心(こヽろ) 先生の遺書(七十一)

 「私が書物ばかり買ふのを見て、奥さんは少し着物(きもの)を拵(こしら)えろと云ひました。私は実際田舎で織つた木綿(もめん)ものしか有(も)つてゐなかつたのです。其頃の学生は絹(いと)の入(はい)つた着物(きもの)を肌(はだ)に着(つ)けませんでした。私の友達に横浜の商人(あきんど)か何(なに)かで、宅(うち)は中々(なか\/)派出(はで)に暮(くら)してゐるものがありましたが、其所(そこ)へある時(とき)羽二重の胴着(どうぎ)が配達で届(とヾ)いた事(こと)があります。すると皆(みん)ながそれを見て笑ひました。其男は耻(はづ)かしつて色々(いろ\/)弁解(べんかい)しましたが、折角の胴着(ぎ)を行李の底(そこ)へ放(ほう)り込(こ)んで利用しないのです。それを又大勢(おほぜい)が寄(よ)つてたかつて、わざと着(き)せました。すると運悪く其胴着(ぎ)に蝨(しらみ)がたかりました。友達は丁度幸ひとでも思つたのでせう、評判の胴着(どうぎ)をぐる\/と丸(まる)めて、散歩に出(で)た序(ついで)に、根津(ねづ)の大きな泥溝(どぶ)の中(なか)へ棄(す)ててしまひました。其時一所に歩いてゐた私は、橋(はし)の上(うへ)に立(た)つて笑ひながら友達の所作を眺(なが)めてゐましたが、私の胸(むね)の何処(どこ)にも勿体(もつたい)ないといふ気(き)は少(すこ)しも起りませんでした。
 其頃(ころ)から見(み)ると私も大分大人(おとな)になつてゐました。けれども未(ま)だ自分で余所行(よそゆき)の着物(きもの)を拵(こしら)えるといふ程の分別は出(で)なかつたのです。私は卒業して髯(ひげ)を生(は)やす時代が来(こ)なければ、服装の心配などはするに及ばないものだといふ変(へん)な考を有(も)つてゐたのです。それで奥さんに書物は要(い)るが着物(きもの)は要(い)らないと云ひました。奥さんは私の買(か)ふ書物の分量を知つてゐました。買(か)つた本(ほん)をみんな読むのかと聞(き)くのです。私の買(か)ふものヽ中(うち)には字引もありますが、当然眼(め)を通すべき筈でありながら、頁(ページ)さへ切(き)つてないのも多少あつたのですから、私は返事に窮しました。私は何(ど)うせ要(い)らないものを買(か)ふなら、書物でも衣服でも同じだといふ事(こと)に気が付(つ)きました。其上(うへ)私は色々(いろ\/)世話になるといふ口実(こうじつ)の下(もと)に、御嬢さんの気に入(い)るやうな帯か反物を買つて遣(や)りたかつたのです。それで万事を奥さんに依頼しました。
 奥さんは自分一人(ひとり)で行くとは云ひません。私にも一所に来(こ)いと命令するのです。御嬢さんも行かなくてはいけないと云ふのです。今(いま)と違(ちが)つた空気の中(なか)に育てられた私共は、学生の身分として、あまり若(わかい)い女などと一所に歩(ある)き廻(まは)る習慣を有(も)つてゐなかつたものです。其頃の私は今よりもまだ習慣の奴隷でしたから、多少躊躇しましたが、思ひ切つて出掛(でか)けました。
 御嬢さんは大層着飾(きかざ)つてゐました。地体(ぢたい)が色(いろ)の白(しろ)い癖(くせ)に、白粉(おしろい)を豊富に塗(ぬ)つたものだから猶目立(めだ)ちます。往来の人(ひと)がじろ\/見(み)て行くのです。さうして御嬢さんを見(み)たものは屹度其視線をひるがへして、私の顔(かほ)を見るのだから、変(へん)なものでした。
 三人は日本橋へ行つて買ひたいものを買ひました。買ふ間(あひだ)にも色々(いろ\/)気(き)が変るので、思つたより暇(ひま)がかヽりました。奥さんはわざ\/私の名(な)を呼んで何(ど)うだらうと相談をするのです。時々(とき\゛/)反物(たんもの)を御嬢さんの肩(かた)から胸(むね)へ竪(たて)に宛(あ)てヽ置いて、私に二三歩遠退(とほの)いて見て呉(く)れろといふのです。私は其度(たび)ごとに、それは駄目だとか、それは能(よ)く似合(にあ)ふとか、兎に角一人前(いちにんまへ)の口(くち)を聞(き)きました。
 斯(こ)んな事(こと)で時間(じかん)が掛(かヽ)つて帰りは夕飯(ゆふめし)の時刻になりました。奥(おく)さんは私に対する御礼に何(なに)か御馳走すると云つて、木原店(きはらだな)といふ寄席(よせ)のある狭(せま)い横丁へ私を連(つ)れ込みました。横丁も狭(せま)いが、飯(めし)を食(く)はせる家(うち)も狭(せま)いものでした。此辺(へん)の地理を一向心得ない私は、奥さんの知識に驚ろいた位です。
 我々は夜(よ)に入(い)つて家(うち)へ帰(かへ)りました。其翌日(あくるひ)は日曜でしたから、私は終日(しうじつ)室(へや)の中(うち)に閉(と)ぢ籠(こも)つてゐました。月曜になつて、学校へ出(で)ると、私は朝(あさ)つぱらさう\/級友の一人(ひとり)から調戯(からか)はれました。何時(いつ)妻(さい)を迎へたのかと云つてわざとらしく聞(き)かれるのです。それから私の細君は非常に美人だといつて賞(ほ)めるのです。私は三人連(づれ)で日本橋へ出掛(でか)けた所を、其男に何処(どこ)かで見(み)られたものと見えます。


心(こヽろ) 先生の遺書(七十二)

 「私は宅(うち)へ帰(かへ)つて奥さんと御嬢さんに其話(はなし)をしました。奥さんは笑ひました。然し定めて迷惑だらうと云つて私の顔(かほ)を見(み)ました。私は其時腹(はら)のなかで、男は斯(こ)んな風(ふう)にして、女(をんな)から気を引いて見られるのかと思ひました。奥さんの眼(め)は充分私にさう思はせる丈の意味を有(も)つてゐたのです。私は其時(とき)自分の考へてゐる通りを直截に打ち明(あ)けて仕舞へば好(よ)かつたかも知れません。然し私にはもう狐疑といふ薩張(さつぱ)りしない塊(かたまり)がこびり付(つ)いてゐました。私は打ち明けやうとして、ひよいと留(と)まりました。さうして話(はなし)の角度を故意に少(すこ)し外(そ)らしました。
 私は肝心の自分といふものを問題の中(なか)から引き抜(ぬ)いて仕舞(しま)ひました。さうして御嬢さんの結婚について、奥さんの意中(ちう)を探(さぐ)つたのです。奥さんは二三(にさん)さういふ話(はなし)のないでもないやうな事(こと)を、明らかに私に告(つ)げました。然しまだ学校へ出てゐる位で年(とし)が若(わか)いから、此方(こちら)では左程急(いそ)がないのだと説明しました。奥さんは口(くち)へは出さないけれども、御嬢さんの容色に大分(だいぶん)重(おも)きを置いてゐるらしく見えました。極(き)めやうと思へば何時(いつ)でも極(き)められるんだからといふやうな事(こと)さへ口外しました。それから御嬢さんより外(ほか)に子供がないのも、容易に手離(てばな)したがらない源因になつてゐました。嫁(よめ)に遣(や)るか、聟(むこ)を取(と)るか、それにさへ迷つてゐるのではなからうかと思はれる所もありました。
 話(はな)してゐるうちに、私は色々(いろ\/)の知識を奥さんから得たやうな気がしました。然しそれがために、私は機会を逸(いつ)したと同様の結果に陥いつてしまひました。私は自分に就(つ)いて、ついに一言(いちごん)も口(くち)を開(ひら)く事(こと)が出来(でき)ませんでした。私は好い加減な所(ところ)で話(はなし)を切(き)り上(あ)げて、自分の室(へや)へ帰(かへ)らうとしました。  さつき迄傍(そば)にゐて、あんまりだわとか何とか云つて笑つた御嬢さんは、何時(いつ)の間(ま)にか向(むか)ふの隅(すみ)に行つて、脊中(せなか)を此方(こつち)へ向(む)けてゐました。私は立(た)たうとして振(ふ)り返(かへ)つた時(とき)、其後姿(うしろすがた)を見たのです。後姿(うしろすがた)だけ人間(にんげん)の心(こヽろ)が読(よ)める筈はありません。御嬢さんが此問題について何(ど)う考へてゐるか、私には見当が付(つ)きませんでした。御嬢さんは戸棚(とだな)を前(まへ)にして坐(すは)つてゐました。其戸棚(とだな)の一尺ばかり開(あ)いてゐる隙間(すきま)から、御嬢さんは何(なに)か引き出(だ)して膝(ひざ)の上(うへ)へ置(お)いて眺(なが)めてゐるらしかつたのです。私の眼(め)は其隙間(すきま)の端(はじ)に、昨日(きのふ)買(か)つた反物(たんもの)の端(はじ)を見付(みつ)け出(だ)しました。私の着物も御嬢さんのも同じ戸棚(とだな)の隅(すみ)に重(かさ)ねてあつたのです。
 私が何(なん)とも云はずに席(せき)を立(た)ち掛(か)けると、奥さんは急に改たまつた調子になつて、私に何(ど)う思ふかと聞(き)くのです。その聞(き)き方(かた)は何(なに)をどう思ふのかと反問しなければ解(わか)らない程不意でした。それが御嬢さんを早く片付(かたづ)けた方(はう)が得策だらうかといふ意味だと判然(はつきり)した時(とき)、私はなるべく緩(ゆつ)くらな方(はう)が可(い)いだらうと答へました。奥さんは自分もさう思ふと云ひました。
 奥さんと御嬢さんと私の関係が斯(か)うなつてゐる所へ、もう一人(ひとり)男が入(い)り込(こ)まなければならない事(こと)になりました。其男が此(この)家庭の一員となつた結果は、私の運命に非常な変化を来(きた)してゐます。もし其男が私の生活の行路を横切(よこぎ)らなかつたならば、恐らくかういふ長いものを貴方(あなた)に書き残す必要も起らなかつたでせう。私は手もなく、魔(ま)の通る前(まへ)に立(た)つて、其瞬間の影(かげ)に一生を薄暗(うすぐら)くされて気が付(つ)かずにゐたのと同じ事(こと)です。自白すると、私は自分で其男を宅(うち)へ引張(ひつぱ)つて来(き)たのです。無論奥さんの許諾も必要ですから、私は最初何(なに)もかも隠さず打ち明けて、奥さんに頼(たの)んだのです。所が奥さんは止(よ)せと云ひました。私には連(つ)れて来(こ)なければ済(す)まない事情が充分あるのに、止(よ)せといふ奥さんの方(はう)には、筋(すぢ)の立つた理窟は丸(まる)でなかつたのです。だから私は私の善(い)いと思ふ所を強ひて断行してしまひました。


心(こヽろ) 先生の遺書(七十三)

 「私は其友達の名(な)を此所にKと呼んで置(お)きます。私はこのKと小供の時(とき)からの仲好(なかよし)でした。小供の時(とき)からと云へば断(ことわ)らないでも解(わか)つてゐるでせう、二人(ふたり)には同郷の縁故があつたのです。Kは真宗の坊さんの子でした。尤も長男ではありません、次男でした。それである医者の所(ところ)へ養子に遣(や)られたのです。私の生れた地方は大変本願寺派の勢力(せいりょく)の強い所(ところ)でしたから、真宗の坊さんは他(ほか)のものに比(くら)べると、物質的に割が好(よ)かつたやうです。一例を挙(あ)げると、もし坊さんに女の子があつて、其女の子が年頃(としごろ)になつたとすると、檀家(か)のものが相談して、何処(どこ)か適当な所(ところ)へ嫁(よめ)に遣(や)つて呉(く)れます。無論費用は坊さんの懐(ふところ)から出(で)るのではありません。そんな訳(わけ)で真宗寺(でら)は大抵有福でした。
 Kの生(うま)れた家(いへ)も相応に暮(く)らしてゐたのです。然し次男を東京へ修業に出す程の余力があつたか何(ど)うか知りません。又修業に出(で)られる便宜があるので、養子の相談が纏(まと)まつたものか何(ど)うか、其所(そこ)も私には分(わか)りません。兎に角(かく)Kは医者の家(うち)へ養子に行つたのです。それは私達がまだ中学にゐる時(とき)の事(こと)でした。私は教場で先生が名簿(ぼ)を呼ぶ時に、Kの姓が急に変つてゐたので驚ろいたのを今でも記憶してゐます。
 Kの養子先(さき)も可(か)なりな財産家でした。Kは其所(そこ)から学資を貰(もら)つて東京へ出(で)て来(き)たのです。出(で)て来(き)たのは私と一所でなかつたけれども、東京へ着(つ)いてからは、すぐ同じ下宿に入(はい)りました。其時分は一つ室(へや)によく二人(ふたり)も三人(さんにん)も机を並(なら)べて寐起(ねおき)したものです。Kと私も二人(ふたり)で同(おな)じ間(ま)にゐました。山(やま)で生捕(いけど)られた動物(ぶつ)が、檻(おり)の中(なか)で抱(だ)き合(あ)ひながら、外(そと)を睨(にら)めるやうなものでしたらう。二人(ふたり)は東京と東京の人(ひと)を畏(おそ)れました。それでゐて六畳の間(ま)の中(なか)では、天下を睥睨(へいげい)するやうな事(こと)を云つてゐたのです。
 然し我々は真面目(まじめ)でした。我々は実際偉(えら)くなる積(つもり)でゐたのです。ことにKは強かつたのです。寺(てら)に生れた彼(かれ)は、常に精進(じん)といふ言葉を使(つか)ひました。さうして彼(かれ)の行為動作は悉くこの精進の一語で形容されるやうに、私には見えたのです。私は心のうちで常にKを畏敬してゐました。
 Kは中学にゐた頃(ころ)から、宗教とか哲学とかいふ六づかしい問題で、私を困(こま)らせました。是は彼の父(ちヽ)の感化なのか、又は自分の生(うま)れた家(いへ)、即ち寺(てら)といふ一種特別な建物(たてもの)に属(ぞく)する空気の影響なのか、解(わか)りません。ともかくも彼は普通の坊さんよりは遙かに坊さんらしい性格を有つてゐたやうに見受けられます。元来Kの養家では彼(かれ)を医者にする積(つもり)で東京へ出(だ)したのです。然るに頑固(がんこ)な彼(かれ)は医者にはならない決心をもつて、東京へ出(で)て来(き)たのです。私は彼(かれ)に向(むか)つて、それでは養父母(ぼ)を欺むくと同じ事(こと)ではないかと詰(なじ)りました。大胆な彼(かれ)は左右(さう)だと答へるのです。道(みち)のためなら、其位の事(こと)をしても構(かま)はないと云ふのです。其時(とき)彼(かれ)の用ひた道(みち)といふ言葉(ことば)は、恐(おそ)らく彼(かれ)にも能(よ)く解(わか)つてゐなかつたでせう。私は無論解(わか)つたとは云へません。然し年(とし)の若(わか)い私達には、この漠然とした言葉が尊とく響(ひヾ)いたのです。よし解(わか)らないにしても気高(けだか)い心持(こヽろもち)に支配されて、そちらの方(はう)へ動(うご)いて行かうとする意気組(ぐみ)に卑(いや)しい所(ところ)の見える筈はありません。私はKの説に賛成しました。私の同意がKに取つて何(ど)の位有力であつたか、それは私も知りません。一図(いちづ)な彼(かれ)は、たとひ私がいくら反対しやうとも、矢張(やはり)自分の思ひ通(どほ)りを貫(つら)ぬいたに違(ちがひ)なからうとは察(さつ)せられます。然し万一の場合、賛成の声援を与へた私に、多少の責任が出来(でき)てくる位の事(こと)は、子供ながら私はよく承知してゐた積りです。よし其時(とき)にそれ丈の覚悟がないにしても、成人(じん)した眼(め)で、過去を振り廻(かへ)る必要が起(おこ)つた場合には、私に割り当てられただけの責任は、私の方で帯びるのが至当になる位な語気で私は賛成したのです。


心(こヽろ) 先生の遺書(七十四)

「Kと私は同じ科へ入学しました。Kは澄(す)ました顔をして、養家から送つて呉れる金(かね)で、自分の好(すき)な道を歩(ある)き出(だ)したのです。知れはしないといふ安心と、知れたつて構ふものかといふ度胸とが、二つながらKの心にあつたものと見るよりほか仕方がありません。Kは私よりも平気でした。
 最初の夏休(なつやす)みにKは国(くに)へ帰(かへ)りませんでした。駒込のある寺(てら)の一間(ひとま)を借(か)りて勉強するのだと云つてゐました。私が帰つて来(き)たのは九月上旬でしたが、彼は果(はた)して大(おほ)観音の傍(そば)の汚(きた)ない寺(てら)の中(なか)に閉(と)じ籠(こも)つてゐました。彼の座敷は本堂のすぐ傍(そば)の狭(せま)い室(へや)でしたが、彼は其所(そこ)で自分の思ふ通りに勉強が出来たのを喜(よろ)こんでゐるらしく見えました。私は其時彼(かれ)の生活の段々坊さんらしくなつて行くのを認めたやうに思ひます。彼は手頸(てくび)に珠数(じゆず)を懸(か)けてゐました。私がそれは何のためだと尋ねたら、彼(かれ)は親指(おやゆび)で一つ二(ふた)つと勘定する真似(まね)をして見(み)せました。彼は斯(か)うして日(ひ)に何遍も珠数(じゆず)の輪(わ)を勘定するらしかつたのです。たヾし其意味は私には解(わか)りません。円(まる)い輪(わ)になつてゐるものを一粒(つぶ)づヽ数(かぞ)へて行けば、何処迄(どこまで)数(かぞ)へて行(い)つても終局はありません。Kはどんな所(ところ)で何(ど)んな心持(こヽろもち)がして、爪繰(つまぐ)る手(て)を留(と)めたでせう。詰(つま)らない事(こと)ですが、私はよくそれを思ふのです。
 私は又彼(かれ)の室(へや)に聖書(せいしよ)を見(み)ました。私はそれ迄(まで)に御経の名を度々(たび\/)彼(かれ)の口(くち)から聞(き)いた覚がありますが、基督教に就(つ)いては、問(と)はれた事(こと)も答へられた例(ためし)もなかつたのですから、一寸(ちよつと)驚ろきました。私は其理由(わけ)を訊(たづ)ねずにはゐられませんでした。Kは理由(わけ)はないと云ひました。是程人(ひと)の有難(ありがた)がる書物なら読(よ)んで見(み)るのが当り前(まへ)だらうとも云ひました。其上(うへ)彼は機会があつたら、コーランも読(よ)んで見(み)る積(つもり)だと云ひました。彼(かれ)はモハメツドと剣(けん)といふ言葉(ことば)に大(おほ)いなる興味を有(も)つてゐるやうでした。
 二年目(め)の夏(なつ)に彼は国(くに)から催促を受(う)けて漸(やうや)く帰りました。帰(かへ)つても専門の事(こと)は何(なん)にも云はなかつたものと見えます。家(うち)でも亦其所(そこ)に気が付(つ)かなかつたのです。あなたは学校教育を受(う)けた人(ひと)だから、斯ういふ消息を能く解してゐるでせうが、世間(けん)は学生の生活だの、学校の規則だのに関して、驚ろくべく無知なものです。我々に何(なん)でもない事(こと)が一向外部へは通じてゐません。我々は又比較的内部の空気ばかり吸つてゐるので、校内の事(こと)は細大共(とも)に世(よ)の中(なか)に知れ渡(わた)つてゐる筈(はづ)だと思ひ過(す)ぎる癖(くせ)があります。Kは其点(そのてん)にかけて、私より世間(せけん)を知つてゐたのでせう、澄(す)ました顔で又戻(もど)つて来(き)ました。国を立(た)つ時(とき)は私も一所でしたから、汽車へ乗(の)るや否やすぐ何(ど)うだつたとKに問(と)ひました。Kは何(ど)うでもなかつたと答へたのです。
 三度目の夏は丁度私が永久に父母(ふぼ)の墳墓(ふんぼ)の地を去らうと決心した年(とし)です。私は其時Kに帰国を勧(すヽ)めましたが、Kは応じませんでした。さう毎年(まいとし)家(うち)へ帰(かへ)つて何(なに)をするのだと云ふのです。彼はまた踏(ふ)み留(とヾ)まつて勉強する積(つもり)らしかつたのです。私は仕方(しかた)なしに一人(ひとり)で東京を立(た)つ事(こと)にしました。私の郷里で暮(く)らした其二ヶ月間(かん)が、私の運命にとつて、如何(いか)に波瀾に富(と)んだものかは、前(まへ)に書(か)いた通りですから繰り返しません。私は不平と幽鬱と孤独の淋(さび)しさとを一つ胸(むね)に抱(いだ)いて、九月に入(い)つて又Kに逢(あ)ひました。すると彼の運命も亦私と同様に変調を示(しめ)してゐました。彼(かれ)は私の知らないうちに、養家先(さき)へ手紙を出(だ)して、此方(こつち)から自分の詐(いつはり)を白状してしまつたのです。彼(かれ)は最初から其覚悟でゐたのださうです。今更仕方(しかた)がないから、御前(まへ)の好(す)きなものを遣(や)るより外(ほか)に途(みち)はあるまいと、向ふに云はせる積(つもり)もあつたのでせうか。兎に角大学へ入(はい)つて迄(まで)も養父母を欺(あざ)むき通す気はなかつたらしいのです。又欺(あざ)むかうとしても、さう長(なが)く続(つヾ)くものではないと見抜(みぬ)いたのかも知れません。


心(こヽろ) 先生の遺書(七十五)

 「Kの手紙(てがみ)を見た養父は大変怒りました。親(おや)を騙(だま)すやうな不埒(らち)なものに学資を送る事(こと)は出来(でき)ないといふ厳(きび)しい返事(へんじ)をすぐ寄(よ)こしたのです。Kはそれを私に見せました。Kは又それと前後(ぜんご)して実家から受取(うけと)つた書翰も見(み)せました。これにも前(まへ)に劣らない程厳(きび)しい詰(きつ)責の言葉(ことば)がありました。養家先(さき)へ対(たい)して済(す)まないといふ義理が加はつてゐるからでもありませうが、此方(こつち)でも一切構(かま)はないと書(か)いてありました。Kが此事件(このじけん)のために復籍(ふくせき)してしまふか、それとも他に妥協の道(みち)を講じて、依然養家に留(とヾ)まるか、そこは是(これ)から起(おこ)る問題(もんだい)として、差(さ)し当(あた)り何(ど)うかしなければならないのは、月々(つきづき)に必要な学資(がくし)でした。
 私は其点に就いてKに何か考があるのかと尋(たづ)ねました。Kは夜学校の教師でもする積(つもり)だと答へました。其時(じ)分は今(いま)に比(くら)べると、存外世(よ)の中(なか)が寛(くつ)ろいでゐましたから、内職の口(くち)は貴方(あなた)が考へる程払底でもなかつたのです。私はKがそれで充分遣(や)つて行けるだらうと考へました。然し私には私の責任があります。Kが養家の希望に背(そむ)いて、自分の行きたい道(みち)を行(い)かうとした時(とき)、賛成したものは私です。私は左右(さう)かと云つて手を拱(こまね)いでゐる訳(わけ)に行きません。私は其場(ば)で物質的の補助をすぐ申し出しました。するとKは一も二もなくそれを跳(は)ね付(つ)けました。彼(かれ)の性格から云つて、自活の方(はう)が友達の保護(ほご)の下(もと)に立つより遙(はる)かに快(こヽろ)よく思はれたのでせう。彼(かれ)は大学へ這入(はい)つた以上、自分一人位(じぶんひとりぐらゐ)何(ど)うか出来(でき)なければ男でないやうな事(こと)を云ひました。私は私の責任を完ふするために、Kの感情を傷(づ)つけるに忍(しの)びませんでした。それで彼(かれ)の思ふ通(とほ)りにさせて、私は手(て)を引(ひ)きました。
 Kは自分の望(のぞ)むやうな口(くち)を程(ほど)なく探(さが)し出(だ)しました。然し時間(じかん)を惜む彼(かれ)にとつて、此仕事(ごと)が何(ど)の位辛(つら)かつたかは想像する迄(まで)もない事(こと)です。彼は今迄通(どほ)り勉強の手をちつとも緩(ゆる)めずに、新(あた)らしい荷(に)を脊負(しよ)つて猛進したのです。私は彼(かれ)の健康を気遣(きづか)ひました。然し剛気な彼は笑ふ丈で、少しも私の注意に取合(とりあ)ひませんでした。
 同時に彼と養家との関係は、段々こん絡(がら)がつて来(き)ました。時間に余裕のなくなつた彼は、前(まへ)のやうに私と話(はな)す機会を奪はれたので、私はついに其顛末を詳しく聞(き)かずに仕舞ひましたが、解決の益困難になつて行く事(こと)丈は承知してゐました。人(ひと)が仲(なか)に入(はい)つて調停を試(こヽろ)みた事(こと)も知つてゐました。其人(ひと)は手紙(てがみ)でKに帰国を促(うな)がしたのですが、Kは到底駄目だと云つて、応じませんでした。此(この)剛情な所(ところ)が、ーKは学年中で帰(かへ)れないのだから仕方がないと云ひましたけれども、向ふから見(み)れば剛情でせう。そこが事態(じたい)を益険悪(けんあく)にした様にも見(み)えました。彼は養家の感情を害すると共(とも)に、実家の怒(いかり)も買(か)ふやうになりました。私が心配して双方を融和するために手紙を書(か)いた時(とき)は、もう何(なん)の効果(きヽめ)もありませんでした。私の手紙(てがみ)は一言(ひとこと)の返事(へんじ)さへ受(う)けずに葬られてしまつたのです。私も腹(はら)が立(た)ちました。今迄も行掛り上(じやう)、Kに同情してゐた私は、それ以後は理否を度外に置いてもKの味方(みかた)をする気になりました。
 最後にKはとう\/復籍に決しました。養家から出(だ)して貰つた学資は、実家で弁償する事(こと)になつたのです。其代り実家の方(はう)でも構(かま)はないから、是(これ)からは勝手にしろといふのです。昔(むかし)の言葉で云へば、まあ勘当なのでせう。或はそれ程強いものでなかつたかも知れませんが、当人はさう解釈してゐました。Kは母(はヽ)のない男でした。彼(かれ)の性格の一面は、たしかに継母(けいぼ)に育(そだ)てられた結果(けつくわ)とも見る事(こと)が出来るやうです。もし彼の実(じつ)の母(はヽ)が生(い)きてゐたら、或は彼(かれ)と実家(じつか)との関係に、斯(か)うまで隔(へだヽ)りが出来ずに済(す)んだかも知れないと私は思ふのです。彼(かれ)の父(ちヽ)は云ふ迄もなく僧侶でした。けれども義理堅(がた)い点に於て、寧ろ武士(さむらひ)に似た所(ところ)がありはしないかと疑はれます。


心(こヽろ) 先生の遺書(七十六)

「Kの事件が一段落(だんらく)ついた後(あと)で、私は彼(かれ)の姉(あね)の夫(おつと)から長(なが)い封書を受取(うけと)りました。Kの養子に行つた先(さき)は、此人(ひと)の親類に当(あた)るのですから、彼(かれ)を周旋した時にも、彼(かれ)を復籍させた時にも、此人(このひと)の意見が重(おも)きをなしてゐたのだと、Kは私に話(はな)して聞(き)かせました。
 手紙には其後(そのご)Kが何(ど)うしてゐるか知らせて呉(く)れと書(か)いてありました。姉(あね)が心配してゐるから、成るべく早く返事(じ)を貰(もら)ひたいといふ依頼も付(つ)け加(くは)へてありました。Kは寺(てら)を嗣(つ)いだ兄(あに)よりも、他家へ縁(えん)づいた此姉(あね)を好(す)いてゐました。彼等(かれら)はみんな一つ腹(はら)から生(うま)れた姉弟(きやうだい)ですけれども、此姉とKの間(あひだ)には大分年歯(とし)の差があつたのです。それでKの小供の時分には、継母(まヽはヽ)よりも此姉の方(はう)が、却つて本当の母(はヽ)らしく見えたのでせう。
 私はKに手紙を見せました。Kは何とも云ひませんでしたけれども、自分の所へ此姉(このあね)から同じやうな意味の書状が二三度来(き)たといふ事(こと)を打(う)ち明(あ)けました。Kは其度(たび)に心配するに及ばないと答へて遣(や)つたのださうです。運悪(わる)く此姉(あね)は生活に余裕のない家(いへ)に片付(かたづ)いたヽめに、いくらKに同情があつても、物質(ぶつしつ)的に弟を何(ど)うして遣(や)る訳(わけ)にも行かなかつたのです。
 私はKと同じやうな返事(じ)を彼の義兄宛(あて)で出(だ)しました。其中に、万一の場合には私が何(ど)うでもするから、安心するやうにといふ意味を強い言葉で書(か)き現(あら)はしました。是は固より私の一存(いちぞん)でした。Kの行先(ゆくさき)を心配する此姉に安心を与へやうといふ好意は無論含(ふく)まれてゐましたが、私を軽蔑したとより外(ほか)に取りやうのない彼(かれ)の実家や養家に対する意地もあつたのです。
 Kの復籍したのは一年生の時(とき)でした。それから二年生の中頃(なかごろ)になる迄、約一年半の間、彼(かれ)は独力で巳(おの)れを支(さヽ)へて行(い)つたのです。所が此過度の労力が次第に彼の健康と精神の上(うへ)に影響して来(き)たやうに見え出しました。それには無論養家を出る出(で)ないの蒼蠅(うるさい)い問題も手伝(てつだ)つてゐたでせう。彼は段々(だん\/)感傷的(センチメンタル)になつて来(き)たのです。時(とき)によると、自分丈が世(よ)の中(なか)の不幸を一人(ひとり)で脊負(しよ)つて立(た)つてゐるやうな事(こと)を云ひます。さうして夫(それ)を打ち消(け)せばすぐ激(げき)するのです。それから自分の未来に横(よこた)はる光明が、次第に彼(かれ)の眼(め)を遠退(とほの)いて行くやうにも思つて、いら\/するのです。学問を遣(や)り始(はじ)めた時(とき)には、誰(だれ)しも偉大な抱負を有(も)つて、新らしい旅(たび)に上(のぼ)るのが常(つね)ですが、一年と立(た)ち二年と過(す)ぎ、もう卒業も間近(まぢか)になると、急に自分の足(あし)の運(はこ)びの鈍(のろ)いのに気が付(つ)いて、過半は其所(そこ)で失望するのが当り前(まへ)になつてゐますから、Kの場合(ばあひ)も同じなのですが、彼(かれ)の焦慮(あせ)り方(かた)は又普通に比(くら)べると遙かに甚しかつたのです。私はついに彼の気分を落ち付(つ)けるのが専一だと考へました。
 私は彼(かれ)に向つて、余計な仕事(しごと)をするのは止(よ)せと云ひました。さうして当分身体(からだ)を楽(らく)にして、遊(あそ)ぶ方が大きな将来のために得策だと忠告しました。剛情なKの事(こと)ですから、容易に私のいふ事(こと)などは聞(き)くまいと、かねて予期してゐたのですが、実際云ひ出して見(み)ると、思つたよりも説き落すのに骨が折れたので弱りました。Kはたヾ学問が自分の目的ではないと主張するのです。意志の力を養(やしな)つて強い人(ひと)になるのが自分の考だと云ふのです。それにはなるべく窮屈な境遇にゐなくてはならないと結論するのです。普通の人(ひと)から見(み)れば、丸(まる)で酔興です。其上(うへ)窮屈な境遇にゐる彼(かれ)の意志は、ちつとも強くなつてゐないのです。彼は寧ろ神経衰弱に罹(かヽ)つてゐる位なのです。私は仕方(しかた)がないから、彼に向(むか)つて至極同感であるやうな様子を見せました。自分もさういふ点に向つて、人生を進(すヽ)む積(つもり)だたと遂には明言しました。(尤も是(これ)は私に取つてまんざら空虚な言葉でもなかつたのです。Kの説(せつ)を聞(き)いてゐると、段々さういふ所に釣り込(こ)まれて来(く)る位、彼には力(ちから)があつたのですから)。最後に私はKと一所に住(す)んで、一所に向上の路(みち)を辿(たど)つて行きたいと発議しました。私は彼の剛情を折り曲(ま)げるために、彼の前に跪(ひざ)まづく事(こと)を敢てしたのです。さうしや漸(やつ)との事(こと)で彼を私の家(いへ)に連(つ)れて来(き)ました。


心(こヽろ) 先生の遺書(七十七)

「私の座敷には控(ひか)えの間(ま)といふやうな四畳が付属してゐました。玄関を上(あが)つて私のゐる所へ通(とほ)らうとするには、是非此四畳を横切(よこぎ)らなければならないのだから、実用の点から見ると、至極不便な室(へや)でした。私は此所(こヽ)へKを入(い)れたのです。尤も最初は同じ八畳に二(ふた)つ机を並(なら)べて、次(つぎ)の間(ま)を共有にして置(お)く考へだつたのですが、Kは狭苦(せまくる)しくつても一人(ひとり)で居る方が好(い)いと云つて、自分で其方(そつち)のはうを択んだのです。
 前(まへ)にも話(はな)した通(とほ)り、奥さんは私の此所置に対して始めは不賛成だつたのです。下宿屋ならば、一人(ひとり)より二人(ふたり)が便利だし、二人(ふたり)より三人(さんにん)が得(とく)になるけれども、商売でないのだから、成るべくなら止(よ)した方(はう)が好(い)いといふのです。私が決して世話の焼(や)ける人(ひと)でないから構ふまいといふと、世話は焼(や)けないでも、気心(きごヽろ)の知れない人(ひと)は厭(いや)だと答へるのです。それでは今厄介になつてゐる私だつて同じ事(こと)ではないかと詰(なじ)ると、私の気心(きごヽろ)は初めから能く分(わか)つてゐると弁解して已(や)まないのです。私は苦笑しました。すると奥さんは又理窟の方向を更(か)へます。そんな人(ひと)を連(つ)れて来(く)るのは、私の為(ため)に悪(わる)いから止(よ)せと云ひ直(なほ)します。何故(なぜ)私のために悪いかと聞(き)くと、今度は向ふで苦笑するのです。
 実をいふと私だつて強(し)ひてKと一所にゐる必要はなかつたのです。けれども月々(つき\゛/)の費用を金(かね)の形(かたち)で彼の前(まへ)に並(なら)べて見せると、彼(かれ)は屹度それを受取(うけと)る時(とき)に躊躇するだらうと思つたのです。彼はそれ程独立心の強い男でした。だから私は私の宅(うち)へ置(お)いて、二人前(ふたりまへ)の食料を彼の知らない間(ま)にそつと奥さんの手に渡さうとしたのです。然し私はKの経済問題について、一言(いちごん)も奥さんに打ち明ける気はありませんでした。
 私はたヾKの健康に就(つ)いて云々しました。一人(ひとり)で置くと益人間(にんげん)が偏窟(へんくつ)になるばかりだからと云ひました。それに付(つ)け足(た)して、Kが養家と折合の悪(わる)かつた事(こと)や、実家と離れてしまつた事(こと)や、色々(いろ\/)話(はな)して聞(き)かせました。私は溺れかヽつた人(ひと)を抱(だ)いて、自分の熱(ねつ)を向ふに移(うつ)してやる覚悟で、Kを引き取(と)るのだと告(つ)げました。其積(つもり)であたヽかい面倒を見て遣(や)つて呉れと、奥さんにも御嬢さんにも頼みました。私はここ迄来(き)て漸々(やう\/)奥さんを説き伏せたのです。然し私から何にも聞(き)かないKは、此顛末を丸(まる)で知らずにゐました。私も却つてそれを満足に思つて、のつそり引き移つて来(き)たKを、知らん顔(かほ)で迎(むか)へました。
 奥さんと御嬢さんは、親切に彼の荷物を片付ける世話や何かをして呉れました。凡てそれを私に対する好意から来(き)たのだと解釈した私は、心(こヽろ)のうちで喜(よろこ)びました。ーKが相変らずむつちりした様子をしてゐるにも拘(かヽは)はらず。
 私がKに向つて新(あた)らしい住居(すまゐ)の心持(もち)は何(ど)うだと聞(き)いた時(とき)に、彼はたヾ一言(げん)悪(わる)くないと云つた丈(だけ)でした。私から云はせれば悪(わる)くない所(どころ)ではないのです。彼(かれ)の今迄居た所(ところ)は北向(きたむき)の湿(しめ)つぽい臭(にほひ)のする汚(きた)ない室(へや)でした。食物(くひもの)も室(へや)相応に粗末でした。私の家(いへ)へ引き移(うつ)つた彼は、幽谷から喬木に移(うつ)つた趣(おもむき)があつた位です。それを左程に思ふ気色を見せないのは、一つは彼の強情から来(き)てゐるのですが、一つは彼の主張からも出(で)てゐるのです。仏教の教義で養はれた彼は、衣食住について兎角の贅沢をいふのを恰も不道徳のやうに考へてゐました。なまじい昔の高僧(かうそう)だとか聖徒(セーント)とかの伝(でん)を読(よ)んだ彼には、動(やヽ)ともすると精神と肉体とを切(き)り離(はな)したがる癖(くせ)がありました。肉(にく)を鞭撻(べんたつ)すれば霊(れい)の光輝が増すやうに感ずる場合さへあつたのかも知れません。
 私は成るべく彼に逆(さから)はない方針を取(と)りました。私は氷を日向(ひなた)へ出(だ)して溶(と)かす工夫をしたのです。今(いま)に融(と)けて温(あたヽ)かい水になれば、自分で自分に気が付(つ)く時機が来(く)るに違(ちがひ)ないと思つたのです。


心(こヽろ) 先生の遺書(七十八)

 「私は奥さんからさう云ふ風に取扱(とりあつ)かはれた結果、段々快活になつて来(き)たのです。それを自覚してゐた私は、今それをKのために応用しやうと試(こヽろ)みたのです。Kと私とが性格の上(うへ)に於て、大分(だいぶ)相違のある事(こと)は、長(なが)く交際(つきあ)つて来た私に能(よ)く解(わか)つてゐましたけれども、私の神経が此家庭に入(はい)つてから多少角(かど)が取(と)れた如く、Kの心(こヽろ)も此所(こヽ)に置けば何時(いつ)か沈(しづ)まる事(こと)があるだらうと考へたのです。
 Kは私より強い決心を有してゐる男(をとこ)でした。勉強も私の倍位(ばいぐらゐ)はしたでせう。其上(うへ)持つて生れた頭(あたま)の質(たち)が私よりもずつと可(よ)かつたのです。後(あと)では専門が違(ちがひ)ましたから何とも云へませんが、同じ級にゐる間は、中学でも高等学校でも、Kの方(はう)が常に上席を占(し)めてゐました。私には平生から何(なに)をしてもKに及ばないといふ自覚があつた位です。けれども私が強ひてKを私の宅(うち)へ引張(ひつぱ)つて来(き)た時(とき)には、私の方(はう)が能(よ)く事理(じり)を弁(わきま)へてゐると信(しん)じてゐました。私に云はせると、彼は我慢と忍耐(にんたい)の区別を了解(かい)してゐないやうに思はれたのです。是はとくに貴方(あなた)のために付け足して置きたいのですから聞(き)いて下さい。肉体なり精神なり凡て我々の能力は、外部の刺戟で、発達もするし、破壊されもするでせうが、何方(どつち)にしても刺戟を段々に強くする必要のあるのは無論ですから、能く考へないと、非常に険悪な方向へむいて進んで行きながら、自分は勿論傍(はた)のものも気が付(つ)かずにゐる恐れが生じてきます。医者の説明を聞(き)くと、人間(にんげん)の胃袋(ぶくろ)程横着なものはないさうです。粥ばかり食(く)つてゐると、それ以上の堅(かた)いものを消化(こな)す力(ちから)が何時(いつ)の間(ま)にかなくなつて仕舞ふのださうです。だから何でも食(く)ふ稽古をして置けと医者はいふのです。けれども是はたヾ慣(な)れるといふ意味ではなからうと思ひます。次第に刺戟を増すに従つて、次第に営養機能の抵抗力(りよく)が強くなるといふ意味でなくてはなりますまい。もし反対に胃の力(ちから)の方(はう)がぢり\/弱つて行(い)つたなら結果は何(ど)うなるだらうと想像して見ればすぐ解(わか)る事(こと)です。Kは私より偉大な男でしたけれども、全く此所(こヽ)に気が付(つ)いてゐなかつたのです。たヾ困難に慣(な)れてしまへば、仕舞に其困難は何(なん)でもなくなるものだと極(き)めてゐたらしいのです。艱苦を繰(く)り返(かへ)せば、繰(く)り返(かへ)すといふだけの功徳(くどく)で、其艱苦(かんく)が気(き)にかヽらなくなる時機に邂逅(めぐりあ)へるものと信じ切(き)つてゐたらしいのです。
 私はKを説(と)くときに、是非其所(そこ)を明(あき)らかにして遣(や)りたかつたのです。然し云へば屹度反抗されるに極(きま)つてゐました。また昔(むかし)の人(ひと)の例などを、引合(ひきあひ)に持(も)つて来(く)るに違(ちがひ)ないと思ひました。さうなれば私だつて、其人(ひと)達とKと違(ちが)つてゐる点を明白に述べなければならなくなります。それを首肯(うけが)つて呉(く)れるやうなKなら可(い)いのですけれども、彼(かれ)の性質として、議論が其所迄(そこまで)行くと容易に後(あと)へは返(かへ)りません。猶先(さき)へ出(で)ます。さうして、口(くち)で先(さき)へ出(で)た通(とほ)りを、行為で実現(げん)しに掛(かヽ)ります。彼は斯(か)うなると恐るべき男でした。偉大でした。自分で自分を破壊しつヽ進みます。結果から見(み)れば、彼(かれ)はたヾ自己の成功を打ち砕(くだ)く意味に於て、偉大なのに過(す)ぎないのですけれども、それでも決して平凡ではありませんでした。彼の気性をよく知つた私はついに何(なん)とも云ふ事(こと)が出来なかつたのです。其上私から見(み)ると、彼は前(まへ)にも述べた通(とほ)り、多少神経衰弱に罹(かヽ)つてゐたやうに思はれたのです。よし私が彼を説き伏(ふ)せた所(ところ)で、彼は必ず激するに違(ちがひ)ないのです。私は彼と喧嘩をする事(こと)は恐れてはゐませんでしたけれども、私が孤独(こどく)の感(かん)に堪(た)へなかつた自分の境遇を顧(かへり)みると、親友の彼(かれ)を、同じ孤独の境遇に置(お)くのは、私に取つて忍(しの)びない事(こと)でした。一歩進(すヽ)んで、より孤独な境遇に突(つ)き落すのは猶厭(いや)でした。それで私は彼が宅(うち)へ引き移つてからも、当分の間(あひだ)は批評がましい批評を彼の上(うへ)に加へずにゐました。たヾ穏(おだや)かに周囲の彼に及ぼす結果を見(み)る事(こと)にしたのです。


心(こヽろ) 先生の遺書(七十九)

 「私は蔭(かげ)へ廻(まは)つて、奥さんと御嬢さんに、成(な)るべくKと話(はな)しをする様(やう)に頼(たの)みました。私は彼の是迄通(とほ)つて来(き)た無言(むごん)生活が彼(かれ)に祟(たヽ)つてゐるのだらうと信じたからです。使(つか)はない鉄(てつ)が腐(くさ)るやうに、彼(かれ)の心(こヽろ)には錆(さび)が出(で)てゐたとしか、私には思はれなかつたのです。
 奥さんは取(と)り付(つ)き把(は)のない人(ひと)だと云つて笑(わら)つてゐました。御嬢さんは又わざ\/其例を挙(あ)げて私に説明(せつめい)して聞(き)かせるのです。火鉢(ばち)に火(ひ)があるかと尋(たづ)ねると、Kは無(な)いと答(こた)へるさうです。では持(も)つて来(き)ようと云ふと、要(い)らないと断わるさうです。寒(さむ)くはないかと聞(き)くと、寒(さむ)いけれども要(い)らないんだと云(い)つたぎり応対をしないのださうです。私はたヾ苦笑してゐる訳にも行きません。気の毒(どく)だから、何とか云つて其場(そのば)を取(と)り繕(つく)ろつて置かなければ済(す)まなくなります。尤もそれは春(はる)の事(こと)ですから、強(し)ひて火(ひ)にあたる必要もなかつたのすが、是(これ)では取(と)り付(つ)き把(は)がないと云はれるのも無理はないと思ひました。
 それで私は成るべく、自分が中心になつて、女二人(ふたり)とKとの連絡(れんらく)をはかる様に力(つと)めました。Kと私が話(はな)してゐる所へ家(うち)の人(ひと)を呼(よ)ぶとか、又は家(うち)の人(ひと)と私が一つ室(へや)に落(お)ち合(あ)つた所(ところ)へ、Kを引つ張(ぱ)り出(だ)すとか、何方(どつち)でも其場合に応じた方法をとつて、彼等を接近させやうとしたのです。勿論Kはそれをあまり好(この)みませんでした。ある時(とき)はふいと起(た)つて室(へや)の外(そと)へ出(で)ました。又ある時(とき)はいくら呼(よ)んでも中々(なか\/)出(で)て来(き)ませんでした。Kはあんな無駄話(ばなし)をして何処(どこ)が面白いと云ふのです。私はたヾ笑つてゐました。然し心(こヽろ)の中(うち)では、Kがそのために私を軽蔑してゐる事(こと)が能(よ)く解(わか)りました。
 私はある意味から見(み)て実際彼(かれ)の軽蔑に価(あたひ)してゐたかも知れません。彼の眼(め)の着(つ)け所(どころ)は私より遙(はる)かに高(たか)いところにあつたとも云はれるでせう。私もそれを否(いな)みはしません。然し眼(め)だけ高(たか)くつて、外(ほか)が釣(つ)り合(あ)はないのは手(て)もなく不具(かたわ)です。私は何(なに)を措いても、此際(このさい)彼(かれ)を人間(にんげん)らしくするのが専一(せんいち)だと考(かんが)へたのです。いくら彼(かれ)の頭(あたま)が偉(えら)い人(ひと)の影像(イメジ)で埋(うづ)まつてゐても、彼自身が偉(えら)くなつて行かない以上は、何の役にも立(た)たないといふ事(こと)を発見したのです。私は彼を人間(にんげん)らしくする第一の手段として、まづ異性の傍(そば)に彼を坐(すは)らせる方法を講じたのです。さうして其所(そこ)から出る空気に彼を曝(さら)した上(うへ)、錆(さ)び付(つ)きかヽつた彼(かれ)の血液を新(あた)らしくしやうと試(こヽろ)みたのです。
 此試(こヽろ)みは次第に成功しました。初(はじめ)のうち融合しにくいやうに見えたものが、段々(だん\/)一つに纏(まと)まつて来出(きだ)しました。彼は自分以外に世界のある事(こと)を少しづヽ悟(さと)つて行くやうでした。彼(かれ)はある日(ひ)私に向(むか)つて、女はさう軽蔑すべきものでないと云ふやうな事(こと)を云ひました。Kははじめ女からも、私同様の知識と学問を要求してゐたらしいのです。左右(さう)してそれが見付(みつ)からないと、すぐ軽蔑(べつ)の念を生じたものと思はれます。今迄の彼は、性(せい)によつて立場(たちば)を変(か)へる事(こと)を知らずに、同じ視線で凡ての男女を一様に観察してゐたのです。私は彼(かれ)に、もし我等二人丈(ふたりだけ)が男同志(おとこどうし)で永久に話(はなし)を交換してゐるならば、二人(ふたり)はたヾ直(ちよく)線的に先(さき)へ延(の)びて行くに過ぎないだらうと云ひました。彼は尤もだと答へました。私は其時御嬢さんの事(こと)で、多少夢中(むちう)になつてゐる頃でしたから、自然そんな言葉(ことば)も使(つか)ふやうになつたのでせう。然し裏面の消息は彼には一口(ひとくち)も打ち明(あ)けませんでした。
 今迄書物で城壁をきづいて其中(そのなか)に立(た)て籠(こも)つてゐたやうなKの心(こヽろ)が、段々(だん\/)打(う)ち解(と)けて来(く)るのを見てゐるのは、私に取(と)つて何(なに)よりも愉快でした。私は最初からさうした目的で事(こと)を遣(や)り出(だ)したのですから、自分の成功に伴う喜(き)悦を感ぜずにはゐられなかつたのです。私は本人に云はない代りに、奥さんと御嬢さんに自分の思つた通りを話しました。二人(ふたり)も満足の様子でした。


心(こヽろ) 先生の遺書(八十)

 「Kと私は同じ科に居りながら、専攻の学問が違(ちが)つてゐましたから、自然出(で)る時(とき)や帰(かへ)る時(とき)に遅速(ちそく)がありました。私の方が早ければ、たヾ彼(かれ)の空室(くうしつ)を通(とほ)り抜(ぬ)ける丈ですが、遅(おそ)いと簡単な挨拶をして自分の部屋へ這入(はい)るのを例にしてゐました。Kはいつもの眼(め)を書物からはなして、襖(ふすま)を開(あ)ける私を一寸(ちよつと)見(み)ます。さうして屹度今帰(かへ)つたのかと云ひます。私は何も答へないで点頭(うなづ)く事(こと)もありますし、或はたヾ「うん」と答へて行き過ぎる場合もありました。
 ある日私は神田に用があつて、帰りが何時(いつ)もよりずつと後(おく)れました。私は急(いそ)ぎ足(あし)に門前(ぜん)迄(まで)来(き)て、格子をがらりと開(あ)けました。それと同時に、私は御嬢さんの声(こえ)を聞(き)いたのです。声は慥(たしか)にKの室(へや)から出(で)たと思ひました。玄関から真直(まつすぐ)に行けば、茶の間、御嬢さんの部屋(へや)と二(ふた)つ続(つヾ)いてゐて、それを左(ひだり)へ折(を)れると、Kの室(へや)、私の室(へや)、といふ間取(まどり)なのですから、何処(どこ)で誰(だれ)の声(こえ)がした位(ぐらゐ)は、久(ひさ)しく厄介になつてゐる私には能く分(わか)るのです。私はすぐ格子を締(し)めました。すると御嬢さんの声もすぐ已(や)みました。私が靴(くつ)を脱(ぬ)いでゐるうち、ー私は其時分(じぶん)からハイカラで手数(かず)のかヽる編上(あみあげ)を穿(は)いてゐたのですが、ー私がこヾんで其靴紐(くつひも)を解(と)いてゐるうち、Kの部屋では誰(だれ)の声もしませんでした。私は変に思(おも)ひました。ことによると、私の疳違(かんちがひ)かも知れないと考へたのです。然し私がいつもの通(とほ)りKの室(へや)を抜(ぬ)けやうとして、襖(ふすま)を開(あ)けると、其所(そこ)に二人(ふたり)はちやんと坐(すは)つてゐました。Kは例の通(とほ)り今帰つたかと云ひました。御嬢さんも「御帰り」と坐(すは)つた侭(まヽ)で挨拶しました。私には気(き)の所為(せゐ)か其簡単な挨拶が少(すこ)し硬(かた)いやうに聞(き)こえました。何処(どこ)かで自然を踏(ふ)み外(はづ)してゐるやうな調子として、私の鼓膜に響(ひヾ)いたのです。私は御嬢さんに、奥さんはと尋ねました。私の質問には何の意味もありませんでした。家(いへ)のうちが平常より何(なん)だかひつそりしてゐたから聞(き)いて見た丈の事(こと)です。
 奥さんは果(はた)して留守でした。下女も奥さんと一所に出(で)たのでした。だから家(うち)に残(のこ)つてゐるのは、Kと御嬢さん丈だつたのです。私は一寸(ちよつと)首(くび)を傾(かたむ)けました。今迄長い間(あひだ)世話になつてゐたけれども、奥さんが御嬢さんと私だけを置(お)き去(ざ)りにして、宅(うち)を空(あ)けた例(ためし)はまだなかつたのですから。私は何か急用でも出来(でき)たのかと御嬢さんに聞(き)き返(かへ)しました。御嬢さんはたヾ笑(わら)つてゐるのです。私は斯(こ)んな時(とき)に笑ふ女が嫌(きらひ)でした。若い女に共通な点だと云へばそれ迄かも知れませんが、御嬢さんも下(くだ)らない事(こと)に能(よ)く笑ひたがる女でした。然し御嬢さんは私の顔色(かほいろ)を見て、すぐ不断(ふだん)の表情に帰(かへ)りました。急用ではないが、一寸(ちよつと)用があつて出(で)たのだと真面目(まじめ)に答へました。下宿人(にん)の私にはそれ以上問(と)ひ詰(つ)める権利はありません。私は沈黙しました。
 私が着物を改めて席に着(つ)くか着(つ)かないうちに、奥さんも下女も帰(かへ)つて来(き)ました。やがて晩食(ばんめし)の食卓でみんなが顔(かほ)を合(あは)せる時刻が来(き)ました。下宿した当座は万事(じ)客扱(きやくあつか)ひだつたので、食事(じ)のたびに下女が膳(ぜん)を運(はこ)んで来(き)て呉れたのですが、それが何時(いつ)の間(ま)にか崩(くづ)れて、飯時(めしどき)には向(むか)ふへ呼ばれて行く習慣になつてゐたのです。Kが新(あた)らしく引き移つた時(とき)も、私が主張して彼を私と同じやうに取扱(とりあつか)はせる事(こと)に極(き)めました。其代り私は薄い板(いた)で造つた足(あし)の畳(たヽ)み込める華奢(きやしや)な食卓を奥さんに寄附しました。今では何処の宅(うち)でも使つてゐるやうですが、其頃(ころ)そんな卓(たく)の周囲に並(なら)んで飯(めし)を食(く)ふ家族は殆んどなかつたのです。私はわざ\/御茶(ちや)の水の家具屋へ行つて、私の工夫通りにそれを造(つく)り上(あげ)させたのです。
 私は其卓(たく)上で奥さんから其日何時(いつ)もの時刻に肴(さかな)屋が来(こ)なかつたので、私達に食(く)はせるものを買(か)ひに町(まち)へ行かなければならなかつたのだといふ説明を聞(き)かされました。成程客(きやく)を置(お)いてゐる以上、それも尤もな事(こと)だと私が考へた時(とき)、御嬢さんは私の顔を見(み)て又笑ひ出しました。然し今度(ど)は奥さんに叱(しか)られてすぐ已(や)めました。