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アートマガジンLR(エル・アール)

白川 昌生 masao shirakawa

「もしも美術館が存在していたら……」 1

 

『彷書月刊』(弘隆社出版の古書案内等々もかねた業界向けの雑誌)の2001年6月号「ダダイズム・村山知義の肖像」の特集号に、「タブローとの戦い」という文を松浦寿夫が書いていた。

「1920年代の日本の『前衛』たちは実際の海を見たわけでもないのに、とりあえず海図づくり(★)に航海に乗り出さなければならなかった」

「美術作品の形成の環境において、この地図製作の作業を担う大がかりなひとつの制度が存在する。それは改めて指摘するまでもなく美術館である」

「1920年代の日本の『前衛』たちの活動が結局、展覧会組織をめぐる戦いとしてもっぱら組織化されていくことになるのも、実は、この美術館の不在という事態のひとつの帰結であったとはいえないだろうか」

と、非常に興味深い意見を松浦は書いている。

今、美術館をめぐるさまざまな問題、また80年代以降の制度論の展開なども重ねて、この松浦の指摘を読むと、1920年代の構図が今日の美術界の中にまだまだ解消されずに持続してきているのではないかと考えてしまう。ひょっとすると、美術館の不在は今も、そうではないのかと。

それというのも、松浦は、美術館は「美術作品の形成の環境において、この地図製作の作業を担う大がかりな制度」であると言っている。つまり、この制度が十分に機能しない場合、歴史化の作業は満足する結果 を得ることはできない。

この問題は、私にはつい先ごろ「日本ゼロ年」をめぐって『LR』でも議論された問題とつながっているように思える。重要なのは、この美術館の制度によって発動する美術作品の「歴史的な再組織化」(松浦)の作業が、国内のみならず対欧米という二重の視線の上に成立しているという点でも、1920年代の時と構図的には大枠は変化していない。

さらにその中心が美術館であり、また一方は「書物ないし、諸雑誌記事の担う役割に大きな比重を与えた」(松浦)という点でも、同様である。事実、『LR』での議論においても個別 の作品、作家についてよりも、美術、制度、評論などをめぐる言説が中心になっていたし、近代日本美術史の正統的な地図、あるいはルールは一体どのように、誰と誰を結びつけて描かれるべきなのかという点においても、「図表化の意志をささえた欲望」についての議論ではなかっただろうか。

松浦の言う「タブロー」(平面 性と同時性)をめぐる議論であったといえるとすれば、一体、私達はこの80年近い時間の中で何をやってきたということになるのだ。

松浦は、この図表化は「きわめて粗雑な定式化でしかない」とも言っているのだが。近代芸術を自己生産していく過程において、不可逆的な要請でもあればこそ、日本だけの特殊性とだけは言えないことも松浦は述べている。そうであればこそこの「タブロー」をめぐる戦いは、より深刻な問題にも発展することになると、私は思う。  

ところで松浦の言う「美術館の不在」に対して、「もしもあの当時に美術館が存在したら」という仮説を考えてみると、どうなるのだろう。 (次号につづく)

 

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