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山梨・まち[見物]誌ランデブー 第13号 特集・昭和町

霞堤と湧涌の地の沼天神 (まちで出会った水にまつわるエピソード)

地名がものがたる、まちと水の深い関係

昭和町1昭和町の取材の準備で地図を見ていたときのことである。点在する地区がそれぞれとても興味深い名前であることに気がついた。
 「河」、「清水」、「新田」という文字がたくさん登場しているところを見ると、やはり町の西側を流れる釜無川(かまなしがわ)との関連か?「飯喰(いっくい)」という実に興味深い地区名もある。
 さっそく、それぞれの名前の由来を調べてみたら思ったとおり、そのほとんどが、この町の成り立ちと深く関わってきた「水」と縁があるというではないか。
 これを知らずして、今回のテーマ「まちと水にまつわるエピソード」ははじまらない。筆者はそう考えた。
 というわけで、ここで昭和町の地名の由来一覧をご覧頂くとしよう。多少強引な部分もあるが、釜無川関連と沼地・湧き水関連に二つに分けてみた。

昭和町2 はじめに、釜無川関連からである。
 まちの南部、隣接する田富町と玉穂町に近いところに、「河西」、「上河東」がある。これらはその名の通り、釜無川をはさんで西と東にできた集落。「上河東」の北側「河東中島」は河が荒れて川筋が乱れていたところ、氾濫を逃れた中洲にできた集落だという。
 され?でも、ちょっとおかしい。地図を見る限り釜無川は「河西」のさらに西を流れている。ましてや、中洲にあるはずの「河東中島」は川からかなり離れているではないか・・・・・。
 その答えは信玄堤築堤の歴史を記した本の中に見つかった。各々の集落ができ地名がついた後に川筋が変化したのだそうだ。釜無川が最終的に今の位置を流れるようになったのは、江戸時代、八代将軍吉宗のころ(1700年代前半)で、それ以前は現在よりもっと東側、つまり「河西」と「上河東」の間を流れていたのだという。 (本文の冒頭より抜粋)

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