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山梨・まち[見物]誌ランデブー 第13号 特集・増穂町

与謝野寛(鉄幹)・晶子が、萬屋に宿泊した日

春鴬囀のかもさるゝ蔵

館内写真 増穂町の中心商店街の一角に、ひときわ目につく蔵作りの建物がある。白壁となまこ壁のコントラストが美しい。蔵の隣の、味わいのある門構え。そこを過ぎると、その道の突き当たりに萬屋醸造が見える。寛政二(1790)年に、初代当主・萬屋八五郎が蔵を開いてから二百十年の歳月流れている。
 その道の途中に、ほどよい大きさの歌碑が立っていた。歌碑には、
  法隆寺など行くごとし 甲斐の御酒(みき)
       春鴬囀(しゅんのうてん)の かもさるゝ蔵
と刻まれている。与謝野晶子がこの場所で詠んだ句であるという。そのエピソードを萬屋醸造蔵元・中込(なかごめ)元一郎さんと奥様・紀子さんにうかがおうとやって来たのだが、まだ約束した時間までには間がある。以前にも訪れたことのある酒造りのギャラリー六斎をのぞいてみた。ちょうど「染と刺」二人展を開催中だった。
 ギャラリーは二階だが、一回には六斎の目玉「利き酒」コーナーがある。この利き酒、実は口偏に利と書くのだそうが、あいにく、漢字がない。デザイナー氏に字をつくってもらわなければならない。
 六斎といえば、利き酒といわれるほど、このコーナーが有名なのである。
 黒のおそろいのエプロンをした二人の女性が、対応してくださる。
 かなり大きな木製のテーブルの上に、ずらりとお酒が並んでいる。テーブルの上部はガラス板になっていて中がのぞける。そこにお酒の元、さまざまなお米・酒米(さかまい)が展示されている。(中略)

寛(鉄幹)・晶子が泊まった部屋で

「この家は明治30年代に建てられたものですから、もう百年以上経っていることになります。」
と、現在の店主・中込元一郎さんは話す。
 明治の商家のたたずまいが残る貴重な文化財的な建物、といってもさしつかえないだろう。かつてはそこが商いの場所であったという縁側から上がり、趣のある客室で取材。開け放たれた障子戸の向こうに、よく手入れが施された中庭が見える。
 まずは、与謝野晶子の直筆の歌を軸装にした掛け軸を見ていただけばと、元一郎さんは傍らの紀子さんに促す。紀子さんは六斎の店長である。
 隣の部屋にある床の間に、それは掛けられていた。

  「法隆寺など行くごとし 甲斐の御酒(みき)春鴬囀(しゅんのうてん)の かもさるゝ蔵」

と、紀子さんが声に出して詠んでくださる、これが表にあった歌碑に刻まれていた元の書ということになる。

 「当時は門からここまで来る途中が板塀だったものですから、その雰囲気が法隆寺の周囲と似ていると感じたらしく、それで法隆寺など行くごとし、という句が生まれたのでしょうね」
と元一郎さん。
 「春鴬囀というのは、唐の雅楽の楽曲名でして、鴬の鳴いている声を聞いて唐の高祖皇帝が楽士に作曲させたというたいへん優雅な曲だそうです。このあたりのたたずまいと、お酒の味が優雅だと褒め称えてくれた歌だと聴いています」
 紀子さんが続ける。 (本文の冒頭より抜粋)

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