「坊つちやん」9章  うらなり君の送別会のあると云ふ日の朝、学校へ出たら、山嵐が突然、君先達はいか銀が来て、君が乱暴して困るから、どうか出る様に話して呉れと頼んだから、真面目に受けて、君に出てやれと話したのだが、あとから聞いて見ると、あいつは悪るい奴で、よく偽筆へ贋落款抔を押して売りつけるさうだから、全く君の事も出鱈目に違ない。君に懸物や骨董を売りつけて、商売にしやうと思つてた所が、君が取り合はないで儲けがないものだから、あんな作りごとをこしらへて胡魔化したのだ。僕はあの人物を知らなかつたので君に大変失敬した、勘弁し給へと長々しい謝罪をした。
 おれは何とも云はずに、山嵐の机の上にあつた、壱銭五厘をとつておれの蝦暮口のなかへ入れた。山嵐は君それを引き込めるのかと不審さうに聞くから、うんおれは君に奢られるのがいやだつたから、是非返す積りで居たが、其後段々考へて見ると、矢っ張奢つて貰ふ方がいヽ様だから、引き込ますんだと説明した。山嵐は大きな声をしてアハヽヽと笑ひながら、そんなら、何故(なぜ)早く取らなかつたのだと聞いた。実は取らう\/と思つてたが、何だか妙だから其儘にして置いた。近来は学校へ来て一銭五厘を見るのが苦になる位いやだつたと云つたら、君は余っ程負け惜しみの強い男だと云ふから、君は余っ程剛情張りだと答へてやつた。それから二人の間にこんな問答が起つた。
 「君は一体どこの産だ」
 「おれは江戸っ子だ」
 「うん江戸っ子か、道理で負け惜しみが強いと思つた[ママ]
 「君はどこだ」
 「僕は会津だ」
 「会津っぽか、強情な訳だ。今日(けふ)の送別会へ行くのかい」
 「行くとも、君は?」
 「おれは無論行くんだ。古賀さんが立つ時は、浜迄見送りに行かうと思つてる位だ」
 「送別会は面白いぜ、出て見玉へ。今日は大に飲む積だ」
 「勝手に飲むがいヽ。おれは肴を食つたら、すぐ帰る。酒なんか飲む奴は馬鹿だ」
 「君はすぐ喧嘩を吹き懸ける男だ。成程江戸っ子の軽跳な風を、よく、あらはしてる」
 「何でもいヽ、送別会へ行く前に一寸おれのうちへ御寄り、話しがあるから」

 

 山嵐は約束通りおれの下宿へ寄つた。おれは此聞から、うらなり君の顔を見る度に気の毒で堪 らなかつたが、愈送別の今日となつたら、何だか憐れつぽくつて、出来る事なら、おれが代りに行つてやりたい様な気がしだした。それで送別会の席上で、大に演説でもして其行を盛にしてやりたいと思ふのだが、おれのべらんめえ調ぢや、到底物にならないから、大きな声を出す山嵐を雇つて、一番赤シヤツの荒膽を挫いてやらうと考へ付いたから、わざ\/山嵐を呼んだのである。
 おれは先づ冒頭としてマドンナ事件から説き出したが、山嵐は無論マドンナ事件はおれより詳しく知つて居る。おれが野芹川の土手の話をして、あれは馬鹿野郎だと云つたら、山嵐が君は誰を捕まへても馬鹿呼はりをする。今日(けふ)学校で自分の事を馬鹿と云つたぢやないか。自分が馬鹿なら、赤シヤツは馬鹿ぢやない。自分は赤シヤツの同類ぢやないと主張した。夫ぢや赤シヤツは腑抜の呆助だと云つたら、さうかも知れないと山嵐は大に賛成した。山嵐は強い事は強いが、こんな言葉になると、おれより遥かに字を知つて居ない。会津っぽなんてものはみんな、こんな、ものなんだらう。
 夫から増給事件と将来重く登用すると赤シヤツが云つた話をしたら山嵐はふヽんと鼻から声を出して、それぢや僕を免職する考だなと云つた。免職する積だつて、君は免職になる気かと聞いたら、誰がなるものか、自分が免職になるなら、赤シヤツも一所に免職させてやると大に威張つた。どうして一所に免職させる気かと押し通して尋ねたら、そこはまだ考へて居ないと答へた。山嵐は強さうだが、智慧はあまりなさヽうだ。おれが増給を断はつたと話したら、大将大きに喜んで流石江戸っ子だ、えらいと賞めてくれた。  うらなりが、そんなに厭がつてゐるなら、何故(なぜ)留任の運動をしてやらなかつたと聞いて見たら、 うらなりから話を聞いた時は、既にきまつて仕舞つて、校長へ二度、赤シやツヘ一度行つて談判して見たが、どうする事も出来なかつたと話した。夫に就ても古賀があまり好人物過ぎるから困る。赤シヤツから話があつた時、断然断はるか、一応考へて見ますと逃げればいヽのに、あの弁舌に胡魔化されて、即席に許諾したものだから、あとから御母さんが泣きついても、自分が談判に行つても役に立たなかつたと非常に残念がつた。
 今度の事件は全く赤シヤツが、うらなりを遠けて、マドンナを手に入れる策畧なんだらうとおれが云つたら、無論さうに違ない。あいつは大人しい顔をして、悪事を働いて、人が何か云ふと、ちやんと逃道(にげみち)を拵らへて待つてるんだから、余っ程奸物だ。あんな奴にかヽつては鉄拳制裁でなくつちや利かないと、瘤だらけの腕をまくつて見せた。おれは序でだから、君の腕は強さうだな柔術でもやるかと聞いて見た。すると大将二の腕ヘカ瘤を入れて、一寸攫んで見ろと云ふから、指の先で揉んで見たら、何の事はない湯屋にある軽石の様なものだ。
 おれは余り感心したから、君その位の腕なら、赤シヤツの五人や六人は一度に張り飛ばされるだらうと聞いたら、無論さと云ひながら、曲けた腕を伸ばしたり、縮ましたりすると、力瘤がぐるり\/と皮のなかで廻転する。頗る愉快だ。山嵐の証明する所によると、かんじん綯りを二本より合せて、この力瘤の出る所へ巻きつけて、うんと腕を曲げると、ぷつりと切れるさうだ。かんじよりなら、おれにも出来さうだと云つたら、出来るものか、出来るならやつて見ろと来た。切れないと外聞がわるいから、おれは見合せた。
 君どうだ、今夜の送別会に大に飲んだあと、赤シヤツと野だを撲つてやらないかと面白半分に勧めて見たら、山嵐はさうだなと考へて居たが、今夜はまあよさうと云つた。何故(なぜ)と聞くと、今夜は古賀に気の毒だからーそれにどうせ撲る位なら、あいつらの悪るい所を見届て現場で撲らなくつちや、こつちの落度になるからと、分別のありさうな事を附加した。山嵐でもおれよりは考へがあると見える。
 ぢや演説をして古賀君を大にほめてやれ、おれがすると江戸っ子のペら\/になつて重みがなくていけない。さうして、きまつた所へ出ると、急に溜飲が起つて咽喉の所へ、大きな丸が上がつて来て言葉が出ないから、君に譲るからと云つたら、妙な病気だな、ぢや君は人中(ひとなか)ぢや口は利けないんだね、困るだらう、と聞くから、何そんなに困りやしないと答へて置いた。
 さうかうするうち時間が来たから、山嵐と一所に会場へ行く。会場は花晨亭と云つて、当地(こヽ)で 第一等の料理屋ださうだが、おれは一度も足を入れた事がない。もとの家老とかの屋敷を買ひ入れて、其儘開業したと云ふ話だが、成程見懸からして厳(いか)めしい構だ。家老の屋敷が料理屋になるのは、陣羽織を縫ひ直して、胴着にする様なものだ。
 二人が着いた頃には、人数ももう大概揃つて、五十畳の広間に二っ三っ人間の塊まりが出来て居る。五十畳丈に床は素敵に大きい。おれが山城屋て占領した十五畳敷の床とは比較にならない。尺を取つて見たら二間あつた。右の方に赤い模様のある瀬戸物の瓶を据ゑて、其中に松の大きな枝が挿してある。松の技を挿して何にする気か知らないが、何ヶ月立つても散る気遣がないから、銭が懸らなくつて、よからう。あの瀬戸物はどこで出来るんだと博物の教師に聞いたら、あれは瀬戸物ぢやありません、伊万里ですと云つた。伊万里だつて瀬戸物ぢやないかと、云つたら、博物はえへッと笑つて居た。あとで聞いて見たら、瀬戸で出来る焼物だから、瀬戸と云ふのださうだ。おれは江戸っ子だから、陶器の事を瀬戸物といふのかと思つて居た。床の真中に大きな懸物があつて、おれの顔位な大きさな字が二十八字かいてある。どうも下手なものだ。あ んまり下味(まづ)いから、漢学の先生に、なぜあんなまづいものを麗々と懸けて置くんですと尋ねた所、 先生があれは海屋と云つて有名な書家のかいた物だと教へてくれた。海屋だか何だか、おれは今だに下手だと思つて居る。
 やがて書記の川村がどうか御着席をと云ふから、柱があつて靠りかヽるのに都合のいヽ所へ坐つた。海星の懸物の前に狸が羽織、袴で着席すると、左に赤シヤツが同じく羽織袴で陣取つた。右の方は今日の主人公だと云ふのでうらなり先生、是も日本服で控へて居る。おれは洋服だから、かしこまるのが窮屈だつたから、すぐ胡座(あぐら)をかいた。隣りの体操教師は黒づぼんで、ちやんとかしこまつて居る。体操の教師丈にいやに修業が積んで居る。やがて御膳が出る。徳利が並ぶ。幹事が立つて、一言開会の辞を述べる。夫から狸が立つ、赤シヤツが起つ。悉く送別の辞を述べたが、三人共申し合せた様にうらなり君の、良教師で好人物な事を吹聴して、今回去られるのは洵に残念である、学校としてのみならず、個人として大に惜しむ所であるが、御一身上の御都合で、切に転任を御希望になつたのだから致し方がないと云ふ意味を述べた。こんな嘘をついて送別会を開いて、それでちつとも恥かしいとも思つて居ない。ことに赤シヤツに至つて三人のうちで一番うらなり君をほめた。此良友を失ふのは実に自分に取つて大なる不幸であると迄云つた。しかも其いひ方がいかにも、尤もらしくつて、例のやさしい声を一層やさしくして、述べ立てるのだから、始めて聞いたものは、誰でも屹度だまされるに極つてる。マドンナも大方此手で引掛けたんだらう。赤シヤツが送別の辞を述べ立てヽゐる最中、向側に坐つて居た山嵐がおれの顔を見て一寸稲光をさした。おれは返電として、人指し指でべつかんこうをして見せた。
 赤シヤツが席に復するのを待ちかねて、山嵐がぬつと立ち上がつたから、おれは嬉しかつたので、思はず手をばち\/と拍つた。すると狸を始め一同が悉くおれの方を見たには少々困つた。山嵐は何を云ふかと思ふと只今校長始めことに教頭は古賀君の転任を非常に残念がられたが、私は少々反対で古賀君が一日も早く当地を去られるのを希望して居ります。延岡は僻遠の地で、当地に比べたら物質上の不便はあるだらう。が、聞く所によれば風俗の頗る淳朴な所で、職員生徒悉く上代樸直の気風を帯びて居るさうである。心にもない御世辞を振り蒔いたり、美しい顔をして君子を陥れたりするハイカラ野郎は一人もないと信ずるからして、君の如き温良篤厚の士は必ず其地方一般の歓迎を受けられるに相違ない。吾輩は大に古賀君の為めに此転任を祝するのである。終りに臨んで君が延岡に赴任されたら、其地の淑女にして、君子の好述となるべき資格あるものを択んで一日も早く円満なる家庭をかたち作つて、かの不貞無節なる御転婆を事実の上に於て慚死せしめん事を希望します。えへん\/と二つばかり大きな咳払ひをして席に着いた。おれは今度も手を叩かうと思つたが、又みんながおれの面を見るといやだから、やめにして置いた。山嵐が坐ると、今度はうらなり先生が起つた。先生は御鄭寧に、自席から、座敷の端の末座迄行つて、慇懃に一同に挨拶をした上、今般は一身上の都合で九州へ参る事になりましたに就て、諸先生方が小生の為に此盛大なる送別会を御開き下さつたのは、まことに感銘の至りに堪へぬ次第でーことに只今は校長、教頭其他諸君の送別の辞を頂戴して、大いに難有く服膺する訳であります。私は是から遠方へ参りますが、何卒従前の通り御見捨なく御愛顧の程を願ひます。とへえつく張つて席に戻つた。うらなり君はどこ迄人が好いんだか、殆ど底が知れない。自分がこんなに馬鹿にされてゐる校長や、教頭に恭しく御礼を云つてゐる。それも義理一遍の挨拶ならだが、あの様子や、あの言葉つきや、あの頗つきから云ふと、心から感謝してゐるらしい。こんな聖人に真面目に御礼を云はれたら、気の毒になつて、赤面しさうなものだが狸も赤シャツも真面目に謹聴して居る許りだ。
 挨拶が済んだら、あちらでもチユー、こちらでもチユー、と云ふ音がする。おれも真似をして汁を飲んで見たがまづいもんだ。口取に蒲鉾はついてるが、どす黒くて竹輪(ちくわ)の出来損ないである。刺身も並んでるが、厚くつて鮪の切り身を生(なま)で食ふと同じ事だ。それでも隣り近所の連中はむしや\/旨さうに食つて居る。大方江戸前の料理を食つた事がないんだらう。
其うち燗徳利が頻繁に往来し始めたら、四方が急に賑やかになつた。野だ公は恭しく校長の前へ出て盃を頂いてる。いやな奴だ。うらなり君は順々に献酬をして、一巡周る積と見える。甚だ御苦労である。うらなり君がおれの前へ来て、一つ頂戴致しませうと袴のひだを正して申し込まれたから、おれも窮屈にヅボンの儘かしこまつて、一盃差し上げた。折角参つて、すぐ御別れになるのは残念ですね。御出立はいつです、是非浜迄御見送をしませうと云つたら、うらなり君はいえ御用多の所決して夫には及びませんと答へた。うらなり君が何と云つたつて、おれは学校を休んで送る気で居る。
 夫から一時間程するうちに席上は大分乱れて来る。まあ一杯、おや僕が飲めと云ふのに…‥などと呂律の巡りかねるのも一人二人出来て来た。少々退屈したから便所へ行つて、昔し風な庭を星明りにすかして眺めて居ると山嵐が来た。どうだ、最前(さつき)の演説はうまかつたらう。と大分得意である。大賛成だが一ヶ所気に入らないと抗議を申し込んだら、どこが不賛成だと聞いた。
 「美しい顔をして人を陥れる様なハイカラ野郎は延岡に居らないから……と君は云つたらう」
 「うん」
 「ハイカラ野郎丈では不足だよ」
 「ぢや何と云ふんだ」
 「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モヽンガーの、岡引っき[ママ]の、わん\/鳴けば犬も同然な奴とでも云ふがいヽ」
 「おれには、さう舌は廻らない。君は能弁だ。第一単語を大変沢山知つてる。それで演舌が出来ないのは不思議だ」
 「なにこれは喧嘩のときに使はうと思つて、用心の為に取つて置く言葉さ。演舌となつちや、かうは出ない」
 「さうかな、然しペら\/出るぜ。もう一遍やつて見給へ」
 「何遍でもやるさいヽか。ーーハイカラ野郎のペテン師の、イカサマ師の…‥」
 と云ひかけて居ると、椽側をどたばた云はして、二人ばかり、よろ\/しながら馳け出して来た。
 「両君そりやひどい、ーー逃げるなんて、ーー僕が居るうちは決して逃さない、さあのみ玉へ。ーーいかさま師……面白い、いかさま面白い。ーーさあ飲み玉へ」
 とおれと山嵐をぐい\/引つ張つて行く。実は此両人共便所に来たのだが、酔つてるもんだから、便所へ這入るのを忘れて、おれ等を引つ張るのだらう。酔つ払ひは目の中る所へ用事を拵へて、前の事はすぐ忘れて仕舞ふんだらう。
 「さあ、諸君、いかさま師を引つ張つて来た。さあ飲ましてくれ玉へ。いかさま師をうんと云ふ程、酔はしてくれ玉へ。君逃け[ママ]ちやいかん」
 と逃げもせぬ、おれを壁際へ圧し付けた。諸方を見廻して見ると、膳の上に満足な肴の乗つて居るのは一っもない。自分の分を奇麗に食ひ尽して、五六間先へ遠征に出た奴も居る。校長はいつ帰つたか姿が見えない。
 所へ御座敷はこちら?と芸者が三四人這入つて来た。おれも少し驚ろいたが、壁際へ押し付けられて居るんだから、凝(じつ)として只見て居た。すると今迄床柱へもたれて例の琥珀のパイプを自慢さうに啣へて居た、赤シヤツが急に起つて、座敷を出にかヽつた。向から這入つて来た芸者の一人が、行き違ひながら、笑つて挨拶をした。その一人は一番若くて一番奇麗な奴だ。遠くで聞えなかつたが、おや今晩は位云つたらしい。赤シヤツは知らん顔をして出て行つたぎり、顔を出さなかつた。大方校長のあとを追懸けて帰つたんだらう。
 芸者が来たら座敷中急に陽気になつて、一同が鬨の声を揚げて歓迎したのかと思ふ位、騒々しい。さうして或る奴はなんこを攫む。その声の大きな事、丸で居合抜の稽古の様だ。こつちでは拳を打つてる。よっ、はっ、と夢中で両手を振る所は、ダーク一座に操人形より余っ程上手だ。向ふの隅ではおい御酌だ、と徳利を振つて見て、酒だ\/と言ひ直して居る。どうも八釜しくて騒々しくつて堪らない。其うちで手持無沙汰に下を向いて考へ込んでるのはうらなり君許りである。自分の為に送別会を開いてくれたのは、自分の転任を惜んでくれるんぢやない。みんなが酒を呑んで遊ぶ為だ。自分独りが手持無沙汰で苦しむ為だ。こんな送別会なら、開いてもらはない方が余程ましだ。
 しばらくしたら、銘々胴間声を出して何か唄ひ始めた。おれの前へ来た一人の芸者が、あんた、なんぞ、唄ひなはれ、と三味線を抱へたから、おれは唄はない、貴様唄つて見ろと云つたら、金や太鼓でねえ、迷子の迷子の三大郎と、どんどこ、どんのちやんちきりん。叩いて廻つて逢はれるものならば、わたしなんぞも、金や太鼓でどんどこ、どんのちやんちきりんと叩いて廻つて逢ひたい人がある、と二た息にうたつて、おヽしんどと云つた。おヽしんどなら、もつと楽なものをやればいヽのに。
 すると、いつの間にか傍へ来て坐つた、野だが、鈴ちやん逢ひたい人に逢つたと思つたら、すぐ御帰りで、御気の毒さま見た様でげすと相変らず噺し家見た様な言葉使ひをする。知りまへんと芸者はつんと済ました。野だは頓着なく、たま\/逢ひは逢ひながら…‥と、いやな声を出して義太夫の真似をやる。おきなはれと芸者は平手で野だの膝を叩いたら野だは恐悦して笑つてる。此芸者は赤シヤツに挨拶をした奴だ。芸者に叩かれて笑ふなんて、野だも御目出度い者だ。鈴ちやん僕が紀伊の国を踴るから、一っ弾いて頂戴と云ひ出した。野だは此上まだ踴る気で居る。
 向ふの方で漢学の御爺さんが歯のない口を歪めて、そりや聞えません伝兵衛さん、御前とわたしのその中は……と迄は無事に済したがそれから?と芸者に聞いて居る。爺さんなんて物覚のわるいものだ。一人が博物を捕まへて、近頃こないなのが、でけましたぜ、弾いて見まほうか。よう聞いて、居なはれやーー花月巻、白いリボンのハイカラ頭、乗るは自転車、弾くはワイオリン、半可の英語でペら\/と、I am glad to see you と唄ふと、博物は成程面白い、英語入りだねと感心して居る。
 山嵐は馬鹿に大きな声を出して、芸者、芸者と呼んで、おれが剣舞をやるから、三味線を弾けと号令を下した。芸者はあまり乱暴な声なので、あつけに取られて返事もしない。山嵐は委細構はず、ステツキを持つて来て、踏破千山万岳烟と真中へ出て独りで隠し芸を演じて居る。所へ野だが既に紀伊の国を済まして、かつぽれを済まして、棚の達磨さんを済して丸裸の越中褌一つになつて、棕梠箒を小脇に抱い込んで、日清談判破裂して……と座敷中練りあるき出した。まるで気違だ。
 おれはさつきから苦しさうに袴も脱がず控へて居るうらなり君が気の毒でたまらなかつたが、なんぼ自分の送別会だつて、越中禅の裸踴迄羽織袴で我慢して見て居る必要はあるまいと思つたから、そばへ行つて、古賀さんもう帰りませうと退去を勧めて見た。するとうらなり君は今日は私の送別会だから、私が先へ帰つては失礼です、どうぞ御遠慮なくと動く景色もない。なに構ふもんですか、送別会なら送別会らしくするがいヽです、あの様(ざま)を御覧なさい。気狂会です。さあ行きませうと勧まないのを無理に勧めて、座敷を出かヽる所へ、野だが箒を振り\/進行して来て、や御主人が先へ帰るとはひどい。日清談判だ。帰せないと箒を横にして行く手を塞いだ。おれはさつきから肝癪が起つてる所だから、日清談判なら貴様はちやん\/だらうと、いきなり拳骨で、野だの頭をぽかりと喰はしてやつた。野だは二三秒の間毒気を抜かれた体で、ぼんやりして居たが、おや是はひどい。御撲(ぶち)になつたのは情ない。この吉川を御打擲(ちやうちやく)とは恐れ入つた。愈以て日清談判だ。とわからぬ事をならべて居る所へ、うしろから山嵐が何か騒動が始まつたと見て取つて、剣舞をやめて、飛んで来たが、此ていたらくを見て、いきなり頸筋をうんと攫んで引き戻した。日清‥‥いたい。いたい。どうも是は乱暴だと振りもがく所を横に捩つたら、すとんと倒れた。あとはどうなつたか知らない。途中でうらなり君に別れて、うちへ帰つたら十一時過ぎだつた。

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