山梨・まち[見物]誌ランデブー 第9号 特集・韮崎市
保坂嘉内と宮沢賢治 こうして人は、自然に帰っていくのだ
二人の出会い
「銀河鉄道の夜」で有名な、宮沢賢治。あの賢治の青年期に、深い影響を与えた人物がいた。韮崎出身の保坂嘉内である。
嘉内は明治29(1896)年10月18日に駒井村37番地で生まれ、昭和12年(1937)年2月8日に胃ガンにより他界している。数えてみると、41歳の若さだった。実は賢治も嘉内と同じ年の8月27日生まれで、嘉内より2ヶ月ほど「お兄さん」だった。その賢治は、昭和(1933)年9月21日に結核のため他界した。37歳だった。賢治は、嘉内よりも先に生まれて先に死んでしまったことになる。
それにしても、二人ともに実に若い死である。
山梨と岩手という離れた場所に生まれた二人が、盛岡で出会い青春時代を過ごし、それぞれの郷里で、自分の思い(法華一乗楽土と百姓協業楽土)を遂げるために生きた。そう考えると、何か妙に懐かしくも熱い感情が頭をもたげてくる。
現在ではあまり流行らないように見えるかもしれないけれど、本当は多くの人たちが今でも、こういう生き方を望んでいるんじゃないか、そう、思える節がある。
少なくとも筆者の周辺にはそういう方々がおられる。
それにしても、賢治は30代で、すでにおびただしい作品を残していた。その表現の量に、まず驚かされてしまう。もちろん質が、それに伴ってあまりあるわけだから、驚きは倍増するのだ。その渾身のエネルギーにあらためて恐れ入る。
筑摩書房から出ている「校本・宮沢賢治全集」の第14巻「補遺・補説 年譜 資料」の中に、賢治が盛岡高等農林学校(高農)で仲間とともに創刊した「あざりあ(西洋つつじ)」という文芸同人誌の全記録が掲載されている。
そこには12人の同人の名前が記されているが、その中に「保坂嘉内 農学部第二部二年 明治二十九 甲府中」と書かれた一行がある。ちなみに賢治は同じ農学部の一年先輩だった。
ほかに特に熱心な同人として小菅健吉と河本義行がいた。
高農2年生のとき、賢治は特待生(授業料免除)で級長であり、寄宿舎自啓寮南寮九室の室長だった。この南寮に新入生として嘉内が入ってきた。
このときから賢治と嘉内の交友がはじまったのだ。
だれが「あざりあ」発行を考えたかは定かでないが、賢治は前年から高農校友会誌に投稿をし、この年は編集委員になった。
一方、嘉内には甲府中時代、ガリ版ずりの文芸同人誌『下風』『順禮』などを発行した経験がある。こうした経緯から推測するに、嘉内のアイディアを取り上げた賢治が呼びかけて決まったとみるのが自然だろう。(本文冒頭より抜粋)
コンテンツ
- 農村を美田にしたい
- 賢治が描いた夢の行方
- 思いがけぬ事件に
- 賢治の手紙から嘉内を
- 除籍後の嘉内の人生を追う