山梨・まち[見物]誌ランデブー 第14号 特集・須玉町
蝉時雨の中で、三代校舎は今日も元気だ
三代校舎のそろい踏み
須玉町は縦に長い町だ。町役場の辺りから道が二股に分かれて左右に上方に延びている。左の道は県道「清里須玉線」、右の道は県道「増富若神子線」である。左の道には須玉川が、右の道には塩川が、それぞれ寄り添うように流れている。
左の道、県道「清里須玉線」を上津金目指して進む。随所に段々畑が現われ、美しい農村風景が展開する。自然が荒らされておらず、住んでいる人たちのたたずまいもどこかなつかしい。万年橋を越えた辺りから山道となる。左手にときおり須玉川上流の谷川が顔をのぞかせる。上がりきったところで旧津金学校に行き当たった。
年輪を重ねた桜の樹木に囲まれた広い校庭に面して、右から明治時代の校舎(現在の須玉町歴史資料館)、その隣に大正時代の校舎(現在の建物は大正時代の校舎をモデルとして再建されたもの)、そして昭和時代の校舎(現在は、「おいしい学校」として再建されている)が並んでいる。いわば、三世代校舎のそろい踏みというところか。
「全国的に見てもこんなふうに明治、大正、昭和の学校が横並びに建てられたところは珍しいそうです」
と須玉町教育委員会の山路恭之助さんが教えてくれる。山路さんは須玉町役場近くに建てられた須玉町農村総合交流ターミナル「ふれあい館」の1階にある教育委員会に勤務しているのだが、文化財担当ということもあって明治に建てられた旧津金学校(平成2年解体・復元)を改築したここ、須玉町歴史資料館に来ていることが多いという。
まずはこの建物、藤村式擬洋風建築の魅力についてお聞きしなければなるまい。白とブルーとグリーンの色彩に彩られた明治の木造建築。なんともいえない味わいがある。
「ご存知のように、藤村(ふじむら)式建築とは、明治初期から20年代ころまでの間に、山梨県の各地に建てられた洋風建築の呼び名なんですが、この呼び名は、明治六(一入七三)年に山梨に赴任してきた藤村紫朗(ふじむらしろう)県令(知事のこと)の名前にあやかって山梨の洋風建築に対してつけられたものです。
この時期には長野県や静岡県をはじめとして、全国各地に同様の洋風建築が建てられました。これらの洋風建築は日本建築に洋風の外観を取り入れた、いわば擬洋風建築だったわけです」
以前、愛知県にある財団法人明治村でこの種の建築を見た記憶があった。それは「東山梨郡役所」で、国の指定重要文化財だったはずだ。明治18(1885)年10月に東山梨郡日下部村に落成されたその建物は、現存するただ一つの「E字型(中央玄関と左右の部分が突き出ているスタイル)の藤村式建築であるという。
ちなみにこの東山梨郡役所には、明治39(1906)年5月29日、陸軍軍医だった森林太郎が徴兵検査に関する行政指導のために訪れている。森林太郎とは、明治の文豪・森鴎外のことである。
(本文の冒頭より抜粋)
コンテンツ
- リニューアルして大成功
- 資料館を探検する
- 2階に上がるとそこは・・・・・
- ユニークな出産土器
- NPO(特定非営利活動法人)との協働
- 静止画像も動画像もデジタルデータで
(注)須玉町は、市町村合併により現在の北杜市の一部となっています。