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◆木村功「『こゝろ』論――先生・Kの形象に関する一考察――」(「国語と国文学」68-7,1991.7)より抜粋
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 結論を先に言えば、「先生の遺書」の背景となった先生の青年時代については、やはり明治三○年代を考えるのが至当である。下宿人を探している家の「主人は何でも日清戦争の時か何かに死んだのだと上さんが云ひました。」(下一○)という叙述に鑑みるかぎり、明治二八年以降の日清戦争後の時期が、先生・Kの悲劇の舞台となった時代であると読み取れる。この点を確認した上で、先生の年齢を考察したい。その際参考になるのは、先生の在学した高等学枚に関する記述である。 先生は両親の死亡後、「私は其前から両親の許可を得て、東京へ出る筈になつてゐました。」(下三)という事情と、母親の遺言もあって東京の高等学枚に入る事になる。この高等学校という呼称が第一高等中学校に代って用いられたのは、明治二七年の高等学校令の施行をふまえての事であった。あるいはここで、漱石がこの第一高等中学校を略して高等学校と呼んでいなかったかどうかという事が問題となろう。しかしこの点については、第一高等学校が三年の修業年数であるのに対して、第一高等中学校は予科三年本科二年の通年五年教育が施されていた。この事実をふまえて作品の文脈に徴して見ると、第一高等学校である事が判明するのである。
 すなわち先生が高等学校時代、夏休み毎に郷里へ帰省している事がその証となる。第一回目の帰省時に結婚を勧められ、二回目の時には従妹が相手の縁談を持ちかけられ、三度目に叔父の財産横領が発覚し先生が故郷を捨てる仕儀となったのである。そして東京に帰ってから先生は下宿探しをし、その時「大学の制帽」(下一○)を被っていた事を述ぺている。この記述から、在学期間が三年であることがわかる。さらにKに関する記述でも、「学資の事で養家を三年も欺いてゐた彼ですけれども」(下三九)という一文があり、学校生活が三年間であった事を傍証する。先生が故郷を捨てて九月に東京へ戻った時に、Kも養父に手紙を書いて「自分の詐を白状」(下二○)していたことの結果であった。
 以上の検討から在学の期間が三年と決定づけられる。したがって先生とKが入学したのは、明らかに第一高等学校なのである。
 さて、「東京へ来て高等学校へ這入りました。」(下四)という書き方から、既にこの頃には高等学校という呼称が流布していたと思われるのだが、まず先生の入学を上限で考えて明治二七年の九月と想定する。そうすると三○年夏に高等学校を卒業し、その秋には帝国大学文科大学に進んだ事になる。このように考えると戦後「一年ばかり前までは、市ケ谷の土官学校の傍とかに住んでゐた」(下一○)奥さん達の家に下宿するという記述とも齟齬する事はない。そしてまた上限で考えて、明治ニ○年九月から三三年七月までの学生生活を過ごして先生は大学を卒業した、という事になるF。勿論一・二年後という誤差を考える事も可能であろう。そうすると、先生は両親が亡くなった時に数え年でまだ二○歳になつていなかったというのであるから、これも上限を取って一九歳として考えると、一九歳で高等学校入学となる。上限の明治二七年で一九歳であれば、逆算すると先生は明治九年頃に生まれた人物という事になる。したがって大正元年九月の時点では、上限で三七歳の人物であったと考えられるのである。そしてKと共に過ごした帝国大学在学期間は、二二歳(明治三○年)から二五歳(明治三三年)にかけての三年間であった事になるであろう。勿論、この年齢が数え年であることは言うまでもない。ちなみに小川三四郎が文科大学に入学したのは、数え年二三歳の時であった。
 以上の考証から、先生とKは明治三○年代前半に青春期を過ごした青年であると判断できるのである。


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