心(こヽろ) 先生の遺書(六十一)

 「私が三度(ど)目に帰国したのは、それから又(また)一年経(た)つた夏(なつ)の取付(とつつき)でした。私は何時(いつ)でも学年試験の済(す)むのを待(ま)ちかねて東京を逃(に)げました。私には故郷(ふるさと)がそれ程懐(なつ)かしかつたからです。貴方(あなた)にも覚(おぼえ)があるでせう、生(うま)れた所は空気の色(いろ)が違(ちが)ひます、土地の匂(にほひ)も格別です、父(ちヽ)や母(はヽ)の記憶も濃(こまや)かに漂(たヾよ)つてゐます。一年のうちで、七八の二月(ふたつき)を其中(そのなか)に包(くる)まれて、穴(あな)に入(はい)つた蛇(へび)の様に凝(ぢつ)としてゐるのは、私に取(と)つて何(なに)よりも温(あたヽ)かい好(い)い心持(こヽろもち)だつたのです。
 単純な私は従妹(いとこ)との結婚問題に就(つ)いて、左程頭(あたま)を痛(いた)める必要がないと思つてゐました。厭(いや)なものは断(ことわ)る、断(ことわ)つてさへしまへば後(あと)には何(なに)も残(のこ)らない、私は斯(か)う信じてゐたのです。だから伯父の希望通(どほ)りに意志を曲(ま)げなかつたにも関(かヽは)らず、私は寧ろ平気でした。過去一年の間(あひだ)いまだかつて其(そ)んな事(こと)に屈託した覚(おぼえ)もなく、相変らずの元気で国(くに)へ帰(かへ)つたのです。
 所が帰つて見(み)ると伯父の態度が違(ちが)つてゐます。元(もと)のやうに好(い)い顔(かほ)をして私を自分の懐(ふところ)に抱(だ)かうとしません。それでも鷹揚に育(そだ)つた私は、帰(かへ)つて四五日の間(あひだ)は気が付(つ)かずにゐました。たヾ何(なに)かの機会に不図変に思ひ出したのです。すると妙なのは、伯父ばかりではないのです。伯母も妙なのです。従妹(いとこ)も妙なのです。中学校を出て、是から東京の高等商業へ這入(はい)る積だといつて、手紙で其様子を聞(き)き合せたりした伯父の男の子迄妙なのです。
 私の性分として考へずにはゐられなくなりました。何(ど)うして私の心持が斯(か)う変つたのだらう。いや何(ど)うして向ふが斯(か)う変つたのだらう。私は突然(とつぜん)死んだ父(ちヽ)や母が、鈍(にぶ)い私の眼(め)を洗(あら)つて、急に世(よ)の中(なか)が判然(はつきり)見(み)えるやうにして呉(く)れたのではないかと疑(うたが)ひました。私は父(ちヽ)や母(はヽ)が此世(このよ)に居なくなつた後(あと)でも、居た時(とき)と同じやうに私を愛して呉(く)れるものと、何処(どこ)か心(こヽろ)の奥(おく)で信じてゐたのです。尤も其頃でも私は決して理に暗(くら)い質(たち)ではありませんでした。然し先祖から譲られた迷信の塊(かたまり)も、強い力(ちから)で私の血(ち)の中(なか)に潜(ひそ)んでゐたのです。今でも潜(ひそ)んでゐるでせう。
 私はたつた一人(ひとり)山(やま)へ行(い)つて、父母(ふぼ)の墓(はか)の前(まへ)に跪(ひざま)づきました。半(なかば)は哀悼の意味、半(なかば)は感謝の心持(こヽろもち)で跪いたのです。さうして私の未来の幸福が、此冷(つめ)たい石(いし)の下(した)に横(よこた)はる彼等の手にまだ握(にぎ)られてでもゐるやうな気分で、私の運命を守(まも)るべく彼等に祈りました。貴方(あなた)は笑ふかも知れない。私も笑はれても仕方(かた)がないと思ひます。然し私はさうした人間(にんげん)だつたのです。
 私の世界は掌(たなごヽろ)を翻(ひるが)へすやうに変りました。尤も是は私に取(と)つて始めての経験ではなかつたのです。私が十六七の時でしたらう、始めて世の中(なか)に美(うつ)くしいものがあるといふ事実を発見した時(とき)には、一度にはつと驚ろきました。何遍も自分の眼(め)を疑(うたぐ)つて、何遍も自分の眼(め)を擦(こす)りました。さうして心(こヽろ)の中(うち)であヽ美(うつく)しいと叫(さけ)びました。十六七と云へば、男でも女でも、俗にいふ色気(いろけ)の付(つ)く頃(ころ)です。色気の付いた私は世(よ)の中(なか)にある美(うつく)しいものヽ代表者として、始めて女を見(み)る事(こと)が出来たのです。今迄其存在に少(すこ)しも気の付(つ)かなかつた異性に対して、盲目(めくら)の眼(め)が忽ち開(あ)いたのです。それ以来私の天地は全く新(あた)らしいものとなりました。
 私が伯父の態度に心(こヽろ)づいたのも、全く是と同(おな)じなんでせう。俄然として心(こヽろ)づいたのです。何の予感も準備もなく、不意に来たのです。不意に彼と彼(かれ)の家族が、今迄とは丸で別物(もの)のやうに私の眼(め)に映(うつ)つたのです。私は驚ろきました。さうして此侭(まヽ)にして置(お)いては、自分の行先が何(ど)うなるか分(わか)らないといふ気になりました。


心(こヽろ) 先生の遺書(六十二)

 「私は今迄伯父任(まか)せにして置いた家(いへ)の財産(さん)に就いて、詳しい知識を得なければ、死んだ父(ちヽ)母(はヽ)に対(たい)して済(す)まないと云ふ気を起したのです。伯父は忙(いそ)がしい身体(からだ)だと自称(じしよう)する如く、毎晩同じ所(ところ)に寐泊(ねとまり)はしてゐませんでした。二日(ふつか)家(うち)へ帰(かへ)ると三日(みつか)は市(し)の方(はう)で暮(く)らすといつた風(ふう)に、両方の間(あひだ)を往来(ゆきき)して、其日其日(そのひそのひ)を落付(おちつき)のない顔(かほ)で過(す)ごしてゐました。さうして忙(いそ)がしいといふ言葉(ことば)を口癖(くちくせ)のやうに使(つか)ひました。何(なん)の疑(うたがひ)も起(おこ)らない時(とき)は、私も実際に忙(いそ)がしいのだらうと思つてゐたのです。それから、忙(いそ)がしがらなくては当世流でないのだらうと、皮肉にも解釈してゐたのです。けれども財産の事(こと)に就(つ)いて、時間(じかん)の掛(かヽ)る話(はなし)をしやうといふ目的が出来(でき)た眼(め)で、この忙(いそ)がしがる様子を見ると、それが単(たん)に私を避(さ)ける口実(じつ)としか受取(うけと)れなくなつて来(き)たのです。私は容易に伯父を捕(つら)まへる機会を得ませんでした。
 私は伯父が市(し)の方(はう)に妾(めかけ)を有(も)つてゐるといふ噂を聞(き)きました。私は其噂を昔(むか)し中学の同級生であつたある友達から聞(き)いたのです。妾(めかけ)を置(お)く位の事(こと)は、此伯父として少しも怪しむに足(た)らないのですが、父(ちヽ)の生(い)きてゐるうちに、そんな評判を耳(みヽ)に入(い)れた覚(おぼえ)のない私は驚ろきました。友達は其外(ほか)にも色々(いろ\/)伯父に就(つ)いての噂を語(かた)つて聞(き)かせました。一時(いちじ)事業で失敗しかつつてゐたやうに他(ひと)から思はれてゐたのに、此二三年来又急に盛り返(かへ)して来(き)たといふのも、その一つでした。しかも私の疑惑を強く染め付(つ)けたものヽ一つでした。
 私はとう\/伯父と談判を開(ひら)きました。談判といふのは少し不穏当かも知れませんが、話(はなし)の成行(なりゆき)からいふと、そんな言葉(ことば)で形容するより外(ほか)に途(みち)のない所へ、自然の調子が落ちて来(き)たのです。伯父は何処迄(どこまで)も私を子供扱(あつか)ひにしやうとします。私はまた始めから猜疑の眼(め)で伯父に対してゐます。穏やかに解決のつく筈はなかつたのです。
 遺憾ながら私は今(いま)その談判の顛末を詳しく此所(こヽ)に書(か)く事(こと)の出来(でき)ない程先(さき)を急(いそ)いでゐます。実をいふと、私は是より以上に、もつと大事(だいじ)なものを控(ひか)えてゐるのです。私のペンは早くから其所(そこ)へ辿(たど)りつきたがつてゐるのを、漸(やつ)との(こと)で抑(おさ)え付(つ)けてゐる位です。あなたに会(あ)つて静(しづ)かに話(はな)す機会を永久に失(うしな)つた私は、筆を執る術に慣れないばかりでなく、貴(たつと)い時間を惜むといふ意味からして、書(か)きたい事(こと)も省(はぶ)かなければなりません。
 あなたは未(ま)だ覚(おぼ)えてゐるでせう、私がいつか貴方(あなた)に、造(つく)り付(つ)けの悪人(あくにん)が世(よ)の中(なか)にゐるものではないと云つた事(こと)を。多くの善人がいざといふ場合に突然悪人になるのだから油断しては不可(いけ)ないと云つた事(こと)を。あの時(とき)あなたは私に昂奮してゐると注意して呉れました。さうして何(ど)んな場合に、善人が悪人(あくにん)に変化するのかと尋(たづ)ねました。私がたヾ一口(ひとくち)金(かね)と答へた時(とき)、あなたは不満な顔をしました。私はあなたの不満な顔をよく記憶してゐます。私は今あなたの前に打ち明(あ)けるが、私はあの時(とき)此伯父の事(こと)を考へてゐたのです。普通のものが金(かね)を見(み)て急に悪人(あくにん)になる例(れい)として、世の中(なか)に信用するに足るものが存在し得ない例として、憎悪(を)と共に私は此伯父を考へてゐたのです。私の答は、思想界の奥へ突き進んで行かうとするあなたに取(と)つて物足(ものた)りなか[つ]たかも知れません、陳腐だつたかも知れません。けれども私にはあれが生きた答でした。現に私は昂奮してゐたではありませんか。私は冷(ひやヽ)かな頭(あたま)で新(あた)らしい事(こと)を口(くち)にするよりも、熱した舌(した)で平凡な説を述(の)べる方(はう)が生(い)きてゐると信じてゐます。血(ち)の力(ちから)で体(たい)が動(うご)くからです。言葉が空気に波動を伝(つた)へる許(ばかり)でなく、もつと強い物(もの)にもつと強く働(はたら)き掛(か)ける事(こと)が出来るからです。


心(こヽろ) 先生の遺書(六十三)

 「一口(ひとくち)でいふと、伯父は私の財産を胡魔化したのです。事(こと)は私が東京へ出てゐる三年の間(あひだ)に容易(たやす)く行なはれたのです。凡(すべ)てを伯父任(まか)せにして平気でゐた私は、世間的に云へば本当の馬鹿でした。世間的以上の見地(けんち)から評すれば、或は純(じゆん)なる尊(たつと)い男とでも云(い)へませうか。私は其時(とき)の己(おの)れを顧(かへり)みて、何故(なぜ)もつと人(ひと)が悪(わる)く生れて来(こ)なかつたかと思ふと、正直過(す)ぎた自分が口惜(くや)しくつて堪(たま)りません。然しまた何(ど)うかして、もう一度(いちど)あヽいふ生(うま)れたままの姿(すがた)に立(た)ち帰(かへ)つて生(い)きて見たいといふ心持(こヽろもち)も起(おこ)るのです。記憶して下(くだ)さい、あなたの知つてゐる私は塵(ちり)に汚(よご)れた後(あと)の私です。きたなくなつた年数(ねんすう)の多いものを先輩と呼(よ)ぶならば、私はたしかに貴方(あなた)より先輩でせう。
 若し私が伯父の希望通り伯父の娘と結婚したならば、其結果は物質的に私に取つて有利なものでしたらうか。是は考へる迄(まで)もない事(こと)と思ひます。伯父は策略で娘(むすめ)を私に押し付けやうとしたのです。好意的に両家の便宜を計(はか)るといふよりも、ずつと下卑(げび)た利害心に駆(か)られて、結婚問題を私に向けたのです。私は従妹(いとこ)を愛(あい)してゐない丈で、嫌(きら)つてはゐなかたのです。然し私は無邪気にそれを断(ことわ)つたのを後から考へて見て、多少快(こヽろ)よく思ふのです。胡魔化されるのは何方(どつち)にしても同(おな)じでせうけれども、載(の)せられ方(かた)からいへば、従妹(いとこ)を貰(もら)はない方(はう)が、向ふの思ひ通りにならないといふ点から見て、少しは私の我(が)が通(とほ)つた事(こと)になるのですから。然しそれは殆んど問題とするに足(た)りない些細(ささい)な事柄(ことがら)です。ことに関係のない貴方(あなた)に云はせたら、さぞ馬鹿気た意地に見えるでせう。
 私と伯父の間(あひだ)に他の親戚のものが這入(はい)りました。その親戚のものも私は丸で信用してゐませんでした。信用しないばかりでなく、寧(むし)ろ敵視(てきし)してゐました。私は伯父が私を欺むいたと覚(さと)ると共に、他(ほか)のものも必ず自分を欺くに違(ちがひ)ないと思(おも)ひ詰(つ)めました。父(ちヽ)があれ丈(だけ)賞(ほ)め抜(ぬ)いてゐた伯父ですら斯(か)うだから、他(ほか)のものはといふのが私の論理(ロジツク)でした。
 それでも彼等は私のために、私の所有にかヽる一切のものを纏(まと)めて呉(く)れました。それは金額に見積ると、私の予期より遙(はる)かに少ないものでした。私としては黙(だま)つてそれを受(う)け取(と)るか、でなければ伯父を相手取(あひてど)つて公け沙汰にするか、二(ふた)つの方法しかなかつたのです。私は憤りました。又迷ひました。訴訟にすると落着迄に長い時間のかヽる事(こと)も恐れました。私は修業中のからだですから、学生として大切(たいせつ)な時間を奪はれるのは非常の苦痛だとも考へました。私は思案の結果、市(し)に居る中学の旧友に頼(たの)んで、私の受(う)け取(と)つたものを、凡て金(かね)の形(かたち)に変(か)へやうとしました。旧友は止(よ)した方(はう)が得(とく)だといつて忠告して呉れましたが、私は聞(き)きませんでした。私は永く故郷を離れる決心を其時(とき)に起(おこ)したのです。伯父の顔(かほ)を見(み)まいと心(こヽろ)のうちで誓(ちか)つたのです。
 私は国(くに)を立(た)つ前(まへ)に、又父(ちヽ)と母(はヽ)の墓(はか)へ参(まい)りました。私はそれぎり其墓(はか)を見(み)た事(こと)がありません。もう永久に見(み)る機会も来(こ)ないでせう。
 私の旧友は私の言葉(ことば)通りに取計(とりはか)らつて呉(く)れました。尤もそれは私が東京へ着(つ)いてから余程経(た)つた後(のち)の事(こと)です。田舎で畠地(はたち)などを売らうとしたつて容易には売(う)れませんし、いざとなると足元(あしもと)を見(み)て踏み倒される恐れがあるので、私の受(う)け取(と)つた金額は、時価(じか)に比(くら)べると余程少(すく)ないものでした。自白すると、私の財産は自分が懐(ふところ)にして家(いへ)を出た若干の公債と、後(あと)から此(この)友人に送つて貰(もら)つた金(かね)丈(だけ)なのです。親(おや)の遺産としては固より非常に減(へ)つてゐたに相違ありません。しかも私が積極的に減(へ)らしたのでないから、猶心持が悪(わる)かつたのです。けれども学生として生活するにはそれで充分以上でした。実をいふと私はそれから出る利子の半分も使へませんでした。此余裕ある私の学生々活が私を思ひも寄(よ)らない境遇に陥し入(い)れたのです。


心(こヽろ) 先生の遺書(六十四)

 「金(かね)に不自由のない私は、騒々しい下宿を出(で)て、新(あた)らしく一戸を構へて見やうかといふ気になつたのです。然しそれには世帯(しよたい)道具を買ふ面倒もありますし、世話をして呉れる婆(ばあ)さんの必要も起(おこ)りますし、其の婆(ばあ)さんが又正直でなければ困るし、宅(うち)を留守にしても大丈夫なものでなければ心配だし、と云つた訳(わけ)で、ちよくら一寸(ちよいと)実行する事(こと)は覚束(おぼつか)なく見えたのです。ある日私はまあ宅(うち)丈でも探(さが)して見やうかといふそヾろ心から、散歩がてらに本郷台を西へ下(お)りて小石川の坂を真直(まつすぐ)に伝通院の方へ上(あ)がりました。今(いま)では電車の通路になつて、あそこいらの様子が丸で違(ちが)つてしまひましたが、其頃は左手(ひだりて)が砲兵工廠の土塀で、右(みぎ)は原(はら)とも丘(をか)ともつかない空地(くうち)に草が一面に生(は)えてゐたものです。私は其草(くさ)の中(なか)に立(た)つて、何心(なにごヽろ)なく向(むかふ)の崖(がけ)を眺めました。今(いま)でも悪(わる)い景色ではありませんが、其頃(ころ)はずつと趣(おもむき)が違(ちが)つてゐました。見渡す限り緑(みどり)が一面に深(ふか)く茂(しげ)つてゐる丈でも、神経が休(やす)まります。私は不図こヽいらに適当な宅(うち)はないだらうかと思ひました。それで直(す)ぐ草原(くさはら)を横切(よこぎ)つて、細(ほそ)い通(とほ)りを北(きた)の方(はう)へ進(すヽ)んで行きました。今日(こんにち)でも好(い)い町(まち)になり切れないで、がたぴししてゐる彼(あ)の辺(へん)の家並(いへなみ)は、其頃の事(こと)ですから随分汚(きた)ならしいものでした。私は露次を抜(ぬ)けたり、横(よこ)丁を曲(まが)つたり、ぐる\/歩(ある)き廻りました。仕舞に駄菓子屋の上(かみ)さんに、こヽいらに小(こ)じんまりした貸家はないかと尋(たづ)ねて見ました。上(かみ)さんは「左右(さう)ですね」と云つて、少時(しばらく)首(くび)をかしげてゐましたが、「かし家(や)はちよいと‥‥」と全く思ひ当らない風(ふう)でした。私は望(のぞみ)のないものと諦(あき)らめて帰(かへ)り掛(か)けました。すると上(かみ)さんが又、「素人(しろうと)下宿ぢや不可(いけ)ませんか」と聞(き)くのです。私は一寸(ちよつと)気が変(かは)りました。静(しづ)かな素人屋(しろうとや)に一人(ひとり)で下宿してゐるのは、却つて家(うち)を持(も)つ面倒がなくつて結構だらうと考へ出したのです。それから其駄菓子屋の店(みせ)に腰(こし)を掛(か)けて、上(かみ)さんに詳(くわ)しい事(こと)を教へてもらひました。
 それはある軍人の家族、といふよりも寧(むし)ろ遺族、の住(す)んでゐる家(いへ)でした。主人は何でも日清戦争の時(とき)か何(なに)かに死んだのだと上(かみ)さんが云ひました。一年ばかり前(まへ)までは、市ケ谷(や)の士官学校の傍(そば)とかに住(す)んでゐたのだが、廐(うまや)などがあつて、邸(やしき)が広過(ひろす)ぎるので、其所(そこ)を売(う)り払つて、此所(こヽ)へ引つ越(こ)して来(き)たけれども、無人(ぶにん)で淋(さむ)しくつて困るから相当の人(ひと)があつたら世話をして呉(く)れと頼(たの)まれてゐたのださうです。私は上(かみ)さんから、其家(いへ)には未亡人と一人娘(ひとりむすめ)と下女より外(ほか)にゐないのだといふ事(こと)を確(たし)かめました。私は閑静(かんせい)で至極好(よ)からうと心(こヽろ)の中(うち)に思ひました。けれどもそんな家族のうちに、私のやうなものが、突然行つた処(ところ)で、素性の知れない書生さんといふ名称のもとに、すぐ拒絶されはしまいかといふ掛念もありました。私は止(よ)さうかとも考へました。然し私は書生としてそんなに見苦(みぐる)しい服装(なり)はしてゐませんでした。それから大学の制帽を被(かぶ)つてゐました。あなたは笑ふでせう、大学の制帽が何(ど)うしたんだと云つて。けれども其頃(ころ)の大学生は今(いま)と違(ちが)つて、大分(だいぶ)世間(せけん)に信用のあつたものです。私は其場合此四角な帽子に一種の自信を見出した位です。さうして駄菓子屋(や)の上(かみ)さんに教はつた通り、紹介も何もなしに其軍人の遺族の家を訪(たづ)ねました。
 私は未亡人に会(あ)つて来(らい)意を告(つ)げました。未亡人は私の身元(みもと)やら学校やら専門やらに就(つ)いて色々(いろ\/)質問しました。さうして是(これ)なら大丈夫だといふ所(ところ)を何所(どこ)かに握(にぎ)つたのでせう、何時(いつ)でも引つ越して来(き)て差支ないといふ挨拶を即座に与へて呉れました。未亡人は正(たヾ)しい人(ひと)でした、又判然(はつきり)した人(ひと)でした。私は軍人の妻君といふものはみんな斯(こ)んなものかと思つて感服しました。感服もしたが、驚ろきもしました。此気性で何処(どこ)が淋(さむ)しいのだらうと疑(うたが)ひもしました。


心(こヽろ) 先生の遺書(六十五)

「私は早速其家(いへ)へ引(ひ)き移(うつ)りました。私は最初来(き)た時(とき)に未亡人と話をした座敷を借(か)りたのです。其所(そこ)は宅中(うちぢう)で一番好(い)い室(へや)でした。本郷辺に高等(かうとう)下宿といつた風(ふう)の家(いへ)がぽつ\/建(た)てられた時分(じぶん)の事(こと)ですから、私は書生として占領し得る最も好(い)い間(ま)の様子を心得てゐました。私の新(あた)らしく主人(しゆじん)となつた室(へや)は、それ等(ら)よりもずつと立派でした。移(うつ)つた当座は、学生としての私には過(す)ぎる位に思はれたのです。
 室(へや)の広(ひろ)さは八畳でした。床(とこ)の横(よこ)に違(ちが)い棚(だな)があつて、縁と反対の側(がは)には一間(いつけん)の押入(おしいれ)が付(つ)いてゐました。窓(まど)は一(ひと)つもなかつたのですが、其代り南向(みなみむき)の縁に明(あか)るい日(ひ)が能(よ)く差(さ)しました。
 私は移(うつ)つた日(ひ)に、其室(そのへや)の床(とこ)に活(い)けられた花と、其横(よこ)に立て懸(か)けられた琴(こと)を見(み)ました。何方(どつち)も私の気に入(い)りませんでした、私は詩(し)や書(しよ)や煎茶を嗜(たし)なむ父(ちヽ)の傍(そば)で育(そだ)つたので、唐(から)めいた趣味を小供のうちから有(も)つてゐました。その為(ため)でもありませうか、斯(か)ういふ艶(なま)めかしい装飾を何時(いつ)の間(ま)にか軽蔑する癖(くせ)が付(つ)いてゐたのです。
 私の父(ちヽ)が存生中にあつめた道具類は、例の伯父のために滅茶々々にされてしまつたのですが、夫(それ)でも多少は残(のこ)つてゐました。私は国を立つ時それを中学の旧友に預(あづ)かつて貰(もら)ひました。それから其中(そのうち)で面白さうなものを四五幅裸(はだか)にして行李の底(そこ)へ入れて来(き)ました。私は移(うつ)るや否や、それを取り出(だ)して床(とこ)へ懸(か)けて楽(たの)しむ積(つもり)でゐたのです。所(ところ)が今(いま)いつた琴と活花(いけばな)を見(み)たので、急に勇気がなくなつて仕舞(しま)ひました。後(あと)から聞(き)いて始(はじ)めて此花(このはな)が私に対(たい)する御馳走に活(い)けられたのだといふ事(こと)を知つた時(とき)、私は心(こヽろ)のうちで苦笑しました。尤も琴(こと)は前(まへ)から其所(そこ)にあつたのですから、是は置(お)き所(どころ)がないため、已を得ず其侭に立(た)て懸(か)けてあつたのでせう。
 斯(こ)んな話(はなし)をすると、自然其裏(そのうら)に若(わか)い女の影があなたの頭(あたま)を掠(かす)めて通(とほ)るでせう。移(うつ)つた私にも、移らない初(はじめ)からさういふ好奇心が既に動(うご)いてゐたのです。斯(か)うした邪気が予備的に私の自然を損(そこ)なつたためか、又は私がまだ人慣(ひとな)れなかつたためか、私は始(はじ)めて其所(そこ)の御嬢さんに会(あ)つた時(とき)、へどもどした挨拶をしました。其代り御嬢さんの方(はう)でも赤(あか)い顔(かほ)をしました。
 私はそれ迄未亡人の風采や態度(ど)から推して、此御嬢さんの凡てを想像してゐたのです。然しそ其想像は御嬢さんに取(と)つてあまり有利なものではありませんでした。軍人の妻君だからあヽなのだらう、其妻君の娘だから斯(か)うだらうと云つた順序で、私の推測は段々延(の)びて行きました。所が其推測が、御嬢さんの顔(かほ)を見(み)た瞬間に、悉く打ち消されました。さうして私の頭(あたま)の中(なか)へ今迄想像も及ばなかつた異性の匂(にほひ)が新(あた)らしく入(はい)つて来(き)ました。私はそれから床(とこ)の正面に活(い)けてある花(はな)が厭(いや)でなくなりました。同じ床(とこ)に立て懸けてある琴(こと)も邪魔にならなくなりました。
 其花(そのはな)は又規則正しく凋(しほ)れる頃(ころ)になると活(い)け更(か)へられるのです。琴(こと)も度々(たび\/)鍵(かぎ)の手(て)に折(を)れ曲(ま)がつた筋違(すぢかひ)の室(へや)に運(はこ)び去(さ)られるのです。私は自分の居間(ゐま)で机の上(うへ)に頬杖(ほヽづえ)を突(つ)きながら、其琴の音(ね)を聞(き)いてゐました。私には其琴(こと)が上手なのか下手(へた)なのか能く解(わか)らないのです。けれども余り込(こ)み入(い)つた手(て)を弾(ひ)かない所を見(み)ると、上手なのぢやなからうと考へました。まあ活花(いけばな)の程度位なものだらうと思ひました。花なら私にも好(よ)く分(わか)るのですが、御嬢さんは決して旨(うま)い方(はう)ではなかつたのです。
 それでも臆面なく色々(いろ\/)の花が私の床(とこ)を飾(かざ)つて呉れました。尤も活方(いけかた)は何時見(いつみ)ても同じ事(こと)でした。それから花瓶(へい)もついぞ変(かは)つた例(ためし)がありませんでした。然し片方(かたはう)の音楽になると花よりももつと変(へん)でした。ぽつん\/糸(いと)を鳴らす丈で、一向肉声(にくせい)を聞(き)かせないのです。唄(うた)はないのではありませんが、丸で内所話(ないしよばなし)でもするやうに小(ちい)さな声(こえ)しか出さないのです。しかも叱(しか)られると全(まつた)く出(で)なくなるのです。
 私は喜(よろこ)んで此下手(へた)な活花(いけばな)を眺(なが)めては、まづさうな琴の音(ね)に耳(みヽ)を傾(かた)むけました。


心(こヽろ) 先生の遺書(六十六)

 「私の気分は国(くに)を立(た)つ時(とき)既(すで)に厭世的になつてゐました。他(ひと)は頼(たよ)りにならないものだといふ観念が、其時骨(ほね)の中(なか)迄染(し)み込(こ)んでしまつたやうに思はれたのです。私は私の敵視する伯父だの叔母だの、その他の親戚だのを、恰も人類の代表者の如く考へ出しました。汽車へ乗(の)つてさへ隣(となり)のものヽ様子を、それとなく注意し始めました。たまに向(むかふ)から話(はな)し掛(か)けられでもすると、猶の事(こと)警戒を加へたくなりました。私の心(こヽろ)は沈鬱でした。鉛(なまり)を呑(の)んだやうに重苦(おもくる)しくなる事(こと)が時々(とき\゛/)ありました。それでゐて私の神経は、今云つた如くに鋭(する)どく尖(とが)つて仕舞つたのです。
 私が東京へ来(き)て下宿を出(で)やうとしたのも、是(これ)が大きな源因になつてゐるやうに思はれます。金(かね)に不自由がなければこそ、一戸を構(かま)へて見(み)る気にもなつたのだと云へばそれ迄ですが、元(もと)の通りの私ならば、たとひ懐中(ふところ)に余裕が出来ても、好(この)んでそんな面倒な真似(まね)はしなかつたでせう。
 私は小石川へ引き移(うつ)つてからも、当分此緊(きん)張した気分に寛(くつろ)ぎを与へる事(こと)が出来(でき)ませんでした。私は自分で自分が耻(は)づかしい程、きよと\/周囲を見廻してゐました。不思議にもよく働(はた)らくのは頭(あたま)と眼(め)だけで、口(くち)の方(はう)はそれと反対に、段々(だん\/)動(うご)かなくなつて来(き)ました。私は家(うち)のものヽ様子を猫(ねこ)のやうによく観察しながら、黙(だま)つて机の前に坐(すは)つてゐました。時々(とき\゛/)は彼等(かれら)に対(たい)して気の毒だと思ふ程、私は油断のない注意を彼等の上(うへ)に注(そヽ)いでゐたのです。おれは物(もの)を偸(ぬす)まない巾着切(きんちやくきり)見(み)たやうなものだ、私は斯(か)う考へて、自分が厭(いや)になる事(こと)さへあつたのです。
 貴方(あなた)は定めて変に思ふでせう。其(その)私が其所(そこ)の御嬢さんを何(ど)うして好(す)く余裕を有つてゐるか。其御嬢さんの下手(へた)な活花(いけばな)を、何(ど)うして嬉(うれ)しがつて眺める余裕があるか。同じく下手(へた)な其人の琴(こと)を何(ど)うして喜(よろ)こんで聞(き)く余裕があるか。さう質問された時(とき)、私はたヾ両方とも事実(じじつ)であつたのだから、事実(じじつ)として貴方(あなた)に教へて上(あ)げるといふより外(ほか)に仕方(しかた)がないのです。解釈は頭(あたま)のある貴方(あなた)に任(まか)せるとして、私はたヾ一言(いちごん)付け足(た)して置(お)きませう。私は金(かね)に対(たい)して人類を疑(うた)ぐつたけれども、愛(あい)に対しては、まだ人類を疑(うたが)はなかつたのです。だから他(ひと)から見(み)ると変なものでも、また自分で考へて見て、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平気で両立してゐたのです。
 私は未亡人の事(こと)を常に奥さんと云つてゐましたから、是から未亡人と呼ばずに奥さんと云ひます。奥さんは私を静(しづ)かな人(ひと)、大人(おとな)しい男と評しました。それから勉強家だとも褒(ほ)めて呉れました。けれども私の不安な眼(め)つきや、きよと\/した様子については、何事(なにごと)も口(くち)へ出(だ)しませんでした。気が付(つ)かなかつたのか、遠慮してゐたのか、どつちだかよく解(わか)りませんが、何(なに)しろ其所(そこ)には丸(まる)で注意を払(はら)つてゐないらしく見えました。それのみならず、ある場合(ばあい)に私を鷹揚な方(かた)だと云つて、さも尊敬したらしい口(くち)の利(き)き方(かた)をした事(こと)があります。其時(とき)正直な私は少し顔を赤(あか)らめて、向ふの言葉を否定しました。すると奥さんは「あなたは自分で気が付(つ)かないから、左右(さう)御仰(おつしや)るんです」と真面目(まじめ)に説明して呉(く)れました。奥さんは始(はじ)め私のやうな書生を宅(うち)へ置(お)く積ではなかつたらしいのです。何処(どこ)かの役所へ勤(つと)める人(ひと)か何(なに)かに坐敷(ざしき)を貸(か)す料簡で、近所のものに周旋を頼(たの)んでゐたらしいのです。俸給が豊(ゆたか)でなくつて、已を得ず素人屋(しろうと)に下宿する位の人(ひと)だからといふ考へが、それで前(まへ)かたから奥(おく)さんの頭(あたま)の何処(どこ)かに這入(はい)つてゐたのでせう。奥(おく)さんは自分の胸(むね)に描(ゑが)いた其想像の御客(きやく)と私とを比較して、こつちの方(はう)を鷹揚だと云つて褒(ほ)めるのです。成程そんな切(き)り詰(つ)めた生活をする人(ひと)に比(くら)べたら、私は金銭(きんせん)にかけて、鷹揚だつたかも知れません。然しそれは気性の問題ではありませんから、私の内生活に取(と)つて殆んど関係のないのと一般でした。奥さんはまた女丈(だけ)にそれを私の全体に推し広(ひろ)げて、同じ言葉を応用しやうと力(つと)めるのです。


心(こヽろ) 先生の遺書(六十七)

 「奥さんの此(この)態度が自然私の気分に影響して来(き)ました。しばらくするうちに、私の眼(め)はもと程(ほど)きよろ付(つ)かなくなりました。自分の心が自分の坐(すは)つてゐる所に、ちやんと落付(おちつ)いてゐるやうな気にもなれました。要するに奥さん始(はじ)め家(うち)のものが、僻(ひが)んだ私の眼(め)や疑(うたが)ひ深(ぶか)い私の様子に、てんから取(と)り合(あ)はなかつたのが、私に大きな幸福を与へたのでせう。私の神経は相手から照(て)り返(かへ)して来(く)る反射のないために段々(だん\゛/)静(しづ)まりました。
 奥さんは心得のある人(ひと)でしたから、わざと私をそんな風(ふう)に取り扱つて呉れたものとも思はれますし、又自分で公言する如く、実際私を鷹揚だと観察してゐたのかも知れません。私のこせつき方(かた)は頭(あたま)の中(なか)の現象で、それ程外(そと)へ出(で)なかつたやうにも考へられますから、或は奥さんの方(はう)で胡魔化されてゐたのかも解(わか)りません。
 私の心が静(しづ)まると共(とも)に、私は段々家族のものと接近して来(き)ました。奥さんとも御嬢さんとも笑談(だん)を云ふやうになりました。茶を入(い)れたからと云つて向(むか)ふの室(へや)へ呼(よ)ばれる日(ひ)もありました。また私の方(はう)で菓子を買(か)つて来(き)て、二人(ふたり)を此方(こつち)へ招(まね)いたりする晩(ばん)もありました。私は急に交際の区域が殖(ふ)えたやうに感じました。それがために大切な勉強の時間(じかん)を潰(つぶ)される事(こと)も何度(なんど)となくありました。不思議にも、その妨害が私には一向邪魔にならなかつたのです。奥さんはもとより閑人(ひまじん)でした。御嬢さんは学校へ行く上(うへ)に、花(はな)だの琴だのを習(なら)つてゐるんだから、定(さだ)めて忙(いそ)がしからうと思ふと、それがまた案外なもので、いくらでも時間に余裕を有(も)つてゐるやうに見えました。それで三人は顔(かほ)さへ見ると一所に集(あつ)まつて、世間話(ばなし)をしながら遊(あそ)んだのです。
 私を呼びに来(く)るのは、大抵御嬢さんでした。御嬢さんは縁側を直角に曲(まが)つて、私の室の前(まへ)に立つ事(こと)もありますし、茶の間(ま)を抜(ぬ)けて、次(つぎ)の室(へや)の襖(ふすま)の影(かげ)から姿(すがた)を見(み)せる事(こと)もありました。御嬢さんは、其所(そこ)へ来(き)て一寸(ちよつと)留(と)まります。それから屹度私の名を呼んで、「御勉強?」と聞(き)きます。私は大抵六づかしい書物を机の前(まへ)に開(あ)けて、それを見詰めていましたから、傍(はた)で見(み)たらさぞ勉強家のやうに見(み)えたのでせう。然し実際を云ふと、夫程熱心に書物を研究してはゐなかつたのです。頁(ページ)の上(うへ)に眼(め)は着(つ)けてゐながら、御嬢さんの呼(よ)びに来(く)るのを待(ま)つてゐる位なものでした。待(ま)つてゐて来(こ)ないと、仕方がないから私の方(はう)で立(た)ち上(あが)るのです。さうして向(むか)うの室(へや)の前(まへ)へ行(い)つて、此方(こつち)から「御勉強ですか」と聞(き)くのです。
 御嬢さんの部屋は茶の間(ま)と続(つヾ)いた六畳でした。奥さんはその茶の間(ま)にゐる事(こと)もあるし、又御嬢さんの部屋にゐる事(こと)もありました。つまり此二(ふた)つの部屋は仕切(しきり)があつても、ないと同じ事(こと)で、親子(おやこ)二人(ふたり)が往(い)つたり来(き)たりして、どつち付(つ)かずに占領してゐたのです。私が外(そと)から声を掛(か)けると、「御這入(おはいん)なさい」と答へるのは屹度奥さんでした。御嬢さんは其所(そこ)にゐても滅多に返事(へんじ)をした事(こと)がありませんでした。
 時(とき)たま御嬢さん一人(ひとり)で、用があつて私の室(へや)へ這入(はい)つた序(ついで)に、其所(そこ)に坐(すは)つて話(はな)し込(こ)むやうな場合も其内(そのうち)に出(で)て来(き)ました。さういふ時(とき)には、私の心が妙に不安に冒されて来(く)るのです。さうして若い女とたヾ差向(さしむか)ひで坐(すは)つてゐるのが不安なのだとばかりは思へませんでした。私は何だかそわ\/し出(だ)すのです。自分で自分を裏切(うらぎ)るやうな不自然な態度(たいど)が私を苦(くる)しめるのです。然し相手の方(はう)は却つて平気でした。これが琴(こと)を浚(さら)ふのに声(こえ)さへ碌(ろく)に出(だ)せなかつたあの女かしらと疑(うた)が[は]れる位、耻(は)づかしがらないのです。あまり長(なが)くなるので、茶の間(ま)から母(はヽ)に呼ばれても、「はい」と返事(じ)をする丈で、容易に腰(こし)を上(あ)げない事(こと)さへありました。それでゐて御嬢さんは決して子供ではなかつたのです。私の眼(め)には能(よ)くそれが解(わか)つてゐました。能(よ)く解(わか)るやうに振舞つて見せる痕迹さへ明らかでした。


心(こヽろ) 先生の遺書(六十八)

 「私は御嬢さんの立(た)つたあとで、ほつと一息(ひといき)するのです。夫(それ)と同時に、物足(ものた)りないやうな済(す)まないやうな気持(きもち)になるのです。私は女(おんな)らしかつたのかも知れません。今(いま)の青年の貴方(あなた)がたから見たら猶左右(さう)見えるでせう。然し其頃(そのころ)の私達は大抵そんなものだつたのです。
 奥さんは滅多に外出した事(こと)がありませんでした。たまに宅(うち)を留守にする時(とき)でも、御嬢さんと私を二人(ふたり)ぎり残(のこ)して行くやうな事(こと)はなかつたのです。それがまた偶然なのか、故意なのか、私には解(わか)らないのです。私の口(くち)からいふのは変ですが、奥さんの様子を能(よ)く観察してゐると、何だか自分の娘と私とを接近させたがつてゐるらしくも見えるのです。それでゐて、或(ある)場合には、私に対して暗(あん)に警戒する所もあるやうなのですから、始めて斯(こ)んな場合に出会(であ)つた私は、時々(ときどき)心持をわるくしました。
 私は奥さんの態度を何方(どつち)かに片付(かたづ)て貰(もら)ひたかつたのです。頭(あたま)の働(はたら)きから云(い)へば、それが明らかな矛盾に違(ちが)ひなかつたからです。然し伯父に欺(あざ)むかれた記憶のまだ新(あた)らしい私は、もう一歩踏み込(こ)んだ疑(うたが)ひを挾(さしは)さまずには居られませんでした。私は奥さんの此態度の何方(どつち)かが本当で、何方(どつち)かヾ偽(いつはり)だらうと推定しました。さうして判断に迷(まよ)ひました。たヾ判断に迷ふばかりでなく、何(なん)でそんな妙な事(こと)をするか其意味が私には呑み込(こ)めなかつたのです。理由(わけ)を考へ出(だ)さうとしても、考(かんが)へ出せない私は、罪(つみ)を女(をんな)といふ一字に塗(なす)り付(つ)けて我慢した事(こと)もありました。必竟女(をんな)だからあヽなのだ、女といふものは何(ど)うせ愚(ぐ)なものだ。私の考は行き詰(つま)れば何時(いつ)でも此所(こヽ)へ落(お)ちて来(き)ました。
 それ程女を見縊(みくび)つてゐた私が、また何(ど)うしても御嬢さんを見縊(みくび)る事(こと)が出来なかつたのです。私の理窟は其人(ひと)の前(まへ)に全く用を為(な)さない程動(うご)きませんでした。私は其人に対(たい)して、殆(ほと)んど信仰に近(ちか)い愛を有(も)つてゐたのです。私が宗教だけに用ひる此の言葉を、若い女に応用するのを見て、貴方(あなた)は変(へん)に思ふかも知れませんが、私は今(いま)でも固(かた)く信じてゐるのです。本当の愛は宗教心とさう違(ちが)つたものでないといふ事(こと)を固(かた)く信じてゐるのです。私は御嬢さんの顔(かほ)を見(み)るたびに、自分が美(うつ)くしくなるやうな心持(こヽろもち)がしました。御嬢さんの事(こと)を考へると、気高い気分がすぐ自分に乗(の)り移(うつ)つて来(く)るやうに思ひました。もし愛(あい)といふ不可思議なものに両端(はじ)があつて、其高(たか)い端(はじ)には神聖(しんせい)な感(かん)じが働(はたら)いて、低(ひく)い端(はじ)には性慾が動(うご)いてゐるとすれば、私の愛はたしかに其高(たか)い極点を捕(つら)まへたものです。私はもとより人間として肉(にく)を離れる事(こと)の出来ない身体(からだ)でした。けれども御嬢さんを見る私の眼(め)や、御嬢さんを考へる私の心(こヽろ)は、全く肉の臭(にほひ)を帯びてゐませんでした。
 私は母(はヽ)に対して反感(はんかん)を抱(いだ)くと共に、子に対して恋愛の度(ど)を増(ま)して行(い)つたのですから、三人(さんにん)の関係は、下宿した始(はじ)めよりは段々複雑になつて来(き)ました。尤も其変化は殆んど内面的で外(そと)へは現(あらは)れて来(こ)なかつたのです。そのうち私はあるひよつとした機会から、今迄奥さんを誤解してゐたのではなからうかといふ気になりました。奥さんの私に対する矛盾した態度が、どつちも偽(いつは)りではないのだらうと考へ直(なほ)して来たのです。其上(そのうへ)、それが互違(たがひちがひ)に奥さんの心(こヽろ)を支配するのでなくつて、何時(いつ)でも両方が同時に奥さんの胸に存在してゐるのだと思ふやうになつたのです。つまり奥さんが出来るだけ御嬢さんを私に接近させやうとしてゐながら、同時に私に警戒を加へてゐるのは矛盾の様だけれども、其警戒を加へる時に、片方(かたはう)の態度(ど)を忘れるのでも翻(ひるが)へすのでも何(なん)でもなく、矢張(やはり)依然として二人(ふたり)を接近させたがつてゐたのだと観察したのです。たヾ自分が正当と認める程度以上に、二人(ふたり)が密着(みつちやく)するのを忌(い)むのだと解釈したのです。御嬢さんに対して、肉(にく)の方(はう)面から近(ちか)づく念の萌(きざ)さなかつた私は、其時入(い)らぬ心配だと思ひました。しかし奥さんを悪(わる)く思ふ気 はそれから無(な)くなりました。


心(こヽろ) 先生の遺書(六十九)

 「私は奥さんの態度を色々(いろ\/)綜合して見て、私が此所(こヽ)の家(うち)で充分信用されてゐる事(こと)を確(たしか)めました。しかも其信用は初対面の時(とき)からあつたのだといふ証拠さへ発見しました。他(ひと)を疑(うた)ぐり始めた私の胸(むね)には、此発見が少し奇異な位に響(ひヾ)いたのです。私は男に比(くら)べると女の方がそれ丈直覚に富(と)んでゐるのだらうと思ひました。同時に、女が男のために、欺(だ)まされるのも此所(こヽ)にあるのではなからうかと思ひました。奥さんを左右(さう)観察する私が、御嬢さんに対して同じやうな直覚を強く働(はた)らかせてゐたのだから、今考へると可笑しいのです。私は他(ひと)を信じないと心(こヽろ)に誓ひながら、絶対に御嬢さんを信じてゐたのですから。それでゐて、私を信じてゐる奥さんを奇異に思つたのですから。
 私は郷里の事(こと)に就(つ)いて余り多くを語(かた)らなかつたのです。ことに今度の事件(じけん)に就いては何(なん)にも云はなかつたのです。私はそれを念頭に浮(うか)べてさへ既に一種の不愉快を感じました。私は成るべく奥さんの方(はう)の話(はなし)だけを聞(き)かうと力(つと)めました。所がそれでは向ふが承知しません。何(なに)かに付(つ)けて、私の国元(くにもと)の事情を知(し)りたがるのです。私はとう\/何(なに)もかも話(はな)してしまひました。私は二度(ど)と国(くに)へは帰らない。帰つても何(なん)にもない、あるのはたヾ父(ちヽ)と母(はヽ)の墓(はか)ばかりだと告(つ)げた時(とき)、奥さんは大変感動したらしい様子を見せました。御嬢さんは泣(な)きました。私は話(はな)して好(い)い事(こと)をしたと思ひました。私は嬉(うれ)しかつたのです。
 私の凡(すべ)てを聞(き)いた奥さんは、果(はた)して自分の直覚が的中(てきちう)したと云はないばかりの顔をし出(だ)しました。それからは私を自分の親戚(みより)に当(あた)る若いものか何(なに)かを取扱ふやうに待遇するのです。私は腹も立ちませんでした。寧ろ愉快に感じた位です。所がそのうちに私の猜疑心が又起つて来ました。
 私が奥さんを疑(うた)ぐり始めたのは、極些細な事(こと)からでした。然し其些細な事(こと)を重(かさ)ねて行くうちに、疑惑は段々(だん\/)と根(ね)を張つて来(き)ます。私は何(ど)ういふ拍子か不図(ふと)奥(おく)さんが、伯父と同じやうな意味で、御嬢さんを私に接近させやうと力(つと)めるのではないかと考へ出(だ)したのです。すると今迄親切に見えた人(ひと)が、急に狡猾な策略家として私の眼(め)に映じて来(き)たのです。私は苦(にが)々しい唇(くちびる)を噛(か)みました。
 奥さんは最初から、無人(ぶにん)で淋(さむ)しいから、客(きやく)を置いて世話をするのだと公言してゐました。私も夫(それ)を嘘(うそ)とは思ひませんでした。懇意になつて色々(いろ\/)打(う)ち明(あ)け話(ばなし)を聞(き)いた後(あと)でも、其所(そこ)に間違(まちがひ)はなかつたやうに思はれます。然し一般の経済状態(たい)は大(たい)して豊(ゆたか)だと云ふ程ではありませんでした。利害問題から考へて見て、私と特殊の関係をつけるのは、先方に取(と)つて決して損(そん)ではなかつたのです。
 私は又警戒を加へました。けれども娘に対(たい)して前(まへ)云つた位の強い愛をもつてゐる私が、其母に対(たい)していくら警戒を加へたつて何(なん)になるでせう。私は一人(ひとり)で自分を嘲笑しました。馬鹿だなといつて、自分を罵(のヽし)つた事(こと)もあります。然しそれだけの矛盾ならいくら馬鹿でも私は大(たい)した苦痛も感ぜずに済(す)んだのです。私の煩悶は、奥さんと同(おな)じやうに御嬢さんも策略家ではなからうかといふ疑問に会(あ)つて始めて起るのです。二人(ふたり)が私の背後(はいご)で打(う)ち合(あは)せをした上、万事(ばんじ)を遣(や)つてゐるのだらうと思ふと、私は急に苦(くる)しくつて堪(たま)らなくなるのです。不愉快なのではありません、絶体絶命のやうな行き詰(つま)つた心持(こヽろもち)になるのです。それでゐて私は、一方に御嬢さんを固く信じて疑はなかつたのです。だから私は信念と迷(まよ)ひの途中に立つて、少しも動(うご)く事(こと)が出来なくなつて仕舞ひました。私には何方(どつち)も想像であり、又何方(どつち)も真実であつたのです。


心(こヽろ) 先生の遺書(七十)

 「私は相変らず学校へ出席してゐました。然し教壇に立つ人(ひと)の講義が、遠くの方(はう)で聞(き)こえるやうな心持がしました。勉強も其通りでした。眼(め)の中(なか)へ這入(はい)る活字は心(こヽろ)の底(そこ)迄浸(し)み渡(わた)らないうちに烟(けむ)の如く消(き)えて行くのです。私は其上(そのうへ)無口(むくち)になりました。それを二三の友達が誤解して、冥想に耽(ふけ)つてでもゐるかのやうに、他の友達に伝へました。私は此誤解を解(と)かうとはしませんでした。都合の好(い)い仮面(かめん)を人(ひと)が貸(か)してく呉(く)れたのを、却つて仕合(しあは)せとして喜(よろこ)びました。それでも時々(とき\゛/)は気が済(す)まなかつたのでせう、発作(はつさ)的に焦燥(はしや)ぎ廻(まは)つて彼等を驚(おど)ろかした事(こと)もあります。
 私の宿(やど)は人出入(ひとでいり)の少(すく)ない家(うち)でした。親類も多くはないやうでした。御嬢さんの学校友達がときたま遊(あそ)びに来(く)る事(こと)はありましたが、極めて小(ちい)さな声で、居(ゐ)るのだか居ないのだか分(わか)らないやうな話(はなし)をして帰(かへ)つてしまひました。それが私に対(たい)する遠慮からだとは、如何(いか)な私にも気が付(つ)きませんでした。私の所(ところ)へ訪(たづ)ねて来(く)るものは、大(たい)した乱暴者(もの)でもありませんでしたけれども、宅(うち)の人(ひと)に気兼(きがね)をする程(ほど)な男は一人(ひとり)もなかつたのですから。そんな所(ところ)になると、下宿人(にん)の私は主人(あるじ)のやうなもので、肝心(かんじん)の御嬢さんが却つて食客(ゐそうろう)の位地にゐたと同じ事(こと)です。
 然しこれはたヾ思ひ出(だ)した序(ついで)に書(か)いた丈で、実は何(ど)うでも構(かま)はない点(てん)です。たヾ其所(そこ)に何(ど)うでも可(よ)くない事(こと)が一(ひと)つあつたのです。茶(ちや)の間(ま)か、さもなければ御嬢さんの室(へや)で、突然(とつぜん)男の声が聞(き)こえるのです。其声が又私の客と違(ちが)つて、頗(すこ)ぶる低(ひく)いのです。だから何(なに)を話(はな)してゐるのか丸で分(わか)らないのです。さうして分(わか)らなければ分(わか)らない程、私の神経に一種の昂奮を与へるのです。私は坐(すは)つてゐて変にいら\/し出(だ)します。私はあれは親類なのだらうか、それとも唯(たヾ)の知(し)り合(あ)ひなのだらうかとまづ考へて見るのです。夫(それ)から若(わか)い男だらうか年輩(ぱい)の人(ひと)だらうかと思案して見(み)るのです。坐(すは)つてゐてそんな事(こと)の知れやう筈(はづ)がありません。さうかと云つて、起(た)つて行(い)つて障子を開(あ)けて見(み)る訳には猶行きません。私の神経は震(ふる)へるといふよりも、大きな波動(はどう)を打つて私を苦(くる)しめます。私は客(きやく)の帰(かへ)つた後(あと)で、屹度忘れずに其人(そのひと)の名(な)を聞(き)きました。御嬢さんや奥さんの返事(へんじ)は、又極めて簡単(たん)でした。私は物足(ものた)りない顔(かほ)を二人(ふたり)に見(み)せながら、物足(ものた)りる迄(まで)追窮(ついきう)する勇気を有(も)つてゐなかつたのです。権利は無論有つてゐなかつたのでせう。私は自分の品格を重んじなければならないといふ教育から来(き)た自尊心と、現(げん)に其自尊心を裏切(うらぎり)してゐる物欲(ものほ)しさうな顔付(かほつき)とを同時に彼等の前(まへ)に示すのです。彼等は笑ひました。それが嘲笑の意味でなくつて、好意から来(き)たものか、又好意らしく見せる積(つもり)なのか、私は即坐に解釈の余地を見出(みいだ)し得ない程落付(おちつき)を失(うしな)つてしまふのです。さうして事(こと)が済(す)んだ後(あと)で、いつまでも、馬鹿にされたのだ、馬鹿にされたんぢやなからうかと、何遍も心(こヽろ)のうちで繰(く)り返(かへ)すのです。
 私は自由な身体(からだ)でした。たとひ学校を中途で已(や)めやうが、又何処(どこ)へ行(い)つて何(ど)う暮(く)らさうが、或は何処(どこ)の何者(なにもの)と結婚しやうが、誰(だれ)とも相談する必要のない位地に立(た)つてゐました。私は思ひ切(き)つて奥(おく)さんに御嬢さんを貰(もら)ひ受(う)ける話(はなし)をして見やうかといふ決心した事(こと)がそれ迄に何度(なんど)となくありました。けれども其度毎(そのたびごと)に私は躊躇(ちうちよ)して、口(くち)へはとう\/出(だ)さずに仕舞(しま)つたのです。断(ことわ)られるのが恐(おそ)ろしいからではありません。もし断(ことわ)られたら、私の運命が何(ど)う変化するか分(わか)りませんけれども、其代り今迄とは方角の違(ちが)つた場所に立つて、新らしい世の中(なか)を見渡す便宜も生じて来(く)るのですから、其位(くらゐ)の勇気は出(だ)せば出(だ)せたのです。然し私は誘(おび)き寄(よ)せられるのが厭(いや)でした。他(ひと)の手(て)に乗(の)るのは何(なに)よりも業腹(ごうはら)でした。叔父(をぢ)に欺(だ)まされた私は、是(これ)から先(さき)何(ど)んな事(こと)があつても、人(ひと)には欺(だ)まされまいと決心したのです。