2022.7.16更新

     
 
 
 

 

 『こち亀』の表紙
  にも登場した
 「荒川遊園地前」です。


電停の名の通り“あらかわ遊園”があります。ぶらっと出かけるには最適の場所です。
※遊園地の名前は“あらかわ遊園”ですが、停留所の名前は“荒川遊園地”です。

近くには、スーポーツハウスもありますので、こちらで体を動かすのもいいかも。プールとかジムとか設備も充実しています。



 あらかわ遊園 荒川区西尾久6-35-11 TEL 03-3893-6003


大正11年(1922年)5月、広岡勘兵衛氏が王子電気軌道株式会社の援助を得て、船方の煉瓦工場を廃し民営の遊園地として設立したのが始まり。この頃は王子電車(現都電荒川線)の開通と、碩運寺に湧いたラジウム鉱泉「寺の湯」を始めとする温泉旅館の開業により、尾久が賑わい始めた頃でもありました。当時の荒川遊園は広大な敷地を有しており、大きな池には観月橋を渡し、近くに竜宮館、総檜展望台などが建設されていました。大滝のある清流や、更には映画館、大浴場といった娯楽施設も用意されていました。遠方からの来園者も多く、「城北の名園」として親しまれていたそうです。当時の案内には『東京に最も近き避暑地 暑さ知らずの仙境 有名なるあら川大瀧あり』と記載されてました。入園料は、王子電車の往復運賃とセットで大人35銭、子供5銭。今の金額に換算できないので、高いのか安いのか私にはわかりませんが、そこそこいい値だったと推測されます。
広岡氏没後、経営難により、昭和7年(1932年)荒川遊園は王子電気軌道株式会社の経営へと変わります。そして、第二次世界大戦の勃発により、昭和16年(1941年)陸軍に接収され閉園。園内に高射砲陣地が設置されました。
終戦後、都の都市計画の決定により、昭和24年に荒川区立児童遊園となり復活。翌25年(1950年)8月、荒川区立荒川遊園として再び開園されます。民営の荒川遊園が主に大人を対象とした施設だったのに対し、区立のあらかわ遊園は、児童遊園と位置付けられました。園内には、飛行塔、豆電車、木馬、ローラースケート場やプールなどが設置され、昭和27年につり掘がオープン、さらに昭和29年には、観覧車が新設されました。当時のゴンドラの数は8基と小規模なものでしたが、数回の改修を経て今日まで、あらかわ遊園のシンボルとして親しまれています。
私が一番利用したのが、昭和40年〜50年代にかけて。ちなみにリニューアル前の入園料は『大人200円。小・中学生、65歳以上の方は100円。平日なら小・中学生は無料(春・夏・冬休み期間は除く)』でした。入園料が無料だったので、当時は近所の公園感覚で利用していました。
おさるの電車(本物の猿が車掌)とか懐かしい思い出です。戦争の傷痕も残っており、高射砲陣地は小高い丘になっていて、防空壕跡とかそのままになっていました。もちろん防空壕跡は立ち入り禁止なので、子供の頃は恐る恐る覗いていたもんです。
昭和61年(1986年)に全面改築の為一時閉園しましたが、平成3年(1991年)4月に新たにオープン。
平成30年(2018年)12月、再び全面改築の為閉園。コロナの影響で工期が伸び、令和4年(2022年)4月21日にリニューアルオープンしました。

園内には、観覧車、豆汽車、スカイサイクル、ファミリーコースターなどがある「のりもの広場」や、動物とふれあえる「どうぶつ広場」、ロングすべり台がある「しばふ広場」、水上ステージの「アリスの広場」などがあります。
「どうぶつ広場」には、ミーアキャット、カピバラ、アルパカ、フクロウなどがいます。ヤギ、ヒツジ、ハムスター、カメなどとふれあえるエリアは時間指定がありますので、利用の際はご確認ください。どうぶつ広場は15時30分に終了しますので御注意ください。
観覧車は今までの直径26メートルから40メートルに大きくなりました。天気がいい日には富士山も見えるかも。あらかわ遊園のすぐ後ろには隅田川が流れています。
園内にある「釣り堀」は、以前あった小鯉の池、大鯉の池、へら鮒の池から縮小され金魚のみになったみたいです。釣った魚はリリース。持ち帰りはできません。

公式HPからお借りしました

 



工事中の写真、昔の写真はここ。  


 
のりもの、釣り掘など施設利用には別途料金(現金不可。のりもの券利用)がかかります。身長や年齢の制限もあります。
のりもの券(1枚100円)の必要枚数、制限などは、区公式サイトの料金表をご確認ください。
開園時間:9時〜17時(夜間開園時は20時まで)
休園日:毎週火曜日(火曜日が祝日の場合は翌日)
     年末年始(12月29日〜1月1日)
     *学校の春・夏・冬休み期間中は無休
駐車場(有料:駐車台数114台)もありますが、混雑して駐車待ちの場合もありますので、都電に乗っていくのがベストだと思います。

 荒川遊園煉瓦塀【荒川区登録有形文化財】 荒川区西尾久6-20


1922年(大正11年)荒川遊園開業時の東側の一部。煉瓦の短い面を見せる“小口積み”と、長い面を見せる“長手積み”を、一段おきに繰り返す“イギリス積み”と呼ばれる方法で積まれています。荒川遊園開園の際に、道路境の木材塀を煉瓦工場にあった煉瓦を使い、全部煉瓦塀に改修したそうです。昔の荒川遊園が現在より広大な敷地だった事がわかります。

 船方神社 北区堀船4-13-28


 
船方村鎮守の船方神社は、江戸時代、鬱蒼とした森の中にあって十二天の森・十二天社と呼ばれていたそうです。本殿の右脇柵内にある十二天塚と彫った石碑は、次の伝承に基づいて建てられたものです。昔、この地域の荘園領主の豊島清光は子供に恵まれず、熊野権現の神々に祈願して、やっと一人の姫を授かります。成人して足立少輔に嫁がせましたが、心ない仕打ちを受けた姫は入間川(=荒川)に身を投げました。そして、十二人の侍女も姫を追って身を沈めたという話が六阿弥陀伝承の中にあります。十二天とは、この十二人の侍女をさすと同時に帝釈天をはじめとする神々をいいます。これを密教では、世の中を守る神々として非業の死をとげた人々を鎮魂するため、塚などの祭壇にまつりました。密教と深く結びついた熊野信仰もまた、十二所権現・十二社・熊野権現・王子宮・若宮と呼ぶ分霊が、平安時代末期から室町時代にかけて全国各地にまつられましたが、熊野信仰が盛んだった荒川流域の村々では悲しい侍女達の地域伝承と密教の十二天や熊野信仰と結びつき、船方村の十二天社として奉られたものとも言えます。なお、この伝承は江戸時代、六阿弥陀参詣の札所寺院によって縁起化されました。しかし、荒川に身を沈めたのは清光の姫でなく、足立庄司の姫だという伝承があったり、姫の父親に実在しなかった人物が登場する点や、伝承の時代設定とは異なる奈良時代の高僧の行基が登場する点などのように一貫性がない事から、縁起の内容は寺院により少しずつ異なって伝えられていたと想像できます。・・・と言う事は、船方神社の十二天塚の信憑性ははっきりしてないという事でしょうか・・・。

船方村鎮守の船方神社ですが、今ではひっそりと目立たず佇んでいます。正直言って何もない。夏は薮っ蚊の大群に注意が必要です。虫が苦手な人はご注意を・・・。

船方神社横の公園を通ってアリスの広場に行けます。


次の停車は小台    次の停車は荒川車庫前
 
トップページに戻る