富士登山隊
(04/8)
[筆/写真=高橋洋]
五合目:登山出発
 7月31日(土)午前11時。富士登山隊は、富士山の須走口の五合目に終結した。そのメンバーとは、
  ・隊長 :松田  浩(NA88)
  ・副隊長:花岡 道世(NZ88)
  ・事務長:高橋  洋(TO88)
  ・隊員 :小松 雅和(HI90)
      :関  千春(JO88)
      :前川 賢司(KG88)
      :渡辺未砂緒(NA88)
 の7名であった。折からの迷走台風10号の影響を受け、登山実現が危ぶまれたが、前夜に「決行」との隊長の判断が下り、7名は期待と不安が入り混じった気持ちを抑えつつ、ここに集まったのである。
 標高2000mの五合目までは、楽に車で行くことができる。すぐ近くの御殿場市内は晴れており、東京と変わらない暑さだったが、五合目は雲が垂れ込め、冷たい雨が断続的に降っていた。車の中で、五合目の茶店で、天候の変化を見守って待機する人が数多くいる中、我々もゆっくりと登山準備をする。お昼ご飯を食べ、登山の装備をし、時間をかけて体をその標高に慣らす。結局午後1時、最終的に隊長の判断により、登山を開始することとなった。(右写真)
 今回、隊長の任を負っている松田浩は、富士登山企画の言い出しっぺの一人であり、数少ない富士登山経験者である。数年前に、会社の友達と登頂を試みたが、八合目付近で脱落者を出すに至り、山頂制覇を断念したとのこと。それ以来リベンジの機会を探っていたが、今回事務企画能力のある高橋と提携することにより、再挑戦が実現することとなった。
 隊長は事前の準備段階では存在感が薄かった。隊員同士がメールで何を買った、これも買った方が良いと盛り上がっている時にも、殆ど首を突っ込んでこなかった。経験者であったこともあるだろうが、仕事が大変忙しく、妻子もある身としては、中々そこまでは付き合う時間が無かったのであろう。この点どこまで隊長ぶりを発揮してくれるのか、そもそも登山に参加してくれるのか、やや懸念されていたのだが、当日いよいよ登山を開始する段階になり、大学時代に培ったリーダーシップを見事に発揮し始めた。
 まず最初に、「今回の登山では登山隊として一致団結して行動し、全員で頂上を目指す」との方針が、隊長より明確に掲げられた。隊員の間では体力差もあるし、歩くペースも様々である。しかし、一人として離れることなく、常に全員で行動することとなった。また、五合目の茶店のおじちゃんから山の状況について情報収集し、全員の荷物を点検し、更に真面目に全員で準備体操も行い、念には念を入れた上で登山開始に至ったのである。
 一方、事前の準備段階で大活躍だったのが、小松隊員である。元アイセック日本委員会財務担当にして、誰が見ても血液型A型の緻密さを如何なく発揮し、頼まれもしないのに詳細の持ち物リストをエクセルで作り、全員に送付してくれた。必須の防水服や登山靴を始めとして、耳栓やエアーサロンパス、フリスクまで記入してあるそのエクセルシートに一同は驚愕した。但し、開いて見ていない人も多いらしい。

六合目:快適な富士登山
 ともかく登山は始まった。山の上の方は風雨が激しいようで、登頂を断念して戻ってくる人ともすれ違う。そんな中、休み休み一合ずつ登っていくとの方針の下、隊員は万全の装備で登り始めた。と、すぐに暑くなってきた。標高2000mとは言え、真夏である。その辺りの気温は20度ぐらいであろうか。防水の上下を着て体を動かせば、すぐに汗が出てきた。幸い雨は殆ど止んでしまったので、つい先ほど着込んだ上下を脱ぎ、みんなTシャツ一枚になる。(左写真)
 午後2時頃、六合目に到着した。標高2400m。全部で1700m少々登ることを考えれば、既に1/4近く登ったことになる。「15分歩いて3分休憩する」ぐらいのペースで快適な林間コースをゆっくり進み、会話も弾む。なるほど、これぐらいのペースで行けばいいんだ。隊員全員にまだまだ余裕があった。たまに思い出したように小雨が降るが、天候も何とか持っている。これなら何とかなりそうだ。
 事前準備で盛り上がっていたのは、小松隊員に加えて花岡副隊長である。花岡副隊長は、松田隊長、高橋事務長と共に言い出しっぺ三人衆の一人であり、初めての富士登山ということもあり、独身貴族の懐を活かして近代装備に大胆な投資を行い、事前準備に奮闘していた。小松隊員の細かい準備話に付き合える「嬉しがりや」は花岡副隊長しかいなかったという話もある。7名のメーリングリストの上では、この二人の間で頻繁なやり取りが続いていた。
 その元気な花岡副隊長が、六合目を過ぎた頃から無口になってきた。標高にして2500mを越え、確かに酸素の薄さを実感し始める頃であった。が、急に、先ほどまであれほどはしゃいで富士山の杖を振り回していたのに、黙り込んでしまった。頭が痛いなどの高山病特有の症状は出ていないようだが、どうも辛いらしい。松田隊長が事前に、「えてして登山で危ないのは、お調子者のチャックのようなやつ…」と冗談を言っていたが、それが現実のものになってきた。隊長の指示により、休憩のペースが「10分歩いて3分」に縮められる。

七合目:暴風雨
 標高2700mの本六合目を過ぎた頃から、風雨が強くなってきた。灰色の雨雲が空を覆い、樹林限界を超えた山肌剥き出しの吹きっ曝しの中、横から下から雨が吹き付ける。さすが台風である。富士山である。これには堪らない。全員再び防水服の上下を着込む。(左写真)
 今回、富士登山を一番舐めてかかっていたのは高橋事務長であった。昨年末に標高4000m級のティティカカ合宿をこなし、高山病に対する免疫は完璧に備えているとの思い上がりからか、はたまた学生ならではの厳しい予算事情からか、僅か100円の新規投資(軍手)のみでこの登山に挑んだ。上は自分では防水と思っていたが殆ど防水になっていなかったハーフコート、下は普通の綿ズボン、靴はペルーで爪先が割れた前科のあるトレッキングシューズ。高尾山にでも登りそうなその軽装で、富士山×台風の悪条件に立ち向かうのは、勇敢をすっ飛ばして無謀だった。気温15度、体感気温10度以下の環境で、特にズボンがびしょ濡れになり、下半身が冷えて冷えて、もうこれまでかと思った。
 それでも何とか標高2950mの七合目に辿り着いた。午後4時半。今回の富士登山の中でも、一番辛かった時間帯の一つだ。ここで大休止(右写真)。高橋事務長のみならず全員が雨に打たれて疲労困憊しているが、殆どの衣類を既に着込んでいるため、これ以上自らの体を暖めようがない。各合目にある山小屋には、登山に必要な大抵のものは売っており、金に余裕のある者は、温かい飲み物で体を癒す。500mlのペットボトル300円、ホットコーヒー400円、更に便所200円。基本的に上へ行けば行くほど値段も高くなっていく。富士の沙汰も金次第なのだ。
 松田隊長は、ここで大きな判断を迫られる。この暴風雨の中、これ以上登山を強行することには大きな危険が伴う。既に花岡副隊長は体力の限界に達している。高橋事務長は寒さに震えている。黙っている他の隊員も、相当疲労が溜まっているようだ。今ならば目の前の山小屋でゆっくり休める。これ以上高度を上げれば更に風雨が強まる恐れもある。一方で、3000mに達しない段階で今日の登山を終えてしまえば、明日の登頂は非常に難しくなる。七合目の山小屋のお兄さんとも相談し、花岡副隊長の状態を確認した上で、松田隊長は更に進むことを決断した。隊員はそれに黙って従った。
 標高3000mを越えると、幸いなことに雨は収まってきたが、風は相変わらずである。ずぶ濡れになったズボンが乾いてくるほどだ。更に日が落ちて来たため辺りは暗くなってきた。自然と気が滅入って来る。寒さに耐えていた高橋事務長が、訳のわからない奇声を発し出した。それに笑い返す元気があったのは、関隊員である。関隊員は、実は唯一の富士山の登頂体験者であり、登山経験が豊富なことから、装備も山の常識もしっかりしていた。気象情報を見るためにわざわざ小型テレビまで持ってきて、登山開始直前に松田隊長から荷物を軽くするように注意されたほどである。事前の準備でも他の隊員に的確なアドバイスを与え、登山が始まってからも重要なムードメーカーを務めてくれた。
 本七合目(標高3250m)を越えた頃は、よく覚えていない。しかしここまで来て、本日の当初の予定であった八合目を断念するという雰囲気はなかった。この段階では「6分歩いて3分休む」のペースになっていた。それも、高山病で限界に達していた花岡副隊長が、休憩のペースを自然と決める形になっていた。6分程度歩くと、くねくねの登山路が曲がる地点で地面に倒れこみ、大の字に仰向けになる。そこで隊全体が小休止する。それでも3分ぐらい経つと、花岡副隊長は自らむくっと立ち上がって足を引き摺って歩き出す。すると隊全体も歩き出す。それを誰も文句を言わず、辛いとも言わず、無言のまま延々と続ける。本七合目から目の前に見えていた八合目は、歩いても歩いても遠かった。しかし、午後6時半にとうとう八合目に到着した。

八合目:江戸屋に到着
 八合目の標高は3350mだ。2000mから1350m登ったことになり、頂上まではあと僅か400mだ。ここには、我々が今晩宿泊する予定の山小屋・江戸屋があった。多くの隊員にとって、「山小屋」というものは初めての体験であった。それは、吹きっ曝しの山肌に張り付いている、まさに「小屋」である。中は板敷きになっており、丁度夕食時だった。予約をした高橋事務長は、山小屋のお兄ちゃんから、「まずは宿帳に記帳を」と言われるが、ぐっしょり濡れた軍手の中にあった手は、悴んで悴んで字が書ける状態ではなかった。やっと寝床に案内される。そこは、巨大三段ベッドという空間で、一層の小屋の中が三段に仕切られており、各段には湿った布団が敷き詰められていた。敷布団と掛布団の一セット当たり、二個の枕が並べられており、男女の別もなく、そこに雑魚寝することになる。(左写真)
 このような描写をすれば、読者は何と不快かつ窮屈な環境かと思われるかもしれないが、風雨の中疲労困憊した我々にとって、それはまさに天国のような環境だった。勿論雨は降ってこない。風だって入ってこない。特に暖房器具はないが、気温は15度ぐらいだっただろうか。何よりも濡れた衣服を脱ぎ、疲れた体を横たえることが出来る。花岡副隊長は布団の上に倒れこんだまま起き上がらなかった(右写真)。高橋事務長はズボンを脱ぎ、唯一乾いていた(それまで履いていなかった)短パンに着替えた。それだけで生き返ったようだ。
 そのまましばらくの間夢の中を彷徨っていたが、下から呼ばれた。午後7時半頃だったが、ようやく夕食の時間のようだ。既に他の客は夕食を食べ終わっており、みんな寝静まっている。要するに、我々はこの悪天候の中、夕方最も遅くに到着した宿泊客だったということだ。我々は最後の夕食客として入り口近くの「食堂」に移り、ボンカレー(ククレカレーという説もある)の夕食を食べる。この山小屋は一泊二食で7500円だったが、ボンカレーだけでは少々もの足りない。追加でおでん(800円)やうどん(800円)をオーダーする隊員もいた。温かいものが、五臓六腑に染み渡る。やっと生気を取り戻してきた。
 夕食を食べ終われば、あとは寝るだけである。山小屋にはお風呂も無ければ洗面所もない。便所は外だ。少しでも顔を清潔にしたいと、女子隊員が「ビオレ・サラサラシート」で顔を拭く。「これは腋の下を拭くものではないのか?」と一頻り話が盛り上がる。そんな無駄話ができるほど、全員の体力も気力も回復しつつあった。歯磨きが大好きな高橋事務長は、外に出て歯磨き粉を付けずに歯を磨く。寒い!!!もう雨は降っていないが、強風は威力を増しており、体感温度は5度ぐらいか。この状況で短パンは厳しい。寒さに飛び跳ねながら歯を磨く。その目の前の暗闇は、実は雲一つ無い快晴だった。大きな月が青白い光を放って神々しく輝いている。その月光が、自分の足元を覆い尽くした雲海を照らしていた。

二日目早朝:山頂アタック
 日付が変わって8月1日。午前1時に山小屋のお兄ちゃんに起こされる。「朝です。頂上でご来光を仰ぎたい人は起きて下さい」との声が、宿全体に響き渡る。勿論、それでも起きない人もいる。朝まで寝ているのも自由だ。一番疲れていた花岡副隊長は、このまま起こされないことを心から願っていたとのこと。それでも我々は支度をし、下の食堂に集結した。松田隊長が全員の状況を確認した上で、頂上を目指すことを宣言する。体調不良の花岡副隊長の荷物は他の隊員が持つこととし、また水の残りが少ない者には余裕が有る者が分け与える。チョコレートや飴を持ってきた者は、それを全員に配る。そして午前2時、朝ご飯の弁当を宿からもらい、全員で江戸屋を出発した。(右写真)
 標高差にして400m。しかし、ここからが本当に長かった。時間が時間なだけに外は真っ暗な上、昨日にも増して風が強く、異様に寒い。頂上に近くなり、当然のことながら傾斜がきつく、道も迂回を重ねることになる。更に、標高が高いため空気はかなり薄い。我慢して登れば登るほど薄くなるというのも辛い。もう一点。この朝の情景で昨日とは決定的に違うのは、登山者の多さだ。富士山の登山路は主要なものだけで4つあるが、我々の須走口は八合目で山梨側から登ってくる吉田口と合流する。その上富士登山者は、その殆どが朝の登頂を目指す。従ってこの時間、頂上付近は大渋滞なのだ。朝の2時、3時にこれだけ多くの人が列を成して、黙って同じ方向に歩いていくことなど、日本広しといえどここ以外ではありえない。それも、ほぼ全員が炭鉱夫のようなライトを頭に付けている。それは上から見れば延々と続く光の折れ線だった。
 この渋滞のため、歩行速度は昨夕より更に遅くなった。100m進むのに5分以上かかっていただろう。道幅が狭く人も多いため、自然に二列縦隊になり、みんなゆっくりゆっくり一歩ずつ踏みしめながら進む。それでも所々で倒れこんで酸素缶を吸っている人、彼氏に介抱されている彼女もいる。我が登山隊は、松田隊長の指示により、今朝は隊列を固定して歩く。渋滞の中ではぐれないためだ。先頭を前川隊員が守り、そのすぐ後をペースメーカーの花岡副隊長、そして今日は雨も降らず元気な高橋事務長、今日も元気な関隊員、力が有り余って落ち着かない小松隊員、淡々とマイペースで歩く渡辺隊員、そして取りは松田隊長である。
 前川隊員は、今回の富士登山に備え、一年がかりで何と15kgの減量に成功した。久しぶりに会った友達からは、「別人のよう!」と称されるその精悍な顔つきを見込まれ、松田隊長から特に先頭を指名された。その期待に応え、贅肉を落とした軽やかな足取りとセクシーな腰つきで、余裕のロイヤル登山だ。すぐ後ろの花岡副隊長を気遣いつつ、全体をリードする。途中、暗闇のために道を間違えたこともあったが、松田隊長の機転によりすぐに元へ戻り、事なきを得る。
 今朝の花岡副隊長は、渋滞のペースに随分と助けられたようだが、それでも5分も歩くと昨日と同じように仰向けにぶっ倒れる。そして3分ぐらい休んで黙って立ち上がる。立ち上がるとまた隊は進み始める。ヘッドライトの灯りを頼りにというより、渋滞の人の列にただ付き従い、少しずつではあるが、我々のペースで登っていく。午前3時前に本八合目(3400m)を過ぎ、次第に東の果てに赤味がかかってきた。

九合目:ご来光
 午前4時を過ぎると、赤い線が随分と長くなってきた。ご来光が期待できそうだ。目の高さに雲は一つもなく、遮るものが何もない。快晴だ。目線を下に移すと、下界は厚い雲で覆われている。その雲と空の境界、即ち地平線でも水平線でもない、「雲平線」が赤く伸びている。雲海をよおく見ると、一箇所だけ雲がかかっていない所があった。何とそれは箱根の芦ノ湖だ。まさに、富士山の九合目だからこそ見られる絶景である。
 午前4時半頃になり、周囲が立体的に明るくなってきた。日の出も間近ということで、ご来光のために大休止し、足場を確保して腰を据える。標高にして3600mぐらいだろうか。須走口は登山路が東側を向いているため、天気さえ良ければどこからでも絶好のご来光を仰ぐことができる。周りの登山客も、足を止めて座り始める。
 午前4時45分、雲平線の下から太陽が昇ってきた(左写真)。周りが一気に明るくなった。これぞ夜明けだ。感動した。隊員はみんなで感動した。感動を分かち合った。これまでの疲労も、一瞬どこかへ飛んで行ってしまったように感じた。他の登山客もそうだ。顔見知りもそうでない人も、あの時間にあの場所で同じ空間を共有していた者達の間には、何かしらの共通の感情が芽生えていた。ご来光を背に写真を撮り合い(下右写真)、一頻り余韻に浸っていたが、また5時頃から歩きだす。もう山頂は見えている。あの鳥居の向こうこそ山頂に違いない。俄然元気が出てくる。太陽が昇ってきたことにより、気温もぐっと上がってきた。太陽の偉大さを痛感する。
 今回の登山隊で、事前に最も登山に対して悲観的であったのは、渡辺隊員である。登山の経験は全くなく、最近は特に運動もしていないため、体力にも自信がない。実際、か細い体をしており、直前まで富士登山隊に参加するか、迷いに迷っていた。最後は副隊長や事務長の強引な説得に押し切られる形になったのだが、登る自信は全く無かったと言う。そのため、登山隊で唯一酸素缶まで持参したのだが、結局それを一度も使うことなく、一度も倒れることもなく、すいすいと登ってきてしまった。「御来光が仰げるとは思ってなかった!」と感動していた。得てしてこういうものである。

登頂!
 午前5時半、富士山の山頂に到着した(左写真)。全員一緒だ。我々は遂にここまで登ってきた。みんなで健闘を称え合う。表現しようの無い充実感が、体中の疲労感を押し流す。そこには富士大社の社があり、多くの登山者がお参りしている。我々もここまで登ってこられた幸運を感謝する。その側には、山小屋や売店が複数ある。多くの登山客が休んでおり、飲食物だけでなく、普通の記念品なども売っている。我々も一つの茶店に入り、大混雑の中何とか席を見つけて腰を下ろし、山小屋からもらった弁当を食べる。更に、一杯500円の味噌汁や、一杯800円のサッポロ一番みそラーメンを注文する(下写真右)。冷えた体に染み渡る。この値段が高いとは思えないから不思議だ。登山隊の中で唯一の既婚者である松田隊長は、携帯電話で家族に登頂を報告する。
 午前7時前に、山頂の茶店から動き出す。茶店の中はそうでもないが、やはり外は寒い。そこは富士山の山頂である。どちらの方向を向いても遮るものが何もない。何もせずにただ立っていると、強風が容赦なく吹き付けるため、まだ歩き続けている方がましだ。富士山の山頂は意外に広い。郵便局もNTTの通信所も気象庁の観測所もある。山頂には噴火口があり、その周りを歩くことができる。これを「お鉢巡り」というが、それは一周3kmぐらいあり、ほぼ平坦ではあるが、1時間以上かかる。3776mの最高峰は剣が峰といい、我々が到着した所からは噴火口を挟んでほぼ反対側に当たる。ここまで来れば最高峰をという思いはあったものの、疲労の状態とここまでの達成感を踏まえ、剣が峰は断念することに決した。
 それではということで、噴火口の中を覗いた上で、その周辺の一番高い所へ移動して写真を取る(左写真)。すると、突然各隊員がクラッカーを取り出し、一斉に鳴らす。登頂記念で用意していたのかと思いきや、それは3日前に35歳の誕生日を迎えた高橋事務長に対する誕生祝いだった。これは、事務長を除いた隊員の間で密かに計画が進んでいたのだが、大雨の中、クラッカーを湿らせずにここまで持ってくるのが大変だったとのこと。その上登山で疲労困憊したため、直前までクラッカーを鳴らすことすら忘れかけていたとか。高橋事務長は感激した。

下山:砂走り
 午前7時半から、いよいよ下山を始める。一般的に下山は速い。特にここ須走口では、登山路がくねくねと登っていく普通の山道であるのに対して、下山路は砂地を一直線に下りていく別ルートになるため、尚更速い。急斜面を殆ど駆け下りていく状態になるため、「砂走り」と呼ばれている。靴が砂に埋まるため、普通のスニーカーでは砂や石が中に入ってしまい、非常に歩きづらい。そのため、底の厚い、口が高い靴でなければ難渋することになる。
 殆どの隊員は砂走りの対策として、靴とズボンの繋ぎ目部分を覆うスパッツを購入してきていたが、ここでも低投資の高橋事務長は用意していなかった。事務長は、事前に知り合いから、「スーパーのビニール袋を靴の上から被せると良い」との情報を仕入れていたため、これまた投資ゼロで済ませようと思っていた。実際砂走りで活用したが、これは大いに効果があった。歩いているうちにビニール袋の底部分が破れてしまうのだが、それでも下山するまで砂の靴の中への侵入をかなり防いでくれた。ただ、周りの登山者は殆どがスパッツであったため、少々恥ずかしかったが…
 何度も言うが、この日は快晴だ。昨日は台風のため、富士山を登りつつも富士山が全く見えなかった。今日は目の前に広がる富士山の山肌を眺めながらの下山だ。眼下には、昨日登ってきた各合目の山小屋が順々に見える。遮る物がないため、一つ一つの山小屋の間隔がとっても短く見える。その先には出発点であった駐車場も見える。駐車場を包む緑の山裾は、御殿場市街まで緩やかに続いている。後ろを振り返ると、そこにはついさっきまで居た山頂も見える。昨日は辛い登山を嫌と言うほど体験したが、今日は快適な登山を満喫だ。どこまでも続く砂走りを、駆け下りては休み、休んでは駆け下りる(左写真)。そのペースは、「10分歩いて、3分休む」に戻った。
 午前11時過ぎ、延々と続いた砂走りが終わった所に、ちょっとした茶店があった。ここは標高2400m。さすがに下山は速い。あとは樹林地帯を30分程度、距離にして2km下れば、昨日のお昼に出発した五合目に至るという。あと一歩だ。ベンチに腰を下ろして少々休む。標高が下がり、かなり暑くなって来たので、みんなTシャツ姿に戻る。いよいよ最後ということで、気合を入れて歩き出す。しかし、残り2kmが意外と長かった。進んでも進んでも樹林地帯は尽きなかった。それでも30分程歩いた末、ほぼ23時間前に通り過ぎた覚えのある小さな祠に遭遇した。昨日は気付かなかった、ここが登山路と下山路の分岐点のようだ。そして丁度午前12時に、ゴールである五合目に到着した。(右写真)
五合目:ゴール!
 昨日、「行ってらっしゃい」と我々を送り出してくれた茶店の人々が、今日は「お疲れ様でした」と迎えてくれる。昨日は心配顔で送り出してくれたが、今日は温かく迎えてくれているように思える。昨日は暗い上に冷たい雨が降っていて、こちらも気がふさぐ中での出発だったが、今日はこうも晴れがましい気持ちで戻ってこられるとは。この24時間と言う時間は一体何だったのだろうか?。あっという間であったような気もするが、中身の詰まった非常に濃縮な時間だった。休み休みながらではあるが、登山に9時間、下山に4時間半かかった。こんなに体を動かし続けた24時間はかつてなかっただろう。
 山小屋の茶店で一頻り休憩を取り、みんなで喜びを分かち合う。お土産を買う者、アイスクリームを買う者、ただ体を休める者、様々だ。ここの茶店では、お茶をタダで振舞ってくれる。緩やかに時間が流れる。そして12時半にすぐそばの駐車場へ移動する。今日は観光客が多い。と言っても登山者は少なく、五合目にやって来た家族連れやカップルの観光客が殆どだ。昨日は駐車場に停まっている車もまばらだったが、今日は路上にまで駐車してある車が溢れている。彼らの視線が我々に注がれる。晴れがましい気分だ。薄汚い格好をしているが、顔は満足感でいっぱいのはずだ。駐車場からは、富士山の山頂が良く見える。昨日はどっちの方向に山頂があるかも解らなかったのに。側の小高い丘に全員で集まり、富士山を背景に写真を撮る(右写真)。そして、前川隊員、小松隊員の運転する二台の車に乗り、五合目を離れてJR御殿場駅へ向かう。松田隊長は、車に乗るや否や爆睡していた。
 午後1時過ぎに、御殿場駅に到着した。駅前で昼食を取り、(実は2日ぶりに過ぎないのだが)久しぶり感のあるビールで祝杯を上げ、笑顔で反省会を行う。新鮮な寿司や静岡名物の鰻など、これまた久しぶり感のある豪華な食事に舌鼓を打つ。午後2時半、反省会を終え、その日の内に姫路まで帰らなければならない松田隊長を御殿場駅で見送る。残った隊員は、その夜の慰労会の会場である箱根の強羅温泉へ向かった。

 2004年の夏の富士登山。殆どの隊員にとって、本格的な登山は初めての体験だった。それでも、松田隊長はリーダーシップを発揮し、初心者ばかりの隊員を引っ張った。小松隊員と前川隊員は、朝早くからの運転にも関わらず、軽快な登山で登山隊を盛り上げた。関隊員は、唯一の富士登頂経験者として様々な情報を提供し、登山隊に貢献した。高橋事務長は、得意の旅行企画で隊長を補佐した。花岡副隊長は、高山病にかかり体力の限界に達しつつも、一度も弱音を吐かなかった。渡辺隊員は、事前の心配をもろともせず、同じ名古屋出身の副隊長の心の友として一緒に頑張った。
 この登山隊は素晴らしかった。大学時代からの気心の知れた仲間同士ではあった。しかし、突然集められた、体力も経験も決して高くはない、かつレベルがバラバラな隊員の集まりだった。それでも、一人の隊員が必ず登山隊全員のことを考えた。自分のことだけでも精一杯なはずなのに、まず全体のことを考え、自分の役割を積極的に果たした。だから全員で登頂できた。だから全員で感動できた。
 今回は、あくまで思いつきの、一回限りの富士登山だった。それでも反省会では、「来年は八ヶ岳に登ろう」、「雪渓を見たい」、「いや、もう登山はいいから屋久島でのんびりするのがいい」、「尾瀬なら誰でも歩けるよ」など、来年の企画の話で盛り上がった。事務長としては、また面白い旅行を企画する役割を果たさなければならない。