「行人」論
――一郎・お直の形象と二郎の〈語り〉について――
木村 功
はじめに
「行人」論の主要な論点として、一郎お直の夫婦関係の問題がある。長野家の家族内でも問題として浮かび上がってきているこの関係について、語り手の二郎は〈同じ型に出来上つた此夫婦は、己れの要するものを、要する事の出来ないお互いに対して、初手から求め合つてゐて、未だにしつくり反が合はずに居るのではあるまいか。〉(「兄」一四)と観察している。二郎が捉えているように一郎とお直の性格的な問題は軽視できないのだが、同等に考慮すべきはこの夫婦を絡めとっている社会的制度の問題である。当時の社会における夫婦の人間関係は、選択的夫婦別姓制が論議される現代社会のものとは明らかに異なっており、その差異の様態を確認せずに夫婦関係を云々することは出来ない。
そもそも一郎とお直の夫婦関係は、対等の人間関係ではなく、慣習と明治民法(明治三一年七月施行)によって支配/被支配の関係が構造化されたものとして考えなければならない。同民法によれば、〈第七八八条@妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ入ル(A略)/第七八九条@妻ハ夫ト同居スル義務ヲ負フ/A夫ハ妻ヲシテ同居ヲ為サシムルコトヲ要ス〉〈第七九九条@夫又ハ女戸主ハ用方ニ従ヒ其ノ配偶者ノ財産ノ使用及ヒ収益ヲ為ス権利ヲ有ス(A略)〉〈第八○一条@夫ハ妻ノ財産ヲ管理ス〉
(1)などとあり、明治民法下では、妻は〈夫ノ家ニ入ル〉ばかりか〈夫ト同居スル義務〉を負わされ、財産までも管理される被支配的存在であったことが分かる。したがってお直は、社会的に被支配者の立場におかれた「女」の一人であると同時に、「夫」である一郎との関係においても支配される「妻」として存在せざるをえなかったことから、二重の支配の軛に絡め取られていたわけである。二人は平等な人間として対峙していたのではなく、支配と被支配の関係を内包させた夫婦関係の中で対峙していたといえよう。従来論議されていた夫婦の性格的な問題と同様に、このような一郎お直の夫婦関係を「家」制度の観点から捉え直すことも、「行人」世界を捉える上での基本的な要件といえる。本論では「家」制度の観点から長野家の問題と、一郎とお直の形象について検討し、語り手の二郎についても考察したい。
一、「家」としての長野家
まず本節では長野の「家」がどのような状況を呈しているのかを検討し、以下の節での一郎お直像の検討の材料とする。
語り手の二郎という名前は、彼の固有性を表すよりも、「家」における二番目の男児という意味を指し示している。二郎は生まれるや「それから」の代助同様、長男の代替的存在として、先ず「家」の中に位置づけられていたのである。このような即物的な名をつけうる長野家は、「それから」の長井家同様濃厚な「家」制度を保有しているといえよう。一方一郎という名が示すものは、長野家に最初に生まれた男児であるという以上に、家長であるという意味だろう。したがってこの一郎と二郎の関係には、語り手の二郎自身が描き込んでいるように、「さん」付けをされる/されないという区別から始まって多種多様な序列関係が構造化されることになる。そしてこのような人間関係の在り方は、当時の家庭においてはごく普通のことであった。
兄は自分を顧みて、「三沢が病気だつたので、何処へも行かなかつたさうだね」と聞いた。自分は「えゝ。飛んだ所へ 引つかゝつて何処へも行かずじまひでした」と答へた。自分と兄とは常に此位懸隔のある言葉で応対するのが例になつ てゐた。是は歳が少し違うのと、父が昔堅気で、長男に最上の権力を塗り付けるやうにして育て上た結果である。母も 偶には自分をさん付にして二郎さんと呼んで呉れる事もあるが、是は単に兄の一郎さんのお余りに過ぎないと自分は信 じてゐた。(「兄」二)(傍線引用者)
二郎が一郎と〈懸隔のある言葉で応対〉し〈(前略)今日迄たゞ兄の正面ばかり見て、遠慮したり気兼ねしたり、時によつては恐れ入つたりしてゐた。〉(「兄」四三)のは、確かに歳の差もあろうが、〈父が長男に最上の権力を塗り付けるやうにして育てあげた結果〉の方が、より大きい。この父親の養育の姿勢に、家父長制の反映が認められるだろう。家父長制とは、〈長男(女子だけの場合長女)に嫁(婿)を迎え、この新しい夫婦が両親や祖父母と同じ家庭の中で生活を共にすることを原則としてきた。このような家族における中心的な関係は、夫婦関係ではなく親子関係であり、家長権の強い直系(嫡系)家族が、日本の社会の構成単位となってきた。〉というものである。そして〈家を継承し、家長の地位をうけついで家督を相続するのは、一般に長男であり、この家督相続にともなって、家産や家業も、長男によって包括的ないし優先的に相続された。〉
(2)のである。一郎お直夫婦が両親と同居し、長男である一郎が家督を相続している長野家を、家父長制のしかれた「家」と見なす条件が揃っていることは、以上の概説からも肯われよう。ところがこの長野家の「家」が安定している状態かといえば、そうではない。長野家の家族形態については、近年でも〈《大家族》「長野家」〉
(3)〈「古い歴史を有つた家」である「長野家」〉〈明治の家「長野家」〉(4)、〈十分に「家庭」観が流通する時代に、未だ「家」的要素を色濃く持つ家族として語られている。〉(5)というように、「家」制度を保持しているとする見解が提出されている。しかし玉井敬之は、〈(前略)『行人』を通じて、父と母は、夫婦を家族の重要な単位として見ようという配慮がみられるようなのだ。このような父母の配慮は二郎やお重に対してもほぼ同様で、「家」というものを背景にした姿勢は見られないといっていいだろう。〉と述べ、〈長野家は、それぞれが個人として一つの「家」に同居しているというかたちであるようだ。〉〈いずれ長野家は分裂していくであろう。旧家における頽廃と崩壊とは違って、これまた当世風にいえば核家族化の道をすすんでいくことになるだろう。〉(6)とすでに指摘していた。また小森陽一は、〈長野家は二つの家に引き裂かれている。というよりも、父から一郎へ家が譲渡される過程、父が家長であった家から一郎が家長となる家への交換の過程、父が統率していた大家族から一郎を中心とした核家族へ変換する過程に長野家はあったといえる。〉(7)と述べている。確かにお貞の結婚をめぐって「是もお父さんの御蔭さ」という一郎に、 「全くお父さんの御蔭に違ないよ。岡田が今あゝ遣つてるのと同じ事さ」と母は大分満足な体に見えた。という場面があり、二郎はこの時の〈兄の唇に薄い皮肉の影が動いた〉(同)ことを見逃していない。ここには依然家長としての父親の権威を認めている母親の姿と、その権威が消失しつつあることを意識している息子たちの姿が対照的に認められる。また、お重とお直の間での確執に際しても、お重に泣き付かれた父親はお直には何も質さず、お重を慰撫することで問題を処理していた。父親はお直に遠慮しているのである。その理由を考えてみると、この父親について、〈公の務を退いた今日〉(「帰つてから」一一)という表現が認められ、長野家の生計が一郎の大学教授の収入で立てられていることが推測できる。ちなみに明治民法には〈第七四七条 戸主ハ其家族ニ対シテ扶養ノ義務ヲ負フ〉
(8)という条文があるが、これは家長の家族に対する支配力というものが扶養するに足る経済力の保有によって保証され続けるものであることを意味していよう。〈家父長権というものは、家父長だけが財産をもっているかお金を稼いでくるというような条件がないと成立しない。〉(9)という指摘もあるように、〈社会から退隠したと同様〉で、扶養する経済力を失った父親には支配力が消失しており、新しい家長の妻であるお直に父親が遠慮する姿が物語られることで、家長権の在処を如実に伺い知ることができる。このように長野家では家長の交替に連動した人間関係の再編が行なわれているのであるが、それは単に「大家族」から一郎の「核家族」への変換という一面的な事態にとどまるものではない。すなわち父母の「子供」ではあっても、家長である一郎の「子供」ではない二郎とお重が、新しい長野の「家」の周縁にそれぞれ押しやられる状況が生まれていることにも同等に目を向けなければならない。 そこで浮かび上がってくるのが、一郎に拮抗し得る家族成員の存在である。先述した明治民法〈第七四七条 戸主ハ其家族ニ対シテ扶養ノ義務ヲ負フ〉について、「扶養」するに足る経済力の保有が家長の支配力を保証するとのべたが、この意味で長野家には家長の支配力に脅威を与える存在が同居していた。それが他ならぬ二郎なのである。二郎は、〈然し自分も既に一家を成して然るべき年輩だし、又小さい一軒の竃位は、現在の収入でも何うか斯うか維持して行かれる地位なのだから(後略)(「帰つてから」二〇)〉とあるように、建設事務所に勤める俸給生活者である。高等教育を受ける事ができたらしい二郎は職業を選択する自由を持ち、また自分の経済力で「家」から、言いかえれば家長の支配から独立することが可能な家族成員なのである。「それから」の代助は別に家を構えていたが、実家の家計に依存し「家」制度内にとどまった生活をしていたが、二郎は経済的に誰にも依存してはいない。この意味で、自らの経済力で生活を成り立たせていける二郎が同居していることは、「家」を運営する家長の支配力にとって、潜在的な脅威以外のなにものでもないだろう。更にいえば一郎にもしもの場合は、二郎が一郎に替わって「家」を支える家長となり得るのである。ここに二郎が一郎の「家」から排除される理由が構成されるだろう。確認しておけば、その理由の一つは長野家が長子単独相続制に基づき一郎の「家」と変容することにより、長子以外の子供の排除が行なわれるからであり、二つには経済力を有する二郎が家長になり代り得るという潜在的脅威から、二郎への排除は相乗的に行われることになるのである。二郎が長野家を出る理由をお直との関係に求めるばかりでは一面的なのであり、その背景に長野家の家長の代替りが同時に進行している事を看過することは出来ない。「家」や経済の観点を複合させて考えることで、「行人」というテクストが「家」と人間関係をめぐる近代家族の再編成の問題を内包していた事実が浮かび上がってくるわけである。
縷述してきたように長野家は家長が父親から一郎に変わることで、一郎中心に「家」の秩序が再編成される過程にある。そこに生じてきた問題は、家族の成員に〈扶養ノ義務〉を持ち、またそれによって逆に家族に対する支配力が保証されている家長の一郎に、経済的に独立し得る二郎の存在が家長の支配力に対する潜在的脅威として浮上してきたことであった。長野家の家長の代替りは、新しい家長の存在とともに家長の支配権を揺るがす二郎の存在を浮かび上がらせることになり、二郎の排除による「家」秩序の再構築が計られることになる。そしてそれと同時に、「家」の再編成のダイナミクスは、中心にいる一郎やお直にも強く作用していくのである。
二、一郎の形象
長野家の「家」の再編成の様相を確認した上で、その過程の中に位置する一郎お直の問題について考えていきたい。まず一郎についてである。一郎が家長になったからといって、長野家の「家」体制が確立されていたわけではないことはすでに確認した。二郎の存在の脅威を外在的な要因とすれば、他に内在的な要因を指摘することができる。浅田隆が、〈一郎は父に比べ、君臨するが家を経営する斉家の能力にかけている〉
(10)と指摘するように、自らの「家」と家長の権威を創出していく点で、一郎には問題があったといわざるをえない。兄は学者であつた。又見識家であつた。其上詩人らしい純粋な気質を持つて生れた好い男であつた。けれども長男丈に 何処か我儘な所を具へてゐた。自分から云ふと、普通の長男よりは、大分甘やかされて育つたとしか見えなかつた。( 「兄」六)
〈純粋な気質〉という生来の性質や教育による知識を兼ね備えた一郎に敬意をみせる二郎であるが、〈長男〉という制度上の属性をめぐっては〈普通の長男より〉〈何処か我儘〉と批判的である。一郎のこのような面については前出の〈気六づかしい〉(「兄」七)、〈自分は癇癪の不意に起る野蛮な気質を兄と同様に持つてゐた〉(「帰つてから」二一)〈「大兄さんも随分変人ね(後略)」〉(「帰つてから」三七)という家族内での評価もあるし、岡田にいたっては〈「一郎さんは実際気六づかしやでしたね」と云ひ出した。(中略)/「あの時分から我儘だつたからね、何うも。然し此頃は大分機嫌が好いやうぢやありませんか」と彼が又云つた。〉(「兄」九)とあるのである。〈長男〉の一郎像は、二郎を始めとする家族だけでなく岡田も指摘する位の、〈我儘〉者であるということが出来よう。このように一郎の性格を形成する上で、長男を重視する「家」制度が十分作用していたことは納得されよう。二郎が〈父が昔堅気で、長男に最上の権力を塗り付けるやうにして育て上た〉(「兄」二)と証言する通りなのである。
ところが家庭内で〈最上の権力〉を持つ一郎の、思うようにならない相手が妻のお直であった。和歌浦での散歩で〈彼是一間の距離〉(「兄」一三)を保って歩く夫婦の姿を母親が見咎めたように、一郎お直夫婦は〈「おれが霊も魂も所謂スピリツトも攫まない女と結婚してゐる事丈は慥だ」〉(「兄」二◯)と、一郎が吐露するような隔絶した状態にまで進んでいる。二郎があえて〈嫂事件〉(「帰つてから」五)とまで評するほどお直との隔絶に悩む一郎は、お直の心を知るべくいろいろとその理由を考え、ついには〈「直は御前に惚れてるんぢやないか」〉(「兄」一八)という衆知の疑念を抱くにいたる。自分に拮抗しうる経済力を持つ二郎に、妻であるお直が想いを寄せているという想像ほど、男としても又家長の威信からしても一郎には許容し難いものであるに相違ない。二郎自身は、一郎の疑念を言下に否定しているが、この疑念は実は母親やお重さらには三沢までが共有していた疑念でもあり、長野の家に緊張関係を生じさせていた要因の一つであることは否定の仕様がない。
しかし当の二郎の否定に対して、一郎は改めて〈「実は直の節操を御前に試して貰ひたいのだ」〉(「兄」二四)と依頼する。
「二郎己はお前を信用してゐる。けれども直を疑ぐつてゐる。しかも其疑ぐられた当人の相手は不幸にしてお前だ。但 し不幸と云ふのは、お前に取つて不幸といふので、己には却つて幸になるかも知れない。と云ふのは、己は今明言した通 り、お前の云ふ事なら何でも信じられるし又何でも打明けられるから、それで己には幸ひなのだ。だから頼むのだ。己の 云ふ事に満更論理のない事もあるまい」(「兄」二五)(傍線引用者)
引用した一郎のこの発言は、二郎を信用しているといいながら、妻の思慕の相手として二郎を疑っていると読み取れる。ここで〈不幸〉という言葉を用いているのは、二郎を事実上疑う結果になっていることを、一郎自身が認めているからである。二郎は弟としては信用していると言われながら、妻の恋人として疑われるというダブル・バインドに捉えられたことになろう。したがって信用されているにもかかわらず、二郎は自分が信用に足る人物であることを証明する行動(結局それは一郎の不信を体現する行為である)へとお直を伴って出発しなければならなくなる。二郎へ発せられた一郎の言葉は、明らかに信頼と不信に引き裂かれた言葉なのである。このような信頼と不信の二重構造は、二郎を一個の人間として認めた上での依頼という形を取りながら、実際は二郎をお直の貞操を試すための手段もしくは道具として用いていることにも重なっていく。そこに家長である兄による、弟への序列関係を利用した支配の構図を透視する事も可能である。妻との人間的な関係を求めそれを生きようとする一方で、制度的な関係を利用してしまう一郎の二重性が、ここに端的に表れている。そしてこのような一郎の二重性を、〈兄の言葉は立派な教育を受けた人の言葉であつた。然し彼の態度は殆ど十八九の子供に近かつた。自分はかゝる兄を自分の前に見るのが悲しかつた。〉(「兄」二一)と二郎は読者の前に示すのである。言葉と行動が乖離するその姿は〈砂の中で狂ふ泥鰌の様〉(同)とも諷される。
このように一郎は、「学問」を修めたからといって、家長としての支配的態度から免れているわけではない。むしろ「学問」は、一郎の小児的な〈我儘〉を助長する方便にしかなっていない。そのような一郎の様態を、一郎の言説を引用しながら二郎はあぶりだしていくのである。例えば一郎は、〈「おれは是でも御前より学問も余計した積だ。見識も普通の人間より持つてゐると許今日迄考へてゐた。(後略)」〉(「兄」一九)と言うように、「学問」に強い自負をもっている。
「書物の研究とか心理学の説明とか、そんな廻り遠い研究を指すのぢやない。現在自分の眼前に居て、最も親しかるべき 筈の人、其人の心を研究しなければ、居ても立つても居られないといふやうな必要に出逢つた事があるかと聞いてるんだ 」(「兄」二〇)(傍線引用者)
一郎には、〈「他の心は外から研究は出来る。けれども其心に為つて見る事は出来ない。(後略)〉(「兄」二一)という発言もあり、一郎の物の見方考え方を端的に言い表すキーワードが〈研究〉という言葉であることには異論があるまい。〈研究心の強い学問好きの人は、万事を研究する気で見るから、情愛が薄くなる訳である。〉(「三四郎」五)というのは野々宮よし子の言であるが、「学問」に自負を抱き、得意の〈研究〉でお直の心を知ろうと努めるほど、〈情愛〉から遠退いてしまう一郎のジレンマは、よし子の言葉を以て解読することができる。そうして一郎が、以下の言葉に伺えるように、自分の「学問」を両刃の刃のように意識しはじめるのは当然であろう。
「己は自分の子供を綾成す事が出来ないばかりぢやない。自分の父や母でさへ綾成す技巧を持つてゐない。それ所か肝 心のわが妻さへ何うしたら綾成せるか未だに分別が付かないんだ。此年になる迄学問をした御蔭で、そんな技巧は覚える 余暇がなかつた。二郎、ある技巧は、人生を幸福にする為に、何うしても必要と見えるね」知識人として身につけた「学問」が、一郎もいうように〈肝心の人間らしい心持を人間らしく満足させる事が出来なく〉させてしまっているのであり、〈研究〉や〈技巧〉という言葉でしか自らの人間関係を語れない一郎の限界と不幸は明らかである。事実〈兄は思索に遠ざかる事の出来ない読書家として、大抵は書斎裡の人であつた(後略)〉(「帰つてから」三)とあるように、一郎が家族と親密に交流する姿は描かれない。彼は家の中でも「学問」をする学者としての態度を、家族達に示し続けるのである。このために一郎の支持派であったお重からも変人呼ばわりされるようになり、次第に家庭の中から孤立していく。飯田祐子の〈自らの「長男」性を内面化している〉〈一郎は、結局「家」の役割によってつくられた関係を越えることができないのである。〉
(11)という指摘は正しいが、そればかりではない。一郎を規定する「家」制度という外的要因以外にも、一郎を束縛するもう一つの内なる制度である「学問」という内的要因も考慮に入れる必要があるだろう。二郎は「家」制度ばかりでなく、一郎の内面世界を育んだ「学問」の弊をも剔抉して見せているのである。このように一郎には、少なくとも「家長」という地位による序列関係と「学問」を身につけた近代知識人の「研究」的姿勢が構造化されており、一郎はそうした自分自身を拘束する世界を意識しつつ、人間的であろうと抗い格闘しているのである。しかも外的内的に構築された社会的権威の中心にいる一郎は、家族関係の中に一個の人間としての自分を位置づけるのが困難な状況にいる。二郎が開示して見せたのはそのような社会的にも内面的にも苦境にいる、新しい「家長」の姿なのであった。二郎は、一郎という一人の「家長」を捉えていた問題を読者に批判的に提示するが、その一方で後述するように彼もまた新たな家庭をもち「家長」となる存在であるがゆえに、一郎に対して同情的でもあった。その言説は、さまざまな桎梏の中でお直との間に人間的な関係を結ぼうと希求する一郎の姿を理解しようとする姿勢に貫かれているのである。
三、お直の形象
「お貞さん、結婚の話で顔を赤くするうちが女の花だよ。行つて見るとね、結婚は顔を赤くする程嬉しいものでもなけ れば、恥づかしいものでもないよ。それ所か、結婚をして一人の人間が二人になると、一人でゐた時よりも人間の品格が 堕落する場合が多い。恐ろしい目に会ふ事さへある。まあ用心が肝心だ」(「帰つてから」六)
引用文は結婚を控えた使用人のお貞に、一郎が訓戒を施す場面であるが、ここには端的に一郎とお直の結婚生活がどのようなものであったかが表れている。この一郎には、もう一つ結婚に関する有名な言及が認められる。
「何んな人の所へ行かうと、嫁に行けば、女は夫のために邪になるのだ。さういふ僕が既に僕の妻を何の位悪くしたか 分らない。自分が悪くした妻から、幸福を求めるのは押が強過るぢやないか。幸福は嫁に行つて天真を損はれた女からは 要求できるものぢやないよ」(「塵労」五一)(傍線引用者)
一郎は、お直と共に幸福を作り出そうとするのではない。家長として一方的にお直に幸福を〈要求〉しているのであり、そこではお直は対等な人間として捉えられていないのである。このような関係の内実を明確に理解していたのは、当然支配される側のお直であった。
「男は厭になりさえすれば二郎さん見たいに何処へでも飛んで行けるけれども、女は左右は行きませんから。妾なんか 丁度親の手で植付けられた鉢植のやうなもので一遍植ゑられたが最後、誰か来て動かして呉れない以上、とても動けやし ません。凝としてゐる丈です。立枯になる迄凝としてゐるより外に仕方がないんですもの」(「塵労」四)(傍線引用 者)
一郎が結婚という言葉で表現した内容が、お直にとっては〈鉢植のやう〉に〈親の手で植え付けられ〉る事に他ならなかった。お直にとっての結婚とは、親によって作られた関係であったのである。自分の意思を持つ人間でありながら親の意向に従わねばならず、またそれが当たり前の時代ではあったが、自分を〈鉢植のやうなもの〉と言い切るお直の認識は冷徹でさえあり、それゆえに苦渋の深さも相当なものであったろう。お直が諦念を抱くのも、無理からぬ事なのである。
自分は腹の立つ程の冷淡さを嫁入後の彼女に見出した事が時々あつた。けれども矯め難い不親切や残酷心はまさかにある まいと信じてゐた。(「兄」一四)
結婚する前のお直を知っていた二郎が、〈嫁入り後〉に冷淡さを見せるようになったお直の態度に言及していることは、彼のように単純な者でさえ気付くような著しい変貌が生じていたことを窺わせる。そればかりか〈嫂は無口な性質であつた。〉(「兄」四)〈彼女は淋しい色沢の頬を有つてゐた。それから其真中に淋しい方靨を有つてゐた。〉(「兄」六)というように、二郎の目に映じた限りのお直の姿からは、嫁入ってからの舅姑や気難しい主人、それに〈火と水の様な個性の差異〉(「帰つてから」一〇)を持つ小姑のお重との間で、四重の気苦労を重ねて来たお直の来し方を察することができる。
ーー彼女は男子さへ超越する事の出来ないあるものを嫁に来た其日から既に超越してゐた。或は彼女には始めから超越す べき牆も壁もなかつた。始めから囚はれない自由な女であつた。彼女の今迄の行動は何物にも拘泥しない天真の発現に過 ぎなかつた。
或時は又彼女が凡てを胸のうちに畳み込んで、容易に己を露出しない所謂しつかりものゝ如く自分の眼に映じた。さうした意味から見ると、彼女は有り触れたしつかりものゝ域を遥に通り越してゐた。あの落付、あの品位、あの寡黙、誰が評しても彼女はしつかりし過ぎたものに違ひなかつた。驚くべく図々しいものでもあつた。
或刹那には彼女は忍耐の権化の如く、自分の前に立つた。さうして其忍耐には苦痛の痕迹さへ認められない気高さが潜 んでゐた。彼女は眉をひそめる代りに微笑した。泣き伏す代りに端然と坐つた。恰も其坐つてゐる席の下からわが足の腐 れるのを待つかの如くに。要するに彼女の忍耐は、忍耐といふ意味を通り越して、殆んど彼女の自然に近い或物であつた 。(「塵労」六) (傍線引用者)
一郎が、〈「(前略)おれが霊も魂も所謂スピリツトも攫まない女と結婚してゐる事丈は慥だ」〉(「兄」二〇)とお直が全く理解できないのを慨嘆しているように、二郎の目にもお直の態度は理解の範疇を越えている。石原千秋が〈身体は、言葉とは違って様々なノイズに満ち満ちている。直の身体は、むしろ饒舌だとさえ言えよう。〉
(12)と指摘する所以だが、しかし身体より明解であるはずのお直の今までの言説を、二郎が理解していたかというと、そういうわけでもないのである。
「自分の年なんかに、いくら冷淡でも構はないから、兄さんに丈はもう少し気を付けて親切にして上げて下さい。
「妾そんなに兄さんに不親切に見えて。是でも出来る丈の事は兄さんに為て上てる積よ。(後略)」
(中略)
「だつて夫や無理よ二郎さん。妾馬鹿で気が付かないから、みんなから冷淡と思はれてゐるかも知れないけれど、是で 全く出来る丈の事を兄さんに対してしてゐる気なんですもの。ーー妾や本当に腑抜けなのよ。ことに近頃は魂の抜殻にな つちまつたんだから」
(中略)
「妾のような魂の抜殻はさぞ兄さんには御気に入らないでせう。然し私は是で満足です。是で沢山です。兄さんについ て今迄何の不足を誰にも云つた事はない積です。(後略)」(「兄」三一)(傍線引用者)
このように読者は、和歌山での一夜を物語る二郎の報告から、お直の内面を知ることができる。〈腑抜け〉〈魂の抜殻〉という言葉が、お直の苦しい家庭生活の内実を窺わせるキーワードであることには留意されるだろう。〈彼女の忍耐は、忍耐といふ意味を通り越して、殆んど彼女の自然に近い或物であつた。〉と二郎は述べたが、忍耐が彼女の自然になるほどに、忍耐に馴致されてしまったお直の内面の荒廃に次郎は果たして気が付いていたのであろうか。「家」の中で嫁・妻・嫂・母役割によって拘束され
(13)、〈我儘〉な一郎との夫婦関係に苦労している上に、さらに〈「親切にして上げて下さい」〉といわれるのでは、お直も立つ瀬がない。しかも離婚しても自活していく道が閉ざされている以上、当時の女性としては死を選ぶか、あるいは三沢の話の中に出てきた離縁された娘のように気が狂うしかないのである。そのことがお直の念頭に無かったわけではなく、和歌山での一泊が決まった時の宿屋では、〈「(前略)妾死ぬなら首を縊つたり咽喉を突いたり、そんな小刀細工をするのは嫌よ。大水に攫はれるとか、雷火に打たれるとか、猛烈で一息な死に方がしたいんですもの」〉(同三七)と、お直は二郎に語るのである。 「姉さんが死ぬなんて事を云ひ出したのは今夜始めてゞすね」
とまでお直は発言する。さらに〈「あなた昂奮々々つて、よく仰しやるけれども妾や貴方よりいくら落付いてるか解りやしないわ。何時でも覚悟が出来てるんですもの」〉(同)と語る姿は、「こゝろ」でKが〈「覚悟、ーー覚悟ならない事もない」〉(下四二)と呟く姿をすら想起させよう。このように、ここには長野家の「家」の変容の過程において漏れでた、被抑圧的状況下の女性の苦渋に満ちた内面世界を認める事が出来るはずなのである。
ところがこのようなお直の直截な内面の吐露が、二郎には全く通じていなかった。以下は、嵐の夜の先の問答につづく翌朝の二郎の独白である。
自分は嫂の後姿を見詰めながら、又彼女の人となりに思ひ及んだ。自分は平生こそ嫂の性質を幾分かしつかり手に握つ てゐる積であつたが、いざ本式に彼女の口から本当の所を聞いて見やうとすると、丸で八幡の薮知らずへ這入つた様に、 凡てが解らなくなつた。〈凡てが解らな〉い〈正体の知れない嫂〉というように、お直のあれほど切実な内面の吐露も、二郎には全く理解されていない。二郎は〈自分は何と報告して好いか能く解らなかつた。云ふべき言葉は沢山あつたけれども、夫を一々兄の前に並べるのは到底自分の勇気では出来なかつた。よし並べたつて最後の一句は正体が知れないといふ簡単な事実に帰する丈であつた。〉(同)と述べるだけなのである。しかしお直は〈正体が知れない〉どころではなく、〈「死ぬ事丈は何うしたつて心の中で忘れた日はありやしないわ。」〉(同三八)という発言に照らせば、長野家の「家」の中で、家長たる夫とその親族を相手に相当な〈忍耐〉と〈覚悟〉でもって生きている女性として現れてくるはずなのである。
それにもかかわらず物語としては、二郎がお直の内面の苦衷を一郎に報告することはなく、お直の内面はついに夫婦関係の表層に表れずに封殺されてしまう。そこでは、健三とお住夫婦あるいは津田とお延夫婦のように、人間的な葛藤として相対的に描かれ、緊張感のある世界を生成していくような夫婦関係が現出することはない。ただ制度的関係に捕縛されて永遠に平行な軌跡を描き続けるだけの、互いが内面に抱懐している苦衷を理解し合うこともない荒涼とした夫婦の関係が認められるだけなのである。
そしてお直の深刻な内面の告白を「行人」の物語の中に浮遊させるだけで、一郎に報告することもなく、長野家においては勿論、物語の展開においても無意味化していく語り手/二郎の言説が、次の問題点となろう。
四、語り手/二郎の言説について
二郎が読者に対して語り手の位置にある以上、二郎のもたらす「情報」は読者の読解に大きな影響力をもっている。そしてそれが登場人物たちに対して、彼の立場からの偏向を孕んだものであることは、十分意識する必要がある。その意味で一郎の「家」の周縁に位置する二郎が、その夫婦関係をかいま見て物語るという「行人」においては、二郎が読者に語ったことと語ろうとしなかった内容を明確に認識しておかねばならない。これまで述べてきたこととの関連でいうと、二郎が語ろうとしたのは家長である一郎像についてであり、語ろうとしなかったのはお直のことであるといえよう。すでにこれだけでも偏向があらわれているが、お直の発言内容の封殺にいたってその偏向には、別の問題が透視できるように思うのである。そしてこれと関連して「友達」の章における二郎の視線には、女性に対するある偏向がすでにあらわれていた事に気付く。以下は、二郎が大阪の岡田の家に逗留した時に、細君のお兼に対してとった言動である。
「だつて一人や二人は可いでせう。岡田君は子供がないと淋しくつて不可ないツて云つてましたよ」
いくら夫婦中心の新しい家庭を営んでいるといっても、当時子供を産まない女性がどれだけ世間的に肩身の狭い思いをするかは容易に推測できる。そのようなコンテクストの中で二郎の発言を捉えるとき、どれだけ不躾で思慮を欠いた発言をしているかが分かる。しかも二郎は、子供の話を聞いてお兼が面伏せになり視線を合わせないようにしている姿を凝視することで、読者の前にお兼の羞恥と困惑の姿態を浮かび上がらせている。その上で〈「奥さんは何故子供が出来ないんでせう」〉とたたみかけるのである。反駁もできないお兼の心情は察するに余りあるが、この時の二郎の視線を、彼の冷淡な性格に根ざしたものであると捉えることは出来ない。彼にとってそのような質問をすることは配慮を必要としない「自然」な行為なのである。その「自然」さこそは、当時の男性中心社会が二郎をはじめとする男性に付与していた、社会的優位性の表われであった。すなわち結婚した女性には、「家」を存続させるために子供を産むことが要請されており、家事労働が出来ても子供を生まない女性はそれだけでも「家」にとっての存在価値を失うのである。結婚した相手の女性に子供を望むことは、男性にとって人間的・社会的に「自然」な欲求なのであり、岡田の希望を伝えようとする二郎の「善意」の深層には、女性一般に対する男性側の「自然」な欲求が制度的に刻み込まれていたといえよう。したがって子供を持たないお兼に対して二郎が、〈其時はたゞお兼さんに気の毒をした〉というのは、決して彼女の心を傷つけた非礼を詫びたものなどではなく、子供を産まない女性に余計なことを言ったという反省からなのである。
このように二郎は、お直ばかりでなくお兼に対しても抑圧的な姿勢を「自然」に示していることが分かる。そればかりではなく、「娘さん」についても不用意に〈「色情狂つていふのは、其んなもんぢやないのかな」〉(「友達」三三)と言ったりして三沢の不興を買っている事も看過できない。このような発言がすらすらと口をついて出てくるのも、友人のために盲目の女性を誤魔化した父親同様に、女性へのいたわりが生来欠如しており、〈「摯実の気質がない」〉(「帰つてから」二一)からばかりではない。二郎は、女性に対して差別性を持った視線や言説を構造化した男性中心の社会の様態を、「自然」に体現する存在だからなのである。
それではなぜこのような特性が二郎にあらわれるのであろうか。その解答への端緒として、二郎の見合いの話に着目したい。彼の見合いは、長野家やその縁戚関係から生じたものではなく、友人である三沢によって長野家の意思とは別の所からもたらされた。〈「御母さん、兄さんは妾達に隠れて此間見合をなすつたんですつて」〉(「塵労」二七)と、お重が披露するまで、二郎の見合い話を長野の家では知らなかったのである。母親は財産や縁戚の経済状態、病気の系統を問いただす反応を見せているが、実はこの場には父親は外出して不在であり、一郎も旅行に出て不在である。このように元「家長」や「家長」が不在の時に、お重が二郎の見合い話を、母親とお直ばかりの女の中で披露するのには、二郎の見合いが個人としてはともかく、長野の家にとっては重要度の低いものとする判断が働いていることを推測させる。言い換えれば二郎の見合いは、長野家の家長の「結婚」話でない以上、女達の雑談の中で披露されるようなレヴェルのものなのである。二郎の結婚によって、長野の「家」は何ら変化を被ることはないのであり、それはとりもなおさず現在の長野家における二郎の周縁的な地位を物語っていよう。しかしそれは同時に、二郎からすれば「家」の意向が働かないような地位に位置していることを意味するものでもある。
事実〈自分は大阪の岡田から受け取つた手紙の中に、相応な位地が彼地にあるから来ないかといふ勧誘があつたので、ことによつたら今の事務所を飛び出さうかと考へてゐた。〉(「塵労」二四)というところにも窺えるように、自分の意志で自分の〈位地〉を自由に決める独立性が、彼には備わっているのである。そしてそれは、前述したように彼が建設事務所勤めをして独立した経済力を持っていることに依るものであることは言うまでもない。このことによって、二郎が長野家の周縁的な存在から独立し、やがては結婚して新しい一家を構え(分家ではない)、その「家」の中心に据わる展開が可能となる。
長井代助の場合、実家の家計に依存した分家状態であったため、終始長井家の「家」の周縁に位置せざるを得ず、その結婚話にも「家」の意向が強く働いた。しかしそれゆえに、家父長の専制や矛盾に対する醒めた視線や姿勢も育まれ得た。ところが二郎は一郎の「家」の周縁に位置するとはいっても、すでに自らの経済力で独立し、自分の「家」を構えてその中核となりうる力を持っており、「家」に対する批判者としては存在し得ない。むしろ二郎は自ら「家」制度を再生産する機能を潜在させた存在であるといえよう。代助のように家父長制によって刻まれたトラウマを、彼に認めることはできないのである。したがって「行人」を物語る彼が新たな「家父長」候補の因子を潜在させた存在として、物語中の女性達に対して抑圧的な視線や言動を刻み込むのも「自然」な事であるといえよう。
和歌山での一夜で、内面を吐露したお直の言葉が二郎の理解の範疇外にあるのはそのためであり、二郎は覚えているかぎりのお直の言葉を集めて、嵐の夜に嫂と二人きりで同じ部屋に蒲団を並べて過ごした顛末を、アバンチュールとして読者の前に再構成しようとする。そこには嫂という存在を、「女」に解体していこうという欲望を認めることすら可能であろうし、また一郎の支配下にあるお直を、弟が侵犯する様な図式を描くことで、一郎の「家長」支配の脆弱さを物語る意図があったと読むことが出来るかも知れない。とまれ、お直の発言そのものに基づく意味づけは一切行われず、あるのは二郎による一方的な「解釈」なのである。しかし前節で見たように、二郎が演出しようとした世界と、お直の言動によって醸し出された世界との懸隔は明瞭であり、二郎の道化ぶりはここに極まっている。そして読者は、二郎の言葉が明治社会の支配者側の言説であり、その機能が女性存在への無理解と抑圧と蔑視に彩られていることを理解しよう。二郎が男性中心の言説によって「行人」を統括している以上、お直の「家」における苦衷を表す言葉は〈正体が知れない〉(「兄」三九)という評価と共に「行人」の中を浮遊しつづける外はないのである。いずれ二郎自身は結婚して妻を支配する立場に立つ、新しい「家長」となるであろう。男性として有る限り、結婚して「家長」となり新たな女性への抑圧を内蔵させた言説を、一郎とは異なった位相から再生産し続けることになる。かつて藤沢るりは、二郎が〈《長野家》の家族的空間と言語の世界で生き、その要請する役割のみを果たして、《長野家》に拮抗するだけの《私》を持たない存在〉であり、〈二郎の記述とは、彼の言葉の可動範囲で明確になるものしか明確にせず、その言葉にとって不明確なものは、不明確さの最も初歩的な形態の儘に放置されている記述であった。〉
(14)と、二郎の言説の特性を明らかにしたが、その特性を生み出す根源に横たわるものこそ、彼が内面化した当時の社会制度の男性中心性であり、それゆえ劣位にある女性存在への配慮が希薄になるのである。彼の語りの空隙を分析することによって、「行人」世界が持つ「男性」性の問題が析出されるわけである。「行人」は二郎の男性中心性を帯びた言説によって織り上げられた物語である。その中で二郎は、「家」の再編成の渦中にある一郎という長男の姿を描いてみせた。読者はそこで、人間の自由な精神を拘束する所に成立する「家」制度と、人間の精神の自由な所から生れてくる「学問」の相克に苦しむ一郎の形象を通して、当時の日本社会が併せ持たざるを得なかった封建性と近代性の構造的な矛盾の一様態を見いだす事が出来る。二郎の語りはそういった問題点を剔抉することに成功していたといえよう。しかしその一方で二郎は、お直の言説を祖述するばかりで、その内容が発する抑圧の問題を物語に回収せず、またお兼の不妊にも無神経な態度を示したように、「家」中心の社会における女性存在を理解する上では限界を見せている。また二郎は絶対的な語り手ではなく、一郎の人間像について読者に熱心に語り掛けてはくるのだが、思索を深める一郎の内面の展開についてはHさんという別の報告者の力量に頼らざるを得なかった。その意味での限界も有した語り手であった。しかし、自らの言説の中に男性中心社会の優位性を問題として内蔵させた主体であるからこそ、その反映としての語ることと語らぬことのあわいにおいて、近代日本社会が生み出した「家」制度の中で懊悩する様々な人間の姿を浮かび上がらせることも可能であったのである。
註
【付記】
本文の引用には、『漱石全集』第五巻(一九九四年四月、岩波書店)と『漱石全集』第八巻(一九九四年七月、岩波書店)を用いた。
(宇部短期大学講師)