山梨・まち[見物]誌ランデブー 第5号 特集・玉穂町
甲斐の国唯一の虚無僧寺 明暗寺顛末
笛吹川の土手を、ひとり虚無僧が足早に
盆地の南端に位置する町
甲府市の南方にある国母工業団地をさらに南下し、突き当りを右折して上成島の四つ辻をさらにひたすら南下する。玉穂町内をまっすぐに下るこの道は甲府玉穂中道線である。
広々とした田畑がつづく玉穂町は、位置的にはすり鉢上の盆地の底の辺りにあたるのだろうが、実に見晴らしのいい風景がつづく。盆地を囲う山々が、遠くにではあるがすべて一望できるのもいい。
南正面には、雪帽子だけしか見えないけれど富士山が、西には南アルプスや甲斐駒ケ岳、背後には八ヶ岳、東方には大菩薩の峰々が見える。
武田信玄の時代には、ほぼ真北にお屋形様の住居があったという。もっともこの町の西側には釜無川が流れており、今走っているこの道の突きあたり、つまりこの町の一番南側には、笛吹川が横断している。信玄堤ができる前の時代には、釜無川の氾濫がつづき、暴れくねった川の水がしばしばこの町を飲み込み、田畑を荒らし、家々を解体した。そしてその濁流はそのまま笛吹川に流れ込んでいたのである。
豪族たちの家は家の周囲に土塁や堀を巡らして、その危機を逃れようとした。そうした豪族たちの屋敷跡が、今でもこの街に残っている。その話は、別の記事で紹介することとして、今は、まっすぐに笛吹川の土手まで下る。この記事のお目当ては、その土手の少し手前、乙黒という地域に残されている明暗寺跡地である。
明暗寺という寺の名称からして興味深いこの寺は、明治4(1871)年、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく/仏教を排斥し、すてること。特に、明治元年、神仏分離令にともなって起こった、仏教排斥運動)の運動により廃寺となるまで、全国的に有名な虚無僧寺としてその場所に建っていた。
(本文の冒頭より転載)
コンテンツ
- 梅の木の傍らに石碑が
- 虚無僧って何?
- 虚無、虚妄の僧とは?
- 日本でも栄えた普化宗
- 偽虚無僧が登場するほど
- 明暗寺の面影を求めて
- 明暗寺ひとすじに
- 背筋を伸ばした、威厳のある坐像に