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アートマガジンLR(エル・アール)

中井 貴子 takako nakai

「ゲルハルト・リヒター ATLAS」展

河村記念美術館  2001年3月31日〜5月27日   
広島市現代美術館 2001年6月12日〜7月22日   
大分市美術館   2001年8月 4日〜9月24日

 

「ATLAS−世界地図、地図帳−」と名づけられたこの作品の姿を初めて目にす るとき、おそらくだれもが戸惑いを覚えることだろう。展示室の壁面に続く膨大 な量の写真は、大河のようにどこで途切れるとも知れない。
あるものは家族の記 念写真や友人を写したスナップ写真、そして殺人事件の新聞記事のスクラップ、 絵の具の筆跡、都市の航空写真、山や海、空などの風景が綿々と続くかと思えば、 なかには展示構想らしきドローイングが施されているものもあり、それはさなが ら溢れ出すイメージの洪水といった様相を呈している。  

「ATLAS」を構成するこの多様な約4500枚もの写 真は、リヒターが制作のため の資料やアイデアとして長年にわたって撮影しあるいは収集してきたものである (中には実際に作品を特定できるものも見つけだすことができる)。  

その夥しい数の写 真は、しかしただ無秩序な集積として展開されているわけで はもちろんなく、かといって単にリヒターのアイデアの変遷の興味深い歴史を物 語るものとして並べられているのかといえば、決してそうではない。1962年 に始まり最新の1998年のものまで、ほぼ同じ規格のパネルの中にその内容ご とにまとめられ整理された膨大な数の写真の群れ。それはむしろ見る者に不気味 なまでに整然とした印象を与えながら展示室の壁面から壁面へと続いていく。  

「ATLAS」の展示方法はリヒター自身の厳密な指示によるものであるという。 その構成によると、まずこれらの写真はほぼ同じ時期に撮影された同じ主題ごと にまとめられ、その中で順序や配列も決められてパネルに並べられる。そうして できた数多くのパネルは次に数枚を単位として同じような主題を持つ1つのグルー プを形成する。1つのパネルの中の写真の順番が決められているのと同様、パネ ル間の配列も決定されており変更は許されない。同様に、パネルで構成されたグ ループごとの間隔も、それぞれ主題間の内容の距離に従い各々定められており、 どのような理由でもこれを変更するべきではないとされる。例えば展示スペース の都合により、グループの途中で作品が途切れたり間隔が開くようなことも一切 許されず、その場合には障害に当たったグループ自体を展示の中から削除するよ うリヒターは指示しているという。

まるで、ただ一つ重要なことは作品を統合する体系そのものであり、各々の写 真は−そこに写されているものがたとえ自分の妻子や友人、なじみ深い風景であ ろうと−第一には体系を構成するただの部品にすぎないのだとでも言うように。 しかしそうやって静かに整然と並んだ写真たちの姿からは、種類ごとにピンで留 められた標本箱の中の昆虫にも似てグロテスクな美しささえ感じさせられる。  

そんな数瞬のめまいに似た感覚を経ながら、「ATLAS」における個々の写 真に 対して取るアプローチが、まず作品全体の中でのグループごとの関連を把握した 上での、全体と個の関係を抜きにありえないことを確認したとしても、そのこと は再び視線を戻して1枚1枚の写真を丹念に見ていくことの妨げにはならないだ ろう。上から下へ、そして隣のパネルへと「ただの写真」に飽くことなく引きつ けられる視線。そこにはたしかに見ることへの欲望がある。  

「ATLAS」は最初に親しい人々のスナップ写 真を集めたアルバムのようなパネ ルで始まると、次に新聞記事のスクラップにくつろいだ人々の様子が、そして少 し傾向の異なるスクラップ写真を間にはさんで、その次に唐突に(と思わずにい られないが)置かれているのは、第2次大戦時のナチスによるユダヤ人捕虜収容 所の内部を撮影した写真だ。痩せた裸体の女性の凄惨な写真から思わず目を背け ると、その隣のパネルがポルノ写真であることに気がつく。  

人類の惨たらしさそして欲望という個々の写 真が訴えかける主題の内容はこの 作品の中ではもはや意味を持たない。それらは裸体という共通 のイメージによっ て全体の統一の中に組み込まれる。そしておそらく、通 常では考えられるはずの かった連想的配置への嫌悪感とともに、それが紛れもなく視角に訴えかける共通 性であることをも素直に気づかずにはいられないであろう。そうしてこの後 「ATLAS」は肖像写真、そして人物や風景のグループへ、さらにその先へと互い に繋がりつつ展開していく。  

こうしたある種徹底して冷静な関連づけを目の当たりにして考えさせられるこ とは、見ることとそれによって対象に付与される意味との関係である。本来は不 断に連続したものであるはずの自然を、見ることによってフィルターにかけ、無 意識に区別し取捨選択し変容させることで、自分にとり意味のある環境として認 識するという無意識の作業を日々われわれは行って生きている。つまり「見る」 という行為はそのまま、個々人にとって生きられる環境としての世界を創造する 行為だということもできよう。「ATLAS」にはそういった視覚をめぐるシステム が、そのまま美術に対する自己言及を伴いつつみごとに顕在化している。  

しかしそのような極めて理知的な作品として「ATLAS」を考えるとき、そのあ る種徹底した冷静さの表出の背後には、同様にそうした態度によって生じるにち がいない個人的なレベルでの苦痛が存在するはずであることも見過ごしにはでき ない。それどころかむしろその痛みに注目しあえてこれを試そうとしているかの ような印象すらまぬがれない。では「ATLAS」で試みられたこのような客体化の 方法をもって実際に主題を扱い制作に向かうことに限界というものはないのだろ うか。  

作品の最後に近づき、再びホロコーストについてのかなりまとまった写 真群が 登場する。この写真をリヒターは、ベルリンで再建される国会議事堂の壁画のた めの素材として使うことを考えていたことが伺い知れるが、これらの写真はつい に作品として完成することはなかった。それに続く最も新しいパネルを見てもわ かるとおり最終的に壁画はドイツ連邦共和国の三色旗を元にデザインされたもの にその姿を変えた。  

ホロコーストの写 真を断念するに至るまで彼の中でなにがあったのか。 「ATLAS」の中でその葛藤について直接示してくれるものはない。しかしそれで も「見る」ことによって成立する世界の構造を視覚化するという欲求と、その前 に立ちはだかる1枚の写真の重さ、直接に喚起されないでおかない生の感情とは 「ATLAS」の制作過程において揺れ動き互いに相克を深めながら、なおも新しい 見方を作り続けていったであろうことは想像に難くない。   

さて、この「ゲルハルト・リヒター ATLAS」展には、「ATLAS」の他に彼の代 表作10点が併せて展示されているが、その多様な表現方法の変遷には改めて驚 かされる。フォト・ペインティング、カラー・チャート、抽象絵画、具象絵画な ど、こうして集められたものを比較すると、その作風の変化にはまるで関連性な どないかのように感じられる。  

しかし「ATLAS」を見た後では、これら10点の作品がその外見の印象の差に 関わらず全てある1本の線で貫かれていることもやはり明確である。それはまさ に「見る」ことの意味への問いかけであり、延いては見ることによってわれわれ が世界を作り上げるさま、その過程を、絵画への自己言及を通じて提示すること である。このことについて、リヒターの名を最初に知らしめた、いわゆるフォト・ ペインティングについて考えてみたい。  

まずこれらの絵画の際立った特徴であるぼかしの効果 について、しばしば言及 されてきた、形態上の明確さからのずれによる指示対象の消失や、あるいは対象 の消失によって観者の視線が宙吊りになるといったような事柄は、それが結果 的 に起こり得ることであったとしても、少しもこの絵画の本質を語ってはいるもの ではない。  

写真のピントのずれや手ぶれのようなぼかしは、まずそれを見たものに「写 真」 というものをはっきりと想像させずにおかない。一方フォト・ペインティングの 前にいるわれわれは、この作品が引き伸ばされた写真などではなく、手で描かれ た絵画だということももちろん知っている。つまりこれらのぼかしの表現は、第 一にはその絵画の出自を明確に語っているにすぎない。  

対象から写 真へ、写真から絵画への転換のプロセスを意識するとき、目の前の キャン バスに描かれた対象の内容は消失していく。それは他方で、知人の肖像や雑誌の スクープ写真という極めてありふれていて大量消費されがちなイメージの使用と、 それらが異様なほど大きく拡大された画面を意識することとあいまってさらに効 果を高める。  

では写 真そのものについてはどうだろうか。それはいわばカメラという装置を 通 して自然の連続から風景を切り取る眼であって、その過程の中には既に対象の 持つ内容の質の転換が含まれており、それ自体、偶然を経験によって訂正する 「見る」という行為の暗喩に他ならない。しかし一方で写真の持つ、なんであれ その視界に入ったものを「写す」という非人間的なまでの正しさは、その写 真が 無作為なものであればあるほど徹底していて、より「信憑性が高い」ものとなる。 そういった事実の再現性、見る行為の再現性ともいうべきものが、おそらくリヒ ターにとっての「単なる写真」の持つ可能性なのである。  

そうした写 真の持つ無情な再現性は、ここで絵画として描かれることによって あからさまなものとなり明らかに意識されることとなった。絵画の物質感と描く 作業の痕跡を排除して表面上の絵画らしさをなくし写真に似せることで、かえっ てそのからくりはいっそう強く明確になり、絵画の意味を問わざるをえない領域 にまで到達する。  

こうした優れた異化の姿勢からは、やはり必然的に「見る」ことそのものへの 注目がなされずにはおかない。なにかを見ようとするとき、われわれと対象との 間には、幾重にも不可視のフィルターがはさまれているということ、われわれは 決して対象をあるとおりに見ることはありえないのだということを、その冷静か つ徹底した手続きを通してこれらの作品は告げているかのようだ。焦点のあいま いな画面という表現への、明確な意図に支えられながら。  

「フォト・ペインティング」での実験、変化する「抽象絵画」、そして「鏡」 へ。「ATLAS」でさらされた作家のそのときどきに集中した一見単純な個々の関 心事は、互いに関連づけられ秩序だてられて、あるいは組み合わされ並べかえら れ、他のものと突き合わされることによって変容し新たな意味をつくり出す。そ うした水面下のせめぎあいに決着を付けるべく、ときおり波の下から浮かび上が るように実際の作品が生み出される。  

「ATLAS」−この壮大な作品は、家族の思い出のアルバムのような写 真から始 まった。そして展示計画やカラー・チャートにおける試行錯誤の痕跡と、繰り広 げられるイメージの織物をめぐりながら、徐々にリヒターという1人の作家の頭 の中の展開図を見ているかのような錯覚に陥るかもしれない。しかしだからといっ てこれが彼にしか読めない個人的な地図に終わることは決してなかった。 「ATLAS」はその極めて知的に徹底した形式を通して「見る」という根源的な行 為をまさに目に見えるものにし、それによって世界を形作る普遍的な構造を顕在 化させるものであるといえよう。それは美術それ自体が前提としてきたものを語っ ているかのようであり、またその問いかけによって、制作することと見ることと の境界線をどこまでも曖昧にし続ける。  

彼の「世界地図」を眺めるとき、われわれはそこに自身の「世界地図」を読む ことになるのだ。

 

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