津島通信

 MAY '99
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◆CONTENTS◆

【読書ノート】
【きむたく日記】

出勤した日に,暇を見つけて更新しております。

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【読書ノート】

村上春樹「スプートニクの恋人」(講談社,1999)

     このテクストが提示していることの1つは,孤独からの回復ということだろう。
     村上文学の特徴として「井戸」がよく表れるが,「ねじまき鳥」から「井戸」は「あちら側」の世界への通路になっている。そしてそれに関与する人々は,ある決定的な一撃で生の意味を失って外形だけをとどめる存在,不在としての存在に変質してしまっている存在なのである。それは,皮剥ぎボリスに呪いをかけられた間宮中尉であり,「スプートニク」では,ミュウである。そして,作中1度だけKとして出てくる「ぼく」も,実はそうなのである。現実の家族になじめず,空想の家族を想像し,飼い犬とだけ心を通わせる彼も「あちら側」に住んでいる人間だったのだ。それが解き明かされるために,「ぼく」のギリシア行きは物語られたのである。
     「ぼく」は「すみれ」の失踪事件を経て,ミュウと会い,「あちら側」「不在」(=孤独)を発見して行き,最終的には音楽に誘い出された夜には「あちら側」を体験しさえする。「すみれ」の失踪は,「ぼく」の自己発見の過程,孤独の発見の過程でもあったのだ。「ぼく」の変貌は決定的となる。
     その「ぼく」が失われていた自分を回復するためには,いきおい<不在する>「すみれ」が必要である。それは,以前の彼が求めていた「すみれ」ではない。ましてや,ガール・フレンドである仁科夫人でもない(「ぼく」が彼女との関係を切ったのは,自分と同様の息子の孤独に気がついたためでもあるが)。テクストの後半で,「ぼく」の異質性(=「あちら側」性)は元警官の警備員(中村さん)に指摘されるし,「にんじん」を媒介にして孤独感は強く表出される。だからこそ,ラストの「すみれ」の帰還,「ぼく」の孤独からの回復の予兆(?)はある感動を読者にあたえるのである(この意味で女性が男性にとって補完的な存在として描かれているのは,フェミニズムには気に入らんだろうが。また「ノルウェイの森」のラストとも対照的だ)。「すみれ」は「すみれ」の別の物語を抱えていて,読者の「あちら側」にまだいるのだとしても。
     「スプートニク」という言葉は,登場人物達の孤独な生の軌跡を表すアレゴリーとして機能しているし,またその「恋人」達は孤独を回復するための大切な何かを表しているようなのだ。


「きむたく日記」

 

5月29日土曜日晴

     13:00よりゼミ。今回は,大岡昇平の「野火」を取り上げた報告をこなし,そのあと柳田国男「遠野物語」の読書会を開く。
     ゼミ終了後,夕方万歩書店平井店へ行き,辻仁成『海峡の光』(1997,新潮社)など3冊を購入。20時前に帰宅。北海道の小田島先生から論文が届けられた。深謝す。

     毎日系のTV番組を見ていると,東京の10代くらいの若者が「戦争を知らない」と答えている場面が紹介されていて吃驚する。レポーターが聴取した6割が,日本が戦争をしたことを知らなかったというのは,多分に誇張を感じたが,戦争の歴史を学んでいない,あるいは内面化されていない事は確かで,危ぶまれる事態になっているように思った。
     日本の戦後構造の解体は確実なのだが,「教育」(学校組織・教員・家庭・保護者・生徒・地域)そのものの荒廃もすでに傍観できる状態ではなくなっている。次世代の日本を運営する人間を作ること,そのために次世代に受け継がせるべき「気高いもの」をしっかり我々の世代が考えねばならない。今それをしなければ,そのツケは,何十倍にもなって我々の老後を襲うだろう。日本人に必要なのは,決して「金」や「土地」のようなものではなく,ましてや「株」の運用法を学ぶことでも,「ビッグネーム」になる努力でもない。日本人として生きる事が,同時に人間として生きていることの自信にもなるような,一人一人の生き方・プライドを見据えた生き方をすることが大事なのではないだろうか。
     一体我々(日本人,そして僕やあなた達)は,何時から目先の事ばかり考えるようになってしまったんだろう。

5月28日金曜日晴

     学部には,保険の外交のおばさんやおじいさんが出入りしているのだが,その中の「三井みらい」の外交員のおじいさんは,契約もしないのになぜか僕の研究室にやってくる。今日は,とうとう見合いの話を持ってやってきたので,「間に合っています」と言う。「いつ御結婚ですか」と聞いてくるので,適当にごまかしていると,要は僕の奥さんと契約するのが目的である事がわかった。用意周到というか,魂胆ミエミエというべきかとあきれて,帰っていただいた。大変なのは分かるのだが。
     それにしても,奥さん候補は「間に合って」いないのに,間に合っているといってしまった自分が,ちょっと悲しかった。本当に間に合っていれば……,トホホ。
     しかし,今週はこんなアホなボヤキをしている週ではないのである。「通信傍受法」(盗聴法)が衆院法務委員会で強行可決されてしまった。あれよあれよと知らない間にである。たしか神奈川県警だったかが,共産党幹部宅の盗聴をした/しないで問題になったことがあったが,そのような類似行為が防犯目的で公認されていくのである。小渕内閣は,なぜか支持率を上げているのだが,かれの就任以来上がったのは失業率くらいで,やっている事といえば,日本の将来に「?」をつけることが多いのではないか。

5月27日木曜日曇り

     今朝のニュースで,阪神が中日を下したことを知る。まさに「竜虎相うつ」である。監督が変わっただけで,弱小球団がこんなに変わるものなのかと,誰しも思うところだろう。これは学校に置き換えてみると,荒れた学校が,校長が変わって進学校に変貌するようなものではないのかと思う。前任者の吉田監督はイヤだろうと思うが,案外素直に喜んでおられるかも知れない。
     出勤途上,天満屋ハピータウンの本屋で,河野多惠子『谷崎文学の愉しみ』(1998.2 中公文庫)を購入。指導や講義のためとはいえ,御勉強は大変である。午後「近代と文学」の1コマを講義。講義後,「面会日」ということもあってゼミ生4人が研究室を訪れて,久々ににぎやかになる。女3人寄ればとはいうが,4人寄ると「○○ちゃん予備軍団」である(セクハラ?)。話題が可愛らしいだけ,まだ救いがある。僕は話題について行けないので殆ど話を聞いていただけだったが,トム・クルーズやブラッド・ピットを「オジさん」呼ばわりするので,同世代の僕の心中は穏やかではなかった。
     生協のブックセンターで,『日本の近代4』(中央公論新社)を購入。今日こそ『雑誌記事索引』で検索をと,図書館に足を運ぶと,なんと「休館」の赤い文字が……。木曜日に休むなあああああ。

5月24日月曜日雨

     必要があって,井上靖の「闘牛」を先週読んだが,その中で「ワンサ」と言う言葉が出てきた。<いずれもレビュー劇団のワンサたちを載せて,連日出動しているのであった。>(新潮文庫本,105頁)とあるのだが,「ワンサ」というのがサッパリなんのことだか分らない。MLで年上の方達に聞いてみようと思ったが,その前にCD-ROM版の「広辞苑」で検索してみると,「わんさ」とヒットしたのである。「広辞苑」によると,「ワンサガール」のことで,「下っ端の映画女優や踊り子」とあった。わんさとたくさんいるから付けられた名称なのだろう。この感覚もさることながら,こんな「死語」(?)を掲載していた「広辞苑」,恐るべし。
     岡大50周年の記念コンサートのチケットを買わされた。注文したA席は入手できず,S席3500円を買わされる事になった。聴きに行く訳でもなく,処分に困る。  

5月21日金曜日晴れ

     ゼミ生が取り上げたいと言った井上靖の小説を読み終えてから,就寝。起きると上半身に筋肉痛が発生していた。
     大学に出勤して,「日本近代文学」60を読んだり,ゼミの課題図書である大岡昇平「野火」,柳田国男「遠野物語」を読む。後者は,水野葉舟のものもあって,柳田の「改変」の程が伺えるそうだが未見である。
     篠崎美生子氏の「こころ」論は,当初から解説も無く「要するに」「先生」の「遺書」を「叔父とKによって汚された物語」として展開して行くのだが,Kの場合に根拠としている章句,「魔の通る前に立って〜」が「汚された」と解釈できるものなのか,かなり疑問を感じる。「汚された」という言葉は,「まあ比喩か」と思って読んでいたのだが,以降では論旨の中で当然視されて,「汚された」ことがキーワードとして使われて行くのである。ここはきっちり「汚された」ことを定義づける必要が,論展開以前の「解釈」として必要であろう。また,手記を「書物」として実体的なモノのように表現してしまうこともいかがなものか。作家はテクストを書くのであって,書物を書くのではない,という読書論からの意見がある。「書物」とわざわざカッコつきで表記する意図が理解できない。青年,先生の当事者責任をまぬかれんとする心性を炙り出す,野心的な試みであるだけに,こういう細部の問題が目に付いた。
     一体,文化研究ばやりのせいもあるのかも知れないが,テクスト本文それ自体の読解がなおざりにされる傾向が,最近強くないだろうか。それは文学研究以前の,情報をやり取りする上での,他者・テクストに対する誠実な姿勢が損なわれている実態を伺わせる事態に思われる。

5月20日木曜日晴れ

     フレンドシップの雑用も一段落ついた。午後講義。講義後,森先生や学生諸君とともに,廊下の廃棄品を処理場に移動させる。結構重労働で,腕の筋肉がすぐに張って握力が出なくなるなど,体力の衰えを実感させられた。これだから若い連中と働くのは,いやだなぁ。
     帰宅して今朝の新聞を読むと,大江健三郎が来月上下2巻の小説を出すということで,インタビュー記事が出ていた。折角ノーベル文学賞受賞後,新潮社から出た文学全集を購入したのに,不完全文学全集にさせられるわけである。

5月18日火曜日曇り

     午後2コマ講義。「土」についてまとめてから,「刺青」(谷崎)に入る。刺青の文化史など,自分の関心のあることについて話す。この辺りは趣味の世界である。次回はサディズムやマゾヒズムの話になるのだが,昼日中から何を喋っているんだろうと思わないでもない。大学院の講義では,「七番目の男」を終える。Kの絵によって罪悪感から解放された「私」だが,その絵というのは,「親友」である「私」に見殺しにされる前の絵であることに注意することで,私の欺瞞が見えてくるのではないかと最後に提示して,この解釈を乗り越えて見なさいと宿題を出す。さて,来週の回答が楽しみである。
     図書館から登録されて返却されたサンダー・ギルマン『性の表象』(青土社)などを受け取る。

5月14日金曜日晴れ

     「フレンドシップ体験実習」の運営で,教務学生係の担当者と委員の先生との間で電話で協議。実施施設にFAXを流したりして,事務方の仕事をする。
     昼休み中,ゼミ生のMさんが取り上げたいといっていた長野まゆみ「夏至祭」にNGを出す。興味深いストーリーを持つが,そこからどんな意味が読み取れるか分らない。
     吉田正さんから提供された漱石研究の論文データを,論文リストに反映させる。
     15:50からゼミ生の指導。レポートの構成や説明の仕方などの技術面や着眼点についてアドヴァイスを与える。思うに教育学部の学生は,余分に自分で勉強する時間が無いのではないか。このゼミ生は3回生だが,時間割では月曜と金曜日に1時間空きがあるだけで,1時間目から5時間目まで詰っていると言う。このハードさは,副免を取る必要かららしいが,それにしても僕の学生時代のヒマさと比較すると大したものである。この上にクラブ・バイト・通学時間が加われば,24時間などは直に消化されてしまう。本を読めといっても,消費的な読書しかできなくなるわけだなあと,心中慨嘆するのであった。昔の師範学校の学生には小説本は,社会主義の書物と並んで「禁書」扱いで,なかなか読めなかったというのに……。本を読む習慣の無い学生が教員になり,生徒達を教えて,読書習慣を持たない学生を再生産していく,その結末は「教育のデフレ」(苅谷剛彦)に間違い無い。

5月13日木曜日晴れ

     午後講義。講義後図書館で,論文のコピーをしてから,生協で簡単に食事を摂る。読書会用にレジュメを作成したり,ゼミの報告者への指導をする。19:30退出。

5月12日水曜日晴れ

     午前中2コマの講義と演習をこなす。12:30から13:40まで会議。開学50周年の記念コンサートのチケット販売の学部割り当てがまわってきて,国語教室では9枚(S席3500円,A席3000円,B席2000円)の割り当てをめぐって教官が押し付け合いの鎬を削った。紳士の僕は,割り当て枚数が50枚以上のA席を注文したが(去年,要らんチケット3枚も売りつけてくれた,NYに3500円で売ってやる),ほかの教授・助教授の皆さんは38枚しかないB席に殺到した。以下御本人の名誉のために匿名とさせていただきます。
     「木村さん,恋人の分も買わないと」とY田先生。
     「(そんなんいませんよ。)イエイエ。先生方,奥さんの分を是非購入してください
     「ウチは子供の分も要るけど,大人しく聞いているわけないしなぁ……そうだ院生に買って貰おう!
     「そうだ,そうだ」(拍手)

     会議後,生協のブックセンターを覗くと,平凡社ライブラリーの新刊,相馬黒光『黙移 相馬黒光自伝』が出ていたのですかさず購入。「師弟というものにはもっと強い人格的交渉がなければならない」(77頁)と語られるような明治女学校の校風を伺う上で,一読の価値があろう(藤村はその点で不満を述べられているのだが)。今時の……やめ。
     他に酒井シヅ編『疫病の時代』(1999.2,大修館書店),荻生徂徠『政談』(岩波文庫)を購入。岩波文庫といえば,17日には『明六雑誌』(上)が発売される。全論文154篇を3巻に収録するようだから,大学院クラスのテキストには持ってこいだが,ウチでそれをやると「闇討ち」は必至である。飛鳥涼のCD「ASKA the BEST」も購入した。赤川学『セクシュアリティの歴史社会学』(勁草書房)と『性と表象』(青土社)は,校費購入とする。直ぐ持ち帰れると思っていたら,一旦図書館で登録してから,配送するシステムに切り替わったとカウンターで教えられる。
     研究室のPCで「ASKA the BEST」を聴いてみて,ガッカリ。チケット代にお金を取っておけば良かった。

5月11日火曜日晴れ

     体がなんとなくだるいのは,疲れが抜けないせいであろうか。神戸の信時さんからのメールに,「おフランスから帰ってきました」とあって,いよいよガックリ来る。この天下の不況下に,夫婦連れで海外旅行を楽しむ輩が多くて,けしからん! うらやましい!
     午後,学部と大学院の講義2コマ。長塚節「土」と,村上春樹「七番目の男」について。後者では,「こゝろ」のパロディだというと,頷く院生と胡散臭そうな表情の院生に分れた。違うってのか。喋りつかれて,研究室で暫くボーゼンと過ごす。

5月7日金曜日晴れ

     雑用を済ませ,講義ノート作成と読書。稲田先生から,黒板に掲示してあるゼミの開催日が違っているのではないかと指摘される。15日(土)に開くつもりで,「17日」と書いていたのだ。「この日は,ウチは(ゼミの後)飲み会でね」と稲田先生。
     図書館に書籍を探しに行く。今日は,外を歩いていて少し汗ばむくらいの陽気で,気持ちがいい。探している本が,研究室に貸し出されているようなので,いっそ購入しようかと算段する。生協で『性と表象』(青土社)を見つける。これは図書館でも購入していないので,校費で購入するか。
     ゼミ生がインターネットで書籍検索をしたいというので,操作について指導。「土曜日のゼミは,13:30からですか」といわれて,一体何時からと言っていたか全く記憶に無く,PCにも記録が無く,焦って他のゼミ生に問い合わせる。

5月6日木曜日晴れ

     大学,午後講義。みんな連休明けのせいか生気無し。遊びつかれたのであろうか。生協ブックセンターで,竹内洋『日本の近代12 学歴貴族の栄光と挫折』中央公論新社,『大東京繁盛記山手編』平凡社(昭和3年の復刻版)を購入。『遠藤周作文学全集』も出ていて購入を迷うが,ここは文学部の片山先生に期待することにする。竹内氏の著書では当時の試験問題も紹介されてあって,面白い本にしあがっている。斜め読みだが,丸山真男と吉本隆明への分析も面白かった。紀伊國屋書店からは,「安吾全集」02が届いた。価格8000円にギョッとする。『安部公房全集』(5700円)と違って,価格が変動制であるのが大変気に食わない。

5月1日土曜日晴れ

     昨日村瀬士朗氏から漱石論をご恵送いただく。感謝。先日村瀬氏を知っているという北大の後輩の方からメールを貰っていたので,偶然は続くものだと思う。西田谷氏・信時氏からもそれぞれ御論をいただいているが,不義理をしているので,ひたすら恐縮である。
     数年来使用していたFDを紛失してしまった。昨日研究室で仕事をしようとFDケースを開いたところ,忘れてきていたようなので,帰宅した時にPCのFDドライブを見たがそこにも無く,まさかと思いながら今日研究室中をひっくり返したが,結局何処にも無かったのである。データのバックアップはHDにとってあったのだろうかと思いながら,別のFDにHDのデータを移して出勤してきたので,一応仕事はできるのだが,あのFDには個人情報も入っていたので自分の迂闊さが悔やまれる。

     失業率が,4.8%になったことが昨日報道されていたが,自発的な離職者に1万人にくらべてリストラによる失業者は30倍以上あるそうだ。企業のリストラは更に強化されるという情報もあり,卒業を控えたゼミ生の就職戦線を憂えざるを得ない。