岬巡り
高橋 洋 2004年4月18日
岬を訪れたいと思った。
年末のペルー旅行の象徴がアンデス高原だとすれば、日本の象徴はやはり海である。日本は山国だなどと言うが、それ以上に海国ではなかろうか。それも、どこまでも砂浜が続く穏やかな海というより、うねる山々が海まで迫り海の中へと落ちていくと言う風景。そんな日本の原風景と言えば、やはり大海原に突き出た岬であろう。
春の岬と言えば、日本人なら誰でも北海道のあの岬を思い浮かべるに違いない。「なにも、ない♪」などと唄われているのに憧れていざ行ってはみたが、その言葉通り何もなくてがっかりした、などと揶揄されることもあるが、本当に何もないのか?そんな興味もあり、3月の卒業旅行の行き先として北海道近辺の岬を選んだのである。
@竜飛崎
3月22日午前5時に起床。この日は岬巡りの第一弾として、津軽半島の最北端にある竜飛崎へ行くのだ。青森市内のビジネスホテルから青森駅まで歩く。わずか3分だったがやはり北国の朝は寒い。間違いなく氷点下だ。竜飛崎へは6時5分発のJR津軽線に乗る。津軽線は、陸奥湾沿いに青森から津軽半島東岸を北上するローカル線である。15年程前に青函トンネルが開通したため、途中の蟹田までは特急が頻繁に通る幹線に昇格してしまったが、幹線は蟹田から地底に潜ってしまうため、その先津軽半島側の終着駅の三厩(みんまや)まではローカル線のまま取り残されてしまった。目指す竜飛崎は、三厩から更にバスに乗った地の果てにある。
前日、大学時代の親友・高山幸人と再会した(写真)。青森市内の自宅へ招待され、陸奥湾名物の帆立など、奥様の手料理でもてなしてもらい、二人でビール2リットルを消費しつつ5時間も語ってしまった。面白かったのは、実は彼の生誕の地は竜飛だということ。お父上がまさにトンネル事業に関わられていたため、幼少時代を過ごした懐かしい土地なのだ。その後野辺地(のへじ)へ引っ越すのだが、野辺地では友達から「たっぴ」とあだ名で呼ばれていたらしい。青森県内でも竜飛はとんでもない土地なのだろう。
三厩駅に到着したのは7時56分。過疎地の盲腸線(行き止まりになっている路線のこと)の終着駅はどこでも寂しい。そこで線路が途切れているのだ。駅前もがらんとして何もなく、ただ村営バスが一台停まっていた。乗り込むと既に3名の地元のおばちゃん達が座っていて、津軽弁でなにやら喋っている。神経を集中して聞き取ろうとするが、殆ど理解できない。「…オロナミンさ…リポビタンさ…血圧さ計って…。…んだんだ」どうやらオロナミンCとリポビタンDと血圧の関係について高尚な議論を行っていたようだが、詳細は定かではない。これならば北京語の方が聞き取れそうだ。
そのおばちゃん達は結局発車5分前にそのバスを降り、その時点で到着した別のバスに乗り込んで行った。こちらのバスに座っていたのは待ち時間の暇つぶしだったらしい。定刻の8時15分に発車した車内に居たのは、運転手以外に私一人であった。右手に陸奥湾を見ながらバスは半島の先端へ向かう。左手には時折漁村の家並みが流れるが、20分程で目の前に小さな島が見えてきた。そこが終着地の竜飛漁港である(右写真)。
帯島と言う周囲400mぐらいのその小さな島は、津軽半島の先端に張り付くように位置している。その島と半島の間に守られた空間が竜飛漁港で、周辺が漁村になっている。40戸ぐらいだろうか、家々が海岸沿いに身をすくめるように集まっている。すぐ裏は丘陵になっていてその上に竜飛灯台があるのだ。海の側のバス停から歩いて登ること15分ぐらいだが、何と、その間は日本で唯一の「階段国道」と呼ばれている。れっきとした国道339号線なのに、総延長338mの歩行者専用の階段になっているのだ(左写真)。
9時過ぎに竜飛灯台に立つと、目の前に北海道が手に取るように見える(右写真)。す・ごい。これが名高い津軽海峡、その向こうが松前、あっちが函館山、ぐるっと回って下北半島…雲一つ無い快晴のため、津軽海峡の全景が一望できる。それにしても風がきつい。北に向かって遮る物が何もない。だから三厩村は風力発電で有名とのこと。持って行った上着を全て着込んだがそれでも寒い。寒いもう一つの理由は、私以外そこに誰もいないこと。日本でも有数の観光地のはずだが、見渡す限り人っ子一人いない。いかに平日と言えど、天下の竜飛崎の展望台を独り占めできるとは…。
10時を過ぎて、やっと別の観光客がやってきた。そろそろ展望台を下りて竜飛漁港に戻る。その途中に有名な「津軽海峡冬景色」の記念碑があった(左写真)。観光資源になることを期待してか、相当金をかけたのだろう、随分立派な石碑だ。真ん中に赤いボタンのようなものがあるので何気なく押してみると・・・「ババババーン♪」と突然右翼の凱旋車のような大音量が周囲に響き渡った。そう、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」そのものである。「ごらんあれが、たぁっぴみさき、北のはずれと〜」二番以降をコブシを利かせて見事に唄い上げてくれた。余りの音量に始めは恥ずかしかったが、どっちみち誰もいないので、二度も押してしまった。
A立待岬
「立待岬(たちまちみさき)」をご存知だろうか? かなり前に森昌子がこの名前の歌を唄っていたが、どこにあるかは知らなかった。北海道の渡島半島の南端、函館山の東の裾にある、津軽海峡に面した岬である。函館観光の見所の一つだが、函館にはそれ以外に見るべきものが多いこともあり、反対側にある竜飛崎ほどは知られていないようだ。
3月22日、竜飛崎に感動した後で、青函トンネルを通って北海道に渡った。青函トンネルを通るのは、1991年に札幌にて開催された夏期国内総会以来だが、この世界最長の海底トンネルはかなり味気ない。てっちゃんならずとも、期待に胸を膨らませてこの津軽海峡線に臨むのではないかと思うのだが、鮭が泳いでいるのが車窓から眺められるわけでもなく、ただずっと暗いトンネルであるため、自分が今海底を通っているという実感がないまま、あっという間に終わってしまう。当たり前と言えば当たり前なのだが・・・。
北海道に渡って地上に出ると、東へ向かって30分ほどで函館に到着する。この間右手に津軽海峡、さらには本州が見えるわけで、この車窓からの光景もなかなかのものだった。午後3時半に函館駅前から名物の路面電車に乗り、10分程の終着駅から更に市街を歩く。函館の街は津軽海峡に突き出た砂嘴の上にあり、その幅は1kmぐらいしかない。東西を海に挟まれているわけで、函館駅は西側の海に面していたが、歩いているとすぐに東側の海が見えてきた。円弧状の海岸線が美しく汐の匂いも新鮮だが、風が吹き付ける淋しい景色でもある。そのうち函館山の山裾が迫ってきて、ちょっとした丘を越えると前方に津軽海峡が開けた。そこが立待岬だ。
立待岬は南東を向いている。目の前には先ほどと同じ津軽海峡、その向こうに下北半島、右手の遠くに津軽半島も望める。振り返れば函館の市街や函館山が見える。竜飛崎とは逆の景色を見ているわけだが、天気にも恵まれこちらもまずまず。これだけ向こう岸が近いと、何とか陸続きにしたくなる気持ちも理解できる。ここも人影はまばらで強風のため寒かった。20分ぐらいで立待岬を後にする。展望の力としては竜飛崎に大きく劣るものではないが、「とんでもない所に来てしまった感」においては、「北のはずれ」には到底及ばないか。
B襟裳岬
3月24日、午前6時過ぎに札幌駅を出発し、苫小牧(とまこまい)へ向かう。いよいよ今回の旅の最大のテーマである、襟裳岬へ向かうのだ。襟裳岬へは、苫小牧を起点とする日高本線に乗らなければならない。日高本線は、その名の通り、日高地方の太平洋岸を延々と南東に下る。日高地方は、日本のサラブレッドの80%を産出する優駿の世界であり、その長大な盲腸線は昨年の五能線に匹敵する146.5kmに及ぶ。終着駅は様似(さまに)だが、目指す襟裳岬は更にその先だ。
昨晩、二人目の親友と再会した。札幌と言えば中西素子である。札幌駅前で待ち合わせ、事前のリクエスト通り寿司屋に連れて行ってもらった。大学時代からその(国内総会最終日でも乱れていない)美貌を謳われた彼女だが、今でも昔同様スマート&クールであるにも拘らず、独身である。このご時世、どうして美男美女が売れ残るのか?その原因はどこにあるのか??二人でいろいろ語り合ったが、これ以上は秘密にしておこう。
8時1分に日高本線の優駿浪漫号(ただの各駅停車だが車両にはそう書いてあった)は苫小牧を発車。広大な勇払平原を東へ走り、右手に太平洋が見えてきた頃から、南東に向きを定める。期待していた路線だけに自ずから気持ちが高ぶるが…強力な睡魔には勝てない。今回の旅行は、列車時刻の都合上毎日朝が早い。やや単調な風景の中ぐっすり眠ってしまい、気が付いたら沿線最大の街である静内に到着。24分間の停車だったので、改札を出て駅舎内をうろちょろして気合を入れ直す。
10時過ぎに静内駅を発車。すると…お望み通りの優駿の世界が展開し始めた。線路のすぐ向こうに牧場が広がり、サラブレッドが戯れ、大地を駆ける。何と優雅で気高いことか。日本中に鉄道が走っているとはいえ、このような情景はここでしか望めないだろう。牧場は線路の左右にあり、駿馬の向こうに太平洋の大海原や雪を湛えた日高山脈も見える。1時間以上もそのような情景に感動しつつ、あっという間に様似に到着した。
日高本線はここで行き止まり。バスに乗り換えて襟裳岬を目指す。観光バスのような豪華なバスだったが、やはりガラガラ。ワンマンなので、「次はXXXです。お降りの方は、お近くのボタンを押して下さい」の自動アナウンスだけが、繰り返し響く。それでもバスは、海沿いの道路を淡々と南へ進む。浜辺では地元の人々が日高昆布を拾っている。少しずつ少しずつ、北海道の先端へと向かっていることが感じられた。
12時半に遂に「襟裳岬」へ到着。「なにも、ない♪」と唄われた岬だが・・・展望台に立って思わず息を呑んだ(左写真)。視界は330度全て海・海・海なのだ。それも紺碧の海と爽快な空。自分の足元以外、これら二つが全てを占めている世界。北海道の大地が南へ南へと伸び、太平洋に鋭く突き出た岬の周りには、本当に「何も無い」。そして振り返れば、北海道の尾根である日高山脈が海へと落ちていくのが、手に取るように解る(右写真)。まさに、まさにまさに、岬の中の岬ではないか。「何も無い」というより、岬の圧倒的な存在感のみが辺りを支配している。幸か不幸か他に観光客は2、3人しかいないこともあり、わずか1時間だったが襟裳の春を満喫できた。
本当はもっともっとその場でぼお〜っとしていたかったが、後ろ髪を引かれる思いで襟裳岬に別れを告げ、日に何本も通らないバスに乗り様似に戻る。定刻通り正確に走るそのバスの乗客は私一人だった。それにしても、こんな素晴らしい風景を見に人がやって来ないとは…確かに不便な所にある。車を運転しても札幌から5時間ぐらいかかる。しかし、竜飛崎もそうだったが、その素晴らしさが正当に評価されていないようで、もったいないというより、我ながら悔しいのだ。これも昨年の東北論と同じく、地元の人々がPRしようとしないからか?襟裳岬レストハウスのおばさん達の明るさと素朴さが、いつまでも心の中に残った。
C地球岬
翌朝、登別温泉にて目を覚ますと窓の外は暗かった。5日間で初めての曇りかと思って窓を開けると、何と雪が降っていた。それも、ちょっとした雪ではなく吹雪である。チェックアウト後、有名な観光地である地獄谷に訪れる。そこで台湾人と思しき一行に出会う。20人ぐらいの添乗員付きツアーで、恐らく初めてであろう雪の体験に大はしゃぎだった。台湾、韓国、中国などでは、今日本旅行がブームになっているらしい。近い割りには異なる伝統文化を持ち、かつクールな現代文化への憧れもある日本は、彼らにとって手頃な旅行先となっているのだ。日本側もこれに目をつけて誘致に力を入れているとのことで、昨夜の温泉旅館にも「中国語研修会場」という貼り紙があった。そんなアジア人を惹きつける際のキーワードは、「温泉」と「雪」とのこと。その二つを兼ね備えている北海道は、アジアからの観光客数が増えているのではないだろうか。
地獄谷は早々に引き上げ、登別駅へ向かう。今日最終日は千歳空港から東京へ戻らなければならないが、夕方の便までにもう少し時間がある。最後に岬巡りをもう一つと言うことで用意したのは、「地球岬」である。この非常に魅力的な名前の岬は、太平洋に突き出た室蘭市街の外れにあり、渡島半島が取り囲む内浦湾の入り口に当たる。もともとこの名前はアイヌ語から付けられたとのことだが、それこそ地球の丸さを実感できる絶景の岬とのこと。悪天候のため迷ったが、折角だから地球岬へ向かう。
有名な「母恋駅」からタクシーに乗り、10分弱で地球岬に到着したが…とにかく寒い!雪は最早降っていなかったが小雨が降り、遮る物も無い展望台では今回の旅の最大風を記録した。コートのフードも被ったが、寒くて寒くてどうしようもない。晴れていれば内浦湾の向こうに函館方面まで見渡せるとのことだが、曇っているため視界は数mしかない。当然観光客もおらず、展望台にある「幸福の鐘」を凍える手で鳴らして、早々に引き上げた。
こうして、初めての企画「岬巡り」は終わった。これまで私は山と岩の芸術が大好きで、グランドキャニオン、イエローストーン、サハラ砂漠、パタゴニアの氷河と、世界各地の絶景を眺めてきた。しかし、山だけが大地を感じられる景色ではない。地球は実は「水球」なのであり、海こそがこの星を体現しているのではないか。まして四方を海に囲まれた日本にとって、海に突き出た岬は、海と大地を足元から感じられる絶好の場所に違いない。その中でも、今回の旅行の一押しは襟裳岬。何も無い春。「地球の果て」とは言わないまでも、「日本の果て」ぐらいの称号は与えても良いのではないか。それだけの価値がある岬であった。
日本から遠く離れた大陸を訪れるのも良いが、たまには身近な所でゆっくりするのも良い。北海道や東北に限らず、日本には日本の良さがたくさんある。我々日本人がまだまだ知らないような。「とんでもない所へ来てしまった感」とは、決して物理的な距離だけが問題ではないのだ。岬はまだまだ数え切れないほどある。また「岬巡り」をしてみたいものだ。
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