裏切り
穴吹安武
 かつて、友人に言われた痛い言葉がある。昼食の待ち合わせに5分弱遅刻した際に、同行したもう二人の友人に「な、言った通りだろ」、といわれてしまったのである。裏切りも恒常化すると、裏切られる方も慣れが出てくるということなのだろうか。

 「判官びいき」という言葉がある。この言葉を説明するためには、すこし歴史を振り返る必要がある。

 かつて、ライオンズは人気球団ではなかった。プロ野球カードを集める少年にとって、長嶋、王が出てくるのを夢見てあけたカードが「太平洋クラブ」の「基満男」だったときの失望感はかなり大きかった。あえてそのカードに価値を見出すとしたら、変なユニホームのチームがあるぞ、と友人に教えることくらいである。もちろん、その当時パ・リーグの試合はテレビで放映されることはなかった。

 「クラウン」が有名になったのは、唯一ドラフトで江川卓を引き当てたときである。もちろん、江川はこの結果を拒否。その後有名な「空白の1日」事件を引き起こす。

 そして、ライオンズは「西武」と名前を変え、埼玉にフランチャイズを移した。もっとも、初年度は根本監督のもと惨澹たる成績であった。しかし、人工芝のスタジアムに、シンプルなユニホーム、そして、松崎しげるの歌う応援歌....。スマートなセンスがなんとなく伺われた西武は、広岡監督招聘後実力をつけ、70年代の阪急に代ってパ・リーグの盟主の座を奪い始めていた。

 さて、「判官びいき」である。この頃になると、反抗期を迎える少年は、人が注目していないものに興味を引かれるようになる。それがホークスである。弱い。とにかく弱い。少年が多感な中高生活を送っていた6年間、5位と6位しか体験していない。有名な選手と言えば、門田と香川。容姿はともにおっさんである。西武のスマートさとは比べ物にならない。

 そんなホークスを応援するために、後楽園のレフトスタンドに応援に行った。もちろん一緒に応援に行くような酔狂な友人は誰一人いない。しかし、その試合でなんと西川佳明が完封。4−0で勝利してしまった。うぉー、すげー、こりゃ宝くじに当たるようなもんだぜ、と感心した記憶がある。思わず、選手の出待ちに行ったときに、応援団の人々がかける言葉が、少年の心をぐっとつかんだ。「近鉄負けたで、15ゲーム差や。頑張りいや。」という声がしたかと思うと「西川、来年ガンバレや。」と来る。何でもありなのである。実に居心地が良い。

 85年シーズン途中には、来期の監督が穴吹義雄からかつてのエース杉浦忠に代ることが報道された。それでも、穴吹はあきらめない。若手を鼓舞し、試合を諦めることはなく、最後の監督会見は、「死ぬまで南海好きだよ」であった。そんなホークスに少年の心はひきつけられて離れられない。そして、杉浦政権の3年目、パ・リーグは様々な話題を集めることになる。

 88年のシーズン終盤と言えば、野球ファンがすぐに思い出すのは、10.19 の川崎球場がゆれた日であろう。この試合とは、関東では30.9%、関西では46.9%、瞬間最高視聴率は59%を記録したロッテ対近鉄のダブルヘッダーである。近鉄が涙し、日本ハムが東京ドームで試合を始め、西武が優勝し、ロッテが川崎で思い出に残る試合を3試合行ったこの年、南海が9月に身売りを発表、阪急も日本シリーズ直前に身売りを発表したのである。そして、名門南海の最後の切り札として南海最後の監督を務め、ダイエーホークスの初代監督となった杉浦は、九州に旅立つときのセレモニーで「行って参ります」と言った。やはり、難波に思い入れがあったのであろう。結局、少年が南海ホークスを応援し始めて、Aクラス入りをしたことは一度もなかった。

 福岡に本拠地を構えたホークスは、その後田淵監督のもとで「閉店間際野球」なるのびのび野球を行った。しかし、相変わらず弱い。田淵監督初年度の成績は、ホークス史上最低の結果、41勝85敗4分勝率.325である。ちなみに、この年のパ・リーグ首位打者となった西村の打率は.338 であった。

 監督が根本監督に替ってもやはり弱かった。93年のシーズンは、45勝80敗5分 勝率.360 である。しかし、この翌年奇跡が起こった。イチローが210安打をはなったこの年、ホークスは69勝60敗1分 勝率.5348の成績を収め、ついに勝ち越したのである。しかし、Aクラスへの道のりは険しかった。引き分けの少なさが反映して、2位とゲーム差なしの4位に終わったのである。

 この時期には、大きな変化がホークスを襲っていた。なんと、ホークスが九州の先進的なチームとして注目を集めるようになっていたのである。ドラフトではホークスが入団希望という選手も現れ、FAでも選手が集まるようになった。もはや、ホークスは「不人気球団」ではなくなっていたのである。

 昨シーズンは歓喜であった。勝率は5割だったものの、オリックスと並び、3位タイに入ったのである。もっとも、今シーズンの開幕戦は、相変わらずビジターとして戦うことになったが。

 今シーズンは、友人からもたびたびメールをいただいた。しかし、裏切られることに慣れた私は、「頼むから1週間でいいから首位を堅持してくれ、それで十分幸せだ」というメールを返すのが当たり前の体質が出来上がっていた。まさに裏切られる慣れ、という奴である。

 ところが、である。6月に出かけた海外旅行から帰ってきた7月末でも首位。夏休みが終わった8月末も首位である。「アンビリーバボー。どうなっちゃってるの、日本は。」と心の底から思った。「これは、ひょっとして優勝するかも、いやいや、やはり裏切られるのが落ちだ。」と思いつづけた9月。そして、私が一時帰国する日(25日)を待って、ホークスが優勝をしてくれた、と思うのは、身びいきが過ぎるだろうか。15年近くの付き合いで裏切られることに慣れすぎた私をさっぱりと裏切ってくれたホークスの26年ぶりの優勝であった。

 現役で緑のユニホームに袖を通したことがあるのは、わずかに6人。その内の5人は、南海最後の年の88年入団の選手である。ホークスに夢をかけた根本球団社長に優勝ボールを手渡しすることはできなかったが、南海ホークスの魂が立ち去らぬうちに優勝してくれた、と感慨にふけるのは、少々ロマンを求めすぎであろうか。

 ホークスを応援するものにとっての26年の呪縛は去った。とある南海ファンの言葉を引用して、最後の言葉としよう。
「これで、『南海』が正真正銘の心の殿堂入りです。」
福岡ダイエーホークス、初(!)優勝おめでとう。

おまけ
 密かに嬉しいのはこれで、野球評論家の遠藤明夫氏にばかにされずに済むことである。一昨年までは、全12球団のなかでもっとも優勝から遠ざかっているのは横浜だなぁ、ふぉふぉふぉ。」と言えたのが、昨年の横浜優勝から立場が逆転したからである。だいたいなぁ、26年前の野村南海優勝なんて知らんぞ。26年前かぁ、そりゃ長いわ。なんていっても、おいらが知っているのは、弱いホークスだけだもんなぁ。昨年は遠藤氏にあったら慌ててサッカーW杯話に話をもっていって、野球話はしないようにごまかしていたが、今年はだましきれないなぁ、と思っていた矢先のホークス優勝。やっぱり、これも身勝手すぎ?
 で、次の番は、ロッテ(74年優勝)ファンのあなたです。頑張って、話題を逸らして下さい。阪神(85年優勝)ファンのあなたは、そんなロッテファンを見つけて、今のうちにいじめてあげて下さい。って、これ浮かれすぎ?

 編注:本稿は、「「鼎談 今シーズンを振り返る」に触発されて」(穴吹氏)執筆されたものである。
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