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アートマガジンLR(エル・アール)

名古屋 覚 satoru nagoya
美術ジャーナリスト

「無知と偏見……」とは妙なご挨拶

 

LR24号掲載の針生一郎氏の「―『芸術と人権』展をめぐって―名古屋 覚の一知 半解への反論」、拝読しました。
古くなったチーズをかむような心地で読むにつれ、 一抹の不安、というかある種の自責の念まで感じたのですが、それは最後に述べま す。  

針生氏は「南京大虐殺」についての信念を縷縷、書き連ねています。私はそんなこ とを「質問」した覚えはないのですが、ある意味では予想どおりの〈迷答〉です。  

大きな書店の現代史コーナーにある、一部の書物の内容をツギハギすれば、あのよ うな「要約」になるのでしょう。 が、別の何点かの書籍を参照すれば、かなり違った 展開になるはずです。
針生氏は、いわゆる「大虐殺派」のプロパガンダを繰り返して いるにすぎません。そんなものは皆、聞き飽きています。
一方、いわゆる「まぼろし 派」や「中間派」の主張は、今の段階で「完全に破産」したとして切り捨ててよいも のでしょうか。私はそんなに性急・尊大にはなれません。  

針生氏のように他人の研究成果 を長々と受け売りする気はありませんが、文藝春秋 の月刊誌「諸君!」本年2月号の「『南京事件』最新報告 三派合同大アンケート」 (こういう雑誌名を挙げると「やはり……」と思われそうですが、私は岩波書店の 「世界」もたまには読んでいます)などを見れば、手っ取り早く概況がわかるでしょ う。
「大虐殺」否定論が「完全に破産」したとするのは、当の「大虐殺派」の言い分 にすぎないのです。  

被「虐殺」者の人数は問題でない、という意見もありましょうが、20世紀が〈虐殺 の世紀〉であったことを考慮すれば、犠牲者数を検討材料のひとつにした、世界史的 視野での相対化は避けられません。
ドイツは、ナチズムの特殊性をめぐる1980年代後 半の「歴史家論争」の結果 、自身の歴史の相対化あるいは客観化に失敗しました。
さ もありなん。ナチス・ドイツのホロコーストは、おそらく「南京」とは比べようもな く明白な事実で、重大な犯罪です。  

いずれにせよ、針生氏が自身の信念を熱烈に語れば語るほど、氏の、もはやつける クスリもなさそうな偏向ぶりと視野の狭さが明らかになるのです。
そのことを、氏自 身が「自覚」しておられるかは知りませんが−−。  

針生先生はご丁寧にも拙文中の(南京大虐殺説を指した)「仮説」を「仮設」と修 正してくださいましたが、あの文脈ではどちらでも大した違いはありません。むしろ 「仮設」には「実際にないことを仮にありとすること」(「広辞苑」第四版)といっ た定義まであります。
私とて「大虐殺」がなかったと断言はしません。でなくて、 「東京裁判」以降流布してきた、まあそれなりに迫力のある「大虐殺」物語を仮説 (hypothesis)あるいはタタキ台として、今後、議論と検証を進めればよいと考える のです。  

とはいえ、自然科学などと違い歴史観は国によって異なるのが当然であり、かつそ こに各国の政治戦略が絡むのであってみれば、結論など永遠に出ないでしょう。それ でもいいのです。
ただし、そんな不毛な政治論争に芸術を引き込んで、だれが喜ぶの か−−というのが私の「質問」の趣旨でした。あえてそうした政治の泥沼に身を投げ た悲惨な典型例が《南京大虐殺の図》といえましょう。  

作品そのものは〈絵画的真実〉−−つまりフィクションであっても、「芸術と人 権」のような展覧会に引き出されると、たちまち、卑しい政治運動の道具と化すので す。もっとも、「南京大虐殺の図」という題名は、明らかに、その「図」の内容が事 実であるという想定の下に付けられたものと考えられ、その単純さがこの作品の最大 の欠陥であると考えます。  

社会から見捨てられ、あるいは虐げられた人々が登場するラインハルト・サビエの 絵画は確かに感動的です。しかし、そこに、わが国の美術界の〈権威〉であり、か つ、自身の偏向を指摘されるや「無知」「偏見」といった言葉を振りかざして相手を 振り払おうとする、粗野にして傲慢なイデオローグの、得意満面の肖像が現れたら− −いかに経過を説明して弁解を弄しても、常識ある事情通は苦笑を禁じえないことで しょう。    

なお、末節にこだわるのは私の本意ではありませんが、針生氏が「名古屋のいう国 立美術館ではなく、広島市現代美術館の貸し出し」と〈訂正〉してくださった「芸術 と人権」展出品のクシシュトフ・ウディチコの作品《ポリスカー》が、京都国立近代 美術館からの貸し出しであったことは、同展事務局長および同館主任研究官氏に確認 済みです。
「老人特有の症状」の現れ?−−いえ、だれにでもある思い違いでしょ う。多分。いずれにせよ、針生氏の論がいかに勝手な思い込みに基づいた一面 的なも のであるかの、一例です。  

「東大大学院で六年美学を専攻した」針生先生が「近年到達した結論」によれば、 「多くの人が眼をそむけるような事態にメスを入れる芸術を、『美』の名目で非難す る権利は誰にもない」。何十年にも及ぶ学殖と経験の〈果実〉がそんな手前勝手なご 主張とは驚きですが、まあご自由にどうぞ。ただし、そうした「芸術」を見せる展覧 会でも「王様は裸だ」と言える観衆は常にいますし、今後増えていくでしょう。
事実、北朝鮮による日本人拉致疑惑を題材にした作品は、まだ見当たりませんね。

〈人権芸術家〉の皆さん、不甲斐ないではありませんか。(〈思い込み〉だけであん なに劇的な作品を生み出した丸木夫妻の例もありますぞ) 

いずれにせよ、いやしく も「人権」を云々するなら、北朝鮮や中国の現状を無視できないはずです。いや、ま ともな感覚の持ち主なら、それらが真っ先に念頭に浮かばなければおかしい。  

あまっさえ、北朝鮮や中国の目と鼻の先で開催された国際展です。作品がなくて も、本当の〈人権美術評論家〉なら針生氏には、図録の文中でもどこでも、両国の人 権抑圧疑惑にきちんと言及する責任がありました。「人権」は特定のイデオロギーに 制限され、美術もそうしたイデオロギーに奉仕するもの、という印象を人々に与えな いためにです。  

もっとも、そうした作品が仮にあっても、氏は無視をきめ込んだのでは、という疑 いをぬぐえません。「行動右翼」であったというご自身の過去に対する悔悟の念を拡 大して日本の過去そのものを憎んでやまない針生氏などの活動は、結局、現実の世界 に背を向けた観念的で陳腐な〈反日キャンペーン〉に堕すことになるのですが、さす がに今の常識ある多くの人々は、そんな扇動には乗らないでしょう。
そうした単純で 偏った思想のオモチャにされる「芸術」の有り様を見て、心ある人は「芸術」から離 れていくのです。  

針生氏は私を指して「無知と偏見の上に居直っ」ているとおっしゃいました。いろ いろな人がいろいろな人に対して用いる表現ですが、私の解釈ではそれは、「〈無 知〉と〈偏見〉を患う独善的な人間が同類に出会った際、思わず口にしてしまう〈挨 拶〉のようなもの」となります。ひょっとして私も、ご挨拶をお返しするべきかもし れませんが、さすがに、はるかに年長の針生氏を「無知」呼ばわりするのは無茶とい うものでしょう。そこで、ふたつをまとめて「狂信」と表現しては、やはり言いすぎ でしょうか−−。

時代の流れを映してLRはメールマガジンになりました。先の最後の〈有形〉LR 誌上で、古い〈戦後左翼〉のイデオロギーの「偏見の構造に乗っかっていることを、 全然自覚していない」針生氏に的外れな返答をさせ、その救いようのない偏執ぶりを 強調させ、その結果〈老醜〉を晒させてしまったのでは−−と、ちょっと反省したの です。[了]

 

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