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アートマガジンLR(エル・アール)

大もり みか mika omori

ギャラリーTOM 
「楽しくつくったぼくたち」展

 

字のきれいな人というのは、
いろんな線をひける人だ。
目の見えない人は、いろんな手触りを知っている 。
だからあんなにかっこういい形が作れるのだ。
目を閉じて触って、
まぶたを開けて世界を見たくなるのをこらえて
手でなぞったそこにある形は、まさに驚きの連続。
初めて知る感触は触覚のジェットコースター。
これこそ視福ならぬ“触“福だった。
盲学校の生徒がつくった彫刻は、
「お手を触れないで下さい」の世界では全く意味を 成さないだろう。
ぼくたち、こんな形も知ってるよ、
こんなトンネルとか、こんな坂とかでっぱりと か。 楽しくつくった彼らの声が聞こえてくるよう。
目を閉じて触ってにこにこ楽しい時間に
ふとよぎる憂うべき今という時代。
めくらは差別用語だとか騒ぐ人々のくだらなさ。
めあきは苦労が多いのう、と、だれぞ盲のひとが言ったとか。
せめて両目視力0.04でよかった。
電車内中吊り広告の騒がしさにも惑わされずにすむ わ。

 


千空間 「あをによし」
〜7月18日

 

青をテーマとした、まだ新しいギャラリーの常設展。13人の作家が参加。
グループ展という展示形態の場合、
勿論ギャラリーの空間にもよるが、
作品の配置と数によって、
それぞれの作家が獲得できる言語に違いが生じてくる。 おそらく、オーナーの好みのちょっとした度合いと、作家本人のタイミング (オーナーとの間におけるコミュニケーションの密度など)、
それにオーナーと作家両者が共有する世界のタイミングとそれぞれが影響しあって、
「あをによし」ではああいう配置になったのだろう。 偶然と奇跡が重なってベスト・ポジションを獲得したのは村山修二朗。 他作家が各作品一点、多くて3点で参加しているのに比較して、村山はひとり6点で 参加。
出展作家のなかで、わたしに一番多くを語りかけてきたそれら「お守りシリーズ」 は、 その名のとおりおなじみ手のひらサイズのお守りを用いた作品。
やすらぐ小さな人々が腰掛ける、紺碧の世界に浮かぶお守り「やすらぎの行方」。
空に舞うミサイルや飛行機の中に浮かぶお守りには赤ん坊の顔が転写してある。
青空に浮かぶ透明ビニールの御守りには水中におぼれる人。 私達日本人にとって馴染みの存在である御守りは軽やかに転身を遂げ 、目に慣れたそれらの退屈な色使いは爽やかで鮮やか、ポップでキュート、ユーモラ スに表現される。
しかし、それではすまさないと毒を添えるのは戦争の影。 大きく拡大して幼児の顔が転写 されたお守りの浮かぶ空は一面白く、ミサイルや爆撃 機が舞い、 あたかも原爆が落ちた瞬間の真っ白な光を彷彿とさせる。
過去のお守りシリーズを振り返っても、お守りで構成された日の丸や 迷彩 柄お守りでできたヘルメットなど、村山作品は可愛らしい佇まいながら、 そこに深遠な意味と毒を匂わせている。
「絶対安全」「これは安全とは言えない」といった村山作品タイトルに頻出する キーワードからもとれるように、現代社会において「身を守る」という行為の頼りな さ、 氾濫する危険なものーーダイオキシンや排気ガス、紫外線や信用のならない人間ーー にもかかわらず、「お守り」を携帯するという、単なる記号でしかない行為が 人間にとってどれほど重要であり、いかに慣習化されているか。 そしてそのことに私達はなんと無意識であることか。
村山は存在すらしない場所を志向する人間の愚かさを軽妙に指摘する。 でもわたしたちは自分の大事な人が7人もの敵がいる外へ赴くとき、 無事であれと願わずにはいられないのだろう。きっとこれからずっと。 しかし、20数年生きてきた今までに買ったり貰ったりしたお守りたちは、 いったいどこへいったのだろう?

 


 

「井崎聖子展」 
かねこ・あーとギャラリー2  
2001年7月16日〜28日

 

立ち上がる風のような、大胆な筆の運びに吹かれる視線をとめ、まじまじと見ると そこには複雑繊細に入り乱れる数々の色、思いがけない形。
特定の意味を押し付けられることのない抽象画は、見る度に違う何かを発見すること が出来る、楽しみがある。
まず目にはいるのは、印象的な色使い。おおらかに揺れ動くストローク。
井崎聖子の色使いには、ファッションのコーディネートのような楽しさを感じる。
刺激的なのに、バランスがいいので心地よい。それでいて洒落ている。

そんな風に楽しんだ後、ふと目に留まったのは
タブローの傍らにちいさくあるタイトルだった。

そこで私は、自分の中にあったある偏見に気付かされる。

それは、知らず知らず抽象画において「無題」というタイトルを、予め知っているか のように期待してしまうこと。 
そうでなくとも、同一作家が描く世界に名付けられるタイトルは、ある種の一貫性に 囚われている場合が多い。
絵を観た人が、ああなるほど、と思えるタイトルであるこ とがほとんどだ。そのような時、私は大体においてタイトルを無視し、勝手な観方で 楽しんでしまう。

ところが今回はそうはいかなかった。

「香夢」「濁流」「サラダ」「隈」「羽あり」「荒紅」「うなり」「進入」「荒涼」 ・・・と、展示作品のタイトルを列挙してみても、目を留めずにおけない意外な言 葉。造語。無視どころか、無邪気に主張するそれらの言葉によって、あらら、作品は 意外な方向に膨らんでいった。
それもそのはず、今回展示した作品のタイトルは、井崎が教えている絵画教室の生徒 によって名付けられたもの。

とりわけユニークだと私が思った「羽あり」(145x145cm)は、羽蟻の大群を見て興奮 して教室に飛び込んできた生徒がその作品を見るやいなや、これ!これを見たよ、 と、驚きを語ったところから名付けたという。

ひとつひとつのタイトルにまつわるエピソードを、楽しそうに語る作家。 子供達を呼び集め、これは何に見える?の問いに飛び出す無限の想像力。 優しい世界に羽ばたき生まれた単語詩と、作品との幸福な結婚を見た気がした。 

とてもいい授業ですね、と私が言うと
さあ こればかりでも授業にならないから、と笑う。

+α と思っていたタイトルで、二度美味しい展覧会。

 

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