山梨・まち[見物]誌ランデブー 第15号 特集・秋山村
天神隧道の開削に生涯を捧げた人 原田善左衛門
中央線へ急げ、天神トンネル
「秋山村誌」の第3編「村の歴史」の中の第4章、第5章を執筆しているのは、元山梨日日新聞編集局長の長田庄司さんである。この部分、通常の市町村誌の書き方と一味ちがっていてとても読みやすく、楽しい。あたかも小説を読んでいるかのごとき気分に浸ることができる。
たとえば第8節のタイトルはこうだ。「中央線へ急げ、天神トンネル」。いいでしょう?このキャッチなタイトル。見出しは「開業したぞ、上野原停車場」である。
長田さんによると、中央線は敵から攻撃を受けない内陸の軍事鉄道として日露戦争を前にして建設が急がれたのだという。そして、明治34(1901)年8月に、上野原停車場が開業した。中央線は軍事鉄道だったのかと、あらためて驚かされる。
それから10年、中央線は名古屋まで前線が開通する。それに呼応して、中央線の各駅まで接続する馬車鉄道の建設も進んだ。山梨馬車鉄道、鰍沢馬車鉄道、都留馬車鉄道、富士馬車鉄道などが次々と生まれた。馬車鉄道なるものの姿は、以前、本誌でも紹介したことがあるが、土面に線路を設置し、その上に貨車を乗せ、それを馬で引かせたのである。
上野原駅が誕生して、秋山村民たちはこれで便利になると期待したが、桜井峠や天神峠がその夢を遮断していた。上野原までの直線距離はたかだか4キロ足らずなのに、これらの峠があるかぎり、秋山村と上野原駅とは遠い遠い関係のままでいなければならなかった。天神峠にトンネルが開かれればと、だれもが考えたが、それは容易なことではできない相談だった。
長田さんは、当時の馬の必要性をこんなふうに記述している。
秋山村の特産は炭だった。最盛期には村民が約炭の収入が村の村民総生産の47パーセントを占めていた。15キログラムの俵で年間15万俵!!恐るべき数字である。南都留全体の総生産高の45パーセントで、白炭だけについていえば66パーセントを占めていたという。
一古沢組の惣百姓たちは、安寺沢入りで製炭願いを元禄6(1693)年には出している。無生野の上野滝次郎のような炭焼き名人を出すだけに、秋山の白炭は八王子の問屋仲間では「椚(くぬぎ)田炭」として有名だった。中西部の王(大)ノ入も季節には百人もが入山し「炭焼き銀座」になった。
さて、こうして生まれた炭を運ぶのが馬だった。文化7(1810)年の文書には、秋山村の馬の数は93頭と記してあったという。村民は馬に炭を担わせて急な峠を越えて上野原に炭を運ばなければならなかった。馬はそればかりではなく、花嫁を担い、花嫁道具を担い、助産婦さんを担い、出征兵士の送り迎えをし、田植えの代かきもした。なんという重宝な動物だったのだろう。
明治33(1900)年、その大切な馬が5頭も相次いで天神峠の谷底に落ちて死んだ。それを知って一古沢(いっこざわ)に住む村長・原田善左衛門は深いため息をついた。この原田善左衛門に関しては、「郷土史に輝く人々」(編集・青少年のための山梨県民会議)に詳しく紹介されている。村誌と合わせてこの資料から原田の偉業をスケッチしてみよう。
コンテンツ
- 天神隧道のために尽くした人生
- 偉業を讃えた「天神隧道記念碑」が