其時の私は既に大学生であつた。始めて先生の宅(うち)へ来(き)た頃(ころ)から見るとずつと成人(せいじん)した気でゐた。奥さんとも大分(ぶ)懇意になつた後(のち)であつた。私は奥さんに対して何の窮屈も感じなかつた。差向(さしむか)ひで色々(いろ\/)の話をした。然しそれは特色のない唯(たヾ)の談話だから、今では丸で忘れて仕舞つた。そのうちでたつた一つ私の耳(みヽ)に留(と)まつたものがある。然しそれを話す前に、一寸(ちよつと)断(ことわ)つて置きたい事(こと)がある。
先生は大学出身であつた。是は始めから私に知れてゐた。然し先生の何(なに)もしないで遊んでゐるといふ事(こと)は、東京へ帰つて少(すこ)し経(た)つてから始めて分(わか)つた。私は其時何(ど)うして遊んでゐられるのかと思つた。
先生は丸で世間(せけん)に名前を知られてゐない人(ひと)であつた。だから先生の学問や思想に就ては、先生と密接の関係を有(も)つてゐる私より外(ほか)に敬意を払ふもののあるべき筈がなかつた。それを私は常に惜い事(こと)だと云つた。先生は又「私のやうなものが世の中(なか)へ出(で)て、口(くち)を利(き)いては済(す)まない」と答へるぎりで、取り合はなかつた。私には其答(そのこたへ)が謙遜過(す)ぎて却(かへ)つて世間を冷評する様にも聞(き)こえた。実際先生は時々(とき\゛/)昔しの同級生で今著名になつてゐる誰彼(だれかれ)を捉(とら)へて、ひどく無遠慮な批評を加へる事(こと)があつた。それで私は露骨に其矛盾を挙げて云々(うんぬん)して見た。私の精神は反抗の意味といふよりも、世間が先生を知らないで平気でゐるのが残念だつたからである。其時先生は沈んだ調子で、「何(ど)うしても私は世間(せけん)に向つて働(はた)らき掛(か)ける資格のない男だから仕方(しかた)がありません」と云つた。先生の顔(かほ)には深(ふか)い一種の表情があり\/と刻(きざ)まれた。私にはそれが失望だが[か]、不平だか、悲哀だか、解(わか)らなかつたけれども、何(なに)しろ二の句(く)の継(つ)げない程に強いものだつたので、私はそれぎり何もいふ勇気が出(で)なかつた。
私が奥さんと話(はな)してゐる間(あひだ)に、話題が自然先生の事(こと)から其所(そこ)へ落ちて来(き)た。
「先生は何故(なぜ)あヽやつて、宅(うち)で考へたり勉強したりなさる丈で、世の中(なか)へ出(で)て仕事(しごと)をなさらないんでせう」
「あの人(ひと)は駄目(だめ)ですよ。さういふ事(こと)が嫌(きらひ)なんですから」
「つまり下(くだ)らない事(こと)だと悟(さと)つてゐらつしやるんでせうか」
「悟(さと)るの悟(さと)らないのつて、ーそりや女だからわたくしには解(わか)りませんけれど、恐らくそんな意味ぢやないでせう。矢(や)っ[ママ]張(ぱ)り何(なに)か遣(や)りたいのでせう。それでゐて出来ないんです。だから気の毒ですわ」
「然し先生は健康からいつて、別に何処(どこ)も悪(わる)い所はない様ぢやありませんか」
「丈夫ですとも。何(なん)にも持(じ)病はありません」
「それで何故(なぜ)活動が出来ないんでせう」
「それが解(わか)らないのよ、あなた。それが解(わか)る位なら私だつて、こんなに心配しやしません。わからないから気の毒でたまらないんです」
奥さんの語気には非常に同情があつた。それでも口元(くちもと)丈には微笑が見えた。外側(そとがは)から云へば、私の方が寧(むし)ろ真面目だつた。 私は六づかしい顔をして黙(だま)つてゐた。すると奥さんが急に思ひ出(だ)した様に又口(くち)を開(ひら)いた。
「若(わか)い時(とき)はあんな人(ひと)ぢやなかつたんですよ。若い時は丸で違つてゐました。それが全く変つて仕舞つたんです」
「若い時(とき)つて何時(いつ)頃(ごろ)ですか」と私が聞(き)いた。
「書生時代よ」
「書生時代から先生を知つてゐらつしやつたんですか」
奥さんは急に薄赤い顔(かほ)をした。
奥さんは東京の人(ひと)であつた。それは嘗(かつ)て先生からも奥さん自身からも聞(き)いて知つてゐた。奥さんは「本当いふと合(あひ)の子(こ)なんですよ」と云つた。奥さんの父親(ちヽおや)はたしか鳥取(とつとり)か何処(どこ)かの出(で)であるのに、御母(おかあ)さんの方(はう)はまだ江戸といつた時分(じぶん)の市ヶ谷で生れた女なので、奥さんは冗談半分(ぶん)さう云つたのである。所が先生は全く方角違(ちがひ)の新潟県人(じん)であつた。だから奥さんがもし先生の書生時代を知つてゐるとすれば、郷里の関係からでない事(こと)は明らかであつた。然し薄赤い顔をした奥さんはそれより以上の話をしたくない様だつたので、私の方でも深くは聞(き)かずに置いた。
先生と知合(しりあひ)になつてから先生の亡(な)くなる迄に、私は随分色々の問題で先生の思想や情操に触れて見たが、結婚当時の状況に就いては、殆んど何(なに)ものも聞(き)き得なかつた。私は時によると、それを善意に解釈しても見た。年輩の先生の事(こと)だから、艶(なま)めかしい回想などを若いものに聞(き)かせるのはわざと慎(つヽし)んでゐるのだらうと思つた。時によると、又それを悪(わる)くも取(と)つた。先生に限らず、奥さんに限(かぎ)らず、二人(ふたり)とも私に比べると、一時代前(まへ)の因襲のうちに成人(せいじん)したために、さういふ艶(つや)つぽい問題になると、正直に自分を開放する丈の勇気がないのだら[う]と考へた。尤も何方(どちら)も推測に過(す)ぎなかつた。さうして何方(どちら)の推測の裏(うら)にも、二人(ふたり)の結婚の奥に横(よこ)たはる花やかなロマンスの存在を仮定してゐた。
私の仮定は果して誤らなかつた。けれども私はたヾ恋(こひ)の半面丈を想像に描(ゑが)き得たに過(す)ぎなかつた。先生は美(うつ)くしい恋愛の裏(うら)に、恐ろしい悲劇を持(も)つてゐた。さうして其悲劇の何(ど)んなに先生に取つて見惨(みぢめ)なものであるかは相手の奥(おく)さんに丸で知れてゐなかつた。奥さんは今(いま)でもそれを知らずにゐる。先生はそれを奥さんに隠して死(し)んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、先づ自分の生命(せいめい)を破壊して仕舞つた。
私は今此悲劇に就(つ)いて何事(なにごと)も語(かた)らない。其悲劇のために寧ろ生(うま)れ出(で)たともいへる二人(ふたり)の恋愛に就(つ)いては、先刻(さつき)云つた通りであつた。二人(ふたり)とも私には殆んど何も話して呉(く)れなかつた。奥さんは慎(つヽし)みのために、先生は又それ以上の深い理由のために。
たヾ一つ私の記憶に残(のこ)つてゐる事(こと)がある。或時花時分に私は先生と一所[に]上野へ行つた。さうして其所(そこ)で美くしい一対の男女を見た。彼等は睦(むつ)まじさうに寄添(よりそ)つて花0の下(した)を歩(ある)いてゐた。場所が場所なので、花よりも其方(そちら)を向いて眼(め)を峙(そば)だてヽゐる人が沢山(たくさん)あつた。
「新婚の夫婦のやうだね」と先生が云つた。
「仲(なか)が好(よ)ささうですね」と私が答へた。
先生は苦笑さへしなかつた。二人(ふたり)の男女を視線の外(ほか)に置くやうな方角へ足を向けた。それから私に斯(か)う聞(き)いた。
「君は恋をした事(こと)がありますか」
私はないと答へた。
「恋をしたくはありませんか」
私は答へなかつた。
「したくない事(こと)はないでせう」
「えヽ」
「君は今あの男と女を見(み)て、冷評(ひやか)しましたね。あの冷評(ひやかし)のうちには君が恋を求めながら相手を得られないといふ不快の声が交(まじ)つてゐませう」
「そんな風に聞(き)こえましたか」
「聞(き)こえました。恋の満足を味はつてゐる人はもつと暖(あたヽ)かい声を出すものです。然し‥‥然し君、恋は罪悪ですよ。解(わか)つてゐますか」
私は急に驚ろかされた。何とも返事をしなかつた。
我々は群集の中(なか)にゐた。群集はいづれも嬉(うれ)しさうな顔(かほ)をしていた。其所(そこ)を通り抜(ぬ)けて、花も人(ひと)も見えない森(もり)の中(なか)へ来(く)る迄は、同じ問題を口(くち)にする機会がなかつた。
「恋は罪悪ですか」と私が其時突然聞(き)いた。
「罪悪です。たしかに」と答へた時の先生の語気は前と同じやうに強かつた。
「何故(なぜ)ですか」
「何故(なぜ)だか今(いま)に解(わか)ります。今(いま)にぢやない、もう解(わか)つてゐる筈です。あなたの心はとつくの昔(むかし)から既(すで)に恋で動(うご)いてゐるぢやありませんか」
私は一応自分の胸(むね)の中(なか)を調(しら)べて見た。けれども其所(そこ)は案外に空虚であつた。思ひ中(あた)るやうなものは何にもなかつた。
「私(わたくし)の胸の中(なか)に是(これ)といふ目的物(ぶつ)は一つもありません。私は先生に何も隠(かく)してはゐない積(つもり)です」
「目的物がないから動くのです。あれば落ち付(つ)けるだらうと思つて動きたくなるのです」
「今(いま)それ程動(うご)いちやゐません」
「あなたは物足りない結果私の所に動(うご)いて来(き)たぢやありませんか」
「それは左右(さう)かも知れません。然しそれは恋とは違(ちが)ひます」
「恋に上(のぼ)る階段(かいだん)なんです。異性と抱(だ)き合ふ順序として、まづ同性の私の所へ動(うご)いて来(き)たのです」
「私(わたくし)には二つのものが全く性質を異(こと)にしてゐるやうに思はれます」
「いや同じです。私は男として何(ど)うしてもあなたに満足を与へられない人間なのです。それから、ある特別の事情があつて、猶更あなたに満足を与へられないでゐるのです。私は実際御気の毒に思つてゐます。あなたが私から余所(よそ)へ動(うご)いて行くのは仕方(しかた)がない。私は寧ろそれを希望してゐるのです。然し…」
私は変に悲しくなつた。
「私が先生から離れて行くやうに御思ひになれば仕方(しかた)がありませんが、私にそんな気の起つた事(こと)はまだありません」
先生は私の言葉(ことば)に耳を貸さなかつた。
「然し気を付(つ)けないと不可(いけ)ない。恋(こひ)は罪悪なんだから。私の所(ところ)では満足が得られない代りに危険もないが、ー君、黒い長い髪(かみ)で縛(しば)られた時(とき)の心持を知つてゐますか」
私は想像で知つてゐた。然し事実としては知らなかった。いづれにしても先生のいふ罪悪といふ意味は朦朧としてよく解(わか)らなかつた。其上私は少し不愉快になつた。
「先生、罪悪といふ意味をもつと判然(はつきり)云つて聞(き)かして下(くだ)さい。それでなければ此問題を此所(こヽ)で切り上(あ)げて下(くだ)さい。私自身に罪悪といふ意味が判然(はつきり)解(わか)る迄」
「悪(わる)い事(こと)をした。私はあなたに真実(まこと)を話(はな)してゐる気でゐた。所が実際は、あなたを焦慮(ぢら)してゐたのだ。私は悪い事(こと)をした」
先生と私とは博物館の裏から鶯渓(うぐゐすだに)の方角に静かな歩調で歩(ある)いて行つた。垣(かき)の隙間(すきま)から広(ひろ)い庭(には)の一部に茂(しげ)る熊笹が幽邃(すい)に見えた。
「君は私が何故(なぜ)毎月(まいげつ)雑司ヶ谷の墓地(ぼち)に埋(うま)つてゐる友人の墓(はか)へ参るのか知つてゐますか」
先生の此問は全く突然(とつぜん)であつた。しかも先生は私が此問(とひ)に対して答へられないといふ事(こと)も能く承知してゐた。私はしばらく返事をしなかつた。すると先生は始めて気が付(つ)いたやうに斯う云つた。
「又悪(わる)い事(こと)を云つた。焦慮(ぢら)せるのが悪(わる)いと思つて、説明しやうとすると、其説明が又あなたを焦慮(ぢら)せるやうな結果になる。何(ど)うも仕方(しかた)がない。此問題はこれで止(や)めませう。とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。さうして神聖なものですよ」
私には先生の話が益解(わか)らなくなつた。然し先生はそれぎり恋(こひ)を口(くち)にしなかつた。
年の若(わか)い私は稍(やヽ)ともすると一図(いちづ)になり易(やす)かつた。少(すく)なくとも先生の眼(め)にはさう映(うつ)つてゐたらしい。私には学校の講義よりも先生の談話の方が有益なのであつた。教授の意見よりも先生の思想の方(はう)が有難(ありがた)いのであつた。とヾの詰(つま)りをいへば、教壇に立つて私を指導して呉れる偉(えら)い人々(ひと\゛/)よりも只(たヾ)独(ひと)りを守(まも)つて多くを語らない先生の方が偉(えら)く見えたのであつた。
「あんまり逆上(のぼせ)ちや不可(いけ)ません」と先生がいつた。
「覚(さ)めた結(けつ)果として左右(さう)思ふんです」と答へた時(とき)の私には充分の自信があつた。其自信を先生は肯(うけ)がつて呉れなかつた。
「あなたは熱(ねつ)に浮(う)かされてゐるのです。熱がさめると厭(いや)になります。私は今のあなたから夫(それ)程に思はれるのを、苦(くる)しく感じてゐます。然し是(これ)から先(さき)の貴方(あなた)に起るべき変化を予想して見ると、猶苦(くる)しくなります」
「私はそれ程軽薄に思はれてゐるんですか。それ程不信用なんですか」
「私は御気の毒に思ふのです」
「気の毒だが信用されないと仰(おつ)しやるんですか」
先生は迷惑さうに庭(には)の方(はう)を向(む)いた。其庭に、此間(このあいだ)迄重(おも)さうな赤い強い色(いろ)をぽた\/点(てん)じてゐた椿(つばき)の花はもう一つも見えなかつた。先生は座敷から此椿の花をよく眺める癖(くせ)があつた。
「信用しないつて、特にあなたを信用しないんぢやない。人間(にんげん)全体を信用しないんです」
其時生垣の向ふで金魚売(うり)らしい声がした。其外(ほか)には何の聞(き)こえるものもなかつた。大通りから二丁も深く折れ込んだ小路(こうぢ)は存外静(しづ)かであつた。家(うち)の中(なか)は何時(いつ)もの通りひつそりしてゐた。私は次の間(ま)に奥さんのゐる事を知(し)つてゐた。黙(だま)つて針仕事(ごと)か何(なに)かしてゐる奥さんの耳(みヽ)に私の話し声(ごえ)が聞(き)こえるといふ事(こと)も知つてゐた。然し私は全くそれを忘れて仕舞つた。
「ぢや奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞(き)いた。
先生は少し不安な顔をした。さうして直接の答を避(さ)けた。
「私は私自身さへ信用してゐないのです。つまり自分で自分が信用出来ないから、人(ひと)も信用できないやうになつてゐるのです。自分を呪(のろ)ふより外(ほか)に仕方(しかた)がないのです」
「さう六づかしく考へれば、誰(だれ)だつて確(たし)かなものはないでせう」
「いや考へたんぢやない。遣(や)つたんです。遣(や)つた後(あと)で驚ろいたんです。さうして非常に怖(こわ)くなつたんです」
私はもう少し先迄(さきまで)同じ道(みち)を辿(たど)つて行きたかつた。すると襖(ふすま)の陰(かげ)で「あなた、あなた」といふ奥さんの声が二度聞(き)こえた。先生は二度目に「何(なん)だい」といつた。奥さんは「一寸(ちよつと)」と先生を次(つぎ)の間(ま)へ呼んだ。二人(ふたり)の間(あひだ)に何(ど)んな用事が起つたのか、私には解(わか)らなかつた。それを想像する余裕を与へない程早く先生は又座敷へ帰つて来(き)た。
「兎に角あまり私を信用しては不可(いけ)ませんよ。今に後悔するから。さうして自分が欺(あざ)むかれた返報に、残酷な復讐をするやうになるものだから」
「そりや何(ど)ういふ意味ですか」
「かつては其人の膝(ひざ)の前(まへ)に跪(ひざま)づいたといふ記憶が、今度は其人(そのひと)の頭(あたま)の上(うへ)に足を載(の)せさせやうとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥ぞけたいと思ふのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己(おの)れとに充(み)ちた現代に生れた我々は、其犠牲としてみんな此淋しみを味はわなくてはならないでせう」
私はかういふ覚悟を有(も)つてゐる先生に対して、云ふべき言葉(ことば)を知らなかつた。
其後(ご)私は奥さんの顔(かほ)を見(み)るたびに気になつた。先生は奥さんに対しても始(し)終斯(か)ういふ態度に出るのだらうか。若しさうだとすれば、奥さんはそれで満足なのだろうか。
奥さんの様子は満足とも不満足とも極めやうがなかつた。私は夫程近く奥さんに接触する機会がなかつたから。それから奥さんは私に会(あ)ふたびに尋常であつたから。最後に先生の居る席でなければ私と奥さんとは滅多に顔を合(あは)せなかつたから。
私の疑惑はまだ其上(うへ)にもあつた。先生の人間(にんげん)に対する此覚悟は何処(どこ)から来(く)るのだらうか。たヾ冷(つめ)たい眼(め)で自分を内省したり現代を観察したりした結果なのだらうか。先生は坐(すは)つて考へる質(たち)の人(ひと)であつた。先生の頭(あたま)さへあれば、斯ういふ態度は坐(すは)つて世の中(なか)を考へてゐても自然と出(で)て来(く)るものだらうか。私には左右(さう)ばかりとは思へなかつた。先生の覚悟は生きた覚悟らしかつた。火(ひ)に焼(や)けて冷却し切(き)つた石造家屋の輪廓とは違(ちが)つてゐた。私の眼(め)に映ずる先生はたしかに思想家であつた。けれども其思想家の纏(まと)め上(あ)げた主義の裏(うら)には、強い事実(じじつ)が織り込(こ)まれてゐるらしかつた。自分と切り離(はな)された他人(たにん)の事実でなくつて、自分自身が痛切に味はつた事実、血が熱(あつ)くなつたり脉が止まつたりする程の事実が、畳(たヽ)み込(こ)まれてゐるらしかつた。
是(これ)は私の胸(むね)で推測するがものはない。先生自身既にさうだと告白してゐた。たヾ其告白が雲(くも)の峯(みね)のやうであつた。私の頭(あたま)の上(うへ)に正体の知れない恐(おそ)ろしいものを蔽ひ被(かぶ)せた。さうして何故(なぜ)それが恐ろしいか私にも解(わか)らなかつた。告白はぼうとしてゐた。それでゐて明(あき)らかに私の神経を震はせた。
私は先生の此人生観の基点(きてん)に、或(ある)強烈な恋愛事件を仮定して見た。(無論先生と奥さんとの間(あひだ)に起つた)。 先生がかつて恋は罪悪だといつた事(こと)から照(て)らし合(あは)せて見(み)ると、多少それが手掛(てがヽ)りにもなつた。然し先生は現に奥さんを愛してゐると私に告げた。すると二人(ふたり)の恋から斯(こ)んな厭世に近い覚悟が出(で)やう筈がなかつた。「かつては其人(そのひと)の前(まへ)に跪(ひざま)づいたといふ記憶が、今度は其人(そのひと)の頭(あたま)の上(うへ)に足(あし)を載(の)せさせやうとする」と云つた先生の言葉は、現代一般の誰彼(たれかれ)に就いて用ひられるべきで、先生と奥さんの間(あひだ)には当(あ)てはまらないものヽやうでもあつた。
雑司ヶ谷にある誰(だれ)だか分(わか)らない人(ひと)の墓、ー是も私の記憶に時々(とき\゛/)動いた。私はそれが先生と深(ふか)い縁故のある墓だといふ事(こと)を知つてゐた。先生の生活に近(ちか)づきつヽありながら、近(ちか)づく事(こと)の出来ない私は、先生の頭(あたま)の中(なか)にある生命(いのち)の断片(だんぺん)として、其墓(はか)を私の頭(あたま)の中(なか)にも受け入れた。けれども私に取(と)つて其墓は全く死んだものであつた。二人(ふたり)の間(あひだ)にある生命(いのち)の扉(とびら)を開(あ)ける鍵(かぎ)にはならなかつた。寧(むし)ろ二人(ふたり)の間(あひだ)に立(た)つて、自由の往来を妨(さま)たげる魔物(まもの)のやうであつた。
さう斯(か)うしてゐるうちに、私は又奥さんと差向(さしむか)ひで話(はな)しをしなければならない時機(じき)が来た。その頃は日の詰(つま)つて行くせわしない秋(あき)に、誰(だれ)も注意を惹(ひ)かれる肌寒(はださむ)の季節であつた。先生の附近で盗難に罹(かヽ)つたものが三四日続(つヾ)いて出(で)た。盗難はいづれも宵(よひ)の口(くち)であつた。大(たい)したものを持(も)つて行かれた家(うち)は殆んどなかつたけれども、這入(はい)られた所では必ず何か取(と)られた。奥さんは気味をわるくした。そこへ先生がある晩(ばん)家(うち)を空(あ)けなければならない事情が出来てきた。先生と同郷の友人で地方の病院に奉職してゐるものが上京したため、先生は外(ほか)の二三名と共に、ある所(ところ)で其友人に飯(めし)を食(く)はせなければならなくなつた。先生は訳(わけ)を話(はな)して、私に帰つてくる間(あひだ)迄の留守番を頼(たの)んだ。私はすぐ引受けた。
私の行つたのはまだ灯(ひ)の点(つ)くか点(つ)かない暮方(くれかた)であつたが、几帳面な先生はもう宅(うち)にゐなかつた。「時間に後(おく)れると悪(わる)いつて、つい今(いま)しがた出掛(でか)けました」と云つた奥さんは、私を先生の書斎へ案内した。
書斎には洋机(テーブル)と椅子(す)の外(ほか)に、沢山の書物が美(うつ)くしい脊皮(せがわ)を並(なら)べて、硝子越(がらすごし)に電燈の光(ひかり)で照(て)らされてゐた。奥さんは火鉢の前に敷(し)いた座蒲団の上(うへ)へ私を坐(すは)らせて、「ちつと其所(そこ)いらにある本(ほん)でも読(よ)んでゐて下(くだ)さい」と断(ことわ)つて出(で)て行(い)つた。私は丁度主人の帰りを待(ま)ち受(う)ける客のやうな気(き)がして済(す)まなかつた。私は畏(かし)こまつた侭(まヽ)烟草を飲(の)んでゐた。奥さんが茶の間(ま)で何か下女に話(はな)してゐる声が聞(き)こえた。書斎は茶の間(ま)の縁側を突(つ)き当(あた)つて折れ曲(まが)つた角(かど)にあるので、棟(むね)の位置からいふと、座敷(ざしき)よりも却つて掛け離(はな)れた静(しづか)さを領してゐた。一(ひと)しきりで奥さんの話(はなし)声(ごえ)が已(や)むと、後(あと)はしんとした。私は泥棒を待(ま)ち受ける様な心持で、凝(ぢつ)としながら気を何処(どこ)かに配つた。
三十分程すると、奥さんが又書斎の入口(いりぐち)へ顔を出した。「おや」と云つて、軽く驚ろいた時(とき)の眼(め)を私に向けた。さうして客に来(き)た人(ひと)のやうに鹿爪(しかつめ)らしく控えてゐる私を可笑(おか)しさうに見た。
「それぢや窮屈でせう」
「いえ、窮屈ぢやありません」
「でも退屈でせう」
「いヽえ。泥棒が来(く)るかと思つて緊張(きんちやう)してゐるから退屈でもありません」
奥さんは手に紅茶々碗を持つた侭(まヽ)、笑ひながら其所(そこ)に立(た)つてゐた。
「此所(こヽ)は隅(すみ)つこだから番(ばん)をするには好(よ)くありませんね」と私が云つた。
「ぢや失礼ですがもつと真中(まんなか)へ出(で)て来(き)て頂戴。御退屈だらうと思つて、御茶を入(い)れて持(も)つて来(き)たんですが、茶の間(ま)で宜(よろ)しければ彼方(あちら)で上(あ)げますから」
私は奥さんの後(あと)に尾(つ)いて書斎を出(で)た。茶の間(ま)には綺麗な長火鉢に鉄瓶(びん)が鳴(な)つてゐた。私は其処(そこ)で茶と菓子の御馳走になつた。奥さんは寐(ね)られないと不可(いけな)いといつて、茶碗に手を触(ふ)れなかつた。
「先生は矢張(やつぱ)り時々(とき\゛/)斯(こ)んな会(くわい)へ御出掛(でかけ)になるんですか」
「いヽえ滅多(めつた)に出(で)た事(こと)はありません。近頃は段々(だん\゛/)人(ひと)の顔(かほ)を見(み)るのが嫌(きらひ)になるやうです」
斯(か)ういつた奥さんの様子に、別段困つたものだといふ風も見えなかつたので、私はつい大胆になつた。
「それぢや奥さん丈が例外なんですか」
「いヽえ私も嫌はれてゐる一人(ひとり)なんです」
「そりや嘘(うそ)です」と私が云つた。「奥さん自身嘘(うそ)と知りながら左右(さう)仰(おつし)やるんでせう」
「何故(なぜ)」
「私に云はせると、奥さんが好(す)きになつたから世間(けん)が嫌ひになるんですもの」
「あなたは学問をする方(かた)丈あつて、中々(なか\/)御上手ね。空(から)つぽな理窟を使ひこなす事(こと)が。世の中(なか)が嫌(きらひ)になつたから、私迄も嫌(きらひ)になつたんだとも云はれるぢやありませんか。それと同(おん)なじ理窟で」
「両方とも云はれる事(こと)は云はれますが、此場合は私の方(はう)が正(たヾ)しいのです」
「議論はいやよ。よく男の方(かた)は議論だけなさるのね、面白さうに。空(から)の盃(さかづき)でよくああ飽(あ)きずに献酬(けんしゆう)が出来(でき)ると思ひますわ」
奥さんの言葉は少し手痛(てひど)かつた。然し其言葉の耳障(みヽざわり)からいふと、決して猛烈なものではなかつた。自分に頭脳のある事(こと)を相手に認(みと)めさせて、そこに一種の誇りを見出す程に奥さんは現代的でなかつた。奥さんはそれよりもつと底の方(はう)に沈(しづ)んだ心(こヽろ)を大事(だいじ)にしてゐるらしく見えた。
私はまだ其後(あと)にいふべき事(こと)を有(も)つてゐた。けれども奥さんから徒(いたづ)らに議論を仕掛(しか)ける男のやうに取(と)られては困ると思つて遠慮した。奥さんは飲(の)み干(ほ)した紅茶々碗の底(そこ)を覗(のぞ)いて黙(だま)つてゐる私を外(そ)らさないやうに、「もう一杯上(あ)げませうか」と聞(き)いた。私はすぐ茶碗を奥さんの手に渡(わた)した。
「いくつ?一(ひと)つ?二(ふた)ッつ?」
妙なもので角砂糖を撮(つま)み上(あ)げた奥さんは、私の顔(かほ)を見て、茶碗の中(なか)へ入(い)れる砂糖の数(かず)を聞(き)いた。奥さんの態度は私に媚(こ)びるといふ程ではなかつたけれども、先刻(さつき)の強い言葉を力(つと)めて打(う)ち消(け)さうとする愛嬌に充(み)ちてゐた。
私は黙(だま)つて茶を飲(の)んだ。飲(の)んでしまつても黙(だま)つてゐた。
「あなた大変黙(だま)り込(こ)んぢまつたのね」と奥さんが云(い)つた。
「何かいうと又議論を仕掛(しか)けるなんて、叱(しか)り付(つ)けられさうですから」と私は答へた。
「まさか」と奥さんが再び云つた。
二人(ふたり)はそれを緒口(いとくち)に又話(はなし)を始(はじ)めた。さうして又二人(ふたり)に共通な興味のある先生を問題にした。
「奥さん、先刻(さつき)の続(つヾ)きをもう少(すこ)し云(い)はせて下(くだ)さいませんか。奥さんには空(から)な理窟と聞(き)こえるかも知れませんが、私はそんな上(うは)の空(そら)で云つてる事(こと)ぢやないんだから」
「じゃ仰(おつし)やい」
「今(いま)奥さんが急に居なくなつたとしたら、先生は現在の通りで生(い)きてゐられるでせうか」
「そりや分(わか)らないわ、あなた。そんな事(こと)、先生に聞(き)いて見るより外(ほか)に仕方(しかた)がないぢやありませんか。私の所(ところ)へ持(も)つて来(く)る問題ぢやないわ」
「奥さん、私は真面目(まじめ)ですよ。だから逃(に)げちや不可(いけ)ません。正直に答えなくつちや」
「正直よ。正直に云つて私には分(わか)らないのよ」
「ぢや奥さんは先生を何(ど)の位愛(あい)してゐらつしやるんですか。これは先生に聞(き)くより寧ろ奥さんに伺つていヽ質問ですから、あなたに伺ひます」
「何(なに)もそんな事(こと)を開き直つて聞(き)かなくつても好(い)いぢやありませんか」
「真面目(まじめ)腐(くさ)つて聞(き)くがものはない。分(わか)り切(き)つてると仰(おつし)やるんですか」
「まあ左右(さう)よ」
「その位先生に忠実なあなたが急に居なくなつたら、先生は何(ど)うなるんでせう。世の中(なか)の何方(どつち)を向(む)いても面白さうでない先生は、あなたが急にいなくなつたら後(あと)で何(ど)うなるでせう。先生から見てぢやない。あなたから見てですよ。あなたから見て、先生は幸福になるでせうか、不幸になるでせうか」
「そりや私から見れば分(わか)つてゐます。(先生はさう思ってゐないかも知れませんが)。先生は私を離れヽば不幸になる丈です。或は生きてゐられないかも知れませんよ。さういふと、己惚(おのぼれ)になるやうですが、私は今(いま)先生を人間(にんげん)として出来る丈幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人(ひと)があつても私程先生を幸福にできるものはないと迄思ひ込んでゐますわ。それだから斯うして落ち付いてゐられるんです」
「その信念が先生の心(こヽろ)に好(よ)く映(うつ)る筈だと私は思ひますが」
「それは別問題ですわ」
「矢張(やつぱ)り先生から嫌(きら)はれてゐると仰(おつし)やるんですか」
「私は嫌(きら)はれてるとは思ひません。嫌(きら)はれる訳がないんですもの。然し先生は世間(せけん)が嫌(きらひ)なんでせう。世間といふより近頃では人間(にんげん)が嫌(きらひ)になつてゐるんでせう。だから其人間(にんげん)の一人(いちにん)として、私も好(す)かれる筈がないぢやありませんか」
奥さんの嫌はれてゐるといふ意味がやつと私に呑(の)み込めた。
私は奥さんの理解力に感心した。奥さんの態度(ど)が旧式の日本の女らしくない所も私の注意に一種の刺戟を与へた。それで奥さんは其頃流行(はや)り始めた所謂新らしい言葉などは殆んど使はなかつた。
私は女といふものに深い交際(つきあひ)をした経験のない迂濶な青年であつた。男としての私は、異性に対する本能から、憧憬の目的物として常に女を夢(ゆめ)みてゐた。けれどもそれは懐(なつ)かしい春(はる)の雲(くも)を眺(なが)めるやうな心持で、たヾ漠然と夢(ゆめ)みてゐたに過ぎなかつた。だから実際の女の前へ出ると、私の感情が突然変る事(こと)が時々(とき\゛/)あつた。私は自分の前に現(あら)はれた女のために引き付(つ)けられる代りに、其場に臨んで却つて変な反撥力を感(かん)じた。奥さんに対した私にはそんな気が丸で出(で)なかつた。普通男女の間(あひだ)に横はる思想の不平均といふ考も殆んど起らなかつた。私は奥さんの女であるといふ事(こと)を忘れた。私はたヾ誠実なる先生の批評家及び同情家として奥さんを眺めた。
「奥さん、私は此前(このまへ)何故(なぜ)先生が世間的にもつと活動なさらないのだらうと云つて、あなたに聞(き)いた時(とき)に、あなたは仰(おつし)やつた事(こと)がありますね。元(もと)はあヽぢやなかつたんだつて」
「えヽ云ひました。実際彼(あ)んなぢやなかつたんですもの」
「何(ど)んなだつたんですか」
「あなたの希望なさるやうな、又私の希望するやうな頼(たの)もしい人(ひと)だつたんです」
「それが何(ど)うして急に変化なすつたんですか」
「急にぢやありません、段々(だん\゛/)あヽなつて来(き)たのよ」
「奥さんは其間(あひだ)始終先生と一所にゐらしつたんでせう」
「無論ゐましたわ。夫婦ですもの」
「ぢや先生が左右(さう)変(かは)つて行かれる源因がちやんと解(わか)るべき筈ですがね」
「それだから困るのよ。あなたから左右(さう)云はれると実に辛(つら)いんですが、私には何(ど)う考へても、考へやうがないんですもの。私は今迄何遍(なんべん)あの人(ひと)に、何(ど)うぞ打ち明(あ)けて下(くだ)さいつて頼(たの)んで見(み)たか分(わか)りやしません」
「先生は何と仰(おつ)しやるんですか」
「何にも云ふ事(こと)はない、何にも心配する事(こと)はない、おれは斯(か)ういふ性質になつたんだからと云ふ丈で、取(と)り合(あ)つて呉(く)れないんです」
私は黙(だま)つてゐた。奥さんも言葉を途切(とぎ)らした。下女部屋にゐる下女はことりとも音(おと)をさせなかつた。私は丸で泥棒の事(こと)を忘れて仕舞つた。
「あなたは私に責任があるんだと思つてやしませんか」と突然奥さんが聞(き)いた。
「いヽえ」と私が答へた。
「何(ど)うぞ隠さずに云つて下(くだ)さい。さう思はれるのは身を切(き)られるより辛(つら)いんだから」と奥さんが又云つた。「是でも私は先生のために出来(でき)る丈の事(こと)はしてゐる積(つもり)なんです」
「そりや先生も左右(さう)認(みと)めてゐられるんだから、大丈夫です。御安心なさい、私が保証します」
奥さんは火鉢の灰を掻(か)き馴(な)らした。それから水注(みづさし)の水を鉄瓶に注(さ)した。鉄瓶は忽(たちま)ち鳴(な)りを沈(しづ)めた。
「私はとう\/辛防し切れなくなつて、先生に聞きました。私に悪(わる)い所があるなら遠慮なく云つて下(くだ)さい、改められる欠点なら改めるからつて、すると先生は、御前に欠点なんかありやしない、欠点はおれの方にある丈だと云ふんです。さう云はれると、私悲しくなつて仕様がないんです、涙が出て猶の事(こと)自分の悪(わる)い所が聞(き)きたくなるんです」
奥さんは眼(め)の中(うち)に涙を一杯溜(た)めた。
始め私は理解のある女性として奥さんに対してゐた。私が其気(そのき)で話(はな)してゐるうちに、奥さんの様子が次第に変つて来(き)た。奥さんは私の頭脳に訴へる代りに、私の心臓(ハート)を動(うご)かし始めた。自分と夫(おつと)の間(あひだ)には何(なん)の蟠(わだか)まりもない、又ない筈であるのに、矢張(やは)り何かある。眼(め)を開(あ)けてそれを見(み)極めやうとすると、矢張り何にもない。奥さんの苦(く)にする要点は此所(こヽ)にあつた。
奥さんは最初世(よ)の中(なか)を見る先生の眼が厭世的だから、其結果として自分も嫌はれてゐるのだと断言した。さう断言して置きながら、ちつとも其所(そこ)に落ち付(つ)いてゐられなかつた。底(そこ)を割ると、却つて其逆(ぎやく)を考へてゐた。先生は自分を嫌(きら)ふ結果、とう\/世の中迄厭(いや)になつたのだらうと推測してゐた。けれども何(ど)う骨を折つても、其推測を突き留(と)めて事実とする事(こと)が出来(でき)なかつた。先生の態度(たいど)は何処(どこ)迄も良人(おつと)らしかつた。親切で優(やさ)しかつた。疑(うたが)ひの塊(かたま)りを其日(そのひ)\/の情合(じやうあひ)で包(つヽ)んで、そつと胸の奥に仕舞つて置(お)いた奥さんは、其晩その包(つヽ)みの中(なか)を私の前(まへ)で開(あ)けて見せた。
「あなた何(ど)う思つて?」と聞いた。「私からあヽなつたのか、それともあなたのいふ人世観とか何とかいふものから、あヽなつたのか。隠さず云つて頂戴」
私は何も隠す気はなかつた。けれども私の知らないあるものが其所(そこ)に存在してゐるとすれば、私の答が何であらうと、それが奥さんを満足させる筈がなかつた。さうして私は其所(そこ)に私の知らないあるものがあると信じてゐた。
「私には解(わか)りません」
奥さんは予期の外(はづ)れた時(とき)に見る憐れな表情を其咄嗟(とつさ)に現(あら)はした。私はすぐ私の言葉(ことば)を継(つ)ぎ足(た)した。
「然し先生が奥さんを嫌(きら)つてゐらつしやらない事(こと)丈は保証します。私は先生自身の口(くち)から聞(き)いた通りを奥さんに伝(つた)へる丈です。先生は嘘(うそ)を吐(つ)かない方(かた)でせう」
奥さんは何とも答へなかつた。しばらくしてから斯(か)う云つた。
「実(じつ)は私すこし思ひ中(あた)る事があるんですけれども‥‥」
「先生があヽ云ふ風になつた源因に就(つ)いてですか」
「えヽ。もしそれが源因だとすれば、私の責任丈はなくなるんだから、夫丈でも私大変楽(らく)になれるんですが、‥‥」
「何(ど)んな事(こと)ですか」
奥さんは云(い)ひ渋(しぶ)つて膝(ひざ)の上(うへ)に置(お)いた自分の手を眺(なが)めてゐた。
「あなた判断して下(くだ)すつて。云ふから」
「私に出来(でき)る判断なら遣(や)ります」
「みんなは云へないのよ。みんな云ふと叱(しか)られるから。叱(しか)られない所丈よ」
私は緊張して唾液(つばき)を呑み込んだ。
「先生がまだ大学にゐる時分、大変仲(なか)の好(い)い御友達が一人(ひとり)あつたのよ。其方(そのかた)が丁度卒業する少し前に死(し)んだんです。急(きう)に死んだんです」
奥さんは私の耳(みヽ)に私語(さヽや)くやうな小(ちい)さな声で、「実は変死したんです」と云つた。それは「何(ど)うして」と聞(き)き返(かへ)さずにはゐられない様な声であつた。
「それつ切(き)りしか云へないのよ。けれども其事(そのこと)があつてから後(のち)なんです。先生の性質が段(だん)々変つて来(き)たのは。何故(なぜ)其方(そのかた)が死んだのか、私には解(わか)らないの。先生にも恐らく解(わか)つてゐないでせう。けれども夫(それ)から先生が変つて来(き)たと思へば、さう思はれない事(こと)もないのよ」
「其人の墓ですか、雑司ヶ谷にあるのは」
「それも云はない事(こと)になつてるから云ひません。然し人間は親友を一人(ひとり)亡(な)くした丈で、そんなに変化できるものでせうか。私はそれが知りたくつて堪(たま)らないんです。だから其所(そこ)を一つ貴方(あなた)に判断して頂きたいと思ふの」
私の判断は寧ろ否定の方に傾いてゐた。
私は私のつらまえた事実(じじつ)の許(ゆる)す限(かぎ)り、奥さんを慰めやうとした。奥さんも亦出来る丈私によつて慰さめられたさうに見えた。それで二人(ふたり)は同じ問題をいつまでも話し合(あ)つた。けれども私はもと\/事(こと)の大根(おほね)を攫(つか)んでゐなかつた。奥さんの不安も実(じつ)は其所(そこ)に漂(たヾ)よふ薄(うす)い雲に似た疑惑から出(で)て来(き)てゐた。事件の真相になると、奥さん自身にも多くは知れていなかつた。知れてゐる所でも悉皆(すつかり)は私に話(はな)す事(こと)が出来なかつた。従つて慰(なぐ)さめる私も、慰(なぐ)さめられる奥さんも、共に波(なみ)に浮(う)いて、ゆら\/してゐた。ゆら\/しながら、奥さんは何処(どこ)迄も手を出(だ)して、覚束(つか)ない私の判断に縋(すが)り付(つ)かうとした。
十時頃になつて先生の靴の音(おと)が玄関に聞(き)こえた時(とき)、奥さんは急に今迄の凡(すべ)てを忘れたやうに、前に坐つてゐる私を其方(そつち)退(の)けにして立ち上(あが)つた。さうして格子を開(あ)ける先生を殆んど出合頭(であひがしら)に迎(むか)へた。私は取り残(のこ)されながら、後(あと)から奥(おく)さんに尾(つ)いて行(い)つた。下女丈は仮寐(うたヽね)でもしてゐたと見(み)えて、ついに出(で)て来(こ)なかつた。
先生は寧(むし)ろ機嫌がよかつた。然し奥さんの調子は更(さら)によかつた。今(いま)しがた奥(おく)さんの美くしい眼(め)のうちに溜(たま)つた涙(なみだ)の光(ひかり)と、それから黒(くろ)い眉(まゆ)毛の根(ね)に寄(よ)せられた八の字(じ)を記憶してゐた私は、其変化を異常なものとして注意深く眺(なが)めた。もしそれが詐りでなかつたならば、(実際それは詐りとは思へなかつ[た]が)、今迄の奥さんの訴へは感傷(センチメント)を玩(もてあそ)ぶためにとくに私を相手に拵(こしら)えた、徒(いたづ)らな女性の遊戯と取(と)れない事(こと)もなかつた。尤も其時(そのとき)の私には奥さんをそれ程批評的に見る気は起(おこ)らなかつた。私は奥さんの態度の急に輝(かヾ)やいて来(き)たのを見て、寧(むし)ろ安心した。是(これ)ならばさう心配する必要もなかつたんだと考へ直した。
先生は笑ひながら「どうも御苦労さま、泥棒は来(き)ませんでしたか」と私に聞(き)いた。それから「来(こ)ないんで張合(はりあひ)が抜けやしませんか」と云つた。
帰(かへ)る時、奥さんは「どうも御気の毒さま」と会釈した。其調子は忙(いそ)がしい処(ところ)を暇(ひま)を潰(つぶ)させて気の毒だといふよりも、折角来(き)たのに泥棒が這(はい)入らなくつて気の毒だといふ冗談(じやうだん)のやうに聞(き)こえた。奥さんはさう云ひながら、先刻(さつき)出(だ)した西洋菓子の残りを、紙(かみ)に包(つヽ)んで私の手に持(も)たせた。私はそれを袂(たもと)へ入(い)れて、人通りの少ない夜寒(よさむ)の小路を曲折して賑(にぎ)やかな町(ま[ち])の方へ急いだ。
私は其晩の事(こと)を記憶のうちから抽(ひ)き抜(ぬ)いて此所(こヽ)へ詳しく書(か)いた。是は書(か)く丈の必要があるから書いたのだが、実(じつ)をいふと、奥さんに菓子を貰(もら)つて帰るときの気分では、それ程当夜の会話を重く見(み)てゐなかつた。私は其翌日午飯(ひるめし)を食ひに学校から帰つてきて、昨夜(ゆふべ)机の上(うへ)に載(の)せて置(お)いた菓子の包(つヽみ)を見ると、すぐ其中(なか)からチヨコレーを塗(ぬ)つた鳶色(とびいろ)のカステラを出(だ)して頬張(ほヽば)つた。さうしてそれを食(く)ふ時に、必竟此菓子を私に呉れた二人(ふたり)の男女は、幸福な一対(つい)として世の中(なか)に存在してゐるのだと自覚しつヽ味はつた。
秋が暮(く)れて冬(ふゆ)が来(く)る迄格別の事(こと)もなかつた。私は先生の宅(うち)へ出這(ではい)りをする序(ついで)に、衣服の洗ひ張(はり)や仕立方(したてかた)などを奥さんに頼(たの)んだ。それ迄繻絆(じゆばん)といふものを着(き)た事(こと)のない私が、シヤツの上(うへ)に黒(くろ)い襟(えり)のかヽつたものを重(かさ)ねるやうになつたのは此時(このとき)からであつた。子供のない奥さんは、さういふ世話を焼くのが却つて退屈凌ぎになつて、結句(けつく)身体(からだ)の薬(くすり)だ位の事(こと)を云つてゐた。
「こりや手(て)織ね。斯んな地(ぢ)の好(い)い着物(きもの)は今迄縫(ぬ)つた事(こと)がないわ。其代り縫(ぬ)ひ悪(にく)いのよそりあ。丸で針が立(た)たないんですもの。御蔭(かげ)で針(はり)を二本折りましたわ」
斯んな苦情をいふ時(とき)ですら、奥さんは別に面倒臭(くさ)いといふ顔をしなかつた。