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アートマガジンLR(エル・アール)

三輪 祐児 yuji miwa

地域複合経営試論
 


こんにちは.三輪です.

●9月11日
昨年は高麗博物館の経営者の一人として 設立・開館および事業・運営に携わりながら, これからのミュージアムの経営のあり方ということを ずうっと考えてきました.

そんなさ中に特に強烈な影響をおよぼしたのが 9月11日のニューヨークの事件でした. この日を境に,私のミュージアム経営についての 考え方も激変してしまいました. もちろん2001年9月11日はまだ余りに身近で, 私たちはあの出来事の意味を総括できてはいません.

世界はいまも大きく揺れ動き, 人々は感情の昂ぶりの行き着く先がどこなのかも わからないまま行動しているようです. だから,あの事件から生まれた 「地域複合型のミュージアム経営」という考え方も 過渡的な仮説の域をでません. 「試論」といっているのは そこらへんの曖昧さを反映しています.

「地域複合」というのは主に 農業経営で用いられる考え方です. それをヒントにしたミュージアム経営は 地域循環型社会や地域通貨の思想とも 深く関わる概念なのではないかと思っています.

高麗博物館は市民の寄付で運営する以上 経営の全貌を市民に情報公開していくことを考えています. 経営の考え方や理念も当然公開していきます. まだ曖昧で未成熟な概念ですが, 私自身の考え方をまとめ, またみなさんから批判いただけたらいいと思って このMLの場をお借りして書いてみることにしました.

現在の段階では三輪の個人的な試論であって 高麗博物館としての見解ではありません. 長文になりそうなので何日かにわたって すこしずつ分割して記載します.(つづく………と思う)

地域複合経営試論(1)

 山本さま.石井さま.こんばんは.
福岡の石井さんは失礼ですが いつぞや私が何重にもお名前を間違えてメールした, あの石田さんだったりした石井さんでしょうか? あの節はどうも大変ご無礼をいたしました. さて,あまり期待されてもこまっちゃう地域複合経営試論なのですが, なぜ9月11日の事件が博物館経営の話と結びつくのか, という説明をしなくてはならないでしょう. そこでまず重要なキィワードとなるのが「グローバリゼーション」という概念です.

●経済のグローバル化と富の偏在

 9月11日の事件は グローバル化の結果として世界規模で生じた 「富や資源の極端な偏在」に本質的な原因があったと思います. グローバリゼーションが富の公平な分配をもたらすという 楽観的な未来像は幻想でした. 現実にグローバル化したネット上を支配したのは 富を再分配させるためのソフトではなく, 金融のプロが作り上げた「個人の手元にネットを経由して富を集中させる」 というソフトだったのです.

●自由競争の理念

 その結果世界はいま米国や日欧を頂点に富が極度に集積した地域と, 極端な貧困に覆われた地域に二極化してしまいました. それはもちろん個々の地域の特性や歴史や政治選択によって もたらされたものだともいえます.高度な教育と勤勉な国民性を特徴とする日本は 戦後の廃墟から努力を積み重ねて今日の経済的繁栄を 築いたじゃないかという考え方は正しいと私も思います.

そうやって汗を流したり一生懸命知恵を絞り努力を重ねた者こそが 自由競争の果てに勝者になるのであり, 世界経済はすべてそのルールで統一されるべきだという グロ ーバリゼーションの論理はあまりにもまっとうで明白です.

私自身,9月11日までは自由競争もグローバリゼーションも 何の疑いもなく信奉しておりました. 正しい自由競争による強者の勝利というルールの 正当性は非難しようがありません. だからテロを卑劣だと非難する人はいても, 世界で最も富んだ国の豊富な資金で教育訓練を施された軍隊が 世界最高の頭脳と科学と技術の粋を尽して生産された 最高性能の艦船・爆撃機・戦車を動員し 高度エレクトロニクス技術をフル活用した有機的な戦争システムに 援助されたうえに報道操作の支援までうけながら, 中東の最貧国に「正々堂々と」戦いを挑み, 砂漠のほら穴にほとんど裸同然で隠れるしかない 乞食のような兵隊を一方的に殺しまくっても 誰も卑怯だと考えないのは
そのためです.

自由競争→強者の勝利という論理は グローバリゼーションによって世界に浸透したのです.
(つづく………んじゃないかと思う)
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地域複合経営試論(2)

 前回までのあらすじ――
グローバリゼーションによって、 自由競争による強者の勝利という経済ルールが世界標準となった結果世界の富は欧米日に一極集中し貧富の格差が拡大した.

●自由競争という幻想

アフガニスタン戦争ほどには顕在化していませんが, 経済の戦争でグローバル化はもっと深く浸透しています.アジアや南米の小国の経済が破綻し, 貧しくアメリカがどこにあるのかも知らないような庶民が 労働で得た僅かな蓄えがたちどころに消滅すると同時に, 世界最高の情報装置と高度金融システムに支えられ MITなどで教育を受けた最高の頭脳をもったディーラー達の組織に その資金が移動して巨万の富を築くという, いわゆるマネーゲームという形の経済戦争を可能にしているのが グローバル化でネットワークされた金融闘争の「リング」なのです.

●自由競争のチャンピオン−アメリカ

 アメリカというのはヘビー級のチャンピオンみたいなものですね. リング上で正々堂々と闘うのはいいのだけれど, 問題は知らない間にリングのほうがいつのまにか 世界中に広がってしまった(これがグローバリゼーション ). 日本はさしずめフライ級のチャンピョンでしょうか. 弱い相手には勝てるけれど,ヘビー級のチャンピオンには フライ級のチャンピョンは負けるに決っている. 私たち 自身も知らないうちにいつのまにか リングの上の経済・ 金融戦争の戦士にされてしまったために 駄菓子屋のおば あちゃんだろうが工場の爺ちゃんだろうが みんなの家に ヘビー級のチャンピオンがやってきて 正々堂々と素手の 戦い=自由競争という 正しいルールにのっとった勝負を 挑まれて あっという間にKOされてしまったというのが 今の日本経済の姿でもあるし, アフリカや南米や中東の 人々はもっと悲惨な目にあわされています.

 関さんが書 いてくださった皇后陛下の御製で バーミヤンの仏像破壊に関して 「しらずしらず自分もまた一つの弾を撃っていたのではないだろうか」 と語られていたことは、このグローバリゼーションの連鎖を 象徴的に暗示しているとも見ることができます.

 われわれ自身もしらぬまに何らかのかたちで 仏像破壊をもたらす側に加担していたということなのです.

●ボクサーの腕は凶器

ニューヨークのトレードセンターにいた人々も,知らないうちに ボクサー(ヘビー級のチャンピオンの方ですが)にされていたのですね. 一方的に勝ち続けることができるチャンピオンにとっては, 全世界が弱肉強食のルールのもとで負ける戦いを続けてくれることは 嬉しくてしょうがないことだったでしょう.

しかし……… 生産活動に全く携わることなく 金融のマネーゲームにのみ没頭できるほんの一握りの豊かな人々に 世界中から奪われた富が集中した結果,中東やアフリカでは家庭も財産も平和も環境も全てを失い 怨念のみを育み憎悪を滾らせる人々の集団が生まれていたのでした.

その中から,KOされる前にもろともに自爆する挑戦者が出現したのが 9月11日のニューヨークだったのです. 富める者が貧しいものに財産を分かつことこそ善だと考える彼らは ひたすら富を収奪する「ボクサーの腕は凶器」とみなしたからこそ, 使用可能な凶器をもってチャンピオンに報復したのです. (これはつづきます)

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地域複合経営試論(3)

 前回までのあらすじ
経済のグローバル化を推進し貧困層の拡大を放置してきたことが 9月11日の悲惨な報復をもたらした.

●9月11日以降の博物館の経営理念はどうあるべきか?

 「知らずしてわれも撃ちしや(皇后陛下御製)」という感覚を抱きつつ 貧富の格差を拡大するグローバリズムと自由競争を支援し 飢餓や貧困や環境破壊の加害者の立場に加担してきた私たちは これからの社会や政治経済とどうかかわっていけばよいのか.

 9月11日は,私たちにこの深刻な課題をつきつけたのです. 国際交流や人権擁護や平和を提言するミュージアムとして 高麗博物館はこれからどのような経営理念をもち, どんな経済活動を実践していかなければならないのか. この難問の答えはまだ見つかっていません.

 見つからないながらも貧富の格差というグローバルな課題は 常に意識して経営を考えていかなくてはならないと思うのです. だからながながとグローバリズムについてこだわりました.

●効率の「悪い」経営を目指す博物館

そうやって考えてきた末にたどり着いた一つの可能性として 「効率の悪さ」を追求する新しい経済学を生みだしてもいいのではないか. 効率の悪さを追求する経営フィールドに最適なのがミュージアムなのではないか この発想が高麗博物館の「地域複合経営」という仮説概念のもとになりました.

 ヒントになったのは実はインドネシアでの体験でした.スラバヤを案内してくれた友人が 「工場ではタバコの機械生産はもちろんできるのだが それをせずに、人を大量に雇って手巻きで生産している」 と教えてくれたことがあります. 雇用対策としていい考え方だな,としか当時は思わなかったのですが この考え方は富の再分配という視点から とても重要なのではないかと気がついたのです.

 極端に類型化して言うならばそれは 高いタバコを我慢して吸う安全な社会での暮らしと 大量生産の安いタバコが吸えることの代償として 凶悪化した失業者による強盗や殺人におびえる暮らしと どちらを選択したいのか、という問いかけとなります.

 同じような喩えですが 風力発電の高コストの電力をあえて購入し高い電気代を支払う代わりに 原発の恐怖から逃れて生活できるという道を 選択するかどうかという問いかけ. 人手も手間も時間も掛かって効率がきわめて悪く そのくせ数点の商品しか作れないシステムを 実は最も優れた経済システムとして再評価する視点が必要なのではないか. その最たる例の一つがアートでしょう.

安全とか団欒とか心の満足などが「豊かさ」の大切な指標であるとする経済学者アマルティア・センの学説は理論的な裏付けになってくれそうです.

15年ほど前に宮崎駿が制作した「柳川掘割物語」でも 柳川の暗渠化を推進(蓋をしてしまえ)しようとする建設省や市役所と闘い 手間暇かけ苦心して柳川とつきあっていくことで 掘割がもたらす豊かさを守り抜いた人々の物語が描かれていました.機会があればもう一度見たい映画です.

恐怖を消せない大量生産大量消費型欲望社会よりも みんな少しずつ貧乏になるけれどその分の富が貧しい国に還流して 9月11日のような事件は起きない社会を選択していこう. そういう社会を構想し、そのための 「手巻きたばこの効率の悪さ」を実現することに 高麗博物館の経営理念を置きたいと考えています.

具体的には例えばどういうことができるかというと… (つづく…次回は具体的な例を挙げてみます)

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地域複合経営試論(4)

前回までのあらすじ
グローバリズムに翻弄されるなかで 貧富の格差を拡大させない経営理念として 高麗博物館が掲げようとしている理念が 「手巻きタバコのように効率の悪い博物館経営」だった.

●高麗博物館の場合にできること

例えば,展示案内パンフを手作りで制作するとき,同じ成果をあげるために 学生のボランティアならば一人で一ヶ月かかるとしましょう. で,地域のお年寄りに頼めば同じ仕事が一ヶ月三人でできる… その場合普通とは逆に後者を選択しよう 自由競争に負ける三人の老人に働いてもらおうという考え方です. 効率悪く三人でのったらのったらと長閑にボランティアをしてもらう. 効率は犠牲にしたけれどもそこには一人暮らしのお年寄りが 思い出ばなしに耽けることができる時間がうまれる. 老人が若い人のために何かをしてあげるという機会も提供できる. しかも「満足」という報酬が一人の若者より三人の老人に与えられることで 幾倍もの「豊かさ」効果をうみだしていく. 一人の若者と三人の老人に組んでもらったらもっと効率が悪くて 一ヶ月の予定が二ヶ月になっちゃうかもしれない. お年寄りは若者に戦争体験を語ることに熱中するだろうし 若者はがむしゃらに前進せずに適当にサボることの価値をまなぶかもしれない. それらの総体がプラスの「豊かさ」になり、地域に寄与する.

 アマルティア・セン(外務省に招待されてたの?)の経済理論を まず博物館経営に応用し そこから徐々に地域へと浸透させていくことができれば 博物館は地域経営のなかでひとつの役割を明確に果たしていけるでしょう. そして「手巻きタバコのように効率の悪い博物館経営」が 地域全体に広がっていった状態が地域複合経営の姿なのだと思っています.

 「効率が悪い」と切り捨ててきた要素を再評価してみるうえで ミュージアム経営というのは絶好の実験フィールドなのではないでしょうか? (つづく…だろうか?)

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地域複合経営試論(5)

前回までのあらすじ
いろいろあったけどつまり 「手巻きタバコのように効率の悪い博物館経営」だった.

●地域複合という経営理論

 そんなことを言ったって,現実的な経営モデルとしての裏づけがないと 理念だおれにおわっちゃうんじゃないかと思いませんか? わたしもそう思いました. で,いろいろ調べているうちに 農業経営の分野でいわれている地域複合という経営システムに 有益なヒントがあるのではと思うようになったのです.

 それは昔の日本農業の循環型システムに原型があります. 例えば昔の農家は小規模な田んぼに牛を一頭だけ飼っていて 田んぼでとれたでき損ないの草は牛の餌になり 牛舎から出る肥料は田んぼに撒かれた.大規模酪農とのコスト競争には負けて当然の非効率システムでして 結局のところ大酪農場は効率経営をおこない 進化してこのかた「草」しか食べたことがない牛という神様の動物に むりやり牛の骨と肉を加工した肉骨粉などという 天罰がくだって当然なようなものを食べさせるようになり 牛糞をたよりにしていた農家はブキミな化学肥料やらを使いだし 地下水まで化学薬品に染まってしまった.

 実は自由競争をさけて(一見)高コストの小規模農家を守っていれば 地域の環境も破壊されずに済んだのではないか したがって環境修復のための莫大なコストの投入も避けることが可能だったのではないか,という観点から それだったら酪農場からでた牛糞は農家に送り 交換に農家でいらない草を牛の飼料にすればいいのでは、という考え方です.

 地域のなかで資源の循環を形成するわけで 地域から肉骨粉屋と化学肥料屋への むだな現金の流出も避けられる.これが富と資源を有功に再分配する経営のモデルになります. (注 知ったような書き方をしましたが、上記は私なりに簡略化した 考え方のパターンであり、 実際に上記のようなことが行われているかどうかの確信はありません. 農業経営の論文などを読むと現実にはもっと複雑なことが行なわれているようで わたしの頭脳ではとても難しくて整理しきれません. 思い切って簡略化すると上記のようなことらしい・・という程度で 受け止めてください)

●高麗博物館の地域複合経営

この経営をモデルにして地域のなかでの博物館経営を構想してみよう. その場合,博物館単独だけで経営を考えてもだめで、 まず地域全体の経営と資源の循環システムを構想し 次にその中で博物館経営がどういう役割を果たし得るかを考える.

最初に「地域の循環型経営」ということを真剣に考えるところから 博物館経営を出発させていこうという考え方なのです. 高麗博物館ではこの地域複合という経営理論を実践してみたいと 思っています. (そろそろくたびれてきたがもう少し・・つづく)

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地域複合経営試論(6)

前回までのあらすじ
グローバル化への批判からうまれた博物館の地域複合経営は, 地域経済全体の経営と資源の循環をともに構想し 博物館の地域における役割を再定義するところから出発する.

●ミュージアムの資源

ここでいう資源ですが、ミュージアムに由来する資源とか富と言った場合 何を指しているかというのも議論が必
要な問題でしょう. 人的資源が最大の要素としてあります.資料コレクションも 経済コストに置き換えられる資源と言えるでしょう. 地域複合経営ではさらに広義に考える必要があります. 博物館が発信可能な「行動・知識・情報」はすべて富・資源であるという前提で この先の話をすすめます.

● ミュージアム情報の流通

 地域複合経営では,地域社会に対して情報資源をどの様に流通させるか ということが次の問題になります. 実は,私がこのMLにこの記事を投稿していることの理由でもあるのですが AW−MLに紹介されている中にそういう例がたくさんあるのです.

 例えばart@LIFEの皆さんによる「神田そばアート」は 地域を拠点基地として現代アート情報を発信した例です. 関さんが紹介してくださった 「墨田の工場の人」+「鳥光さん」+「アサヒビール」+「現代美術製作所」 による「町工場とのコラボレーション」も典型的な実例でしょう.

 どちらも「手巻きたばこように効率のわるい」工程をたどりつつ, そば屋のだんなや工場のおかみさんとの間に経済的価値とは別種の 付加価値の創造と情報資源の再分配を行ないながら 「神田」や「向島」の地域全体を豊かにしていく試みだったわけです.

 三ツ木さんや曽我さんの活動はこれからのミュージアムがめざす 地域複合経営の先進事例としてもっと大きく評価するべきでしょう. 高麗博物館の場合もこれからの事業ですが, 大久保の職安通りの多文化共生都市・コリアタウンと博物館との間で 情報資源の流通と交換が日常化するようなシステムを 最優先の課題として構築していかなければならないわけです.

 その意味ではi−modeを使った携帯高麗博物館(けいはく)の実験 http://business1.plala.or.jp/kourai/i/i.htm なども博物館が発信する情報が地域全体を包み込んでいるわけで 地域複合経営の試みの一部分を形成する要素として考えられます.
(もうすこし・・つづく・・だろう)

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地域複合経営試論(番外)

● ミュージアム通貨の提案

情報資源の流通の話ついでに地域通貨−エコマネーの提案をひとつ. ミュージアム通貨のシステムが考えられないでしょうか. 全国のミュージアムの 「知」「行為」「情報」などにのみ通用する地位通貨です.

 この場合の単位は1ミュゼとか1ナレッジとかになるでしょう. たとえばボランティアの学生が1日働いて10ミュゼを受け取るとしましょう. ミュゼはどこのミュージアムでも使える. 1ミュゼを100円程度に換算すれば 旅先のミュージアムで3〜5ミュゼを払って入場できることになります. ミュゼで入場されたミュージアムは、 だれかにボランティアをしてもらったときには ためておいた10ミュゼを支払うわけです.

 このようにして全国にミュゼが流通循環すると ミュージアムのナレッジ市場が成立する.

もちろんこの仕組みのヒントは「エンデの遺言」です.地域通貨の実例はすでに全国各地で200事例くらいありますから 比較的簡単に実施できるような気がするのですが... 番外編でした.

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地域複合経営試論(7・最終回)

前回までのあらすじ
地域複合経営の基本として 「行動・知識・情報」はすべてミュージアムの経営資源であり その資源を地域に流通させることが地域複合経営の最優先課題だと 書いたあたりでいいかげんそろそろくたびれてきた.

●資本論ではなく知本論

 ここで「行動・知識・情報」を すべて「知」という資源=富としてくくっちゃいますが、 価値の基準をモノや貨幣におく金本位制ではなく 「行動・知識・情報」に価値基準をおく「知」本位制の経済学は 従来の経済学と全く異なるものになるでしょう.

 なによりも基本財である「知」が、いくら奪われても決して枯渇することのない 無尽蔵の資源だということに注目したいと思うのです. これからのミュージアム経済を動かすのは この「知」という資源・富・商品に注目した「知本論」ではないか−−そんな気がしています.

●増殖する財

 「知」という資源=富は通常の経済学ではとらえきれない特質をもっています. それは無限の増殖性ということです. 例えば日本人なら誰でも九九の掛け算ができますが、 この九九という知識がどれほど豊かな知的財産か外国でよく感じませんか? そして日本の学校で先生が30人の子供たちに九九を教えた時 先生の九九の知識は奪われて失われるでしょうか? 脳内資源は枯渇するでしょうか? 現実にはこの過程で九九という知的財産は30倍に増殖するのです. 金やプラチナや石油資源やマンガン資源と全く異なる 財としての増殖無限性という性質が ミュージアムの基本商品である「知」には備わっています.

 ニューヨークのように世界の金融財産を一人占めするような構造は そもそも成り立ちようがないのです.

●国際競争にさらされない財

 「知」は同時にまた国際競争に参加することが少ない商品です. あくまでも地域内において価値があるのが「知」であり 「地域」は同時に「知域」でもあると言っていいでしょう.

 インドや中国の人件費が日本の1/10だったとしてもそこから1/10の価格で日本美術論が輸入されて芸術新潮が消滅することを わたしたちは恐れる必要はないのです. 製鉄や機械や家電産業のように国際競争の荒波に翻弄される心配はないのです.

●課題は地域浸透

このように素晴らしい「知」という財産を擁していながら ミュージアムの経営がなぜうまくいかないのか? それはこの「知的資産」を商品として社会に流通させる術を 考えてこなかったためではないかと思えるのです.

しかしそれも、地域に流通させようという試みが始まっているという例を 前回書きました. ミュージアム単独ではなく、町のそば屋さん、工場、衣料店、おもちゃやさん 地域のいろんな業種と複合的に「知」が流通する市場を形成する.

アマルティア・センの経済理論にならうなら「知」にともなって 「交流」「信頼」「満足」「安心感」「団欒」「豊かさの実感」という富が地域に流通する. しかもそれはどこかに集中的に偏在するのではなく、 地域全体にならすように共通に行き渡り浸透することで 過度の貧富の格差を防ぐことができる.

番外編で述べたミュゼ通貨 は 「知」本主義経済を成り立たせる基軸通貨となるかもしれません. 金銭的効率だけで価値をはかられる経済社会ではなく、 お金という側面からだけ見るならマイナスであっても 人の営みの総体として豊かになっていける社会を選択していこう.

9月11日を境に揺らいだ私のミュージアム経営の試論は いまこのようなところに到達しています. 何回かにわたって述べさせていただいた未熟な地域複合経済試論ですが やはり考えるだけではなく実践してみなくては いろいろなことが見えてこないと思います.

皆さんのご意見などでいろいろ教えていただきながら試行錯誤してみて、 新しい成果が生まれたらまたご報告いたします.
(つづかない)

高麗博物館の三輪でした.

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