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Monthly UBE

FEBRUARY



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◆CONTENTS◆
「文学のすすめ」
「ハンセン病とキリスト教」
「ダーウィンの世紀末」
「エンカルタ97」


「こヽろ」入力中の独り言(「つぶやき」風)
人格のデジタル保存研究について
感想をお聞かせ下さい。
takumi@mxd.meshnet.or.jp

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松浦寿輝『文学のすすめ』筑摩書房

 山口大学の石川さんから薦められた本。個人的に面白かったのは、後藤明生、西成彦、大木康の文章。松浦と、今度東大の学長になった蓮実重彦の対談も刺激的であった。「文学」的な言説の退潮期に、「文学」の勧めを書くことの困難さというものに自覚的な人は、少なかったようだ。 後藤明生の「千円札文学論」は講義の枕に使えるので、読んでおいて損はない。


荒井英子『ハンセン病とキリスト教』岩波書店

 名前だけしか知らなかったハンセン病の実体と、それを囲い込んできた国家・医者・家族と患者との闘いの様相が述べられていた。「結核の文化史」を読んだときには、結核というものに付随するロマンチックなイメージというものもあり、死病ではあったが同情とともに物語られる病であると認識していたが、その一方でこのハンセン病は言語に絶する。生きながらに社会な死を宣告され、断種され、しかも緩慢に進行して四肢の自由や神経を侵し、肉体を崩していく病。業病というだけでなく、医者からも差別的に扱われる病。しかも弱い伝染性しかもたないのに、島に隔離されて、不自由な環境の中で犬猫にも劣る扱いをされ、しかも撲滅の対象であるという事実。人権も無視されている人たちが、今まで我々の意識の中に登場しなかったこと自体が、「撲滅」運動の成果であったことを思い知らされる。 1996年「らい予防法」は、漸く廃止され、患者の帰郷も可能になった。最近TBSの番組でその患者さんが帰郷される模様が2日に亘って放送されるのを見たが、絶句するより他なかった。近代文学の死角でもあるこの部分にも、眼を注いでいかなければならないことを感じた。
 ハンセン病が個々の患者が抱える「病」と云うよりも、国家の「病」、医者の研究対象としての「病」、いわば制度上に位置づけられた「病」であり、純粋な治療対象ではなかったようだ。炯眼な小林秀雄ですら、医者の小林正子『小島の春』のヒューマニズム(?)を諸手をあげて推奨していたのであるから、この病に関わるディスクールの堅牢さは並大抵ではない。
 感情的な部分が目立つので、文章に少々難あり。


富山太佳夫『ダーウィンの世紀末』青土社,1995.01,

 民間の生物学者ダーウィンの『進化論』が、イギリス社会にどのような形で受容されていったか、諸相に置いて分析した本である。「優生学」の発生がそこを淵源として、ナチズムの障害者・ユダヤ人虐殺に展開していったことは有名である。 しかし、ボーイスカウトもそうだと言うことは知らなかったので、蒙をひらかれた。もちろんレトリックもあるのだろうが、19世紀を起源とするこのような考え方、エピステーメーというのか、見えなくなった制度としての思考をあぶり出していく内容はたいへんスリリングである。そしてそれが現代でも存在している事実を意識させられるので、ちょっと慄然とする。ハンセン氏病の本と併せ読んでいたので、相乗効果があって怖かった。
 「断片」から全体を組み立てる思考法もこの時代の産物らしく、ホームズのような「探偵」・「考古学」・「細菌学」など「視覚」能力と結びついたものが多く誕生したのも、この時代の特徴のように思う。知的に楽しめるので、2600円は大変安く感じた。


『エンカルタ97』マイクロソフト社,1997.02,14.

 辞書や平凡社の百科事典を収めた『辞典盤』もアスキーから出ているが、「エンカルタ」は野口悠紀雄氏も推奨されているCD-ROMのマルチメディア百科事典である。新宿の紀伊國屋書店南店で確認した英語版は12000円程度だったので、日本語版もそれくらいかと期待していたのだが、14800円だったのでちょっとがっかり。しかも英語版は最新情報がマイクロソフトのサイトからダウンロード出来るのに比べて、日本語版はそれが出来ない。またインターネットの有力サイトのインデックスもない。不満はあったが、使用してみて、使いやすさ、関連項目への移行の容易さは前評判通りであった。毛利元就の説明も概略的だが、こんなものだろうと言う内容。漱石は、ーーまだ未確認だった。しかしヒトラーの演説の声なども聞けたりするので(聞きたくもないか)、紙の事典では考えられないインパクトがある。パソコンの用語なども詳しいし、CD-ROMの構造などもビデオで説明してくれるので、よく分かった。
 14800円は安いかも知れないと、一瞬思ったが、「エンカルタ」は毎年出るのであった。合掌。ユーザー登録しておけば12000円の優待価格になるそうだが、そこまで使いこなす人が果たしているのか疑問である。ちなみに僕は小学生の時に買って貰った「エポカ」と云う百科事典を、大学生になっても持っていた人間(ヒト)である。この「97」で21世紀を迎えることは確実だ。それにマイクロソフトよ、「ブックシェルフ」(国語・英和・和英・諺・基礎用語の統合辞典) も出すそうだが、私のハードディスクは、あと148MBしかないのだよ。ワッハッハ(笑うしかない)。


「こヽろ」入力中の独り言

 手元に文庫本「こヽろ」をお持ちの方は、お暇なときに確認していただきたい。
 「中 両親と私」で、〈ことに陛下のご病気以後父はじっと考え込んでいるように見えた。〉(中 四)の場合、原稿では〈病気〉前に〈ご〉はついていない。これは、初出も同様であるが、初版で〈御病気〉となっている。現在刊行中の漱石全集では、原稿に基づいて〈病気〉に戻っている。地の文には「作家」の天皇に対する距離感が表れるところである、と考えるならば当時はまさに「作家」が生きているのだから、亡き明治帝に敬意を込めるか込めないかは、大きな問題になるだろう。ましてや当時新興出版社である岩波の最初の出版物であるから、漱石側に意図するところがあったのかも知れない。
 また「中 五」では、〈私はよく母と父の健康に就いて話し合つた。〉と原稿にある所が、初版本では〈私は父の健康に就いてよく母と話し合つた。〉となっている。流布している文庫本は、初版本に基づいて作られているらしく、細かい所だが原稿・全集本と表現が異なる所が散見する。僕は、岩波・新潮・筑摩の文庫本でしか確認していないが、特に岩波書店は全集本と文庫本の「本文が違う」という事態を、これから解決しなければならない責任があることは確実である。
 もちろんこれを大きな問題として考えるか、些末な問題として考えるかは論者の姿勢による。また、原稿第一主義というのも問題があろう。それを貫くなら、極端な場合漱石の誤記もそのまま踏襲されなければならないことになるからだ。要は何処から何処までを「原稿」と「初版本」で折衷させて「定本」とするか、まさに編集者の「解釈」に関わっているのである。そしてそれが今の刊行中の「漱石全集」では問題になっている。厳密な検討をすれば、本文を作っていくことが一朝一夕では出来ない仕事である事は、例示の二つの表現を見比べて議論するだけでも相当な時間を要し、結論が出るかどうかも分からないことが推測できるので、多分納得されるだろう。そもそも誰もが納得できる「折衷」(?)などは可能であろうか。それをやろうとする研究者の学問的「熱意」(?)と、刊行予定を組んで利益を上げていかなければならない書店側の「利害」(?)のせめぎ合いが、どうやらあの「産物」(?)であるらしい。
 「原稿」の本文か「初版」の本文か、まさに例示した二つなどは、「解釈」の境界上に位置して、研究者(otaku?)を悩ませている。実はこの「原稿」に基づいたテクストも、次の段階としてそういった問題を控えている。
 それまでに地球に隕石でもぶつからないだろうか。

(?)は、今流行している「半疑問形」で読んで下さい。

人格のデジタル保存研究について

 死体の冷凍保存の話を聞いたことがある人は多いだろう。価格は忘れたが、全身の保存と脳だけの二種類の保存法があり、それぞれ結構なお値段が付いていた。庶民の僕にはとても手がでない。
 今度は、肉体の保存ではなくて、性格・記憶・思考の特徴などをコンピュータに移して、デジタルな人格として保存する技術が考えられているそうだ。21世紀には実現しそうな話である。早くに保護者を亡くした子供でも、ホログラフで映し出された、保護者のコピーと接し会話することが可能になるのである。昔NHKのアニメで「キャプテン・フューチャー」という番組があったが、そのなかに「脳」だけを機械のなかに移して、主人公を養育した「おじさん」が登場していた。それは結構ブラックな画像だったが、近い将来の「おじさん」はもっとスマートな形になりそうだ。ビデオ・CD−ROMで故人を偲ぶのではなくて、端末から故人のお説教がインタラクティブに聞けるのである。もちろんこれが人間の「死」の観念を大きく変革する事態であることは言うまでもない。電子革命おそるべしである。
 ただそういう形で「賢者」達を後世に「生き残」っていった場合、一体どういう事態が起こるだろうか。たとえば学会のお偉方が、そういう形で残ってしまった場合、学問的な進展は見られるのだろうか。いやもっと興味本位に考えるなら、肉体が駄目になった「デジタルな先生」方が、何百人も生き残っていて端末で授業が受けられる学校はもちろん社会・国家の様相は、とてもブラックでファニーだ。アクセス数の少ない人気のない先生は、データベースから消去されるのである。また、何代も前の祖父母と話すのは、面白いかもしれない。そういった点では、歴史研究には有益だろう。ただし時間によって淘汰されない情報の価値は、問題となろうが。
 不遜を顧みずにいうと、21世紀に残すべき「データベース」は、世界で一体何人いるだろうか。21世紀はエネルギー・食料・環境問題さえなければ、面白い時代になりそうだ。