覇道への暗躍〜自由党政権抗争史


   第一章 河本敏夫立つ
 1989年12月14日、夜も半ば更け始めた頃、次代の政界を担うニューリーダーと目される若手議員達が続々と砂防会館に終結してきた。砂防会館は渋谷区恵比寿、閑静な佇まいの中にある。既に辺りは暗く陰りこの日の会合の重苦しい雰囲気をより以上に醸し出すかの如くであった。召集の号令を発した人物は現職総理金丸信、会の趣旨は各議員の次年の動向、そして次期総理の行方は、である。
 この会合が何れ開かれるであろうという噂は早くから伝わっていた。嘗て金丸が総理に内定した際も当時の三木首相主催の同趣の会合が行われたという。当初開催は河本自由党幹事長が外遊に出発する直前を狙っての保守党各調整委員会の空白となる水曜日、11月15日であるとの憶測が強かったが実際はその丁度一月後となった。金丸が外遊前の河本に意向を告げるのみに止め充分な思索時間を与えてから、帰国を待っての決定とする旨を打ち出した故である。
 会合には羽田自由党調査局長が名付け、以後一般に広く知られた非公式な名称があった。その名は「Xデー」である。

 総理の趣旨説明を以て開会、穏やかに「今後の政界に付いての各人の展望」という議題から始まる。金丸の深謀遠慮は「公然の秘密」であっても秘密である限りそれをそのままに扱う点にある。「Xデー」と名うって開催された訳ではないのだ。飽く迄次代への展望の為の会合に過ぎない事に表向きはなっている。
 この時点での次期総理候補者は河本の他、宮沢民主党幹事長がおり、橋本環境庁長官にも僅かな可能性が残されていた。勿論金丸の意志は河本、しかし並いるニューリーダーの胸中は複雑だった。入閣が既に内定している者、閣僚候補とされながらも必死に忌避する者、既に政界に見切りを付け転向を謀る者、端から相手にされていないが形式として召喚された者。宣伝相としての入閣が確実視された安部自由党広報局長にとっても理論家でうるさ型の宮沢より党務を共に遂行し気心も知れた河本の方が施策も自由に執行出来扱い易く、河本に決定してくれるに越した事はなかったが、ほんの数日前の河本の言動から見るにこの日の決定は有り得まいというのが一般的な見解だった。

 議題は焦点である「各人の今後の政治活動」、詰まりは政界に留まるか否かを問う争点に入った。誰という事もなく極自然に宮沢が議長を務める形になっている。
 宮沢喜一は民主党広報局長から幹事長と政治の王道を歩み政界きっての理論家として早くから次期総理候補として名高かったが、会議が常に"宮沢節"のオンパレードに終わって仕舞う等の批判も強く、内閣に対抗する党派横断の新経済研究所を旗揚げする構想が表面化してからは他のニューリーダーの顰蹙を買い、総理を固辞し財界に転出するという見方が強まっていた。
 繰り返される「党に残り大局的な立場から後援したい」という、かのロッキードに於ける小佐野賢治曰く「記憶に御座いません」にも似た無意味なる発言、そして浜田サ新党副代表の相変わらずの大言壮語。殆どの出席者の脳裏にあるのは穏便に政界引退を図る事のみである。しかし僅かながら注目すべき言質はあった。山東新自ク国際局長が外部世界取扱いを匂わせた事、山口自由党研修部会長が政界引退を明言した事、伊東サ新党代表が党に残る事を言明しながらもその中に政界に残留するという響きが含まれていた事である。山口敏夫の明言は既に党研修部会長就任の際も固辞し続けた事で予想された事態ではあったが、出席者が明言出来ない部分を敢えて付いた点に於いて大きな意味を持っていた。
 安部が宣伝相就任を宣言した後、河本に発言権が回る。
 ここで言葉を選ぶ河本に代わり金丸が代弁、「この状態では誰も(総理を)やるとは言えんだろう。もう少し皆で話し合ってじっくり考えて欲しい。まぁ年寄りが居たんじゃ話しにくかろう、儂はここで帰ろう」、議論は再び空回りに至るかに見えた。が若干の休憩を挟み宮沢がこの日一番の焦点となる言葉を吐く。
 「この辺りで議長のマイクを河本君に渡した方が良いのではなかろうか」。

 「そうですね」、立ち上がる河本、この時あっけなく次期総理が決定した。直後には河本自信の口から総理への立候補を告げる発言が続いたが安心し切った人々の耳にはもう河本の声など聞こえてはいなかった。河本がスクッと立ち上がった瞬間が長い「Xデー」に於けるメインエベントだったのだ。
 「それでは夜も更けて参りました事ですし、他に発言がなければここで休憩という事に致しますが御異存ありませんか」。すかさず宮沢が後を受ける。思い起こせば宮沢は議長役を引き受ける事で自らを巧妙に議題から一歩遠ざけ、更には巧みにマイクを河本に委譲し総理就任言質を引き出した。そして河本総理内定の直後に時間を区切る事なく休憩に持ち込んだ。会議の時間配分には定評のある宮沢がわざわざ無期限休憩としたのは会合をこのまま「河本総理」のみで終わらせ、面倒な組閣を棚上げにして閉会に持ち込んで仕舞う意図に違いない。不安に感じた安部と山口が無邪気に歓談を続ける河本を会館前の路地に呼びだした。「幹事長、このままでいいのか。皆後の人事も全て幹事長に任せたと安心しきっているぞ」、「すぐ休憩を打ち切って皆に協力を呼びかけ、まだ宮沢以下他の大物にも責務のある事を明確にしておかなければならん」。柔軟な発想と頭脳の回転に定評のある河本も政界の権棒術数には疎い点があった。そこが河本の稚気とされる弱点でもあり愛される長所でもある。
 「Xデー」に於いて極めて微妙な立場にいる人物はいまひとり存在した。蔵相に擬せられた羽田孜である。自由党調査局長を一期半に渡り務め荒廃した党財政を立て直した羽田は保守調査委員会に於ける主幹選出の際竹下蔵相にその任を委ねる様策動しながらも逆転で主幹に選出され、当然蔵相に昇格するものと理解されていた。羽田本人は蔵相辞退を意図した「Xデー」での発言も明確さを欠き、尚且つ党代表就任を表明していた田川進歩党調査局長が「羽田君の遺志(ママ)を継いで今後保調委を進めていきたい」と発言した事から羽田蔵相ムードで全員が納得した。
 後に展開される羽田の暗躍はこの「Xデー」の形勢不利に端を発した事に鑑みれば結果的に田川の強い主張、羽田蔵相擁立は返って逆効果だった事にはなるが、ひとまず羽田の進退は当人の意志に関わりなく"前向き"で収まった。

 再開後若干の強引さを残しつつも、河本によるニューリーダーへの形ばかりの協力要請が行われ「Xデー」は幕を閉じた。この会合の残した意味は大きい。果たして河本は自らが総理に就く運命である事は、金丸との会談を通じて悟っていたのであろう。しかしスクッと立った後総理就任を明言したのは失敗だった。正確な判断力と充分な情報を持った者なら何れ河本が総理の座に就く事は火を見るより明らかに映っていた筈だ。飽く迄焦点はボカし、就任の可能性をチラつかせるだけで良かった。それならば後の組閣工作の全責任を追って仕舞う事も無かっただろう。一方この年五月には既に宣伝相内定が伝えられていた安部も入閣に百%前向きだった訳ではない。ただ何れにしろ安部が就任する事は避け得る術もないならば入閣の先陣を切って河本の信任を得、人事を自らに好都合に操る事が得策との配慮の基だった。安部の「Xデー」ニューリーダー発言から思い浮かべた腹案は自らの政策分担者としての山東昭子の郵政相、そして伊東正義の副総理・官房長官就任だった。
 副総理は二階堂経済企画庁長官の昇格が有望視されていた。当選一期目に三木内閣の官房長官秘書官を務め続いて金丸内閣の閣僚と党務を経験しなかった二階堂には論功正賞も含めての副総理就任は周囲も納得し本人も自認していた節があった。頑固だが温厚、二代に渡り内閣の裏側を見てきた二階堂に副総理としての資質に欠ける点があるのではない。事実結果的に見れば彼の副総理で正解だったのだろう。が問題となるのは河本の女房役となり得るか、詰まる所官房長官の肩書きを与えられるかであり、他の一騎当千の閣僚どもを抑え切れるかが鍵だった。安部は保守広報委員会に保代委からの派遣として参加していた伊東を評価していた。伊東ならば自らを抑えて河本の政策を補佐する激務が務まるだろう。嘗て二階堂と共に官房長官秘書官を務めていた事で経験にも欠ける点はない。その際二階堂は国会を取り仕切る衆院議長に祭り上げる他なかろう。安部は以前会談に於いて金丸が伊東自治相を示唆していた事から官房長官としての伊東を想起したのだった。が政界に大きく貢献した二階堂を棚上げする事が唯一の懸念される部分ではあった。
 さて多くの歪を残した「Xデー」だったが振り返れば外務族では入閣拒否を明言した山口以外誰も参加しなかった事はその後の外相決定に至る難航を暗示していたと言えよう。この後山口自由、桜内民主、倉成税金、三党研修部会長に中曽根外相を交えた外相人事を巡る工作を始め、閣僚人事に纏わる策動が長く続く事となる。 河本がそれ程迄に人事に苦労した由縁は何処にあったのだろう。党で役職に就けば執務遂行上必然的に若手議員を中心に自派閥が形成されていくが、幹事長には組織構成上の当然の帰結として秘書官が存在しないばかりか、決して補佐役にも恵まれていた訳ではなかった。河本は孤独だった。それはこの「Xデー」に於ける起立失策と共にこの後の延々たる人事策の起点となっていたのであろうか。

 この物語は悲惨な状況の基に次期総理就任が内定した河本自由党幹事長が、最終的に内閣を如何に運営し成功を成し遂げたかを描くドラマである。読者の皆様方にはこの先長らくお付き合い戴きたい。

(第一章 完)

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