそんな必要すら感じていない。
オタク文化はそれ自身独立したコンテクストを持っていて、それがグローバルに消費されるレベルにまで発展したわけで、その展開にアートなんて口実は必要とはされていないからね。両者の関係は、村上氏がオタクをレファランスしているだけの一方的なものに過ぎないわけで、多くのオタクが村上氏の仕事を「巧妙な利用だ!」「搾取だ!」と批判する理由もまさにここにある。彼らにしてみたら、本来のコンテクストを尊重しないで、表面 だけ掠め取っているように見えるんだろうから。そして、このアートとオタクの関係って、そのままアートとプロレスの関係にもシフトすると思わない?

――あ、そういえば……

――アートとプロレスともなると、恐らくオタク以上にシンクロ率が低いからね。村上氏は猪木をはじめ、小川や桜庭を必要と感じているかもしれないけど、逆に小川や桜庭が村上氏を必要としているわけがない!彼らにしてみたら、スーパーフラットを参照したって何のメリットもないわけだし、それこそ一方的な搾取だよ!ひょっとして、今後どっかのメディアが対談とかを企画したりするのかもしれないけど。
そして、今までの椹木氏の一連の議論を読んでいて、「アートをプロレスなんかと一緒にするなんて!」という批判が当然あると思うだけど、僕なんか逆に、ここでは一プロレスファンの立場に徹して「プロレスをアートなんかと一緒にするなんて!」と叫びたい気分だよ(笑)。

――そこまで言いますか?

――うん、言うよ(笑)。オタクの場合は、彼自身のキャリアが長いせいか搾取とはいえ多少の配慮も感じるけど、キャリアに乏しいプロレスの場合はそれすら感じないし。小川や桜庭が「スーパーフラット・プロレス」でもぶち上げない限りは、この発言は撤回しないよ。
でさらにスーパーフラットが異種格闘技戦ではないという根拠を、もう一つ別 に指摘しておくと……まあこれは、僕が展覧会を見ていない関係で、あくまでも推測として語るしかないことなんだけど。

――まだあんのって感じだけど(笑)

――まあもうチョットだけ付き合ってよ。ちょうどこの春にスーパーフラットの展覧会がLAで開かれたんだけど、これに対する東浩紀氏の否定的なコメントが、彼のホームページに掲載されていたでしょ。

――ああ、この前の完全バージョンでも注がつけられていたやつね。あれは随分意外というか、手厳しかったよね。

――うん。しかも東氏の場合、椹木氏とはまた別 の理由によって、一貫してスーパーフラットに好意的だったわけだから、逆にああいう形での批判には大いに説得力がある。だからこそそれに乗っかって言うんだけど、あのコメントに従うならば、僕なんかもそう感じていた、スーパーフラットに対する従来の批判がほとんどそっくりあてはまってしまうんだよ。あの批判から思い浮かぶアーティスト像と言えば、椹木氏が言うところの「海外で『活躍』し、『トップ50』に入って喜んでいる東洋人アーティスト」であり「エキゾチックなスパイス」そのものだし、プロレスで言うならば、それは猪木ではなくてグレート・カブキやムタの姿だよ。また、それとは別 に当の村上氏が、オープニングの席上で「人生のピーク」って言っていたという事実も、その印象に追打ちをかけるし、その展覧会の様子が、いろいろと尾ひれ背ひれがついて日本に伝わってきているのだって、「逆輸入オリエンタリズム」の一例としか思えない。
これはどう考えても「日本人主導のレギュレーション」からは程遠い、彼らが今まで批判を繰り返してきた「西洋」におもねるアーティスト像でしかないし、ここにスーパーフラットの馬脚が出ているとしか思えない。繰り返すけど、僕はLAの展示そのものを見ていないから、この部分は僕自身の確たる批判としては語れないんだけど……。

――まあ断定さえしなきゃいいんじゃないの、この件は。実際、シンパのはずの東氏がそう批判しているのは間違いないんだから。

――うん。作品を見ないまま先入観に支配されるのはよくないから、今度東京都現代美術館で開催される村上展はきっちり見ようと思っているんだけど。だが、今までの議論から突然飛躍した例を持ち出すからある意味反則なんだけど、村上氏の一連の仕事はティエリー・ド・デューヴというカナダ人の批評家が言う「絵画的唯名論」という立場によってほぼ説明できる気がするんだ。要するに「アート」とはアートというのが唯名論的な意味での固有名であり、美術史というのは、アートではなかったものがいかに後年アートとして回収されるのかをめぐる歴史であるとする立場だよね。で彼は、デュシャンをその分岐点として考えていて、デュシャン以降は、一見非常にふざけているようでも、どこまでのおふざけが後年「アート」として美術史に回収されるのかが、読める奴には読めるようになってしまった、その意味では、アートは言語ゲームになってしまったとまで言い切っている。
今までの批判を検討すれば、村上隆もまた、ほとんどそっくり当てはまるだろう、この図式に。もちろん、デ・デューヴが分析していないマーケティングの話も含めた上でね。

――だよね。いくらオタクやプロレスを参照したとしても、自分がアーティストであるというスタンスを絶対に崩さないし、その参照は一方的なものでしかない。それにホント「アート」をめぐる戦略ずくめだものね、彼の場合は。

――もちろん、椹木氏もどこかで言っていたけど、生身の人間である以上は、徹底してスマートな戦略に徹しきれるわけはなくて、それに回収されない部分も必ず出てくるだろうさ。でもそんなこと村上氏に限った話じゃないし、ましてや彼を擁護する本質的な理由にもなり得ない。彼がスーパーフラットを語りつづける以上は、戦略的であるという批判もまた、為されなければならないはずだよ。でもここまで言えば、僕の批判の総体も、大体見えてきたんじゃないの?

――うん。猪木=村上という図式が誤りであること、スーパーフラット=異種格闘技戦も誤りであるということ、そして「日本人主導のレギュレーション」なんか、実は成立していないんだってこと、などなどだよね。君の反証はいちいち具体的だし、また感情的な反発もそれと並行しているから、わかりやすいんじゃないの?

――そうであることを願うけどね。単なる感情的な反発では、批判としての効力が半減してしまうし、そもそも公にすべきことでもない。だた、最初の猪木=村上という図式の誤りに関しては、僕がどうのこうの言う前に、当の椹木氏が気づいていたことなんだよ、実は。その証拠に今度の完全バージョンでも後ろの方に「猪木の世界は、あまりにもダイナミズムに満ちていて、スーパーフラットというには無理がある」と書いていて、幻の猪木vsアミン戦まで持ち出しているからね。
そもそも猪木=村上という図式の無理は堀氏も指摘していたことなんだけど、さもそれに応接するかのようにこの図式を強引に展開して、最後の方で手のひらを返している。彼流の明確な目的があってやっていることなんだろうけど、自分でも誤りとわかっている図式に乗っかって議論を進めるやり方は、どうにも確信犯的だよね。

――その彼流の目的っていうのは?

――さっきの繰り返しになっちゃけど、やっぱりそれは、いまや日本を代表する同世代のアーティスト・村上隆をいかに擁護するかという点に、椹木氏が自らの批評の掛け金を見ているってことさ。スーパーフラットをプロレスのアナロジーで語るためには、そのアナロジーの対象は何が何でも「リアルとフィクションとの激しい往還から、なにがリアルでなにがフィクションであるのかを一概に決めることができないようなシミュラクルの運動を組織すること――プロレスにおいてそれを可能にする振幅と速度を持った」唯一の存在であるアントニオ猪木でなければならなかったし、であればこそ村上隆はアントニオ猪木であらねばならなかった。ところが展開の過程で、様々な矛盾に遭遇してしまって混乱してしまい、いろいろな論点を補わねばならなくなったと、およそそんなところだろう。

――なるほどね。猪木=村上の図式が、結果 的には「ためにする」議論のために用いられてしまっているということか。椹木氏の議論がその図式に立脚している以上、君の批判もまた、結局はその図式の誤りの批判へと収斂 するんだろうね。でも、その批判の全体像もおおよそ見えたことだし、そろそろ鉾を収めてあとは椹木氏なり誰なりのリアクションを待った方がいいんじゃない? それこそ、こういうことは一方的じゃいけないだろうし。

――まあそうだね。こういう批判はあくまでも全体の枠組みを問題にすべきで、あまり重箱の隅をつついても仕方ないからね。言うまでもないことだけど、もちろん僕は、何が何でも村上隆を擁護しようとする椹木氏の態度そのものを否定する気はない。いかに戯画的かつ戦略的とはいえ、スーパーフラットに「日本」の縮図を見ようとするその姿勢についても同様。それが彼をして批評を書かせている動機なんだろうし、そもそも同世代のアーティストと相互に刺激し合う有機的な信頼関係というのは、伝統的にも美術批評を推進してきた原動力でもある。椹木=村上のああいう相互関係って、今では他に類例もなかなか思い浮かばないし(だからこそ彼は「一人勝ち」しているんだけど)、当の僕自身が誰か特定のアーティストとそういう関係を確立しているわけではないから、そこまで惚れ込める作家がいるという事実は、日本を代表する云々なんてことは関係なく、素直にうらやましいよ。しかし、だからといってそれが明らかに誤ったアナロジーの濫用をも正当化することには決してならないし、ましてや誤ったアナロジーに立脚した、誤った議論を見過ごすわけにはいかない。
アートにプロレスの文脈を持ち込んで、従来の硬直した「アート内アート」を批判を語っているけど、その語りはホントは騙りであるというか(笑)、実際はアートの側から「ためにする」議論でプロレスを搾取しているだけで、プロレスを全然「リスペクト」していないのがバレバレなんだから。しかもこの場合、当の椹木氏が猪木=村上って図式の誤りに、自分で気づいていながら居直って論を展開しているんだから、なおさら有害だし異議ありだよ。それは、プロレスファンとしてもアート関係者としても腹立たしい。

――最後の最後まで、君もそこのところにはこだわるよね。

――まあね。そのこだわりが、ぼくにこういうものを書かせているわけだから。で、さすがにここで締めくくるけど、今回の完全バージョンのハイライトは「……目を伏せることなく、そこから新たなゲームのルールを構築しようというのが、椹木野衣や村上隆の基本的姿勢なのだ」っていうくだりなんだと思う。ここには、自分こそが現代美術の再過激なフロンティアに立っているのだっていう椹木氏の自負が一番強く現れているからね。でも、その基本的姿勢の産物であるスーパーフラットの予定調和振りについては、既に批判した通 り。この一点において、僕は椹木氏とは決して交わらないだろうし、だからこそ、あらためて「アートをプロレスなんかと一緒にするな!」ではなくて「プロレスをアートなんかと一緒にするな!」って声を大にして批判したい。「ルールからの逸脱」も「ルールをめぐる政治闘争」も、実は「ためにする」議論であり、彼の立っている地平が、実はフロンティアどころか安全地帯なんだってことは、プロレスの側に立つことで初めて見えてくるはずだよ。

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