心(こヽろ) 先生の遺書(九十一)

「二人(ふたり)は各自(めい\/)の室(へや)に引き取(と)つたぎり顔(かほ)を合(あ)はせませんでした。Kの静(しづ)かな事(こと)は朝(あさ)と同じでした。私も凝(ぢつ)と考へ込(こ)んでゐました。
 私は当然自分の心(こヽろ)をKに打(う)ち明(あ)けるべき筈(はづ)だと思ひました。然しそれにはもう時機が後(おく)れてしまつたといふ気も起(おこ)りました。何故(なぜ)先刻(さつき)Kの言葉(ことば)を遮(さへ)ぎつて、此方(こつち)から逆襲しなかつたのか、其所(そこ)が非常な手落(てぬか)りのやうに見えて来(き)ました。責(せ)めてKの後(あと)に続(つヾ)いて、自分は自分の思ふ通(とほ)りを其場(そのば)で話(はな)して仕舞(しま)つたら、まだ好(よ)かつたらうにとも考へました。Kの自白に一段落が付(つ)いた今(いま)となつて、此方(こつち)から又(また)同じ事(こと)を切(き)り出(だ)すのは、何(ど)う思案しても変(へん)でした。私は此不自然に打ち勝つ方法を知らなかつたのです。私の頭(あたま)は悔恨に揺(ゆ)られてぐら\/しました。
 私はKが再び仕切(しきり)の襖(ふすま)を開(あ)けて向(むか)ふから突進してきて呉(く)れヽば好(い)いと思ひました。私に云(い)はせれば、先刻(さつき)は丸で不意撃(うち)に会(あ)つたも同じでした。私にはKに応ずる準備も何(なに)もなかつたのです。私は午前(ごぜん)に失(うし)なつたものを、今度は取り戻(もど)さうといふ下心(したごヽろ)を持(も)つてゐました。それで時々(ときどき)眼(め)を上(あ)げて、襖(ふすま)を眺(なが)めました。然し其襖(ふすま)は何時迄(いつまで)経(た)つても開(あ)きません。さうしてKは永久に静(しづか)なのです。
 其内(うち)私の頭(あたま)は段々(だん\/)此静(しづ)かさに掻き乱(みだ)されるやうになつて来(き)ました。Kは今襖(ふすま)の向(むかふ)で何(なに)を考へてゐるだらうと思ふと、それが気になつて堪(たま)らないのです。不断も斯(こ)んな風(ふう)に御互(たがひ)が仕切(しきり)一枚を間(あひだ)に置(お)いて黙(だま)り合(あ)つてゐる場合(ばあひ)は始終あつたのですが、私はKが静(しづか)であればある程(ほど)、彼の存在を忘れるのが普通の状態だつたのですから、其時(とき)の私は余程調子が狂(くる)つてゐたものと見なければなりません。それでゐて私は此方(こつち)から進(すヽ)んで襖(ふすま)を開(あ)ける事(こと)が出来(でき)なかつたのです。一旦(いつたん)云(い)ひそびれた私は、また向(むか)ふから働(はた)らき掛(か)けられる時機を待(ま)つより外(ほか)に仕方(しかた)がなかつたのです。
 仕舞に私は凝(ぢつ)として居られなくなりました。無理に凝(ぢつ)としてゐれば、Kの部屋(へや)へ飛(と)び込(こ)みたくなるのです。私は仕方(しかた)なしに立(た)つて縁側(がは)へ出(で)ました。其所(そこ)から茶(ちや)の間(ま)へ来(き)て、何(なん)といふ目的(もくてき)もなく、鉄瓶(てつびん)の湯を湯呑(ゆのみ)に注(つ)いで一杯呑(の)みました。それから玄関へ出(で)ました。私はわざとKの室(へや)を回避(くわいひ)するやうにして、斯(こ)んな風に自分を往来の真中(まんなか)に見出(みいだ)したのです。私には無論何処(どこ)へ行くといふ的(あて)もありません。たヾ凝(ぢつ)としてゐられない丈でした。それで方角も何(なに)も構(かま)はずに、正月の町(まち)を、無暗(むやみ)に歩(ある)き廻(まは)つたのです。私の頭(あたま)はいくら歩(ある)いてもKの事(こと)で一杯(ぱい)になつてゐました。私もKを振(ふる)ひ落(おと)す気で歩(ある)き廻(まは)る訳(わけ)ではなかつたのです。寧(むし)ろ自分から進(すヽ)んで彼の姿(すがた)を咀嚼しながらうろついて居(ゐ)たのです。
 私には第一に彼が解(かい)しがたい男のやうに見(み)えました。何(ど)うしてあんな事(こと)を突然私に打(う)ち明(あ)けたのか、又何(ど)うして打ち明(あ)けなければゐられない程に、彼の恋が募(つの)つて来(き)たのか、さうして平生の彼は何処(どこ)に吹き飛(と)ばされてしまつたのか、凡て私には解(かい)しにくい問題でした。私は彼(かれ)の強い事(こと)を知つてゐました。又彼(かれ)の真面目な事(こと)を知つてゐました。私は是から私の取(と)るべき態度(たいど)を決(けつ)する前(まへ)に、彼(かれ)について聞(き)かなければならない多くを有(も)つてゐると信じました。同時(じ)に是からさき彼(かれ)を相手にするのが変(へん)に気味が悪(わる)かつたのです。私は夢中に町(まち)の中(なか)を歩(ある)きながら、自分の室(へや)に凝(ぢつ)と坐(すわ)つてゐる彼の容貌を始終眼(め)の前(まへ)に描(ゑが)き出(だ)しました。しかもいくら私が歩(ある)いても彼(かれ)を動(うご)かす事(こと)は到底出来(でき)ないのだといふ声(こえ)が何処(どこ)かで聞(き)こえるのです。つまり私には彼が一種の魔物(まもの)のやうに思へたからでせう。私は永久彼(かれ)に祟(たヽ)られたのではなからうかといふ気さへしました。
 私が疲(つか)れて宅(うち)へ帰(かへ)つた時(とき)、彼(かれ)の室(へや)は依然として人気(ひとけ)のないやうに静(しづか)でした。


心(こヽろ) 先生の遺書(九十二)

「私が家(うち)へ這入(はい)ると間(ま)もなく俥(くるま)の音(おと)が聞(き)こえました。今(いま)のやうに護謨輪(ごむわ)のない時分(じぶん)でしたから、がら\/いふ厭(いや)な響(ひヾき)が可(か)なりの距離でも耳(みヽ)に立(た)つのです。車(くるま)はやがて門前(ぜん)で留(と)まりました。
 私が夕飯(ゆふめし)に呼(よ)び出(だ)されたのは、それから三十分ばかり経(た)つた後(あと)の事(こと)でしたが、まだ奥さんと御嬢さんの晴着(はれぎ)が脱(ぬ)ぎ棄(す)てられた侭(まヽ)、次(つぎ)の室(へや)を乱雑に彩(いろ)どつてゐました。二人(ふたり)は遅(おそ)くなると私達に済(す)まないといふので、飯(めし)の支度(したく)に間(ま)に合(あ)ふやうに、急(いそ)いで帰(かへ)つて来(き)たのださうです。然(しか)し奥さんの親切(しんせつ)はKと私とに取(と)つて殆んど無効も同じ事(こと)でした。私は食卓(しよくたく)に坐(すわ)りながら、言葉を惜(お)しがる人(ひと)のやうに、素気(そつけ)ない挨拶ばかりしてゐました。Kは私よりも猶寡言(げん)でした。たまに親子連(おやこづれ)で外出した女二人(ふたり)の気分が、また平生よりは勝(すぐ)れて晴(はれ)やかだつたので、我々の態度は猶の事(こと)眼(め)に付(つ)きます。奥さんは私に何(ど)うかしたのかと聞(き)きました。私は少し心持(こヽろもち)が悪(わる)いと答へました。実際私は心持(こヽろもち)が悪(わる)かつたのです。すると今度は御嬢さんがKに同じ問(とひ)を掛(か)けました。Kは私のやうに心持(こヽろもち)が悪(わる)とは答へません。たヾ口(くち)が利(き)きたくないからだと云ひました。御嬢さんは何故(なぜ)口(くち)が利(き)きたくないのかと追窮しました。私は其時ふと重(おも)たい瞼(まぶた)を上(あ)げてKの顔(かほ)を見ました。私にはKが何(なん)と答(こた)へるだらうかといふ好奇心があつたのです。Kの唇(くちびる)は例のやうに少し顫(ふる)へてゐました。それが知らない人(ひと)から見ると、丸で返事(へんじ)に迷(まよ)つてゐるとしか思はれないのです。御嬢さんは笑(わら)ひながら又(また)何(なに)かむ六(む)づかしい事(こと)を考へてゐるのだらうと云ひました。Kの顔(かほ)は心持薄赤くなりました。
 其晩(ばん)私は何時(いつ)もより早(はや)く床(とこ)へ入(はい)りました。私が食事(じ)の時(とき)気分が悪(わる)いと云つたのを気にして、奥さんは十時頃蕎麦湯(そばゆ)を持(も)つて来(き)て呉(く)れました。然し私の室(へや)はもう真暗(まつくら)でした。奥さんはおや\/と云つて、仕切(しき)りの襖(ふすま)を細目(ほそめ)に開(あ)けました。洋燈(ランプ)の光(ひかり)がKの机から斜(なヽめ)にぼんやりと私の室(へや)に差(さ)し込(こ)みました。Kはまだ起(お)きてゐたものと見えます。奥さんは枕元に坐(すわ)つて、大方(おほかた)風邪(かぜ)を引(ひ)いたのだらうから身体(からだ)を暖(あつ)ためるが可(い)いと云つて、湯呑(ゆのみ)を顔(かほ)の傍(そば)へ突(つ)き付(つ)けるのです。私は已を得ず、どろ\/した蕎麦湯(そばゆ)を奥さんの見てゐる前(まへ)で飲んだのです。
 私は遅(おそ)くなる迄暗(くら)いなかで考へてゐました。無論一つ問題をぐる\/廻転させる丈で、外(ほか)に何(なん)の効力もなかつたのです。私は突然Kが今隣りの室(へや)で何(なに)をしてゐるだらうと思ひ出(だ)しました。私は半(なか)ば無意識においと声(こえ)を掛(か)けました。すると向(むか)ふでもおいと返事(へんじ)をしました。Kもまだ起(お)きてゐたのです。私はまだ寐(ね)ないのかと襖(ふすま)ごしに聞(き)きました。もう寐(ね)るといふ簡単な挨拶がありました。何(なに)をしてゐるのだと私は重(かさ)ねて問(と)ひました。今度はKの答(こたへ)がありません。其代(そのかは)り五六分(ぷん)経(た)つたと思ふ頃(ころ)に、押入(おしいれ)をがらりと開(あ)けて、床(とこ)を延(の)べる音(おと)が手に取(と)るやうに聞(き)こえました。私はもう何時(なんじ)かと又(また)尋(たづ)ねました。Kは一時二十分(ぷん)だと答へました。やがて洋燈(ランプ)をふつと吹き消(け)す音(おと)がして、家中(うちぢう)が真暗(まつくら)なうちに、しんと静(しづ)まりました。
 然し私の眼(め)は其暗(くら)いなかで愈(いよ\/)冴(さ)えて来(く)るばかりです。私はまた半(なか)ば無意識な状態で、おいとKに声を掛(か)けました。Kも以前と同じやうな調子で、おいと答へました。私は今朝(けさ)彼から聞(き)いた事(こと)に就(つ)いて、もつと詳(くわ)しい話(はなし)をしたいが、彼の都合は何(ど)うだと、とう\/此方(こつち)から切り出しました。私は無論襖越(ふすまごし)にそんな談話を交換する気はなかつたのですが、Kの返答だけは即坐に得(え)られる事(こと)と考へたのです。所がKは先刻(さつき)から二度おいと呼ばれて、二度おいと答へたやうな素直な調子で、今度は応じません。左右(さう)だなあと低(ひく)い声(こえ)で渋(しぶ)つてゐます。私は又はつと思はせられました。


心(こヽろ) 先生の遺書(九十三)

「Kの生返事(なまへんじ)は翌日になつても、其翌日になつても、彼の態度によく現(あら)はれてゐました。彼は自分から進んで例の問題に触(ふ)れようとする気色(けしき)を決して見せませんでした。尤も機会もなかつたのです。奥さんと御嬢さんが揃(そろ)つて一日(いちにち)宅(うち)を空(あ)けでもしなければ、二人(ふたり)はゆつくり落付(おちつ)いて、左右(さう)いふ事(こと)を話(はなし)し合(あ)ふ訳(わけ)にも行(い)かないのですから。私はそれを能く心得(こヽろえ)てゐました。心得てゐながら、変にいら\/し出(だ)すのです。其結果始(はじ)めは向(むか)ふから来(く)るのを待(ま)つ積(つもり)で、暗(あん)に用意をしてゐた私が、折(をり)があつたら此方(こつち)で口(くち)を切(き)らうと決心するやうになつたのです 。
 同時に私は黙(だま)つて家(うち)のものヽ様子を観察して見ました。然し奥さんの態度にも御嬢さんの素振にも、別に平生と変(かは)つた点(てん)はありませんでした。Kの自白以前と自白以後とで、彼等の挙動に是(これ)といふ差違が生じないならば、彼の自白は単に私丈に限(かぎ)られた自白で、肝心の本人にも、又其監督者たる奥さんにも、まだ通じてゐないのは慥(たしか)でした。さう考へた時(とき)私は少(すこ)し安心しました。それで無理に機会を拵(こしら)えて、わざとらしく話(はなし)を持(も)ち出(だ)すよりは、自然の与(あた)へて呉(く)れるものを取(と)り逃(にが)さないやうにする方が好(よ)からうと思つて、例の問題にはしばらく手を着(つ)けずにそつとして置(お)く事(こと)にしました。
 斯(か)う云つて仕舞(しま)へば大変簡単に聞(き)こえますが、さうした心(こヽろ)の経過には、潮(しほ)の満干(みちひ)と同じやうに、色々(いろ\/)の高低(たかびく)があつたのです。私はKの動(うご)かない様子を見(み)て、それにさま\゛/の意味を付(つ)け加へました。奥さんと御嬢さんの言語動作(さ)を観察して、二人(こヽろ)の心が果(はた)して其所(そこ)に現(あら)はれてゐる通(とほり)なのだらうかと疑(うたが)つても見(み)ました。さうして人間(にんげん)の胸(むね)の中(なか)に装置(ち)された複雑な器械が、時計(とけい)の針(はり)のやうに、明瞭に偽(いつは)りなく、盤上の数字を指(さ)し得るものだらうかと考へました。要するに私は同じ事(こと)を斯(か)うも取(と)り、彼(あ)あも取(と)りした揚句(あげく)、漸く此処(ここ)に落ち付(つ)いたものと思つて下(くだ)さい。更(さら)に六(む)づかしく云へば、落(お)ち付(つ)くなどヽいふ言葉(ことば)は、此際決して使(つか)はれた義理でなかつたのかも知(し)れません。
 其内(そのうち)学校がまた始(はじ)まりました。私達は時間(じかん)の同じ日(ひ)には連(つ)れ立(だ)つて宅(うち)を出(で)ます。都合が可(よ)ければ帰(かへ)る時(とき)にも矢張(やは)り一所に帰りました。外部から見(み)たKと私は、何(なん)にも前(まへ)と違(ちが)つた所(ところ)がないやうに親しくなつたのです。けれども腹(はら)の中(なか)では、各自(てん\゛/)に各自(てん\゛/)の事(こと)を勝手に考(かんが)へてゐたに違ありません。ある日(ひ)私は突然往来でKに肉薄(にくはく)しました。私が第一に聞(き)いたのは、此間(このあひだ)の自白が私丈に限(かぎ)られてゐるか、又は奥さんや御嬢さんにも通じてゐるかの点にあつたのです。私の是(これ)から取(と)るべき態度は、此問(とひ)に対する彼の答(こたへ)次第で極(き)めなければならないと、私は思つたのです。すると彼(かれ)は外(ほか)の人(ひと)にはまだ誰(だれ)にも打ち明(あ)けてゐないと明言しました。私は事情が自分の推察通(どほ)りだつたので、内心(ないしん)嬉(うれ)しがりました。私はKの私より横着なのを能(よ)く知(し)つてゐました。彼の度胸にも敵(かな)はないといふ自覚があつたのです。けれども一方では又妙に彼(かれ)を信(しん)じてゐました。学資の事(こと)で養家を三年も欺(あざ)むいてゐた彼(かれ)ですけれども、彼の信用は私に対(たい)して少(すこ)しも損(そこな)はれてゐなかつたのです。私はそれがために却つて彼を信(しん)じ出(だ)した位です。だからいくら疑ひ深(ぶか)い私でも、明白な彼の答(こたへ)を腹(はら)の中(なか)で否定する気は起(おこ)りやうがなかつたのです。
 私は又彼(かれ)に向(むか)つて、彼の恋(こひ)を何(ど)う取(と)り扱(あつ)かふ積(つもり)かと尋ねました。それが単(たん)なる自白に過(す)ぎないのか、又は其自白についで、実際的の効果をも収(おさ)める気なのかと問(と)ふたのです。然るに彼(かれ)は其所(そこ)になると、何にも答へません。黙(だま)つて下(した)を向(む)いて歩(ある)き出(だ)します。私は彼(かれ)に隠(かく)し立(だて)てをして呉れるな、凡(すべ)て思つた通りを話(はな)して呉(く)れと頼(たの)みました。彼は何も私に隠(かく)す必要はないと判然(はつきり)断言しました。然し私の知らうとする点には、一言(いちごん)の返事(へんじ)も与へないのです。私も往来だからわざ\/立ち留(ど)まつて底(そこ)迄突き留(と)める訳に行きません。ついそれなりに為(し)てしまひました。


心(こヽろ) 先生の遺書(九十四)

「ある日私は久し振(ぶり)に学校の図書館に入(はい)りました。私は広(ひろ)い机の片隅(かたすみ)で窓(まど)から射(さ)す光線を半身(はんしん)に受(う)けながら、新着(しんちやく)の外国雑誌を、あちら此方(こちら)と引繰(ひつく)り返(かへ)して見(み)てゐました。私は担任教師から専攻の学科に関して、次(つぎ)の週までにある事(じ)項を調(しら)べて来(こ)いと命(めい)ぜられたのです。然し私に必要な事柄(ことがら)が中(なか)々見付(みつ)からないので、私は二度も三度も雑誌を借(か)り替(か)へなければなりませんでした。最後(ご)に私はやつと自分に必要な論文を探(さが)し出(だ)して、一心にそれを読(よ)み出しました。すると突然幅の広い机の向ふ側から小(ちい)さな声で私の名を呼ぶものがあります。私は不図(ふと)眼(め)を上(あ)げて其所(そこ)に立(た)つてゐるKを見ました。Kはその上半身(じやうはんしん)を机の上(うへ)に折(を)り曲(まげ)るやうにして、彼の顔(かほ)を私に近付(ちかづ)けました。御承知の通り図書館では他(ほか)の人(ひと)の邪魔になるやうな大きな声で話(はなし)をする訳(わけ)に行かないのですから、Kの此所作(このしよさ)は誰(だれ)でも遣(や)る普通の事(こと)なのですが、私は其時に限(かぎ)つて、一種変な心持(こヽろもち)がしました。
 Kは低(ひく)い声で勉強かと聞(き)きました。私は一寸(ちよつと)調(しら)べものがあるのだと答へました。それでもKはまだ其顔(そのかほ)を私から放(はな)しません。同じ低い調子で一所に散歩をしないかといふのです。私は少し待つてゐれば為(し)ても可(い)いと答へました。彼は待(ま)つてゐると云つた侭(まヽ)、すぐ私の前(まへ)の空席に腰(こし)を卸(おろ)しました。すると私は気が散(ち)つ[て]急に雑誌が読(よ)めなくなりました。何(なん)だかKの胸(むね)に一物(いちもつ)があつて、談判でもしに来(こ)られたやうに思はれて仕方がないのです。私は已を得ず読(よ)みかけた雑誌を伏(ふ)せて、立ち上(あ)がらうとしました。Kは落付き払つてもう済(す)んだのかと聞(き)きます。私は何(ど)うでも可(い)いのだと答へて、雑誌を返(かへ)すと共に、Kと図書館を出(で)ました。
 二人(ふたり)は別(べつ)に行く所(ところ)もなかつたので、龍岡町から池の端(はた)へ出(で)て、上野の公園の中(なか)へ入(はい)りました。其時(とき)彼は例の事件(じけん)について、突(とつ)然向(むか)ふから口(くち)を切(き)りました。前後の様子を綜合して考へると、Kはそのために私をわざ\/散歩に引つ張(ぱり)出(だ)したらしいのです。けれども彼の態度はまだ実際的の方面へ向つてちつとも進(すヽ)んでゐませんでした。彼は私に向つて、たヾ漠然と、何(ど)う思ふと云ふのです。何(ど)う思ふといふのは、さうした恋愛の淵(ふち)に陥(おち)いつた彼(かれ)を、何(ど)んな眼(め)で私が眺(なが)めるかといふ質問(しつもん)なのです。一言(ごん)でいふと、彼は現在の自分について、私の批判を求(もと)めたい様(やう)なのです。其所(そこ)に私は彼(かれ)の平生と異(こと)なる点(てん)を確(たし)かに認(みと)める事(こと)が出来(でき)たと思ひました。度(たび)々繰(く)り返(かへ)すやうですが、彼の天性は他(ひと)の思(おも)はくを憚(はヾ)かる程弱く出来上つてはゐなかつたのです。斯(か)うと信じたら一人(ひとり)でどん\/進んで行く丈の度胸もあり勇気もある男なのです。養家事件で其特色を強く胸(むね)の裏(うち)に彫(ほ)り付(つ)けられた私が、是(これ)は様子が違(ちが)ふと明(あき)らかに意識したのは当然の結果(けつくわ)なのです。
 私がKに向(むか)つて、此際(このさい)何(な)んで私の批評が必要なのかと尋ねた時(とき)、彼は何時(いつ)もにも似ない悄然とした口調で、自分の弱い人間(にんげん)であるのが実際耻(は)づかしいと云ひました。さうして迷(まよ)つてゐるから自分で自分が分(わか)らなくなつてしまつたので、私に公平な批評を求めるより外(ほか)に仕方(しかた)がないと云ひました。私は隙(す)かさず迷(まよ)ふといふ意味を聞(き)き糺(たヾ)しました。彼は進(すヽ)んで可(い)いか退ぞいて可(い)いか、それに迷(まよ)ふのだと説明しました。私はすぐ一歩先(ぽさき)へ出(で)ました。さうして退(しり)ぞかうと思へば退(しり)ぞけるのかと彼(かれ)に聞(き)きました。すると彼(かれ)の言葉が其所(そこ)で不意に行き詰(つま)りました。彼(かれ)はたヾ苦(くる)しいと云つた丈でした。実際彼の表情には苦(くる)しさうな所があり\/と見(み)えてゐました。もし相手が御嬢さんでなかつたならば、私は何(ど)んなに彼(かれ)に都合の好(い)い返事を、その渇(かは)き切つた顔(かほ)の上(うへ)に慈雨(じう)の如(ごと)く注(そヽ)いで遣(や)つたか分(わか)りません。私はその位の美(うつ)くしい同情を有(も)つて生(うま)れて来(き)た人間(にんげん)と自分ながら信(しん)じてゐます。然し其時の私は違(ちが)つてゐました。


心(こヽろ) 先生の遺書(九十五)

「私は丁度他流試合(じあひ)でもする人(ひと)のやうにKを注意して見てゐたのです。私は、私の眼(め)、私の心(こヽろ)、私の身体(からだ)、すべて私といふ名の付(つ)くものを五分(ぶ)の隙間(すきま)もないやうに用意して、Kに向つたのです。罪(つみ)のないKは穴(あな)だらけといふより寧(むし)ろ明(あ)け放(はな)しと評するのが適当な位に無(ぶ)用心(じん)でした。私は彼自身の手(て)から、彼(かれ)の保管してゐる要塞(さい)の地図を受取(うけと)つて、彼の眼(め)の前(まへ)でゆつくりそれを眺(なが)める事(こと)が出来(でき)たも同じでした。
 Kが理想と現実の間(あひだ)に彷徨してふら\/してゐるのを発見した私は、たヾ一打(ひとうち)で彼を倒す事(こと)が出来(でき)るだらうといふ点にばかり眼を着(つ)けました。さうしてすぐ彼の虚(きよ)に付(つ)け込(こ)んだのです。私は彼に向つて急に厳粛(げんしゆく)な改(あら)たまつた態度を示(しめ)し出(だ)しました。無論策略からですが、其態度に相応する位な緊張した気分もあつたのですから、自分に滑稽だの羞耻(しうち)だのを感(かん)ずる余裕はありませんでした。私は先づ「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と云ひ放(はな)ちました。是は二人(ふたり)で房州を旅行してゐる際、Kが私に向つて使(つか)つた言葉(ことば)です。私は彼(かれ)の使(つか)つた通(とほ)りを、彼と同じやうな口(く)調で、再(ふたヽ)び彼(かれ)に投(な)げ返(かへ)したのです。然し決して復讐ではありません。私は復讐以上に残酷な意味を有(も)つてゐたといふ事(こと)を自白します。私は其一言(いちごん)でKの前(まへ)に横(よこ)たはる恋(こひ)の行手(ゆくて)を塞(ふさ)がうとしたのです。
 Kは真宗寺(でら)に生(うま)れた男でした。然し彼(かれ)の傾向は中学時代から決して生家(せいか)の宗旨に近いものではなかつたのです。教義上の区別をよく知らない私が、斯(こ)んな事(こと)をいふ資格に乏(とぼ)しいのは承知してゐますが、私はたヾ男女に関係した点についてのみ、さう認(みと)めてゐたのです。Kは昔(むか)しから精進(じん)といふ言葉が好(すき)でした。私は其言葉(ことば)の中(なか)に、禁慾(よく)といふ意味も籠(こも)つてゐるのだらうと解釈してゐました。然し後(あと)で実際を聞(き)いて見(み)ると、それよりもまだ厳重な意味が含(ふく)まれてゐるので、私は驚ろきました。道(みち)のためには凡(すべ)てを犠牲にすべきものだと云ふのが彼の第一信条なのですから、摂慾や禁(きん)慾は無論、たとひ慾(よく)を離(はな)れた恋そのものでも道(みち)の妨害(さまたげ)になるのです。Kが自活生活をしてゐる時分に、私はよく彼から彼(かれ)の主張を聞(き)かされたのでした。其頃(ころ)から御嬢さんを思つてゐた私は、勢ひ何(ど)うしても彼に反対しなければならなかつたのです。私が反対(はんたい)すると、彼は何時(いつ)でも気の毒(どく)さうな顔(かほ)をしました。其所(そこ)には同情よりも侮蔑の方(はう)が余計に現(あら)はれてゐました。
 斯(か)ういふ過去を二人(ふたり)の間(あひだ)に通り抜(ぬ)けて来(き)てゐるのですから、精神的に向上心のないものは馬鹿だといふ言葉(ことば)は、Kに取(と)つて痛(いた)いに違(ちが)いなかつたのです。然(しか)し前にも云つた通り、私は此一言(いちごん)で、彼(かれ)が折角積(つ)み上(あ)げた過去を蹴散(けち)らした積(つもり)ではありません。却つてそれを今迄通(いままでどほ)り積(つ)み重(かさ)ねて行かせやうとしたのです。それが道(みち)に達(たつ)しやうが、天(てん)に届(とヾ)かうが、私は構(かま)ひません。私はたヾKが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉(ことば)は単なる利己心の発現でした。
「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」
 私は二度同じ言葉を繰(く)り返(かへ)しました。さうして、其言葉がKの上(うへ)に何(ど)う影響するかを見詰(みつ)めてゐました。「馬鹿だ」とやがてKが答(こた)へました。「僕は馬鹿だ」
 Kはぴたりと其所(そこ)へ立(た)ち留(どま)つた侭(まヽ)動(うご)きません。彼(かれ)は地面(ぢめん)の上(うへ)を見詰(みつ)めてゐます。私は思はずぎよつとしました。私にはKが其刹那(せつな)に居直(ゐなほ)り強盗の如く感(かん)ぜられたのです。然しそれにしては彼(かれ)の声(こえ)が如何(いか)にも力(ちから)に乏(とぼ)しいといふ事(こと)に気(き)が付(つ)きました。私は彼(かれ)の眼遣(めづかひ)を参考にしたかつたのですが、彼は最後迄私の顔(かほ)を見ないのです。さうして、徐々(そろ\/)と又歩(ある)き出(だ)しました。


心(こヽろ) 先生の遺書(九十六)

「私はKと並(なら)んで足(あし)を運(はこ)ばせながら、彼(かれ)の口(くち)を出(で)る次(つぎ)の言葉(ことば)を腹(はら)の中(なか)で暗(あん)に待(ま)ち受(う)けました。或は待(ま)ち伏(ぶ)せと云つた方(はう)がまだ適当かも知れません。其時(とき)の私はたとひKを騙(だま)し打(う)ちにしても構(かま)はない位に思つてゐたのです。然し私にも教育相当の良心はありますから、もし誰(だれ)か私の傍(そば)へ来(き)て、御前は卑怯だと一言(ひとこと)私語(さヽや)いて呉(く)れるものがあつたなら、私は其瞬間に、はつと我(われ)に立(た)ち帰(かへ)つたかも知れません。もしKが其人(そのひと)であつたなら、私は恐らく彼(かれ)の前に赤面したでせう。たヾKは私を窘(たしな)めるには余(あま)りに正直(しやうぢき)でした。余りに単純でした。余りに人格(じんかく)が善良だつたのです。目(め)のくらんだ私は、其所(そこ)に敬意を払ふ事(こと)を忘れて、却つて其所(そこ)に付(つ)け込(こ)んだのです。其所(そこ)を利用して彼を打(う)ち倒さうとしたのです。
 Kはしばらくして、私の名を呼んで私の方(はう)を見ました。今度は私の方(はう)で自然と足(あし)を留(と)めました。するとKも留(と)まりました。私は其時やつとKの眼(め)を真向(まむき)に見る事(こと)が出来(でき)たのです。Kは私より脊(せい)の高(たか)い男でしたから、私は勢ひ彼の顔(かほ)を見上(みあ)げるやうにしなければなりません。私はさうした態度(ど)で、狼の如(ごと)き心を罪のない羊に向(む)けたのです。
 「もう其話(はなし)は止(や)めやう」と彼が云ひました。彼の眼(め)にも彼の言葉にも変に悲痛な所がありました。私は一寸(ちよつと)挨拶が出来(でき)なかつたのです。するとKは、「止(や)めて呉(く)れ」と今度は頼(たの)むやうに云(い)ひ直(なほ)しました。私は其時彼に向つて残酷な答(こたへ)を与(あた)へたのです。狼が隙(すき)を見(み)て羊(ひつじ)の咽喉(のど)笛へ食(くら)ひ付(つ)くやうに。
 「止(や)めて呉(く)れつて、僕が云ひ出(だ)した事(こと)ぢやない、もと\/君(きみ)の方(はう)から持(も)ち出(だ)した話(はなし)ぢやないか。然し君が止(や)めたければ、止(や)めても可(い)いが、たヾ口(くち)の先(さき)で止(や)めたつて仕方(しかた)があるまい。君の心(こヽろ)でそれを止(や)める丈の覚悟がなければ。一体君は君の平生の主張を何(ど)うする積(つもり)なのか」
 私が斯(か)う云つた時(とき)、脊(せい)の高(たか)い彼(かれ)は自然と私の前(まへ)に萎縮して小(ちい)さくなるやうな感じがしました。彼はいつも話(はな)す通り頗る強情な男でしたけれども、一方では又人(ひと)一倍の正直者(ぢきもの)でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される場合には、決して平気でゐられない質(たち)だつたのです。私は彼の様子を見(み)て漸やく安心しました。すると彼は卒然(そつぜん)「覚悟?」と聞(き)きました。さうして私がまだ何とも答へない先(さき)に「覚悟、ー覚悟ならない事(こと)もない」と付(つ)け加へました。彼の調子は独言(ひとりごと)のやうでした。又夢(ゆめ)の中(なか)の言葉のやうでした。
 二人(ふたり)はそれぎり話(はなし)を切(き)り上(あ)げて、小石川の宿(やど)の方(はう)に足(あし)を向(む)けました。割合(わりあひ)に風(かぜ)のない暖たかな日(ひ)でしたけれども、何(なに)しろ冬の事(こと)ですから、公園のなかは淋(さび)しいものでした。ことに霜(しも)に打(う)たれて蒼味(あをみ)を失つた杉の木立(こだち)の茶褐色(ちやかつしよく)が、薄黒(うすぐろ)い空(そら)の中(なか)に、梢(こずえ)を並(なら)べて聳えてゐるのを振(ふ)り返(かへ)つて見た時(とき)は、寒(さむ)さが脊中(せなか)へ噛(かぢ)り付(つ)いたやうな心持(もち)がしました。我々は夕暮(ゆふぐれ)の本郷台(だい)を急(いそ)ぎ足(あし)でどし\/通(とほ)り抜(ぬ)けて、又向ふの岡(をか)へ上(のぼ)るべく小石川の谷(たに)へ下(お)りたのです。私は其頃(そのころ)になつて、漸やく外套の下(した)に体(たい)の温味(あたヽかみ)を感じ出した位です。
 急いだためでもありませうが、我々は帰(かへ)り路には殆んど口(くち)を聞(き)きませんでした。宅(うち)へ帰(かへ)つて食卓に向つた時(とき)、奥さんは何(ど)うして遅(おそ)くなつたのかと尋ねました。私はKに誘(さそ)はれて上野へ行つたと答へました。奥さんは此寒(このさむ)いのにと云つて驚ろいた様子を見せました。御嬢さんは上野に何(なに)があつたのかと聞(き)きたがります。私は何もないが、たヾ散歩したのだといふ返事丈して置きました。平生から無口(むくち)なKは、いつもより猶黙(だま)つてゐました。奥さんが話しかけても、御嬢さんが笑つても、碌(ろく)な挨拶はしませんでした。それから飯(めし)を呑(の)み込(こ)むやうに掻(か)き込(こ)んで、私がまだ席を立(た)たないうちに、自分の室(へや)へ引き取(と)りました。


心(こヽろ) 先生の遺書(九十七)

「其頃は覚醒とか新(あた)らしい生活とかいふ文字のまだない時分(ぶん)でした。然しKが古(ふる)い自分をさらりと投(な)げ出して、一意に新(あた)らしい方角へ走(はし)り出(だ)さなかつたのは、現代人の考(かんが)へが彼(かれ)に欠(か)けてゐたからではないのです。彼には投(な)げ出(だ)す事(こと)の出来ない程尊(たつ)とい過去があつたからです。彼(かれ)はそのために今日(こんにち)迄生(い)きて来(き)たと云つても可(い)い位なのです。だからKが一直線に愛(あい)の目的物に向(むか)つて猛進しないと云つて、決して其愛(あい)の生温(なまぬる)い事(こと)を証拠立(だ)てる訳には行きません。いくら熾烈な感情が燃えてゐても、彼は無暗(むやみ)に動(うご)けないのです。前後を忘れる程の衝動が起る機会を彼に与へない以上、Kは何(ど)うしても一寸(ちよつと)踏(ふ)み留(とヾ)まつて自分の過去を振り返(かへ)らなければならなかつたのです。さうすると過去が指(さ)し示(しめ)す路(みち)を今迄通り歩(ある)かなければなら[な]くなるのです。其上彼(かれ)には現代人の有(も)たない強情と我慢がありました。私は此双方の点に於て能く彼(かれ)の心(こヽろ)を見抜(みぬ)いてゐた積(つもり)なのです。
 上野から帰(かへ)つた晩は、私に取(と)つて比較的安静な夜(よ)でした。私はKが室(へや)へ引き上(あ)げたあとを追(お)ひ懸(か)けて、彼の机の傍(そば)に坐(すわ)り込(こ)みました。さうして取(と)り留(と)めもない世間話(ばなし)をわざと彼(かれ)に仕向(しむ)けました。彼は迷惑さうでした。私の眼(め)には勝利の色(いろ)が多少輝(かヾや)いてゐたでせう、私の声にはたしかに得意の響(ひヾき)があつたのです。私はしばらくKと一つ火鉢に手を翳(かざ)した後(あと)、自分の室(へや)に帰りました。外(ほか)の事(こと)にかけては何(なに)をしても彼(かれ)に及ばなかつた私も、其時丈は恐るヽに足(た)りないといふ自覚を彼に対して有(も)つてゐたのです。
 私は程なく穏(おだ)やかな眠(ねむり)に落(お)ちました。然し突然私の名を呼ぶ声(こえ)で眼(め)を覚(さ)ましました。見ると、間(あひだ)の襖(ふすま)が二尺ばかり開(あ)いて、其所(そこ)にKの黒い影(かげ)が立(た)つてゐます。さうして彼の室(へや)には宵(よひ)の通(とほ)りまだ燈火(あかり)が点(つ)いてゐるのです。急に世界の変つた私は、少(すこ)しの間(あひだ)口(くち)を利(き)く事(こと)も出来(でき)ずに、ぼうつとして、其光景を眺(なが)めてゐました。
 其時(とき)Kはもう寐(ね)たのかと聞(き)きました。Kは何時(いつ)でも遅(おそ)く迄起(お)きてゐる男でした。私は黒い影法師のやうなKに向(むか)つて、何(なに)か用かと聞(き)き返(かへ)しました。Kは大(たい)した用でもない、たヾもう寐(ね)たか、まだ起(お)きてゐるかと思つて、便所(べんじよ)へ行(い)つた序(ついで)に聞(き)いて見た丈だと答へました。Kは洋燈(ランプ)の灯(ひ)を脊中(せなか)に受(う)けてゐるので、彼(かれ)の顔色(かほいろ)や眼(め)つきは、全く私には分(わか)りませんでした。けれども彼の声(こえ)は不断(ふだん)よりも却つて落(お)ち付(つ)いてゐた位でした。
 Kはやがて開(あ)けた襖(ふすま)をぴたりと立(た)て切(き)りました。私の室(へや)はすぐ元(もと)の暗闇(くらやみ)に帰りました。私は其暗闇(くらやみ)より静かな夢(ゆめ)を見るべく又眼(め)を閉(と)ぢました。私はそれぎり何(なに)も知りません。然し翌朝(よくあさ)になつて、昨夕(ゆふべ)の事(こと)を考へて見ると、何(なん)だか不思議でした。私はことによると、凡(すべ)てが夢(ゆめ)ではないかと思ひました。それで飯(めし)を食(く)ふ時(とき)、Kに聞(き)きました。Kはたしかに襖(ふすま)を開(あ)けて私の名(な)を呼んだと云ひます。何故(なぜ)そんな事(こと)をしたのかと尋ねると、別に判然(はつきり)した返事(へんじ)もしません。調子の抜(ぬ)けた頃(ころ)になつて、近頃は熟睡が出来(でき)るのかと却つて向ふから私に問(と)ふのです。私は何だか変に感(かん)じました。
 其日(ひ)は丁度同じ時間に講義の始(はじ)まる時間割(わり)になつてゐたので、二人(ふたり)はやがて一所に宅(うち)を出(で)ました。今朝(けさ)から昨夕(ゆふべ)の事(こと)が気(き)に掛(かヽ)つてゐる私は、途中(とちう)でまたKを追窮しました。けれどもKはやはり私を満足させるやうな答(こたへ)をしません。私はあの事件に就(つ)いて何(なに)か話す積(つもり)ではなかつたのかと念を押して見ました。Kは左右ではないと強い調子で云ひ切(き)りました。昨日(きのふ)上野(うへの)で「其話(はなし)はもう止(や)めよう」と云つたではないかと注意する如くにも聞(き)こえました。Kはさういふ点に掛(か)けて鋭どい自尊心を有(も)つた男なのです。不図(ふと)其所(そこ)に気のつゐた私は突然彼(かれ)の用ひた「覚悟」といふ言葉を連(れん)想し出しました。すると今迄丸で気にならなかつた其二字が妙な力(ちから)で私の頭(あたま)を抑え始(はじ)めたのです。


心(こヽろ) 先生の遺書(九十八)

「Kの果断に富(と)んだ性格は私によく知れてゐました。彼の此事件に就(つ)いてのみ優柔な訳(わけ)も私にはちやんと呑(の)み込めてゐたのです。つまり私は一般を心得(こヽろえ)た上(うへ)で、例外の場合(ばあひ)をしつかり攫(つら)まへた積(つもり)で得意だつたのです。所が「覚悟」といふ彼の言葉(ことば)を、頭(あたま)のなかで何遍も咀嚼してゐるうちに、私の得意はだん\/色(いろ)を失(うし)なつて、仕舞にはぐら\/揺(うご)き始めるやうになりました。私は此場合も或は彼にとつて例外でないのかも知れないと思ひ出したのです。凡ての疑惑、煩悶、懊悩、を一度に解決する最後の手段を、彼は胸(むね)のなかに畳み込(こ)んでゐるのではなからうかと疑(うた)ぐり始めたのです。さうした新(あた)らしい光(ひかり)で覚悟の二字を眺(なが)め返(かへ)して見た私は、はつと驚ろきました。其時の私が若し此驚きを以て、もう一返彼の口(くち)にした覚悟の内容を公平に見廻(みまは)したらば、まだ可(よ)かつたかも知れません。悲しい事(こと)に私は片眼(めつかち)でした。私はたヾKが御嬢さんに対(たい)して進(すヽ)んで行くといふ意味に其言葉(そのことば)を解釈(かいしやく)しました。果断に富んだ彼の性格が、恋の方面に発揮されるのが即ち彼の覚悟だらうと一図(いちづ)に思ひ込(こ)んでしまつたのです。
 私は私にも最後の決断が必要だといふ声を心(こヽろ)の耳(みヽ)で聞(き)きました。私はすぐ其声に応じて勇気を振(ふ)り起(おこ)しました。私はKより先(さき)に、しかもKの知らない間(ま)に、事(こと)を運(はこ)ばなくては[な]らないと覚悟を極(き)めました。私は黙(だま)つて機会を覘(ねら)つてゐました。しかし二日(ふつか)経(た)つても三日(みつか)経(た)つても、私はそれを捕(つら)まへる事(こと)が出来ません。私はKのゐない時(とき)、又御嬢さんの留守な折を待(ま)つて、奥さんに談判を開(ひら)かうと考へたのです。然し片方(かたはう)がゐなければ、片方(かたはう)が邪魔をするといつた風の日(ひ)ばかり続(つヾ)いて、何(ど)うしても「今(いま)だ」と思ふ好都合が出て来(き)て呉れないのです。私はいら\/しました。
 一週間の後(のち)私はとう\/堪(た)え切(き)れなくなつて仮病(けびやう)を遣(つか)ひました。奥さんからも御嬢さんからも、K自身からも、起(お)きろといふ催促を受けた私は、生返事(なまへんじ)をした丈で、十時頃(ごろ)迄蒲団(ふとん)を被(かぶ)つて寐(ね)てゐました。私はKも御嬢さんもゐなくなつて、家(いへ)の内(なか)がひつそり静(しづ)まつた頃(ころ)を見計(みはから)つて寐床(ねどこ)を出(で)ました。私の顔(かほ)を見た奥さんは、すぐ何処(どこ)が悪(わる)いかと尋ねました。食物(たべもの)は枕元(まくらもと)へ運(はこ)んでやるから、もつと寐(ね)てゐたら可(よ)からうと忠告しても呉(く)れました。身体(からだ)に異状のない私は、とても寐(ね)る気にはなれません。顔(かほ)を洗(あら)つて何時(いつ)もの通り茶の間(ま)で飯(めし)を食(く)ひました。其時奥さんは長火鉢の向側(むかふがは)から給仕をして呉(く)れたのです。私は朝飯(めし)とも午飯(ひるめし)とも片付(かたづ)かない茶椀を手に持(も)つた侭(まヽ)、何(ど)んな風(ふう)に問題(もんだい)を切(き)り出(だ)したものだらうかと、そればかりに屈託してゐたから、外観からは実際気分の好(よ)くない病人らしく見(み)えただらうと思ひます。
 私は飯(めし)を終(しま)つて烟草(たばこ)を吹(ふ)かし出しました。私が立(た)たないので奥さんも火鉢(ばち)の傍(そば)を離(はな)れる訳(わけ)に行きません。下女を呼んで膳(ぜん)を下(さ)げさせた上(うへ)、鉄瓶に水(みづ)を注(さ)したり、火鉢の縁(うち)を拭(ふ)いたりして、私に調子を合(あ)はせてゐます。私は奥さんに特別な用事(じ)でもあるのかと問(と)ひました。奥さんはいヽえと答へましたが、今度は向(むか)ふで何故(なぜ)ですと聞(き)き返(かへ)して来(き)ました。私は実は少(すこ)し話(はな)したい事(こと)があるのだと云ひました。奥さんは何(なん)ですかと云つて、私の顔(かほ)を見(み)ました。奥さんの調子は丸(まる)で私の気分に這入(はい)り込(こ)めないやうな軽(かる)いものでしたから、私は次(つぎ)に出すべき文句(もんく)も少し渋(しぶ)りました。
 私は仕方(しかた)なしに言葉(ことば)の上(うへ)で、好(い)い加減にうろつき廻(まは)つた末、Kが近頃何(なに)か云ひはしなかつたかと奥さんに聞(き)いて見(み)ました。奥さんは思(おも)ひも寄(よ)らないといふ風(ふう)をして、「何(なに)を?」とまた反問して来(き)ました。さうして私の答へる前(まへ)に、「貴方(あなた)には何(なに)か仰(おつし)やつたんですか」と却つて向で聞(き)くのです。


心(こヽろ) 先生の遺書(九十九)

「Kから聞(き)かされた打(う)ち明(あ)け話(ばなし)を、奥さんに伝(つた)へる気のなかつた私は、「いヽえ」といつてしまつた後(あと)で、すぐ自分の嘘(うそ)を快(こヽろよ)からず感じました。仕方がないから、別段何(なに)も頼(たの)まれた覚(おぼえ)はないのだから、Kに関する用件ではないのだと云ひ直(なほ)しました。奥さんは「左右(さう)ですか」と云つて、後(あと)を待(ま)つてゐます。私は何(ど)うしても切(き)り出(だ)さなければならなくなりました。私は突然「奥さん、御嬢さんを私に下(くだ)さい」と云ひました。奥さんは私の予期してかヽつた程驚(おど)ろいた様子も見せませんでしたが、それでも少時(しばらく)返事が出来なかつたものと見えて、黙(だま)つて私の顔(かほ)を眺(なが)めてゐました。一度(いちど)云ひ出(だ)した私は、いくら顔(かほ)を見られても、それに頓着などはしてゐられません。「下(くだ)さい、是非下(くだ)さい」と云ひました。「私の妻として是非下(くだ)さい」と云ひました。奥さんは年(とし)を取(と)つてゐる丈(だけ)に、私よりもずつと落付(おちつ)いてゐました。「上(あ)げてもいヽが、あんまり急ぢやありませんか」と聞(き)くのです。私が「急に貰(もら)ひたいのだ」とすぐ答へたら笑ひ出しました。さうして「よく考へたのですか」と念を押すのです。私は云ひ出したのは突然でも、考へたのは突然でないといふ訳を強い言葉(ことば)で説明しました。
 それから未(ま)だ二つ三つの問答がありましたが、私はそれを忘れて仕舞ひました。男のやうに判然(はき\/)した所(ところ)のある奥さんは、普通の女と違(ちが)つて斯(こ)んな場合には大変心持(こヽろもち)よく話(はなし)の出来(でき)る人(ひと)でした。「宜(よ)ござんす、差(さ)し上(あ)げませう」と云ひました。「差(さ)し上(あ)げるなんて威張つた口(くち)の利(き)ける境遇ではありません。どうぞ貰(もら)つて下(くだ)さい。御存じの通り父親(ちヽおや)のない憐(あは)れな子です」と後(あと)では向ふから頼みました。
 話は簡単でかつ明瞭に片付(かたづ)いてしまひました。最初から仕舞迄(まで)に恐らく十五分とは掛(かヽ)らなかつたでせう。奥さんは何の条件も持(も)ち出(だ)さなかつたのです。親類に相談する必要もない、後(あと)から断(ことわ)ればそれで沢山だと云ひました。本人の意嚮さへたしかめるに及ばないと明言しました。そんな点(てん)になると、学問をした私の方(はう)が、却つて形式に拘泥する位に思はれたのです。親類は兎に角、当人にはあらかじめ話(はな)して承諾を得るのが順序らしいと私が注意した時、奥さんは「大丈夫です。本人が不承知の所へ、私があの子を遣(や)る筈がありませんから」と云ひました。
 自分の室(へや)へ帰つた私は、事(こと)のあまりに訳(わけ)もなく進行したのを考へて、却つて変な気持(もち)になりました。果(はた)して大丈夫なのだらうかといふ疑念さへ、どこからか頭(あたま)の底(そこ)に這(は)ひ込んで来(き)た位です。けれども大体の上(うへ)に於て、私の未来の運命は、是(これ)で定(さだ)められたのだといふ観念が私の凡(すべ)てを新(あら)たにしました。
 私は午頃(ひるごろ)又茶の間(ま)へ出掛(でか)けて行(い)つて、奥(おく)さんに、今朝(けさ)の話(はなし)を御嬢さんに何時(いつ)通じてくれる積かと尋(たづ)ねました。奥(おく)さんは、自分さへ承知してゐれば、いつ話(はな)しても構(かま)はなからうといふやうな事(こと)を云(い)ふのです。斯(か)うなると何だか私よりも相手の方(はう)が男(をとこ)見(み)たやうなので、私はそれぎり引き込(こ)まうとしました。すると奥さんが私を引き留(と)めて、もし早い方(はう)が希望ならば、今日(けふ)でも可(い)い、稽古から帰つて来(き)たら、すぐ話(はな)さうと云ふのです。私はさうして貰(もら)ふ方(はう)が都合が好(い)いと答(こた)へて又自分の室(へや)に帰(かへ)りました。然し黙(だま)つて自分の机(つくえ)の前(まへ)に坐(すわ)つて、二人(ふたり)のこそ\/話(ばなし)を遠くから聞(き)いてゐる私を想像して見ると、何だか落ち付(つ)いてゐられないやうな気もするのです。私はとう\/帽子を被(かぶ)つて表(おもて)へ出(で)ました。さうして又坂(さか)の下(した)で御嬢さんに行き合(あ)ひました。何にも知らない御嬢さんは私を見(み)て驚ろいたらしかつたのです。私が帽子を脱(と)つて「今御帰り」と尋ねると、向ふではもう病気は癒(なほ)つたのかと不思議さうに聞(き)くのです。私は「えヽ癒(なほ)りました、癒(なほ)りました」と答へて、ずんずん水道橋の方へ曲(まが)つてしまひました。


心(こヽろ) 先生の遺書(百)

「私は猿楽町から神保町の通りへ出て、小川町の方へ曲(まが)りました。私が此界隈を歩(ある)くのは、何時(いつ)も古本屋(ふるほんや)をひやかすのが目的でしたが、其日は手摺(てずれ)のした書物などを眺(なが)める気が、何(ど)うしても起(おこ)らないのです。私は歩(ある)きながら絶(た)えず宅(うち)の事(こと)を考へてゐました。私には先刻(さつき)の奥さんの記憶がありました。夫から御嬢さんが宅(うち)へ帰(かへ)つてからの想像がありました。私はつまり此(この)二(ふた)つのもので歩(ある)かせられてゐた様なものです。其上私は時々(とき\゛/)往来の真中(まんなか)で我知(われし)らず不図(ふと)立(た)ち留(ど)まりました。さうして今頃は奥さんが御嬢さんにもうあの話(はなし)をしてゐる時分だらうなどと考へました。また或時(あるとき)は、もうあの話が済(す)んだ頃(ころ)だとも思ひました。
 私はとう\/万世橋(ばし)を渡(わた)つて、明神の坂を上(あが)つて、本郷台(だい)へ来(き)て、夫(それ)から又菊坂(きくざか)を下(お)りて、仕舞に小石川の谷(たに)へ下(お)りたのです。私の歩(ある)いた距離(きより)は此三区に跨(また)がつて、いびつな円(えん)を描(ゑが)いたとも云はれるでせうが、私は此長(なが)い散歩の間(あひだ)殆んどKの事(こと)を考へなかつたのです。今(いま)其時(そのとき)の私を回顧して、何故(なぜ)だと自分に聞(き)いて見(み)ても一向分(わか)りません。たヾ不思議に思ふ丈(だけ)です。私の心がKを忘れ得る位、一方(ぱう)に緊張してゐたと見ればそれ迄ですが、私の良心が又それを許(ゆる)すべき筈(はづ)はなかつたのですから。
 Kに対する私の良心が復活したのは、私が宅(うち)の格子を開(あ)けて、玄関から坐敷(ざしき)へ通(とほ)る時(とき)、即ち例のごとく彼(かれ)の室(へや)を抜(ぬ)けやうとした瞬間でした。彼(かれ)は何時(いつ)もの通(とほ)り机に向(むか)つて書見をしてゐました。彼は何時(いつ)もの通り書物から眼(め)を放(はな)して、私を見ました。然し彼は何時(いつ)もの通(とほ)り今帰(かへ)つたのかとは云ひませんでした。彼は「病気はもう癒(い)いのか、医者へでも行つたのか」と聞(き)きました。私は其刹那に、彼の前(まへ)に手を突(つ)いて、詫(あや)まりたくなつたのです。しかも私の受けた其時(とき)の衝動(しようどう)は決して弱いものではなかつたのです。もしKと私がたつた二人(ふたり)曠野の真中(まんなか)にでも立(た)つてゐたならば、私は屹度良心の命令に従つて、其場で彼(かれ)に謝罪したらうと思ひます。然し奥(おく)には人(ひと)がゐます。私の自然はすぐ其所(そこ)で食(く)ひ留(と)められてしまつたのです。さうして悲しい事(こと)に永久に復活しなかつたのです。
 夕飯(ゆふめし)の時(とき)Kと私はまた顔(かほ)を合(あは)せました。何(なん)にも知らないKはたヾ沈(しづ)んでゐた丈で、少(すこ)しも疑(うたが)ひ深(ぶか)い眼(め)を私に向(む)けません。何(なん)にも知らない奥さんは何時(いつ)もより嬉(うれ)しさうでした。私だけが凡(すべ)てを知つてゐたのです。私は鉛(なまり)のやうな飯(めし)を食(く)ひました。其時(とき)御嬢さんは何時(いつ)ものやうにみんなと同じ食卓(しよくたく)に並(なら)びませんでした。奥さんが催促すると、次(つぎ)の室(へや)で只今(たヾいま)と答へる丈(だけ)でした。それをKは不思議さうに聞(き)いてゐました。仕舞(しまひ)に何(ど)うしたのかと奥さんに尋ねました。奥さんは大方(おほかた)極(きま)りが悪(わる)いのだらうと云つて、一寸(ちよつと)私の顔(かほ)を見ました。Kは猶(なほ)不思議さうに、なんで極(きまり)が悪(わる)いのかと追窮(ついきう)しに掛(かヽ)りました。奥さんは微笑しながら又私の顔(かほ)を見るのです。
 私は食卓に着(つ)いた初(はじめ)から、奥さんの顔付(かほつき)で、事(こと)の成行(なりゆき)を略(ほヾ)推察してゐました。然しKに説明を与(あた)へるために、私のゐる前(まへ)で、それを悉(こと\゛/)く話(はな)されては堪(たま)らないと考へました。奥さんはまた其位の事(こと)を平気でする女なのですから、私はひや\/したのです。幸(さいはひ)にKは又元(もと)の沈黙(ちんもく)に帰(かへ)りました。平生より多少機嫌のよかつた奥さんも、とう\/私の恐れを抱(いだ)いてゐる点までは話(はなし)を進(すヽ)めずに仕舞ひました。私はほつと一息(ひといき)して室(へや)へ帰(かへ)りました。然し私が是(これ)から先(さき)Kに対(たい)して取(と)るべき態度は、何(ど)うしたものだらうか、私はそれを考へずにはゐられませんでした。私は色々(いろ\/)の弁護(べんご)を自分の胸(むね)で拵(こし)らえて見(み)ました。けれども何(ど)の弁護もKに対(たい)して面(めん)と向(むか)ふには足(た)りませんでした。卑怯な私は終(つい)に自分で自分をKに説明するのが厭(いや)になつたのです。