美食三昧紀行 初夏の南紀に幻の魚を求めて
(00/6)
 [平島俊彦氏=写真も] いきなりだが、幻の魚「クエ」を求めて尾鷲くんだりまで行ってきた
 (九州ではアラというらしい)。主催者は内野洋次郎氏、
3月の原山検察官の送別会(現在奄美
  大島で新婚生活中)で提案され、その時は多数の賛同を得たものの、いざとなると名古屋から
  もかなり遠い尾鷲まで強行軍でという酔狂な者は殆どいず、洋次郎氏の兄の耕太郎氏、ダニ氏
  私の全4名で決行されることとなった。

 美食の旅は名古屋の内野家から始まった。5/26(金)20時頃官舎に到着すると、既に周到な主催
  者がベランダで七輪を準備しており、地元民ちゃっく(花岡道世NZ88)氏とともにまず「桑名の
  蛤」を食す。すぐに地酒に移った我々の前にこれまた主催者が美濃の窯で自ら焼いたという
  陶器がさりげなく差し出され、驚愕す。その後暫く食べるしか能がない私を傍らに、ちゃっく
  氏と主催者で焼き物談義が行われた後、2品目「長良川のあゆ」を食らう。そして京都の名工
  に打たせた業物の出刃・小出刃(主催者ネーム入り)の話を挟み3品目は「名古屋コーチン」。
  この頃内野耕太郎氏が到着、その激ヤセぶりにまたも驚く。その後一同が洋次郎氏の税務行政
  の苦労話に耳を傾ける頃に「砂肝」の逸品が出品され、田中祐美子氏(NZ88)が23時近くに到着
  した頃には、メインの「松坂牛」を肴に政治談義に花が咲いていたと思うが、この頃すっかり
  いい気分になってしまったので定かでない。何れにせよ、この豪華な宴が終わったのは午前も
  4時頃のことであった。
 翌朝は朝一の新幹線で東京を発ったダニ氏を迎えるため
  6時半起床(眠かった)、8:15発南紀1号にて尾鷲へと
  向かう。同じ紀伊半島の東側なのに片道2時間半とは、
  半島の広大さに改めて驚愕。昼に尾鷲到着頃から雨模様
  で乗り継ぎの列車(非電化)もないので暫く市内散歩。
  その後鈍行で2駅先の無人駅に行き漸く尾鷲シーサイド
  ビューに到着した。既に雨は本振りでさすが日本一雨の
  多いと習ったところに他ならない。
 投宿後は散歩組(ダ・耕)、釣り組(洋・平)に別れるが、
  雨足の強さに主催者以外は何れも中途で断念し風呂へ。
  風呂は海に突き出した豪快な眺めだが、磨り硝子でなく
  雨中単身突堤で釣りを続行していた主催者から、丸見え
  だったことが後で判明した。豪気だが女性が参加して
  いなかったのは幸いだったかも知れない。
 ほどなく夕食。今回の主賓であるクエが登場した。さすがの味覚で
  食感はフグに近いが味は鯛よりも濃厚、鍋にするとあんこうの風味
  があるとの声も。更にはほかの刺身も美味満喫。食後は金融政策・
  政治動向・対米戦略・経済学/法学/政治学の接点といったお堅い
  話から、耕太郎氏のネットナンパ(人妻専門?)成功術の披露まで
  幅広く談義が続けられた。但し洋次郎氏は殆ど曝睡。お疲れさま。
  前日に引き続き最後はただの呑んだくれ達と化した。

 そして最終日28日は朝食後すぐ宿主所有の船で、熊野灘クルージング
  (写真)。当日は波高5m以上あり、漁船は1隻も出港しておらず、
  そんじょそこらのジェットコースターよりずっとスリリングな航海

右は激ヤセ内野耕太郎氏(TO87)
  もご主人の信じられないような操船術により無事寄港した。道がないので陸地からは見えない
  沿岸の奇観も一見の価値があり満足な船旅と言えよう。
 尾鷲を10時半頃出立し、名古屋で昼食後解散。結局ダニ氏は1日半の旅程のうち実に8時間を
  移動に費やす強行軍で、これにて美食三昧の旅は終わった。
原点回帰
(00/5)

 本頁は来る6/7に、創設より4周年を迎える。そこで改めて創設
  間もない96/7/10時点の表紙頁を再掲したい。詳細は左画像を
  クリックされたい。

 言うまでもなく基本構成は当初から変わっていない。今更に
  変えられないというのも事実だが一方で昨今、本頁にも伸び悩み、
  乃至は"沈滞"の魔手が漂い始めていることからすれば、この辺り
  で大きな展開が欲しいという気もする。

 例えば、海外居住が本誌への接見度を高めることは傍証(?)
  されており、これを活かし海外発情報の項を設けるなどの新企画
  も一案だろう(平島俊彦氏提案)。
 今後とも皆様から新機軸の提案を戴くとともに、原点に立ち返り、今暫く歩みを続けながら黙考
  させていただきたい。ご意見は掲示板へどうぞ。

棒を振る
(00/5)

宇都宮CCにて。丁重なキャディー氏に多謝
ゴルフが紳士と淑女のスポーツと言われるのは、第一には
 マナーの重視、スコアの自己申告など、プレーヤー間の
 暗黙の信頼関係の上に成り立っているからだが、同時に、
 金銭的な負担が大きいこともその一因であろう。従って、
 ある程度年齢を重ねなければプレーすることすら覚束ない
 訳だが、一方で足腰さえ立てば老いても成し遂げられる
 希有な競技という利点もある。

去る4月22-23日、平島俊彦氏(主催)、三浦章豪・朋子夫妻、
 平田泰隆氏、粥川の5名によるゴルフが行われた。関係者
 間のコンペ実現は大人数の日程調整が難航し、永年の懸案
 事項となってきたが、今回まず小人数で試行的に実現を
 見たもの。三浦夫妻が交替で啓吾氏養育に回ったため、
 いきなり2日間2ラウンドの強行軍となった。
 実力No.1の平島氏、「三浦のスプーン」で勇名を馳せた 
  三浦夫氏から、連日弐百打を超え帰途にはゴルフ断念を
  匂わせた粥川まで技量的には大きな開きこそあれ、総じて 
  まだまだこれから。ともあれ、仲間内で気兼ねなくプレー
  する喜びは十分に感じられ、幸甚の旅立ちと言えようか。

 今後、エイジ・シュート到達の日に向け長い道程を歩んで
  いくだろうが、ゴルフ社交界デビューの日はもう少し先の
  ことになりそうである。

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走る演歌歌手、走るゴーダ家
(00/4)
 [文=平田泰隆氏、写真=合田家] まだ肌寒さが残る3月12日、
  熱海で行われたマラソン大会(12キロ)に行ってきました。
  参加者は私、合田隆太郎・紀子夫妻(ほかに応援者として隆星氏
  <合田家長男>、山下哲博氏SP89)。隆太郎氏は知る人ぞ知る
  プロ・マラソンランナー(所属アイセック)です。フルマラソン
  の最高タイムは2時間40分台を誇り、当日も2週連続のマラソン
  参加とタフネス振りを発揮していました。そんな氏と異なり、
  ズブの素人、かつ約12年ぶりのマラソンであった私は、大きな
  不安を胸に抱きながらスタートラインにつきました。

 隆太郎氏の指導で入念なストレッチを行ったものの、やはり根本
  的な練習不足を補うまでには至らず、途中で足がつって棄権して
  しまうのではないか。。。などと逡巡しているうちに、「パーン」
 という号砲が聞こえ、いよいよレースのスタートです。1キロ6分とゆっくりしたペースで走り、7キロ
 地点までは何とかそのペースを維持したものの、それを過ぎてから急に足が動かなくなりました。何度
 も棄権を考えましたが、頑張って走る周囲の人達や沿道からの応援の声に励まされ、何とかゴールする
 ことができました。合田氏に遅れること30分弱。しかしタイムより兎に角完走できたことでもう大満足
 でした。因みに、紀子夫人も5キロコースに参加し、大雨の中見事に完走を果たしてらっしゃいました。

レース後は熱海の湯に
 つかって筋肉をほぐし
 ましたが、以後1週間は
 歩くのが辛かったです。
 しかし、なかなかの
 充実感でした。次の
 レースが楽しみです
 (なんちゃって)。
[解説=堀内一三] 隆太郎氏の名ランナー振りはつとに伝えられており、
前週も旧内閣旅行参加を断念し、走り続けていたのは本文中にある通り。
平田氏も既に隆太郎氏の応援者としてマラソンの舞台には精通しており、
満を持しての出場と言えよう。これを機に関係者のマラソン熱が高まる
かは定かでないが、まずは彼等の走る勇姿を目の当たりにすることから
始めてみては如何だろうか。
なお「走る演歌歌手」は転じて「走るラッパー」になる可能性もある。