山梨・まち[見物]誌ランデブー 第4号 特集・高根町
ポールラッシュと浅川兄弟
清里の父といわれたポールラッシュと、 朝鮮を愛した伯教・巧兄弟のものがたり
2つの偉大なものがたリ
高根町は、八ヶ岳山麓の町の一つであるが、実にユニークで、ある意味では現在的な「2つのものがたり」をもつ町である、清里の父といわれたポール・ラッシュ(1897〜1979)と、朝鮮をを愛した浅川伯教(のりたか/1884〜1964)・巧(たくみ/1891〜1931)兄弟が織り成したものがたりである。
こうして生没年を並べて見比べてみると、ポールと浅川兄弟はほば同じ時代、日本式にいうなら明治・大正・昭和を生きた同時代人であることがわかる。伯教はポールよりも13歳年上、巧はポールよりも6歳年上だった。もっとも巧の人生は40年というあまりにも短いものであったが。
もうひとつ「2つのものがたり」には共通項がある。
清里の清泉寮を訪れたことのある人はお気づきだろう。その正面玄関の上部の外壁に十字架が架けられていることに。だが、ガラスがはめ込まれたその美しい十字架は、通常の形とは異なり十字がX字型なのである。そのいわれについては、後々触れることとして、ここではこのX字型のクロスのことを「聖アンドロクロス」とだけ呼んでおこう。
高根町役場をさらに西に進んだところに、「五町田」という交差点がある。交差点を北に進んだ左手の辺りに共同墓地があり、墓地の道沿い近くに浅川家の墓がある。この墓石の上部にもくっきりと十字架が刻まれている。
ポールと浅川兄弟をつなぐもう一つの共通点とは、キリスト教である。それもそれぞれかなり独特な信仰のスタンスをとっていた。
高根町を舞台として、アメリカからやって来たポールは、清里という稀有な「モデル地区」を作り出し、また、この地に生まれ、この地で育った浅川兄弟は、相次いで朝鮮に向かい、兄の伯教は朝鮮の地で李朝の青磁や白磁の美を発見し、弟の巧は朝鮮の禿げた山々を緑に埋める夢にその生涯をかけた。
日本から朝鮮へ、アメリカから日本へ。クロスする他国における献身的な奉仕活動。このことも2つのものがたりに共通するポイントであった。
高根町をキーステーションにして繰り広げられた壮大な二つのものがたり―誌面の許す限りその足跡を、懐かしい写真と関係者の思い出話とでドキュメントしてみようと思う。
目の前に聖域が
清里駅前の商店街を抜けると道は2つに分かれる。右折すると県営清里の森や清里北澤美術館などのあるコスモス街道に出る。右折しないでそのままさらに進んで、喫茶店「ミルク」を左手に見ながら次の右折道を曲がったところで、車を止めた。
実はもうすぐ春だというのに、さっきから雪が舞いはじめていたのだ。今年、甲府ではとうとうたいした雪にはお目にかからなかった。だからなおのこと年がいもなく心が踊ったのだろう。しかも、清里の雪だ。夏の清里にはこれまでずいぶんとお世話になったけれど、考えてみると冬の清里に来たことはなかったかもしれない。
目の前に、雪におおわれた小海線の踏切がある。 踏切を渡ると、その先が「キープ協会」の世界だ(「キープ協会」とは、ポール・ラッシュが生涯を捧げた協会のことである)。ほとんど人が通った気配がない、白くて静かな世界が広がって見える。
清里聖アンデレ教会や清里聖ヨハネ保育園、高冷地実験農場、清身寮、八ケ岳自然ふれあいセンターなどが、標高千四百メートルの八ケ岳山麓の広大な敷地の中に点在している。サンクチャリ、聖域。普段ならいささか使うのがためらわれるこのことばも、まさに、本日この瞬間にはぴたりと当てはまって感じられる。そういう気配に一瞬のうちにのみ込まれて、思わず車を止め、雪の舞う踏切までを歩いたのだった。
そのとき、1枚の古い写真が思い浮かんだ。それは、踏切のこの場所、そう、まさにこの地点に立ってこちらを見つめているポール・ラッシュの写真だ。ポールの印象的な、独特のまなざし。
そのポールの両側に、2つの門塔が写っていた。
今も目の前にあるその門塔は、すでに40年の歳月を変わることなく道の両端にこうして立ちつづけてきた。そして、キープを訪れた数えきれないほど多くの人々を、ここでこうして迎えてきたのである。
左側の門塔には、「清里農村センター財団法人キープ協会」と、右側の門塔には、「われ山にむかいて目をあげんわが助けはいずこより来るべきぞ」という旧約聖書の詩編121の一節が刻まれている。私はその門塔の文字を写真に納めた。夜のしじまの中にポツンと光る門塔の明かりが2つ、思い浮かぶ。そして、もう一度写真の中からこちらを見つめているポールの顔を思い出した。
門塔に刻まれた詩編の言葉にも、実は印象深いエピソードがあった。(本文の冒頭より転載)
コンテンツ
- わが助けはいずこより
- ポール、日本に残ってくれないか?
- 最善を尽くせ、そして、一流であれ
- ポールのあゆみ年譜
- キャンプへのあこがれ
- 軍国主義下の日本のために
- 清里に集まった人々
- お金がなければ、頭を使え
- 清泉寮を閉鎖、そして強制送還
- 終戦、そして戻ってきたポール
- そして、それから
生誕の地 旧甲村を訪ねて
春まだ浅き3月の好日、高崎宗司さんの『朝鮮の土となった日本人/浅川巧の生涯/増補新版』を片手に、高根町のゆかりの地を訪ねた。この本には詳細なマップも併載されているので、なかなか便利である。加えて、高根町役場でいただいたガイドマップも、カラー図版が掲載されていて頼もしい味方だ。しかもこちらには、韓国における浅川兄弟ゆかりの地を記したマップも併載されていた。そういえば、役場でいただいた町勢要覧には日韓両国語が併記されていた。浅川兄弟を偲ぶ会の会報によると、会主催で韓国語入門講座や、「巧さんを偲ぶ生誕地ツアー」も行われている。また韓国では毎年4月に、韓国在住の日本人によって忘憂里(マンウーリ)の公園墓地で「巧の忌」なる会が開かれているという。浅川兄弟との関わりを通して、町における国際交流の在り方のひとつのモデルが示されているようだ。
高根町役場前の通りを、長坂インターチェンジを目指して西へ車で進む。中央公民館や農村環境改善センター、町民体育館などを通過する。熱見郵便局を過ぎた先に、五町田の交差点がある。近くの駐車スペースに車を置いて、ここからは徒歩で行く。地図に沿って、まずは浅川兄弟生誕の地へ。
周囲に屋敷林のような木々が立っている空き地がある。手前には廃棄された自動車がずらりと並んでいるが、そこが、浅川兄弟が生まれた場所だ。現在は家もなく、ただ畑が広がっているばかりだ。浅川家は富裕というほどでもなかったが、庭には築山(日本庭園で、山をかたどって土や石を小高く盛った造作)がある立派な家だった。
そこから北に100メートルほど離れたところにある農村公園の入口付近に、「浅川伯教・巧兄弟生誕の地」と刻まれた記念碑が立っている。伯教たちが韓国に渡ったのは大正二(1913)年のこと、今からほぼ1世紀近くもむかしの話だ。記念碑は浅川兄弟を偲ぶよすがとなっている。(本文の冒頭より転載)
コンテンツ
- 兄弟は祖父の影響を深く受け
- 女丈夫の母親けい
- 登場人物ゆかりの地
- 伯教・巧と韮崎時代
- 兄弟の果たしたこと
- 芸術で相通ずる道を
- 自然体の巧の生き方
- 伯教の考え方
- 柳、東洋の美に参る
- 戦争と侵略の狭間で
- 二つのエピソード
- 宗教の問題