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山梨・まち[見物]誌ランデブー 第6号 特集・田富町

花輪と『雲母』 大正9年の「笛吹川観月句会」再現ドキュメント

雨よ振らないでくれと、蛇笏は祈った

兄蛇笏の思い出

樋水家にて 汀波(右)と蛇笏田富町東花輪駅近くに、清川という小さな川が流れている。その川のほとりに、樋水昌策(といずみしょうさく)という医師の家があった。昌策は俳人であったので、汀波(ていは)という俳号をもっていた。樋水家の川沿いの長屋門(南側が長屋作りになっている門)東座敷は「汀(みぎわ)の庵(いおり)」と呼ばれていた。実は汀波の妻静枝は、俳句誌「雲母」の主催者だった俳人飯田蛇笏(いいだだこつ)の妹だった。
 昭和55年(1980)年10月3日付山梨日日新聞文化欄の記事で、その静枝が兄蛇笏の思い出を語っている。10月3日は蛇笏が他界した日であり、蛇笏忌でもあった。つまりこの記事は、蛇笏忌の関連記事だったのだが、このとき十九回忌であったから、今年は三十九回忌ということになるのだろう。
 記事の取材当時、静枝は88歳だったが、掲載されている写真を見ると、配筋をしゃんと伸ばして矍鑠(かくしゃく/元気そうなこと)とした姿で、蛇笏によく似た顔立ちをしている。
 静枝は、兄が懸命に書を指導してくれたり、本を読むことを勧めてくれた思い出を語り、そしてそのことが実は少々負担だったとも話している。
 静枝が女学校を卒業した翌年、境川の飯田家に若山牧水(わかやまぼくすい)が訪れたことにも触れている。そのとき蛇笏は、祖母が重体で病床についていたにもかかわらず、牧水にはその事実をふせたまま2階に住まわせ、なんと14日間も世話したというのだ。牧水が信州に旅立った3日後に、祖母は他界する。静枝は、そういう兄の態度を、多分、うまく理解できなかったのにちがいない。なぜ、牧水に祖母の病気のことを告げ、長逗留(ながとうりゅう)を回避させなかったのか。そういう思いが、静枝には残った。少なくともそう読める談話である。
 こうした態度が、どうやら蛇笏にはたびたび見られた。
 昭和47年(1972)年に刊行された『俳句研究』十月号は、「飯田蛇笏読本」を特集している。その中で蛇笏にかわいがられた新聞記者(当時)小林富司夫が、似たような蛇笏の思い出を書き留めている。小林が蛇笏にはじめて会った戦後間もない頃、実は蛇笏は長男と三男を相次いで失っていた。にもかかわらず蛇笏はいっさいその事実と、それに伴う悲しみを小林に見せなかった。蛇笏の私事に関する沈黙の態度に関して小林は、「私はあのような屹立(きつりつ/そそりたつような)した悲傷の形態を見たことがない」と記している。
 確かに蛇笏には、そういう一面があった。(本文の冒頭より転載)

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