津島通信

APRIL 2002
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◆CONTENTS◆

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【きむたく日記】

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感想をお聞かせ下さい。
kimutaku@cc.okayama-u.ac.jp

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広 告(刊行より1年間)

 ¶ 佐藤 泉氏『漱石 片付かない<近代>』02.1.30,日本放送出版協会,920円(税込)

 ¶ 『敍 説』第2期第3号「特集・夢野久作―聖賤の交雑―」2002.1.6,花書院,1,800円(税込)

 ¶ 于 耀明氏『周 作人と日本近代文学』翰林書房,2001.11.9,4,000円(税別)

 ¶ 菅 聡子氏『メディアの時代--明治文学をめぐる状況』双文社出版,2001.11.1,2,800円(税別)

   (近代文学成立期の一側面/<文士>の経済事情/初期硯友社と吉岡書籍店/『読者評判記』の周辺/百合とダイアモンド/小杉天外『魔風恋風』の戦略/<対話>の生成−−場所としての一葉身体/『通俗書簡文』の可能性/流通する<閨秀作家>)

 ¶ 仲 秀和氏『漱石―『夢十夜』以後―』2001.3.30,和泉書院,2,500円+税

 ¶ 江種滿子・井上理恵編『20世紀のベストセラーを読み解く――女性・読者・社会の100年――』2001.3.29,学藝書林,2,500円(税別)

    (所収論文;菅聡子「吉屋信子『花物語』『女の友情』――〈花物語〉のゆくえ」,根岸泰子「太宰治『斜陽』――その揺籃期の物語」他9本.)


「きむたく日記」

    4月30日火曜日

       小学校課程向けの開講科目で,「手ぶくろを買いに」を取り上げる.銀ぎつねが出てくるので,画像でもあればと思ってインターネットを探したが,銀ぎつね(黒っぽい毛並み)のストールの画像しか出て来なかった.日本では,赤狐が主流なので,銀ぎつねのイメージがわかないと思ったのだ.
       このストールのことが頭に残っていて,ふと講義中に思いついて,手袋を買った子ぎつね「ぼう」のその後の物語をした(以下参照).

       「ぼう」も大きくなって,おとうさんになりました.
       冬が来たとき,「ぼう」はお母さんがしてくれたように子ぎつねを連れて,町の帽子屋さんまで手袋を買いに行きました.片手を人間の手に変えて,帽子屋さんのお店のドアをとんとんとノックしました.
       扉が一寸ほど開いて,流れ出してきたまばゆい光に「ぼう」は目がくらんでしまい,また人間の手ではない方の手を出して,「手袋をください」といってしまいました.
       今度も帽子屋さんは,おやおやと思いましたが,見ると今度のはおとなの前足です.
       「さては,狐がいたずらをしにきたな」
       帽子屋さんは「ぼう」の前足をつかんで,家の中に引っ張り込んでしまいました.

       それから1ヵ月後,帽子屋さんのショーウィンドウには新しい素敵な銀ぎつねのストールが2つ並べられて,美しいご婦人方の関心を集めていました.

       講義後に回収した「コメントカード」には,「木村先生は,悪人です」と書いてあった.→TOP
      ※参考サイト;きつねの学名

       ゼミ生へ;小笠原喜康『大学生のためのレポート・論文術』(講談社現代新書,2002)680円をお勧めします(生協価格642円).巻末の参考文献に上げられていないが,木下是雄『理科系の作文技術』(中公新書,1981)も必読.

    4月27日土曜日

       昨日出勤前に自宅のPCから仕事のデータをFDに移していたら,PCがフリーズし,再起動をかけたら,エラーチェックではなく,時間のかかるデフラグをはじめたので,そのまま放置して出勤した.
       帰宅して,PCをチェックすると,驚いたことにソフトのいくつかが,フォルダごと消え去っていた.ウイルスの仕業かと驚いて,ワクチンソフトで走査してみたが,ウイルスは検出されなかった.
       昨年の7月頃にもPCがクラッシュして,バックアップをとっていなかった3ヶ月分のデータを失ったが,今回失ったのは,それ以来のメールの送受信分のデータである.交流の記録が永久に失われてしまったことに非常にショックを受けている.
       鹿児島での近況を寄せてくれた,桃シャツ先生(本人の希望)@山下さん,メールは読みましたが返事を出す前にあなたのメールアドレスのデータを失いました.乞御連絡&近況メールのコピー.

    4月26日金曜日

       今朝「朝日新聞」を読んでいたら,以前から名前が分からず探していた人物が紙面に紹介されていた.その人は,盲目のテノール歌手新垣勉(あらがきつとむ)さんというのである.CDの名前もわかったので,昼休みに近所のTUTAYAに行ってCDを購入して来る.NHKの番組で初めて聞いた彼の歌である「さとうきび畑」も入っていたので,嬉しかった.朗々とした歌いぶりに聴き入りながら,書類書きに精を出す今日である.
       図書館に書類を提出しにいったついでに,ビデオの棚から以前発見していた「にごりえ」(今村正監督)と「真空地帯」(山本薩夫監督)の2巻を借りてくる.「真空地帯」には,あの木村功が出ている(笑).漱石のビデオもあったが,これは見る気がしなかった.連休中には,自転車操業状態の講義準備の合間の息抜きに,これらを観るつもりである.
       そして明日はいよいよミュージカル「赤毛のアン」の日だ.アンを演じる野村玲子(李香蘭役)って何歳なんだろう?双眼鏡を買いに行かねば…….以前舞台で,宮本信子の皺を見た時は,少し悲しくなってしまった.双眼鏡の向こうの若作りが,悲しくならねばよいのだが,僕のヒネた根性ではそれは難しいかもしれない.

    4月25日木曜日

       昨夜Devil君から電話(4月11日以来).講義の準備をしているというのに,1時間半以上愚痴を聞かされる.スッキリした彼は,しまいには何を言っているのか自分でもわからないほど話しつかれて,「今日はゼミのコンパがあるんです」と「ぢごく」へ戻って行った.例によって,「僕は先生の幻覚ですから」といいながら.「Devil君の深夜電話」という村上春樹風の作品が書けるかもしれないと思った.やれやれ.
       おかげで今日の講義は予定の半分しか進まず,前期中に講義が終わるんですかと,学生に突っ込まれた.
       『〈アイヌ〉学の誕生』の入荷連絡が入ったので,生協に受け取りに行く.途中工学部前で,カエルせんべいを踏んづけてしまった.「Devil君」の暗黒面の影響を蒙っているらしい.

       「文学界」の今月号は教科書を特集している.関係者のアンケートが掲載されているのに目を通していると,谷沢永一の「文学教育などというフザケタものはありえない」(爆笑)というラジカルなものから,論理的な文章を書く訓練を意識した教材編集を,というオトナ−建設的な意見もあり,大変興味深かった.谷沢も論理的な表現を重視せよという発言をしており,やはりこれからの国語教育の大きな柱となるべきは,これなのだと思う.
       均質的なイデオロギーや表現手段を普遍化させた近代日本の教育では,以心伝心を重んずる伝統的な風土もあってか,論理的な表現能力を育成することへの顧慮が少なかったように思う.文学的な教材は,作品の鑑賞や意味の解読を通じて個人の言葉への感覚を研ぎ澄ます方向を助長させるものであったが,それは他者とコミュニケートする言語運用能力を発達させるものでは,かならずしもなかった.現に文学好きな方(我々のような文学オタクではなく)というのは,個々の作家のファンにはなりうるが,その作品を論じる力までは持ちえていない鑑賞家なのである.作品を論じ,そのことを通じて「自分」の世界を言葉で立ち上げ,他者とつながるということがない.自己満足の世界で充足している.それは,鑑賞中心主義的文学教育(笑)を受けたためであり,国語表現教育を受けたからではないことが原因である.
       現在,異質な他者との交流が主である国際化の時代において,コミュニケーションする能力は必須ものとなり,中でも重要なのは,他者に自分の意思を正確に伝える能力・方法の育成である.論理的な表現能力が必要とされるのは,このためである.文学的な美文を朗誦しようが,暗記しようが大して意味はない.
       問題は,文学を傾斜したこの国の教育を受けて来た者達には,論理的に表現する能力もそうした産物を持っている人間が少なく,したがって適切な教材になる手本がないという現実である.その意味で諸家から内容空疎と罵倒される?新しい教科書は,「問題提起」になる教科書であるかもしれない.ちなみに浅田彰は,個人名を挙げてこれら「有象無象」の文章を読まされる高校生は,バカにするにも値しないと思うだろうと回答していた.キツイ.

    4月24日水曜日

       出勤時,8:00頃の天気関係の情報をラジオで聞いていたら,最近雨がよく降るのは,梅雨の先走りといわれるもので,開花が早かったのと同様,季節のまわりが早くなっていることの証左であるということを言っていた.温暖化問題が,このような形で身近に感じられるようになった.
       今日は,教養の講義の日である.登録予定者が226人ほどいたので焦ったが,実際のところは150名前後でちょっと安心.安心といっても学部の普通の講義ではないので,緊張感で非常に疲れる.GW後には,受講者の人数ももっと減ると聞いているので,期待している.試験の採点のことは,考えたくない.
       ところでゼミ生2名よ.君たちが視界の端にいて,ニヤニヤしながら聞いているのは,とてもやりにくいのだけど….

    4月22日月曜日晴…というか暑い.

       数日,更新ができなかったが,これはPCを更新する作業をしていたためである.おかげで,すぐにフリーズしていたアプティバ(IBM)から,今春モデルのプリウス(日立)に乗り換えることはできたが,XPマシーンなのでこれが非常に使いづらい.直感的な操作ができないのである.マイドキュメントもたくさんのフォルダの中に埋もれ,階層も深くなってしまったため,僕はデスクトップに作業用フォルダのショートカットをおいている.それにしてもプリウスの画面は,とてもクリアで美しい.

       今日の岡山は,最高気温27度の夏日が予測されていたが,やはり暑い.非常勤先(中国学園大学)に移動する車の中では冷房をいれていた.しかし,学部の館内はひんやりと冷たいのである.風邪をひきそうだ.
       今日で3回目になる学園大では,「国語表現」を担当している.要は国語の科目である.地方では教養科目で「文学」は死滅しているのだ.
       受講生は女性が多いので(男は2人),岡大とは違って華やかな雰囲気である.最初は背中を悪い汗が流れるくらいに緊張させられたが,さすがに3回目ともなると双方とも大分リラックスしてきて,教室からも声が出てくるようになった.僕の声が裏返ってしまうと黄色い笑い声が立つし,今日シンメトリーという言葉をしゃべっていたら,「先生,それはカタカナ?漢字?」と聞いてきたりもする.岡大ではありえないが,講義後には質問にも来るのである(話をしに来てるだけかもしれないが).可愛いものである.こうして僕は,徐々にオジサン化していくのであろうか.(嗚呼)

    4月17日水曜日

       昨年度機器更新のため,教室の希望者にPCの購入手続きをしたのだが,4月下旬が近づいても何の音沙汰もない.MACを買った先生や共通利用のために購入した分は,既に3月始めに入荷しているのに,である.
       「木村さん,プリウス(日立).どうなってるの?」という話になって,会計の担当者に調べてもうことになった.
       研究室でしばらく連絡を待っていると,生協から電話があった.(ああ,生協が担当業者だったのか)と思いながら,話を聞くと,電話の相手は言った.
        「先生,たった今PCが入荷したんですけど」
       (あり得ない〜)

    4月16日火曜日

       4年のゼミ生(女性)が,車の駐車許可証に押印を求めてやってきた.首にきらきら光スカーフ状のものを巻いていたので,「ヘビの抜け殻でも巻いてンの?」と聞いてやった.するとゼミ生曰く.
       「30オヤジには,期待してませんから」
       正面から「袈裟懸け」に切り倒された.

    4月15日月曜日曇のち雨

       非常勤の帰り道,裏道を発見する.45分かかっていたのが,30分位でいけることを発見.ちょっと得した気分である.
       車の中でラジオを聞いていたら,信州大学が1年生向けに大学での勉強の仕方を教える1年生ゼミを始めた旨放送していた.しかし,学生も教官も双方とも戸惑いを隠せない様子で,学生が今の時期に一番欲しているのは,友人関係の構築ということらしい.岡大教育も,ガイダンス科目というのを1年生の前期に設けているが,信州大まで踏み込んだものではない.しかしどちらにせよ,ここまで我々が手取り足取りしなければならないのか.「生きる力・学ぶ力」(笑)を持たない学生が,大学に進学するという大学のレジャーランド化と彼等自身の「お子様」化にも困ったものだ.
       大学に戻ると,注文していた『中島敦全集』第3巻が入荷していた.全集といえば,昨日の日曜版の読書欄には,岩波から新版「漱石全集」の第2次刊行をするとの広告が出ていた.第1次を刊行した後に発見された新資料や,研究内容を追加するとのことで,「写真帖」のおまけもついているとのことである.でも,改めて出すなら,先ずあの「本文」は変えて欲しい.例えば「こころ」で,初出本文に戻したために,単行本を出したときに漱石が変更した改善箇所は,「改悪」されているのだから.

    4月12日金曜日

       今年度初めて全学向けの一般教養の講義で文学を担当する事になった.今日履修予定の名簿がきたので,大して人数は来ないだろうとタカをくくって封筒から取り出してみた.
       その名簿は2枚あって,201名までナンバリングがしてあった.恐怖で,手が震えた.次に(全員が受験するわけではないにしろ)試験の採点のことを考えて気分が悪くなった.昨日「デビル」が来た思ったら,今日は文字通り「地獄」に叩き込まれたわけである.
       昨日までに何人かが,履修の抽選に漏れたので,なんとかしてくれと個人交渉に来ていたので,「ああ,別に良いですよ」と快く受けていた.想像力を働かせて断らなかった自分が今になって恨めしい.
       完全に落ち込んで回復できないまま,4年生のゼミのオリエンテーションを行う.話をしながら,どうしても意識が「地獄」の方へひきつけられてしまうのをとめることが出来ない.講義のタイトルはレヴィナスの著書から採った「存在の彼方へ」というのだが,自分自身が「存在の彼方へ」行ってしまいたかった.来週の17日がその初日だが,僕は当日どんな風景を目の当たりにするのだろうか.
       とにかく現実逃避をするために論文を書こう(嗚呼、心にもないことを!).
       ところで,昨日から野沢尚の「眠れぬ夜を抱いて」が始まったが,犯人役は中村トオルではないの?

    4月11日木曜日曇のち雨

       0:58講義ノートを作成していると,「Devilクン」が突然やってきた.貴重な24分間を,お電話でお邪魔してくれた上に,「僕も先生の『幻覚』(「ビューティフル・マインド」より)かもしれませんね」と言って去って行った.おかげで,今日講義の最中学生から,配布したレジュメの講義タイトルが違うと指摘されてしまった.「デビル」〜ぅ.
       昨日の「朝日」に山田詠美の「僕は勉強ができない」が,新学習指導要領(高校)に対応した教科書からもれたとの記事があった.同級生を差別する教師や,その人物を「馬鹿だから」と言う生徒に検定でクレームがついたそうだ.山田詠美は,あたりさわりのない表現で小説はかけないとコメントしていた.至極もっともな発言であるが,これは「教育」用の「教科書」なので,そう目くじらをたてるほどでもあるまい.それにしても「朝日」が「馬鹿だから」を見出しにしていたのは,検定者への意見(アテコスリ)なのだろうか(笑).
       それはそうと星野阪神は強い….ノムさんの遺産もあるのだろうが,この変貌ぶりは厭味ですらある.おかげで広島カープファンのゼミ生は,機嫌が悪い.

    4月10日水曜日

       4限に図書館で,3年のゼミ生のオリエンテーションを行う.そのあと学部の委員会の会議.附属図書館との連携を担当することになった.お隣のT先生は,委員長職をやることになって,運営委員会や全学の委員会にも出なければならず,「2ヶ月で倒れる」と予告されていた.僕などはまだマシな方だと思うが,胃穿孔になったり体調不良を訴える先生方が多いのも事実だ.学部は大丈夫なのだろうか.
       明日の講義の準備をしようと思ったら,仕事のフロッピーディスクを自宅PCに差し込んだままだった.肝心の仕事が出来ず,他の雑用をやってごまかす.今夜は「地獄」だ.

    4月9日火曜日

       15:00から学部生に対する教室オリエンテーション.そのあとにゼミ生を集めて,顔合わせやゼミの日を何時にするのか曜日を決める作業をする.今年の3年のゼミ生は,「先生,先生」と親しげで,なんか違う.
       講義準備で忙しい.自転車操業である(泣).

    4月8日月曜日

       大学・大学院の入学式の日.15:00過ぎに非常勤先から帰ってくる車の中で,親子連れが正門の前で記念撮影をしている様子を見る.緊張した表情で立っている学生の姿が微笑ましかった.桜はとうに散ってしまっていたのがお気の毒である.
       16:00から大学院新入生に対する国語教室のオリエンテーションを行う.教室会議で新年度のシフトを話し合い,終了は18:00過ぎ.

    4月5日金曜日

       洛星時代の教え子「Devilクン」から「カンダハールKANDAHAR」(モフセン・マフマルバフ監督,2001,イラン・フランス合作)を見ろとしつこく&ウルサク言われていたので,ついに昨日の勤務を終えてから,シネマクレールの最終の上映回(入れ替え制18:30)で見てきた.
       カナダで暮らすアフガン出身のシャーナリストである主人公は,20世紀最後の日蝕の日に自殺するという妹の手紙を読んで単身アフガンに潜入したのだが,妹を捉える絶望から妹を救い出す以前に,アフガンの暗黒に飲み込まれてしまう.最初の場面で,ヘリコプターから俯瞰される赤茶けた山々は,荒廃したアフガンを象徴するようだったし,ラストでブルカの暗闇から覗き見られた夕暮れの太陽は,アフガンの底深い暗闇を表わしているようでいて,思わず唸ってしまった.
       作品は1時間25分の短いものだが,神学校の子どもがカラシニコフを掲げてみせるわ,赤十字のキャンプには松葉杖の男たちが大勢出てくるわ,赤十字のヘリから投下され落下傘に揺られてゆっくり落ちてくる義足と,それをめがけて松葉杖を操りながら猛然と走る男たちの真剣な表情が映しだされるわ,奥さんの両足の義足が大きいので女らしい小さいのに変えろと,ブルカや結婚式の時の靴を持ってきて訴える男が出てくるわ(奥さんは死んでるのでは?),ウソをついて義足を手に入れてそれを売りさばこうとする手首のない男は出てくるわ,暗い表情の女の子達が出てくるわ,女性たちはブルカを被って背景と化し,主人公の女性以外の顔は見れないわで,ハリウッド謹製映画や「アメリ」系ほんわかムービーを見慣れていた人間には,もう題材も構図もストーリーも「異様」づくめの映画だった.映画=フィクションであることを除いても,この映画にはアフガンの現実からにじみ出る強いインパクトと説得力があった.
       印象に残ったのは,話題になっていた実際のテロリストの出演というようなものではなく(彼の「まだ神を探している」という発言は,彼が「誰か」を知っている人間には興味深い発言だったが),ハクという少年だった.
       ウチの上の甥っ子と同い年くらいのハクは,父親が内戦で死亡しており,母親は彼を神学校に入れて「教育」を授ける事で生きるための活路を見出そうとしたのである.しかし彼はコーランが読めないために神学校から追い出されてしまい,主人公のガイドをつとめることになる.
       彼は最初主人公の前で歌を歌うことを恥ずかしがるような男の子として描かれる.しかしその同じ彼が,荒野でみつけた死体(彼の表現だと「金目のもの」!)から指輪を抜き取って,それを見ていた主人公に「綺麗だから買ってくれ」「1ドルでよいから買ってくれ」と言い募る.主人公はそれを決然と拒否するのであるが,死者の持ち物を奪い取るだけでも,我われはそこに「心の荒廃」を読みとるだろう.しかも,それをわずか「1ドル」ででも「売ること」で稼ぎにしようとするのである.ここには,芥川の「羅生門」の老婆の姿がある.
       子どもを未来の存在としてみるような我われは,子どもがこのような姿を現すことに,強い不快感と暗澹たる思いを抱かずにはおれない.しかし,これをアフガンの子どもの現実として監督は提出している.いや子どもをめぐる現実というべきか.子ども達の前にあるのは,飢えとマラリアと貧しさ,内戦と地雷という命の危険だけなのである.未来や夢などという言葉はどこにもなく,ただその日を無事に生き抜く事だけが至上の命題とされている.そこには何の美しいものも,甥っ子の好きなニンテンドーも存在していない.「美しい」というものが,それこそ平和な社会の産物であることを気づかせてくれる.
       ガイド料を貰って一度去ったハクは,戻ってきて主人公にいう.「ただで上げるから指輪を受け取れ」と.主人公は渋りながらも,とうとう最後には指輪を受け取り,握り締める(その手は,アップにされる).このシーンが僕にはよく理解できなかった.死者の指輪を「1ドル」にでも換えたかった彼が,「タダ」で指輪を渡そうとし主人公に強引に受け取らせることで,こういう生き方を認めない欧米の視線を跳ね返したように思えたのだ.その意味でこれは,自分の生き方を拒否する主人公(とその背後にある欧米社会)に対するハクの満身の抗議であったのだろうか.彼に笑顔はなかったように記憶する(そういえば,子ども達は1人を除いて笑わなかった).
       また一方では,美人の主人公の瞳の色と同じだという発言を繰り返しているので,最初は売るための口実だったのが,次第に好意をもつようになり(それと同時に逆に嫌われてしまうのだが)自分の好意だけでも認めさせようとしたのだったか.
       人間の生には,いろいろな姿と意味がある.そしてそれを伝えるのに,言葉だけでは十分ではない.そのことを,この映画は改めて僕に思い出させてくれた.
       映画の上映が終了した時,あらためて場内の人数を数えたら,最初10名だったのが,9名になっていた.受け止める方も,またそれぞれである.

       野村芳太郎監督「砂の器」(1974)のDVDが入荷した.これで,当時のハンセン病の認識も多少うかがうことができる.沖浦和光・徳永進編『ハンセン病−−排除・差別・隔離の歴史』(岩波書店,2001.11)に,白井佳夫「映画「砂の器」が問いかけてくるもの」の一編がある.当地岡山には,2つのハンセン病療養所(邑久光明園,長島愛生園)がある.このテーマは,僕には避けて通れないものである.

    4月4日木曜日

       藤堂尚夫氏より「WEB上の漱石」「金沢大学 語学・文学研究」(第29号,2001年9月)をHPに掲載したとのメールを受け取る.ご一読を(当サイトについても言及あり).
       新年度の講義準備をするとともに,研究室内の掃除をする.不要な書類を一まとめに括り廃棄場にもって行く.本棚1段分のスペースが空いた.
       大学のWEBで,講義で使用するCDラジカセを発注する.最近声に出して日本語を読むのが流行りだしたが,言葉と音の結びつきは国語では当然視されていることだ.先日その「第一人者」と目されている人が,「夢十夜」や「坊っちやん」を暗唱させたら良いという発言をしているのを何かで読んだ.何でも暗唱させればよいと言うものではないだろうに,まだ太宰の「メロス」とかの方が教材として適当ではないか,と思った.個人的な好みを言えば,中村梅雀さんに朗読をして貰いたい.
       講義では,ことさらに朗読を意識させようというのではないが,プロの朗読によって生まれてくる言語テクストの世界を味わってもらおうと目論んでいるのである.決して講義中に休もうとしているわけではない(笑).
       岡大は,来週8日が入学式である.まだまだ新年度という雰囲気ではないのだが,徐々に緊張感が漂ってくるようだ.

    4月2日火曜日

       生協に注文していた「オペラ座の怪人」(劇団四季)のCDが届いたので,受け出して来る.京都に観に行きたいなぁ.ハンセン病がらみで「砂の器」も観たいのだが,これは近所のTUTAYAには無いので,DVDを発注しなければならないかもしれない.

    4月1日月曜日

       新年度の始まりである.陽気のせいもあり,なんとなく気分がウキウキしている.
      ところで,今日は映画の日で,料金が1,000円だ.17:00に仕事を終えて退出し,「ビューティフル・マインド」(ロン・ハワード監督)を観に行く.そこで,社会科教育のK原夫妻と一緒になって,ご挨拶.先月も「ロード・オブ・ザ・リング」で一緒になったことがある.
       「ビューティフル・マインド」は,精神分裂症(今年名称が変わりそうですが)と闘う実在の数学者ジョン・ナッシュ('94年ノーベル賞受賞者)を主人公にした映画で,第74回アカデミー賞作品賞受賞作品であり,ジェニファー・コネリー(1970.12〜)が主演女優賞を取った作品でもある.昨年上映された「スターリングラード」で冷徹なドイツ人狙撃手を演じたエド・ハリスも,「幻覚」として出演している.
       結論をいうと,なぜこれがアカデミー賞?という印象であった.同種の病と闘う主人公を扱った映画では,僕はむしろ音楽家の映画「シャイン」の方を推したい.但し,「幻覚」の恐怖というのは,よく伝わってきた.我々の認識する「現実」が,脳レベルでは「夢」と大して変わらないものだとすれば,幻覚と「現実」の線引きは困難だ.幽霊を見る人とそうでない人というのも,そうした脳のカラクリに拠るのだから.
       ま,作品はともかく,実はJ・コネリーを見るために行ったのでその点では十分満足した.彼女のデビュー作は,「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(1984年セルジオ・レオーネ監督)というギャング映画(私はこれが好きなのだが,DVDが出ない!)であった.主人公ヌードルスが憧れる女優を夢見る美少女を演じた彼女は,黒髪と黒い瞳の凛とした姿で鮮烈な印象を刻んだ.それからホラー映画「フェノミナ」で主演を演じ,現在まで数多くの作品に出る.あの時12,3歳だったの彼女は,いまや31歳.「ビューティフル・マインド」で黒髪をアップにして黒いドレス姿で現われた彼女は,凛とした美しさの中に妖艶さを加えて,それはそれは美しかった.あの初デートでの星空のシーン,心底むかついたぞラッセル・クロウ.でも,なぜ「傘と蛸」のパターンなの?