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JULY
◆CONTENTS◆
買いましたカシオペア
7/12読書会(福女)
「もののけ姫」論@ノート
7/12読書会(福女)
7/12にカシオペアを持って福岡に出た。当日まで降り続いた豪雨もようやくやんで、曇り空に一息ついたのであった。会が始まるまで、紀伊國屋書店で本を探す。
発表者の石川さんが14:00過ぎに到着し、会は始まった。石川さんは、車で2時間の距離に4時間掛かってしまったとういことで、それは高速が大雨のために50Km規制されていて、一般道を使ったがそれも混んでいたからだという話だった。
冒頭石川さんは、「知識人」の成立に目下関心があると言うことで、サイードをえらんだのはそのような勉強の為であるということだった。石川さんの発表は、サイードの用いたキーワードを中心に内容を概説して、オリエンタリズムなどの主要著書の紹介や、大橋洋一氏のサイードの解説にもふれるものであった。彼の知識人論には、目新しいものはないのではないかと、坂口さんが発言したり、この批判は自分のことを言われているのだと思ったという松本さんの発言や、結局はサイード自身が自分の事を語っているに過ぎないのだという相対化する意見などが印象に残った。
例によってこのあと飲み会に突入した。参加者は石井・花田・坂口・長野・中原・松本・石川・藤原の面々とぼくである。21:00過ぎになって藤原耕作が「キレ」て、石川さんが仕方なさそうにウェイター役をつとめておられた。このあとあの酔っぱらいはどうなったのだろうか?中原さんと僕は21:45頃に虎口(ほんまに大トラや)を脱出して帰路に就いた。
「もののけ姫」論@ノート
宮崎駿監督の「もののけ姫」を観てきた。僕の趣味から言うと、宮崎作品の絵柄はどうしても好きになれないのだが、こればかりは好みなのでしようがない。
宮崎駿の「風の谷のナウシカ」(映画版)を観たときは、本当にずっこけて、こいつはあほかと思ったのだが、実は映画版よりもコミック版の方が宮崎の本当の世界を表現していたのだった。東大先端研の野口悠紀雄氏も「ナウシカ」論を書かれていて、評価していたのは僕だけではなかったと意を強くしたものである。
宮崎作品は二律背反が2.3個並列的に存在していて、生と死の混在はその代表的なモチーフである。例えば、コミック版「ナウシカ」(以下「ナウシカ」と略) では、火の7日間と呼ばれる戦争のあと環境汚染が生じ、その情況を改善しようとするシステムが存在している。そこには嘗ての戦争前の文化が保存されており、それを人造人間が守っている設定だ。彼らは生と死を司り、ナウシカはその存在を、巨神兵オーマの力をかりて倒してしまう。秩序を司る絶対者である神殺しのモチーフをここに認めることが出来るだろう。
なぜナウシカだけが最終生体兵器である巨神兵を入手出来るのかは、彼女が「女性」である事と不可分である。ナウシカには、8人(?)の兄弟がいたがいずれも病弱で、ナウシカだけが奇跡的に成長した。その意味で彼女の暮らす「風の谷」は、幼い生物が生きていく上では過酷な場所であったのである(体が石の様になる病気がある)。彼女の成長には「死」の危険が伴っていたし、彼女の「生」にはあまたの兄弟の「死」という犠牲があり、その教訓によって彼女は守られていたのである。またオーマを手に入れたことで、ペットのテトも毒気にあたって衰弱死してしまう。ナウシカには「死」がつきまとうのである。
しかしそればかりではなく、彼女が出産をする「性」でもあることから、彼女には「生」の意味も潜在している。また神殺しによって人間だけの新たな秩序を生み出す点でも、象徴的な出産をしていると考えられよう。
このようにナウシカは死生を共有することカオス的存在(=女性)であることで死と生をまき散らしながら、物語を展開するのである。
「もののけ姫」でナウシカの役を演じているのは、エボシ御前と呼ばれる「たたら者」集団の
女性リーダーである。彼女の作り出したコミュニティーでは男女は平等であり、発言力も労働も同様に配分されている。またハンセン氏病患者らしい鉄砲鍛冶師集団も所属していて、彼女への信望は遺憾なく描きこまれている。しかし、彼女は善意からそのような事をしているのではない。ナウシカは生きるために闘ったが、エボシは勝つために闘うのである。それは、ノロの子供達に襲われた時に、運送役の牛飼い達を助けるかとたづねる部下にはこたえず、見捨てて先を急ぐ姿勢や、たたら場が襲われていることをアシタカに教えられても取って返すこともなく、シシ神をめざし続ける判断にも表れている。彼女にとって目的のためには、部下の生死は関係ないのである。そう考えれば、売られた女達を買い集めて、自由と食事をあたえる代わりに昼夜仕事をさせる事も、ハンセン氏病の者達に鍛冶仕事を与えたのも、彼女一流の打算が働いているように思えなくもない。彼女に寄せられるたたら場の信頼の一方で、宮崎はこのようなエボシの裏面を描き込んでいる。
さてこのエボシは、鉄を作り鉄砲を製造する製造加工業を一手に独占する事で、戦乱の世に重要な地位を占めて行っている。武士たちは彼女から鉄砲を入手することで、自らの武力を高めると共に、あわよくばエボシのたたら場を入手せんと虎視眈々と狙っている(アサノ氏)。力を持つことは強いということばかりではなく、その力を欲する敵を生み出すという戦乱の世相をものがっている訳である。そのような油断のならない状況下で、さらに鉄を生み出すためには火力が必要であり、そのことが森の切り崩しにつながる。しかしこの森には最後の神々がすみ、生と死を司るシシ(鹿)神やノロの君(山犬)、大陸からやってきた乙事主(猪)たちが、エボシ御前に対抗する。ノロや乙事主は、エボシやジゴ坊の圧倒的火力の前に倒されてしまい、最終的にはエボシは、シシ神の首に宿る不老不死の力を得るために朝廷から派遣されたジゴ坊の力を借りて、シシ神を倒すのである。シシ神は人間の価値観に関係なく存在しており、倒されるときも、またダイダラボッチとなって朝日を浴びて消滅するときも、なりゆきのように事態を受け入れていっている。
「もののけ姫」を動かしているのは、最初から最後までエボシの「欲望」なのであり、エボシの「欲望」は、が最後の神を自らの手で殺して森を手に入れ、製鉄という自分の目的の為に一つの世界を征服したところで完成される。宮崎が物語ったのは、エボシという人間が、神を殺して、人間の世界をあまねく確立させた「神ごろし」「神話の終焉」であり、人間が世界の王者として君臨した、まさに人間中心主義の淵源の様相なのである。この意味で、サン・アシタカといった、自然社会に組みする若者達がどうしても、僕には霞んで見えてしまう。(7/17記)