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山梨・まち[見物]誌ランデブー 第16号 特集・敷島町

山梨の観光地の礎を築いた石原初太郎

双葉町1石原初太郎は、明治3(1870)年9月6日に、現在の敷島町大下条に生まれた。石原初太郎といえばすぐ浮かぶことがある。初太郎の四女・美知子が、太宰治の妻であるという事実だ。そして、太宰治が天下茶屋で書いた『富嶽百景』が、この初太郎の成した富士山研究「富士の地理と地質」を元にして書かれているという、これまた事実である。
 初太郎は教育者としての、また地質学者としての仕事に、山口、島根、山形、広島県などで従事したのち、大正10(1921年) に山梨県の招きによって帰郷した。51歳だった。その後は山梨県において県下各地の地質や動植物の調査研究や、景勝地の開発事業に携わるなどして、慣行山梨の礎を築く仕事に尽力した。
 今号ではそうした、山梨に戻ってからの初太郎の足跡を追いかけてみようと思う。

 山梨での初太郎

初太郎についてのエッセイは、『郷土史に輝く人々集合編3』に収録されていた。執筆者は志摩阿木夫さん。例によって何の手持ちもない筆者であるから、志摩さんのエッセイを元にして石原初太郎の人生のスケッチを試みるほかないわけだ。志摩さんにすがりながら、初太郎のことが少しでも分かったらうれしい。そんな気分だ。
 志摩さんが紹介してる図版資料を借りたいと思い、県立図書館に行った。「御嶽昇仙峡と其奥」という初太郎の著書と、初太郎が調査・研究にかかわった「山梨県名木誌」は、司書の方がすぐに見つけて下さった。県立図書館では申し込めばその場で写真撮影が可能だ。もちろん自分で持参したカメラで撮影するのだが、これはうれしい。
 志摩さんに誘われて、まずは「御嶽昇仙峡と其奥」 という、初太郎の著書と出会えた。この本は昭和5(1930)年8月8日に印刷され、11日に発行されていた。定価は80銭。発行者は東京市麹町区元衛町一丁目1番地にあった史蹟名勝天然記念物保存協会の矢吹活禅氏である。
 「発兌」 という珍しい標記があったので調べてみると、これは「発行」の意味だそうで、「はつだ」と読む。発行者とは別に、この本を実際に出版した出版社のことのようで、そこは東京戸塚町下戸塚13にあった(カッコして早大舊正門前、とある)上田泰文堂である。
 さらにあとから印刷された風体で、大取次所として甲府市柳町2丁目にあった柳正堂書店の名前が見られる。

コンテンツ

(注)敷島町は、市町村合併により現在の甲斐市の一部となっています。


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