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オーストラリアの宇宙開発史 -2006年2月13日(月)21時53分


自国から自国製の衛星を打ち上げながら、自国の打ち上げにカウントされなかった国がある。自国から、他国の最初の宇宙ロケットを打ち上げた国がある。

オーストラリアだ。

オーストラリアにおける宇宙開発は、1947年のウーメラ射場の開設に遡る。ミサイル開発と高層大気観測のための拠点として、イギリスとオーストラリアの共同運用が行なわれた。1949年からロケットは打ち上げられるようになり、1957年には固体ロケット、スカイラークが高度129キロにまで達するようになっていた。スカイラークは誘導システムを持たない安価なロケットとして計200回以上打ち上げられた。特に二段式のものは高度240キロにまで達した。

オーストラリアも幾つかの機種を独自開発した。最初が固体二段式のロングトムで、高度120キロにまで達する性能を持っていた。開発はWRE(Weapons Research Establishment) オーストラリアの兵器研究機関で行なわれた。オーストラリア独自のロケットで、最も高く昇ったのは固体二段式のコレラで、高度220キロにまで達した。WREはその後、1978年に4つの研究所に分割され、発展的に解消された。


1958年になると、イギリス製の液体燃料中距離弾道ミサイル、ブラックナイトが持ち込まれるようになった。ブラックナイトは単段で高度500キロに達する性能を持ち、ウーメラでは同時に再突入弾頭の試験も行なわれた。

1961年、西側欧州9ヶ国共同の宇宙用ロケット開発プロジェクト、ヨーロッパの射点としてウーメラは選ばれた。オーストラリアは欧州以外でこのプロジェクトに参加した唯一の国だった。

1964年になるとイギリスの新しい弾道ミサイル、ブルーストリークがテストされるようになる。これはヨーロッパロケットの一段目でもあった。

ウーメラを使用したのはオーストラリアのイギリスだけではなかった。アメリカも再突入弾体の試験にウーメラを利用した。プロジェクトSPARTAはレッドストーンロケットの上段に更に固体の二段目と三段目を追加した機体で、九回の打ち上げが予定され、予備の一機を含んだ計10機がウーメラに運び込まれた。


1967年はオーストラリアの宇宙開発にとって特別な年となった。

順調に打ち上げ成功を続けてきたブルーストリークにダミーの上段と衛星を搭載した、最初と二機目のヨーロッパロケットはほぼ成功していたのだが、ダミーではない二段目が搭載されたヨーロッパロケットは、二段目が点火せず失敗に終わった。

SPARTAプロジェクトのロケットの予備の存在は試験開始早々にその可能性を認識され、それを狙ってオーストラリアによる国産衛星開発がスタートした。SPARTAプロジェクトの試験が全部順調に終われば、余った一機は不必要になる。そしてアメリカはわざわざそれを持ち帰らないことが確認された。

アポロ計画を通じてアメリカとオーストラリアは良好な関係を築いていた。アメリカ国防省は予備機を使ってオーストラリア製の衛星を打ち上げることを約束し、TRW社の打ち上げサービスと追跡局のサービスも行なわれる事となった。

当然のことながら、オーストラリアの衛星開発には先行研究も存在した。しかし、開発は一年以内で行なわなくてはならなかった。SPARTAプロジェクトの終了直後に打ち上げは行なわれなければならない。作る衛星は急作りなものにならざるを得なかった。

WREとアデレード大学の共同で開発はスタートした。この衛星、WRESATは重量72.6キログラム、全長2.17メートルの大きさを持っていたが、うち3段目固体モーターの重量が27キログラムを占めていた。三段目は分離しないだけであり、衛星の正味重量はおよそ45キログラムである。

衛星はロケット頂部にフェアリング無しで搭載される事となった。従って衛星は円錐型をしていた。表面は黒く滑らかで、ところどころにセンサが顔を出していた。太陽電池は搭載されず、バッテリで動作した。恐らくは衛星の開発には再突入弾頭の印象、影響が強く現れていたのではなかろうか。

WRESATは円錐軸でスピンしたが、必ずしもスピン安定な訳ではなかった。WRESATの飛ぶ軌道はかなり低かったので、上層大気の温度や酸素分布を調べるためのセンサが搭載された。

WRESATは1967年11月29日に打ち上げられ、5日間の運用の後もさらに9日間動作して、翌年に大気圏に再突入した。


ヨーロッパロケットは1967年のうちに更に二度打ち上げに失敗した。原因はそれぞれ二段目と三段目の分離失敗、三段目の爆発である。

1968年に飛んだヨーロッパロケットは一機だけで、これもやはり失敗だった。1969年7月の二回の打ち上げ失敗で、ヨーロッパロケットのウーメラでの打ち上げは終わった。

同年にはブラックアローの打ち上げが始まる。イギリス独自の宇宙ロケット、ブラックアローはブラックナイトのエンジンを束ねて更に多段化したものだった。このロケットは4回飛んで2回失敗し、開発打ち切りが決まった最後の一回、1971年10月28日にようやく衛星打ち上げに成功した。搭載された衛星Prosperoは重量66キログラムの多角形の、表面に太陽電池を張り巡らせたスピン安定な衛星である。この衛星がイギリスを第6番目の独自人工衛星打ち上げ国にしたのだ。


その後、オーストラリアから軌道に投入された宇宙機は存在しない。但し、オーストラリア製の衛星はその後も製造され、宇宙へと飛んだ。

アマチュア無線衛星OSCAR-5はメルボルン大学で学生たちによって設計、製造され、1970年にアメリカのデルタロケットで打ち上げられる極軌道気象衛星のピギーバックとして宇宙に行った。OSCAR-5はコマンドデコーダを持った最初のアマチュア無線衛星である。OSCAR-5はバッテリー動作で、およそひと月の間動作した。

次に作られたのはFedsat、産学協同組合による60キログラム級小型衛星である。製造の中心となったのはAuspace社という中小企業である。

これはオーストラリア連邦建国100周年を記念するものとして、2002年に日本のH-IIA 4号機のピギーバックペイロードとして打ち上げられた。オーストラリアの諸企業と研究機関は本格的な小型高機能衛星の開発と運用に関して大きな経験を積んだが、その一方で小型衛星による地上探査プロジェクトARIESは中止となった。また、Fedsatの予算超過から、もう一つの小型衛星、JAESATも打ち上げをキャンセルされた。


オーストラリアは広い国土に通信サービスとリモートセンシングの強い需要を抱えており、多くの通信衛星を保有している。全てアメリカ製の衛星であるが、打ち上げ手段には政治的配慮が見え隠れする。1980年代半ば、最初の二機はシャトルで打ち上げられ、三機目はアリアン3で打ち上げられた。更に次の衛星は1992年に長征で打ち上げられたが、打ち上げは失敗し、新たなものを打ち上げている。

現在オーストラリアの通信衛星群はシンガポールの通信企業SingTelに買収されたOptus社によって管理されている。

気象衛星に関しては、日本の衛星がこの地域をカバーしており、すでにMTSATもオーストラリアではお馴染みとなっている。


全体として、オーストラリアの宇宙開発は緩やかながら前進しているという印象を受ける。既に幾つかの大学が衛星を開発しており、本格的な小型商業衛星が飛ぶ日も近いかもしれない。自力打ち上げ手段については独自開発の傾向は見えないが、ウーメラ等を打ち上げ拠点として運用していきたいという考えは持っているようである。


記事は以下のサイトを主に参考にしました。


The Lowdown

http://www.lowdown.com.au/history.html


Australian Space Research Institute(ASRI)

http://www.asri.org.au/ASRI/index.xml


Cooperative Research Centre for Satellite Systems(CRCSS)

http://www.crcss.csiro.au/default.htm




中国のコンピュータ開発史 -2005年11月26日(土)22時39分


中国のコンピュータ技術及び産業は、ソ連のコンピュータ技術導入から出発し、以後きわめてゆっくりと発展した。トランジスタ化は1965年にようやく実現し、集積回路は1971年に実現した。ソフトウェアに関しては、1974年からの漢字処理技術開発などの幾つかの成果はあったものの、ほとんど進歩の無い状態が続いた。

これら状況が変わるのは1980年以降のことである。北京郊外の中関村の発展もこの年を期として始まった。企業が技術及び産業の牽引役となったのである。1970年代後半から始まった外国機の導入は、やがて海外から輸入した部品組み立てによる国産機開発へと発展していく。ソフトウェア産業、周辺機器産業、サービス産業が勃興し、以降現在に至るまで急速に発展を続けている。


中国最初の算机(コンピュータ)は、ソ連製ミニコンM-3の技術導入機"103"である。

1956年に中国科学院計算機研究所が設立され、コンピュータ開発の12ヶ年計画が開始された事によって中国のコンピュータ史は始まった。翌年の1957年、ソ連に数人の科学者達が派遣され、M-3とBESM-2の技術導入が決まった。

これら技術導入はしかし、もう少しというところで失敗するところだった。素子品質の問題に苦しんだこのプロジェクトの成果は、1961年にようやく中国最初の量産機DJS-1として実る事となる。DJS-1は103をベースとした機械で、1965年までに36台が生産された。BESM-2の技術導入機"104"の量産型DJS-2も2機が作られた。

DJS-1はオリジナルより遅い秒30命令という速度しか出せなかったが、1963年に改良型DJS-3が出て、秒3000命令まで性能は向上した。

中国最初のコンピュータ専門誌は1958年に創刊された。中国電子学会(CIE)の設立はそれより遅い1962年である。CIEは以後集積回路技術の推進や外国技術の導入、外国製品の導入などの役割を果たした。

1964年には独自機119とJ-501を始めとして、幾つかの独自機がハルビンや上海など様々なところで開発された。

1965年に開発された109Bは、中国最初のトランジスタ機だった。語長32ビット、0.09MIPSのこの機械のためにBCYというコンパイラが開発された。同年、計130台が生産されたDJS-21や、ハルビンで20台が生産された441B IIなどが生まれている。1967年には109B改良機である109Cがようやく0.1MIPSの性能を達成し、同年、156台を生産することになる機種DJ-6が誕生している。

しかし、中国のコンピュータは1971年の段階で、広大な国土にまだわずか462台しか存在していなかった。中国のコンピュータ産業は、明らかに諸外国に比べて10年以上遅れていたのだ。

1973年に中国最初の集積回路を用いたコンピュータが現れた。1974年から始まった748工程(74年の8番目のプロジェクト)は、漢字情報処理システムの研究開発プロジェクトだったが、文字コードを始めとして、中国のソフトウェア技術の基盤はこの時築かれた。1977年には中国最初のマイクロプロセッサDJS-050が造られている。1978年には8080クローンのDJS-054が造られた。

1970年代末の時点で、中国で稼動するコンピュータはまだたったの2000台であった。


1980年代に入っての中国のコンピュータ産業の発展は、アメリカのシリコンバレーを手本とした技術産業集積地区、北京郊外の中関村に先端技術発展センターを開設した事に始まっている。

技術開発の中核となったのは文字処理である。1981年のGB2312文字コード制定をはじめ、電算写植技術の発展は、1985年には独自のレーザプリンタ"華光U型"を産み出すまでになる。

その後ここを母体に、科海新技術公司、京海計算機機房技術開発公司、四通公司、信通電脳公司といったジョイントベンチャーが起業し、ソフトウェアや半導体技術などを主導していく事となる。

1980年には、コンピュータ技術者不足解消を目的として中国計算機技術服務公司が設立され、各地でプログラマー養成に当たった。1984年には国策会社として中国軟件開発公司が設立されている。

その後中関村ではベンチャーの起業が相次ぎ、それらの聯想、長城、方正といった企業が中国のコンピュータ産業の主力となっていったのである。

中国最初のパーソナルコンピュータは長城科技が1985年にリリースした0520CHである。

0520CHは4.77MHz駆動の8088と512kbyteのメモリ、8インチフロッピードライブ2基と10メガバイトのハードディスクを持っていた。画面解像度は640×480で、開発者本人が作ったCCDOSを用いて漢字25行表示を可能にしていた。この機種は15000台以上のベストセラーとなった。スペックを見れば判るとおり、この機種は業務用途機であり、ホビー機ではない。

ちなみに1985年というと日本ではPC-9801VMが出た年である。

1986年に中華學習机という機械が出ていて、これが独自アーキテクチャの教育用パーソナルコンピュータらしいのだが、詳細は不明である。中国では1987年にPC-LXという機種を聯想が出したのを端緒として、IBM-PCアーキテクチャが以後主流となった。


中国のゲーム専用機は、1980年代末に深センなどを経由して入ってきたFC及びそのクローンがその最初のものとなる。メガドライブ及びそのクローンは大きな人気を博したようだ。ゲームはみな海賊版で、当然ながら安価な海賊版が溢れる状況では国産ゲームは殆ど出てこなかった。国産ゲームと一見みられるものの大半は、既製品のキャラクターデータを書き換えただけのものである。


中国のスーパーコンピュータ開発は、1983年の757型(10MFLOPS)を端緒として、同年の銀河-I型(100MFLOPS)、1992年の銀河-II型(1GFLOPS)と進歩してきた。

更に863研制によって開発されたパラレルマシン曙光シリーズが、1993年の曙光一号のリリースを皮切りに、1997年に曙光1000(250MFLOPS)、1999年には曙光2000、2002年には曙光3000と順調にリリースを続けている。最新型の曙光4000A(11TFLOPS)はAMDのOpteronを使ったグリッドマシンらしい。


参考にしたリンクを以下に挙げる。

Early Chinese Computers

http://www.cs.man.ac.uk/CCS/res/res19.htm#e


The Dawn of Chinese Computing

http://www.cs.man.ac.uk/CCS/res/res18.htm#d


中国計算机科学大事年表

http://zh.wikipedia.org/wiki/


中國計算機事業發展大事記(高科史話)

http://www.people.com.cn/BIG5/paper53/2097/334855.html


中国科学院計算技術研究所

http://www.ict.ac.cn/2-2-9.htm


中国超計算机発展之路

http://www.dawning.com.cn/4000A/test_gx_1.htm


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手持ちのネタで久しぶりに。



運動量の保存について -2005年8月5日(金)23時38分


産業遺構としての宇宙機保存という概念は、現在一般に認められた概念では無いが、宇宙開発初期の重要な宇宙機の多くが失われつつある現状、早急に認知されねばならない。役割を全うした宇宙機たちが十把ひとからげでデブリ扱いされるのは不憫であり、後世において確実に批判されるものであろう。

宇宙機の保存に関して、他の産業遺構と違う概念として軌道の存在がある。宇宙機の設計、生存はその軌道パラメータと密接に関連している。宇宙機は蒸気機関車とは違い、太陽同期軌道の引き込み線など存在しない。

ただ、宇宙機の軌道上保存に関して、保存措置の一環として軌道保全を行うか、行わないか。この判断は難しい。なぜなら、触れなければ宇宙機はその打ち上げ時の運動量をそのまま保存しているからである。軌道上の宇宙機は、運動量すら遺構として保存できるのだ。

逆に動態保存を行なうなら、その軌道の維持、保全は慎重な操作を必要とするだろう。宇宙機の保存運用のために、産業的に価値の低い軌道要素を選んで確保すべきである。

軌道保全と運動量保存は、いわば遺構復元と埋め戻し保存の関係に近いだろう。保存対象に合わせてこれら手段は選択されなければならない。そのためにはまず宇宙機の歴史的価値について評価が行われなければならない。

適切な評価と保存が行われなければ、産業遺構としての宇宙機は最悪、衛星や惑星上の探査機以外残らないと言う状況にもなりかねない。


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Classic 8-bit/16-bit Topicsのhally氏が、東欧のマイコン/パーソナルコンピュータ史についてコメントされています。

特にソフトウェア、デモシーンやゲームへの言及は勉強になります。世界中にマイコンとそのファンは居て、そして皆あの特別な熱気を帯びていたのだと改めて思い知らされました。



宇宙用リアルタイム言語HAL/S -2005年7月23日(土)21時24分


オンボードコンピュータは当初ミサイル・ロケット・宇宙船のリアルタイム制御のために開発された。やがてコンピュータの能力が増すにつれてソフトウェアの規模も増大し、高級言語の必要性もまた増したのだった。

リアルタイムシステムのソフトウェアには、プログラミングを容易にするために、リアルタイム性を抽象化する仕組みが必要となる。現在ではそれら機能の大半をリアルタイムOSが負っている訳だが、かつてはリアルタイム性をプログラミング言語の仕組みで実現していたのである。


シャトルの制御ソフトウェアは、HAL/Sと呼ばれる高級リアルタイム言語で記述されている。

HAL/Sの前身はアポロ誘導コンピュータに使用されたプログラミング言語MAC(MIT Algebraic Compiler)である。MACはIBM650で開発されIBM704、Honeywell800に移植された。アポロ誘導コンピュータの場合、MACで書かれたコードを300人から成るプログラミング部隊がハンドアセンブルしたのである。

これらを開発したMITドレーパー研究所の5人のメンバーは1969年にIntermetrics社を設立し、次世代の宇宙用コンピュータ用に新たな言語を開発した。

HAL/Sという名前はhigher-order assembly languageの略とされる。後ろについたSはシャトル用であることを示す。この名前は1952年にWhirlwind用に最初期の代数コンパイラを開発し、MACの作者でもあるJ. Halcombe Laningの名前にちなんで命名されたが、当時人気となった映画"2001:A Space Odyssey"の中に出てくるコンピュータをも当然ながら強く連想させた。

当初この言語はガリレオ惑星探査機計画のために開発されたが、1972年にスペースシャトル計画への利用が決定された。最初のバージョンはFORTRANのプリプロセッサだった。

HAL/Sの構文そのものはPL/1の影響を強く受けている。そして更にリアルタイム用途にCOMPOOL,TASK,WAIT, SCHEDULE, PRIORITY,TERMINATEといった構文が用意されていた。


SCHEDULE ERROR0 ON RUPT0 PRIORITY(22);


例えばこの構文は優先度つき割り込みの定義で、割り込みRUPT0でタスクERROR0へジャンプするが、その優先度は22である、という意味である。


特徴的なのは、”優先度付き無限ループ構文”だろう。この構文を用いて、センサデータサンプリングなどを簡単に記述できた。


SCHEDULE RGl PRIORITY(12), REPEAT EVERY 6.190,


これは優先度12のタスクRGIの実行を時間単位6.190ごとに繰り返す、というものだ。時間単位は大体1/100秒らしいのだが、浮動小数点記述できるタイマがなんというか微妙である。


HAL/Sは当初、移植性を強く意識して開発が進められていた。開発環境XPLが吐き出す中間言語halmatを他の様々なコンピュータの機械語に変換するのだ。しかし、シャトル計画とそのIBM370互換コンピュータへの対応は、そういった計画をほとんどご破算にしてしまった。完成したものは極めて移植性が低いものとなったのだ。(例外としてガリレオ探査機のRCA1802マイコンへの対応がある)

しかしその代りに、手作業によるハードコーディングに対しておおむね10%の性能損失、という高い性能を獲得したのである。


シャトルに搭載されたプログラムはおよそ400000行、このプログラムはSTS-1打ち上げの際に問題を露呈した。IBMとロックウェルとで、プログラムの書き方、方法論が全く違ったのだ。IBMが割り込みドリブンなイベント記述だったのに対して、ロックウェルは処理時間優先のスケジューラ記述だった。これはどちらが間違っているという訳では無い(個人的には割り込みドリブンな方が趣味)のだが、この食い違いがSTS-1の打ち上げ時に40ミリ秒のタイミングのずれを引き起こした。

NASAはこのプログラムに1行あたりおよそ1000ドル相当のコストをかけたが、それ以来30年、このプログラムは”バグフリー”であるという評価を得ている。このプログラムがこの世で最も徹底的にテストされたプログラムの一つである事は間違いない。


HAL/Sはシャトルとガリレオ探査機、GPS用のナブスター衛星、JPLの深宇宙ネットワーク、そしてシャトルに搭載された欧州宇宙実験室に使用されたが、IBM370系以外での応用の利かない点が多くのプロジェクトで嫌われた。

1985年、宇宙ステーション計画にはAda言語を使う、と宣言され、それ以来新規の採用例は無い。

実際、AdaはHAL/Sの後継言語と呼んでも差し支えないだろう。そのAdaも今では死んだ言語の一つである。


ただ、宇宙開発の世界では定期的にリアルタイム言語が再発明されるようだ。

XMLの一種であるSML(Spacecraft Markup Language)で記述されたテレメトリ/コマンドデータと、それを操作する専用スプリプト言語SCL(Spacecraft Command Language)の組み合わせで売り出し中の言語があるのだが、SMLがオープンなのに対して、SCLの仕様はクローズである。が、googleの目はごまかせない。

SCLはコメントの形式からしてAdaの、そして恐らくHAL/Sの血を引いた言語である。プログラムの書き方は昔のBASICに良く似ている。あらゆる宇宙機機能が専用構文として用意されているのだ。

XML記述データ表現とスクリプト言語の組み合わせという着眼点は良い(自分も似たような事やったから)のだが、XML定義やスプリプト言語仕様には穴が多く見受けられる。



アメリカにおける組み込みコンピュータ開発史#2改め -2005年7月14日(木)22時08分


アメリカにおける宇宙用コンピュータ開発史#2


ジェミニ宇宙船は、アメリカ最初の有人宇宙船マーキュリーから有人月着陸計画への橋渡し、必須技術を得るために、マーキュリ宇宙船の発展型として計画された。1961年4月にマクドネル社との契約が成立し、その年末に宇宙船の仕様は固まった。

ジェミニ宇宙船は自律慣性誘導システムの搭載、実用化を目指しており、またミッションプランにはランデブーとドッキングが含まれていた。ドッキングのような柔軟性を大幅に必要とするミッションのために、宇宙で動くコンピュータが必要とされたのである。

マクドネル社は1962年4月にIBM社とジェミニ用コンピュータの開発契約を結んだ。


当時のIBMの組み込み機器としてはAN/ASQ 28 (v) EDCAN/ASQ 28 (v)MDCという例を挙げることができる。また、STORED PROGRAM DDAに関する記述では耐放射線性の評価が存在している。IBMは宇宙用コンピュータを充分製造可能だったのである。

IBMは実際の宇宙用コンピュータとして、1959年にサターンI用の誘導コンピュータの開発を開始し1962年に引き渡している。これは磁気ドラムメモリの固定小数点27ビット機で、おそらく9ビットバスを採用していたものと思われる。インストラクションのワード長が9ビットなのだ。メモリサイズは3644ワード、0.003MIPSの能力を持っているとされるが、実際にはメモリの制約で更に低い能力しか出せなかっただろう。

更に1961年からはOAO(Orbiting Astronomical Observatory)という衛星搭載用コンピュータの開発に取り掛かっている。この機械は三重冗長をはじめとする様々な耐障害機能を持ち、8キロワードのコアメモリを持った強力なコンピュータになる筈だったが、開発は遅れていた。従って、ジェミニ搭載コンピュータは実際に宇宙空間で運用された最初のコンピュータになったのである。


ジェミニ搭載コンピュータに関する情報は少ない。特に肝心のIBMのサイトには写真程度のものしかない。

ジェミニ搭載コンピュータは1ワード39ビットの固定小数点表現で、4096ワードのコアメモリを持っていた。インストラクションは13ビットで、要するにメモリのバス幅は13ビットである。加算には140ミリ秒が必要で、乗除算には倍の時間が必要だった。メモリはコアメモリで、OAO用に開発された組み込み用コアメモリが使用された。割り込み機能は持っていなかった。

宇宙用コンピュータ実装の細部については、OAO開発の初期に検討がなされていた。オフガス、熱伝導、電源の問題などが考慮され、対策された。

コンピュータは27キログラムのいびつな多角形で、ジェミニ宇宙船の二重殻構造の隙間、主パイロット側の内殻側面に固定された。内部は5枚の基板から構成され、搭載された回路モジュールは一応という程度は交換可能だった。この回路構成に冗長性は全く無く、実運用中も数度にわたって故障した。そのためにジェミニ4号はコンピュータによる姿勢制御無しの弾道再突入をしなければならなかった。


特筆すべき機能として、軌道上で使用可能な外付けテープドライブがある。宇宙船運用中に宇宙飛行士がプログラムをロード可能なこの装置は12288ワードの容量を6分でロード可能で、実際にジェミニ8号の再突入時に使用された。これはソフトウェア開発が進むにつれて規模が膨れ上がってゆき、コアメモリに全て収める事が危ぶまれるようになったために、後から追加仕様として開発されたのだ。

ジェミニ用のソフトウェア開発は高度な信頼性を要求した。仕様の文書化や変更箇所の記録といったソフトウェアエンジニアリング技法はこの時期に発明された。また、プログラムがメモリに収まらない可能性は、ソフトウェアのモジュール化技法を生み出した。プログラムそのものは高級言語を使用せずアセンブラで書かれたが、デバッグのために大型機で動くシミュレータとテスタがFORTRANで書かれている。

開発されたプログラムはMathFlowと呼ばれ、それぞれサブルーチン化されたモジュールの組み合わせによる9種類のバージョンが製作された。それぞれのサブルーチンは操縦席のコンソールから数字を指定して呼び出すことが可能だった。


ジェミニ搭載コンピュータの成果は、サターンV誘導コンピュータ、スカイラブ搭載コンピュータ、そそしてシャトル搭載コンピュータに活かされる事となる。

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次はAGC(Apollo Guidance Computer)となるところですが、これ、次の「宇宙の傑作機」ネタにしようかと思っています。つまり「宇宙の傑作機 No,X アポロ誘導コンピュータ」と。

AGCは資料が豊富で、ロジック、実装、ソフトウェアと、穴はあるものの他のものとは比べ物にならないほど揃っているので、楽といえば楽なのですが、凝りだすと際限無くなるだろうことは明白で、冬に間に合うかどうかは、自分でも疑問に思っていますが……

それ以前に、需要はあるのでしょうか?



アメリカにおける組み込みコンピュータ開発史#1 -2005年7月13日(水)23時34分


すいません、世界最初の組み込みコンピュータはポラリスミサイル誘導計算機 MarkI ではありませんでした。それどころか、MarkIはコンピュータではありませんでした。ディジタル計算によるリアルタイム微分計算機ですが、命令デコードとか条件分岐とか、そういうものは一切ありません。

それでは、世界最初の組み込みコンピュータは何かというと、先行して候補が幾つかあるのですが全て軍事用で、詳細がはっきりしないものばかりです。

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最も初期の組み込みコンピュータの候補としては、1952年、ILLIACやIASと同じ年というものが存在している。

ネットには初期のコンピュータに関するリストが数種類存在しているが、うち1つには、1952年のHughes Airborne Control Computerという機種が記載されている。350個の真空管と2500個のダイオードを使用したこの機械は航空機搭載用である。但し、この機械がコンピュータとしての特徴を全て有していたかどうかわからない。

1955年の"A Survey of Domestic Electronic Digital Computing Systems",いわゆるBRLレポートの最初のものには、HUGHES AAC MOD-III という機種が記載されている。AACとはAdvanced Airborne Computerの略である。

この機種は481個の真空管と33614個のダイオード、そして2キロワードの容量の磁気ドラムを持っていた。1ワード17ビット固定小数点で、命令も同じ語長だったようだ。メモリ構成はちょっと特殊で、容量3ワードの高速アクセスレジスタと容量8ワードの高速アクセス磁気ドラムを持っていた。これをどういう仕組みで用いていたかは不明であるが、純正ノイマンアーキテクチャ系の紛れもないコンピュータであるように見える。

MOD-IIIというからには、MOD-IやIIも存在する筈であり、これが前述のHughes Airborne Control Computerである可能性はある。

しかし、組み込みコンピュータ開発で先行したヒューズエアクラフトは、このアドバンテージをうまく生かせなかったようである。これらを開発したのはヒューズエアクラフトのラボだったのだが、空軍への売り込みに成功したかは定かではない。そもそもヒューズが航空機搭載エレクトロニクスの部門を創設するのは1958年になってからである。彼らはその後も戦闘機用火器管制システムMA-1(1959)などの真空管ハードウェアを作りつづけた。


組み込みコンピュータにおける次の革新は、一人の中国人科学者によっておこなわれた。

周文俊(Wen Tsing Chow)は中国で生まれ、上海で電気工学を学んだ後に、移民許可を得て1942年に米MITへ留学、戦中はMITとGEで火器管制装置の開発に取り組んだ。この時期に彼はSimon Ramoと一緒に働いている。

戦後彼はMITのサーボメカニズム研究所で研究者として働く事になる。サーボメカニズム研究所はミサイル誘導システムを開発していたが、1951年には世界最初のリアルタイムコンピュータWheelWindの開発プロジェクトに従事していたグループがMITリンカーンラボに移されている。その後サーボメカニズム研究所は原子力装置の遠隔コントロールと工作機器の自動化に功績を残している。

周文俊はアメリカ国籍を取得し、Arma社の嘱託としてアトラスミサイルのディジタル誘導コンピュータに取り組んだ。その後彼はBosch Arma社となったArma部門で働く事となる。

周文俊の開発した最初のバージョンは1955年には細部を確定し、1957年には生産を開始していた。この機械の細部は明らかではない。もしかすると真のコンピュータでは無かった可能性もある。

特筆すべきはその後、1958年の"第四世代"である。これはゲルマニウムトランジスタによるIC、集積回路を採用した世界最初のコンピュータである。ICの概念は前年に発案されたばかりであり、アイディアは知られるようになっていたが、実装となると話は別である。彼らはゲルマニウム結晶のスライスした表面にNORゲートを構築してモジュール化し、これを"マイクロミニチュア"と呼んでいた。

"第四世代"コンピュータの重さはわずか5キログラム、容積9リットル程度の直方体はしかし、時代に対してあまりにも早すぎた。第一から第三世代まで、アトラスとタイタンに採用されたのに対して、この新機軸はとうとう採用される事が無かった。

時代に対してどのくらい早かったかというと、この年ヒューズエアクラフトは航空機搭載エレクトロニクスの部門を創設、Simon RamoとDean Wooldridgeを雇い入れたばかり、MIT計測機器研究所はまだポラリス誘導装置を開発中である。Simon RamoとDean Wooldridgeはその後独立してRamo & Wooldridge社を創設、更にThomson社と合併してTRW社となる。

Bosch Arma社もまた、この技術的アドバンテージを活かす事無く、1970年代に軍需からフェイドアウトしていった。


周文俊の知られざる功績にはもう一つ、PROMの発明というものがある。PROMは1956年にアトラスミサイルのプログラム格納用に考案された。

Arma社、というより周文俊はIBMの下請けとしてジェミニ誘導コンピュータやサターンロケット誘導コンピュータの開発にも携わった。周文俊の最後の功績は、スペースシャトル搭載計算機の設計であった。あの特徴的な5重計算機構成は、彼の提案した4重冗長構成に、ロックウェル側が1機追加して出来上がった。この一機は通常使用しない待機冗長となる。

4重冗長系において2機と2機、違う値を出すペアが出来た場合の動作が定かでは無いが、恐らく間違った解で二機のコンピュータが同じ解を出す、という事が起こりうるのか、という辺りに焦点があるのであり、ロックウェル側は、たとえ有り得なくても可能性は全部潰したかったのではないかと推測する。



工業技術博物館 -2005年6月29日(水)23時47分


先日、というか暫く前ですが、工業技術博物館に行ってきました。

工作機械がアホのように収蔵されている、機械屋の夢の国みたいな所でした。写真が取れなかった(撮影が禁止されている)のは残念でしたが、建屋内に充溢する機械油の匂いだけでトリップできそうでした。

常磐線を北千住で乗り換えて東武伊勢崎線を東武動物公園駅で下車。工業技術博物館は日本工業大学の敷地内に有りますが、事前に地図等で位置をよく確認しておかないと辿り付くのは難しいと思います。大学正門は裏通りに面しているのです。

工作機械史の学習のための資料として実可動レプリカを製作・展示しており、非常に参考になりました。現代の工作機械で作っているためにちょっと加工精度が良過ぎるのが玉に瑕でしょうか。非常に好感が持てました。

しかし何より素晴らしく、また圧巻なのが、実際に使用された各種各時代の工作機械たちの、その収蔵数です。それら機械の多くが実可動可能であるのも素晴らしいです。ごつい工作機械が200台くらい並んでいるのは見物です。

まず、戦前に輸入された工作機械と国産の工作機械たち。例えば池貝製作所の1937年製の旋盤を、隣のドイツ製旋盤と比べると、まず仕上げの質が全然違うことが判るでしょう。軸受全てに付属しているかのような凝った給油口の数が軸受の精度を暗示しています。独創性に欠けるコントロールボックスの配置もがっかりです。

日本の工作機械は戦前アメリカの工作機械輸出禁止に伴う国産化の試みの中で出発した、というのが基本なのですが、もちろんその前から国産の工作機械はありました。ただやはり本格的なものは少なかったようです。ま、輸入すれば良いモノをわざわざ作ることはないのでしょうが、戦後の工作機械産業の隆盛を考えると、国産をする"必要"の議論には虚しさを感じます。

次に見たのがならい旋盤と自動旋盤。心押台の後ろに縦に溝の入った円筒があって、その溝に填った金属片が様々な位置でボルト止めしてあり、その金属片の位置が刃の送り位置などを決める、要するにプログラムな訳です。自動旋盤になるとベッドの下に様々なカムがセットできるようになっていて、これもプログラムとして動作します。自動旋盤はメカフェチの為のスーパーマシンです。

時代が下るとベッドと平行に数本の溝と金属片、そしてその位置を検出するマイクロスイッチが登場します。更にはプラグボードで動作をプログラミングできるものも。そうしてNCが現れるのですが、これはもうファナック強ぇ。

建屋中央には、円筒型の巨大なホブ切り盤があります。巨大なホブ切り盤はガジェット好きの夢の産物のようです。ならい研削盤のアホな機構、頭の悪そうなフライス機構、逆に素直すぎて笑ってしまうマシニングセンタのエンドミル交換機構、ここはメカの楽園です。機関車の車軸を削る切削盤、割り出し盤や目盛打機、ブローチ盤は初めて見ました。

あと、工作機械と関係のない巨大なタービンや"飛鳥"のエンジン、織機などもありましたし、別の建屋には運転可能な蒸気機関車もあります。

工作機械好きならここは聖地です。巡礼しましょう。ただの機械好きでも、一見の価値はあるでしょう。本物のメカニズムの強さを堪能することができます。



ソ連初期の衛星開発史#4 -2005年6月24日(金)23時06分


スプートニク2号(PS-2)は、1号の打ち上げ成功を受けてソ連の最高権力者フルシチョフの要請により、わずか一ヶ月で開発された。フルシチョフは革命記念日のプレゼントとしてこれを示唆し、コロリョフは当初無理だと言ったが、結局作り上げたのである。

ただ、この機体は先の1号の予備機をバスとして、既開発品の犬用生命維持モジュールを結合しただけのものである。また、生物搭載衛星は既にオブジェクトDの同時製造3機のうち1機を生物搭載可能とする設計が行なわれており、既に詳細な実現可能性が検討されていた。但し、この設計は動物を生きたまま回収可能なものではなかった。

犬用生命維持モジュールは当時、有人宇宙飛行の予備段階として、犬を高高度に打ち上げる実験を繰り返していたコロリョフの設計局によるもので、それら先行実験では、犬はパラシュートで回収されている。また、その後のコラブル-スプートニク、ボストーク試験機でも犬を載せて打ち上げて、ちゃんと回収している。しかしこの時点では、軌道からの安全な再突入回収はまだ手の届かないものだった。有人宇宙船の設計が始まるのは翌年になってからである。


スプートニク2号の開発は正式文書無しで開始され、煩雑な文書管理は省略された。大半の部品は外部発注ではなく内製された。

コロリョフたちは、冬のモスクワで野良犬を拾って育てて、実験に使っていた。冬のモスクワを生き抜いた犬なら、厳しい実験のストレスにも耐えるだろうと思ってのことである。

スプートニク2号に載せられたのはメスのテリア犬で、クドリャフカという名前で呼ばれていたが、搭載に伴って、ライカと改名された。ライカのバックアップはさらに2匹が用意されていた。

スプートニク2号の生命維持装置は、7日間の生命維持を可能としていた。テレメトリはビデオ映像のほか、呼吸頻度、血圧、心電図、心拍、温度、湿度、モーション、そして放射線強度などを含んでいた。

開発期間の短さから、ロケット二段目とスプートニク2号ハードウェアとの分離機構は設けられなかった。これは開発中も議論の的となった。衛星は、巨大なロケット丸ごとということになる。

これがまずかった。ライカは打ち上げ時のストレスで脈拍が倍になった以外は正常で、テレメトリを見る限り無重量状態にも適応したように見えた。しかし、打ち上げ直後から生命時装置の温度は上がり始め、温度上昇と共に暴れはじめたライカはやがて衰弱していった。そうして打ち上げ7時間後に、高温がライカを殺した。

スプートニク2号には二台のガイガー管が搭載されていたが、ソ連の科学者たちはそのテレメトリから有意なデータを得る事に失敗した。


翌年1月31日、アメリカはエクスプローラ1号を打ち上げた。これはヴァン・アレンらが当初使用していたヴァンガード・ロケットではなく、陸軍のフォン・ブラウンチームのジュピターC型を用いたもので、ヴァン・アレンの14キログラムの衛星が搭載されていた。これが実現したのは、フォン・ブラウンのチームが、ヴァン・アレンにジュピターCとインタフェイス互換な衛星の開発を前もって勧めていたからである。衛星に搭載していたガイガーカウンターは、地球周囲に何らかの放射能のパターンが存在していることを検出した。

同時にエクスプローラ1号は、衛星設計における教訓を一つ提供した。エクスプローラ1号は細長いミサイル状の形状の中央から、四本の柔軟性に富むバーアンテナが延びている。衛星の姿勢はスピンで安定することを想定しており、衛星形状の軸線が、衛星のスピン軸でもあった。スピンはロケット分離部で与えられた。

しかし、このような形状は決してスピン安定な形状ではない。柔軟性のあるアンテナを媒介として、軸周りの慣性能率で有利な方に角運動量が移動し、結果としてエクスプローラ1号はとんぼ返りをうち始めた。


1958年4月27日、最初のオブジェクトDの打ち上げは失敗した。

オブジェクトDはスプートニク3号として、1958年5月15日に打ち上げられた。その1,327kgという重量と、各種探査機器の豊富さは、西側科学界を圧倒した。

しかしスプートニク3号は、ヴォン・アレン帯発見の名誉を自分のものとすることはできなかった。既に3月26日にアメリカのエクスプローラ3号が打ち上げられ、エクスプローラ1号が見出した強い放射線の分布を、搭載したテープレコーダに観測データを蓄積して明らかにしたのだ。

一方、スプートニク3号の搭載したテープレコーダは故障し、可視範囲でしかデータ取得が出来なかった。テープレコーダーの故障の可能性は既に、バイコヌールでの統合テストで発覚しており、打ち上げの延期が提案されていたのだが、しかし、開発担当の技術者は試験室の環境に起因する電磁干渉のせいだと主張し、打ち上げて問題無いとした。そしてコロリョフは彼の主張を飲んだのである。

スプートニク3号は地球の周りに強い放射線環境を検出したが、レコーダーによる周回時の記録抜きでは、それがローカルなものか、それとも地球の周囲になんらかの構造を作っているものなのか判らなかった。

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ソ連での宇宙開発の幕開けは、アメリカとも日本とも全く違うものでした。米ソ宇宙開発競争は、実質コロリョフが一人で開始した訳です。そして有人月飛行計画においても内部で設計局を競合させたソ連指導者層は実質、宇宙開発競争の規模を理解していませんでした。それはアメリカ対コロリョフの戦いだったのです。



ソ連初期の衛星開発史#3 -2005年6月22日(水)23時29分


コロリョフは1956年4月にはR-7を衛星に適合させる設計を終えていた。これにはフェアリングと衛星分離部が含まれている。一方、衛星開発の進捗は、1956年半ばには目立って遅れ始めていた。一部の下請けには熱意が欠如し、たびたび仕様と違う部品が納品される始末で、ケルディッシュは9月に各方面へ熱意を喚起するよう呼びかけている。衛星は10月にはテストが開始できている筈だったが、9月にようやく衛星の仕様が決定するという塩梅では当然ながら出来る筈も無かった。

コロリョフは11月末になると、アメリカに追い越されるのではとひどく焦り始め、高度な大型科学衛星の代わりにシンプルな衛星(PS)を打ち上げる事を構想するようになる。これは10日持つだけのバッテリーと、ただ電波を出すだけの短波送信機を積んだ100キログラム以下の物体である。

ケルディッシュはこの構想に当初強く反対したが、後に折れた。やがて1957年1月5日にコロリョフは正式にPSの概要を提案した。この計画は2月25日に正式に承認され、スプートニク1号となった。

R-7による衛星投入用の制御設定計算は当初手計算で行われたが、計算が複雑なものになるとケルディッシュの紹介でコンピュータBESMを使用した。

衛星の形状について、円錐形状を主張するロケット側と多少の衝突があったし、直径1メートルの球体というケルディッシュの提案もあった。が、高度変化で大気密度が調べられるように球形が採用され、大気の電波の減衰への影響を調べるために二種類の波長を出す送信機を使うことになり、衛星は小型の機器搭載型になった。バッテリーは三週間の寿命が設定された。衛星の姿勢は不安定型であるため、どんな姿勢でも送信に問題がないものでなければならなかった。


スプートニク1号(PS-1)の重量は83キロ、直径58センチのアルミの二重構造の気密カプセルで、半球を結合して構成され、内部には窒素ガスが充填されていた。機体重量の大半、およそ50キログラムが銀亜鉛バッテリで、角張ったドーナッツ型をしたそれが衛星中央に大きく陣取っていた。その中央の穴を、RFモジュールが貫通し、その更に後ろに循環冷却用の空冷ファンが付いていた。

衛星の発熱と放熱のバランスを考えると、太陽光の輻射熱は嬉しくなかった。そのため衛星の外殻はぴかぴかに磨き込まれていた。またこれは同時に美学の問題でもあった。衛星側面から延びた四本のアンテナは優美で、”走る馬のたてがみのよう”と評された。

同様の衛星は同時に3機作られたが、うち2機にはオブジェクトD用に開発されたビデオ画像が送信可能な高性能テレメトリ装置が組み込まれていた。

スプートニク1号は、このテレメトリ装置が組み込まれていない1機を使用したものである。代わりに単純なテレメトリ装置が組み込まれていた。RFモジュールは20.005Mhzと40.002MHzの送信に対応していたが、テレメトリはそれぞれの周波数につき1chづつ、機体内圧と表面の温度を、1フレーム300ミリ秒のPPM-AM変調でダウンリンクした。


しかし、当のコロリョフのR-7の準備は、実は全く整っていなかった。1957年3月から7月にかけて、R-7の打ち上げは3回連続で失敗した。それまでにも既に2回の打ち上げ失敗を経ていたコロリョフは目に見えて焦燥した。同じ頃、ヤンゲルがR-12を使った衛星打ち上げを研究していたのも彼の焦りを増幅した。

8月21日の打ち上げは完全な成功だった。R-7は計画された経路を飛翔し、6500キロ離れたカムチャッカの目標地点に到達した。この世界初の大陸間弾道弾の開発成功は、当初西側世界では殆ど注目されなかった。注目を浴びるのは、それから38日後の、スプートニク1号によってである。

コロリョフが衛星打ち上げの許可を求めて党幹部を恫喝したという有名なエピソードは、この時期の話で、その時に衛星打ち上げの条件となっていた9月7日の2度目の試射にも成功し、コロリョフはR-7を衛星打ち上げに使う条件を持たすことができた。打ち上げは当初9月17日、ツィオルコフスキーの誕生日を予定していた。が、この日付の打ち上げは無理であったし、ある決められた日付ぴったりに打ち上げることが非現実的であることをコロリョフは学ぶようになっていた。

9月20日の会議で打ち上げは現場のスケジュール通り10月6日と決められた。また、衛星が地球を一周して初めて世界に発表する事も決まった。しかし、それまでの間もコロリョフは、アメリカが先に衛星を打ち上げるのではないかと恐れ続けた。

打ち上げ準備は10月3日に開始された。R-7が射点に搬入され、翌日には推進剤注入が始まった。コロリョフは現場のメンバーに決して焦らず、急がないように注意した。少しでも疑問点があれば打ち上げは中止すると。しかし、現場にいた人間で、これが歴史的な事件であると認識していたのはコロリョフだけだったようである。

全てのチェックリストが埋められる頃には辺りは暗くなっており、射点は強いライトで照明されていた。10月4日モスクワ時間22時28分0秒、R-7は射点を離昇した。

しかし、T+16秒で燃料供給コントローラが故障し、ケロシンのエンジンへの供給が過剰になった。一段目のエンジンカットオフは予定よりも早くなり、エンジン停止の1秒前には遂にターボポンプが故障した。しかし二段目切り離しは予定通りに成功し、結果として、衛星は予定よりも80キロ低い高度に投入された。

モスクワで計算された軌道は、近地点高度228キロ、遠地点高度947キロ、軌道傾斜角65.6度、軌道周期96.17分、そして少しづつ軌道が落ちていることが確認された。

スプートニク1号は予定通り、打ち上げ21日後に機能を喪失した。



ソ連初期の衛星開発史#2 -2005年6月20日(月)19時51分


1955年8月30日、コロリョフは二つの会議に出て、それぞれに人工衛星と月探査計画を売り込んだ。最初は軍事関係者との会議で、官僚、産業代表、科学者、そして軍人が参加していた。砲科大将ミューキン(Мрыкин.А.Г)は、衛星について、新たなミサイル、R-7がミサイルとしての飛行試験を完了したなら考えてもいいと、衛星の政治的重要性を訴えるコロリョフの主張を一貫して退けた。しかし、科学者たち、特にケルディッシュ(М.В.Келдыша)の強い支持が得られ、そうして衛星計画へのR-7の使用は許可された。但し、月探査は話題にされなかった。科学者たちはIGYとその科学的、政治的意味を重視したのだ。

次いで開かれた科学者たちとの会議には、ティコヌラホフと、そしてグルシコも出席していた。グルシコは既に強い発言力を確保していたのだ。

コロリョフはここで一気に衛星計画の全容をぶちあげた。ティコヌラホフの衛星を、開発中の大型ロケットR-7を使って打ち上げる。目標スケジュールはIGY前、1957年4月から7月にかけて。IGY期間中に衛星を打ち上げるというアイゼンハワーの声明はこうして挑戦の対象となったのである。

計画は支持され、新たな計画委員会の代表にケルディッシュ、代理としてコロリョフとティコヌラホフが指名された。

早くも翌日には多くの科学者が参加しての議論が行なわれ、衛星に搭載する装置についての検討が始まった。数日後にはソ連科学界の著名な科学者たちとも会合が持たれた。9月中には科学ミッションの概要が固まり、承認された。ミッション計画には、電離層、宇宙線、地球磁場、超高層大気発光などが含まれていた。

ケルディッシュは精力的に活動を続けたが、この時点では特別の熱意を持っているのはコロリョフ、ティコヌラホフ、そしてケルディッシュらだけである。衛星計画は1956年1月30日にようやく正式なものとなったが、優先度はかなり低かった。そうして衛星はオブジェクトDの名称を与えられた。この名称は、オブジェクトA,B,V,Gに続く五番目のペイロードを意味していた。先行4者は全て核弾頭である。


衛星設計は2月25日に正式に開始された。人工衛星は、200から300キログラムの科学観測ペイロードを持つ1トンから1.4トンの規模のものとして構想された。

衛星は真空中で動作する初めての自動機械、人の手の届かないところで長期間動作する大規模自動機械であり、これは設計も開発も前例の無いものとなった。設計は、材料の選択から既に問題だったが、これには高層大気観測用ロケットでの知見が生かされた。

衛星構造は、円錐形のアルミニウム気密構造と、内部に四段に構築されたパイプフレームによって構成されていた。衛星重量の大半を占めるバッテリーは、このパイプフレームにベルトで固定された。観測機器や通信機の発生する大量の熱は、衛星の円錐型下半分の側面に取り付けられた2枚一組で8組のアルミ板を、翼のように開閉させてその放熱能力を制御のうえ、輻射放熱によって処理された。アルミ板が放熱するのではなく、その下の放熱面の遮蔽の度合いを制御するのである。

制御装置KDUは地上からのコマンドに従って機器を制御した。特に地球周回中の観測データ蓄積用にテープレコーダーが搭載され、ソ連領内上空でコマンドによって再生、蓄積したデータを地上に送信するようになっていた。また、小さな太陽電池が衛星側面と下面に合計8枚張られていたのは特筆すべきであろう。



ソ連初期の衛星開発史#1 -2005年6月19日(日)20時17分


買ったハードカバー本がPDF化されて全文公開されているのを見つけて、ちょっとショック記念に。

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ソ連最初、つまり世界最初の人工天体には、もともとオブジェクトDと名付けられた大型科学衛星がなるはずだった。オブジェクトDは、IGY(国際地球観測年)に対応した科学衛星で、この開発を通じてソ連の人工衛星、そして宇宙工学の基礎概念は形成された。


IGYはアメリカのヴァン・アレンらによって提案された、太陽活動極大期に合わせた地球物理への太陽の影響を観測する国際的協力の枠組みである。1957年7月1日から1958年12月31日までの間に、参加各国は高層大気観測を行って成果を持ち寄ろうという呼びかけは、参加手段にロケットが加わった点、そしてアメリカがこの期間内に人工衛星を打ち上げると発表した事で注目された。


ティコヌラホフ(Тихонравов.М.К)は1930年代にコロリョフらとロケット開発活動を共にした一人で、ソ連の衛星開発の先駆者である。彼は戦後NII-4で人工衛星について研究を続けた。しかし冷遇された研究だったために、足りない研究資金はコロリョフが自分の予備資金から捻出していた。そうしてコロリョフのNII-88内のチームと共同で、衛星の基本的構成は構築された。

まず軌道投入と修正、熱保護が議論された。衛星概念の基本には、1トンの物体を秒速8キロまで加速できるロケットが仮定されていた。コロリョフは当初ここから自分の作るミサイルの能力を逆算したのである。

この時期コロリョフは中距離弾道ミサイルR-5を実用化し、スターリン亡き後の権力空白期のソ連ミサイル開発体制の中に大きな位置を占めるようになっており、1953年には彼のOKB-1は1000人以上の大所帯になっていた。

コロリョフは次に二倍から三倍の能力を持つミサイルの開発を提案した。しかし、水爆に関するサハロフのレポートは更にその倍の能力を要求した。それは軌道に1.4トンのペイロードを投入可能なものだった。


一方、研究されていた衛星概念はやがて、姿勢安定な衛星と不安定な衛星とに分けられるようになった。姿勢安定な衛星はカメラを搭載することができ、また有人衛星への道も開いた。

衛星についての基本的な構成は1953年末には完成していた。ティコヌラホフは1954年に衛星に関して詳細なドキュメントを発表し、コロリョフはこれを取り上げて政府へと売り込んだ。

1954年5月にソ連科学アカデミーは衛星計画を承認した。勿論これだけでは衛星打ち上げは実現しない。しかし、科学者たちの支持が得られた事は後で決定的な影響をもたらした。IGY期間中に衛星を打ち上げるというアイゼンハワーの数日前の公式声明に対抗するように、1955年7月のIAF学会に参加したソ連科学者たちは、ソ連に衛星打ち上げ計画があることを明らかにした。しかしこの声明は当初ほとんど注目されなかった。



近代科学資料館 -2005年6月15日(水)00時57分


先日、というか暫く前ですが、近代科学資料館に行ってきました。

目当てはFACOM201だったのですが、Bendix G-15なんて機械もあって、ちょっとした掘り出し物でした。


FACOM201は1960年に富士通が開発したパラメトロン素子を使用したコンピュータで、ILLIAC互換機です。回路構成が構成だから、独自アーキテクチャの方が良さそうな気もするのですが。

国立科学博物館の作成したリストによれば、保存されているパラメトロン機は案外多そうなのですが、現在公開されているのは多分これだけです。

また、国立科学博物館のFUJICが現状展示されておらず、TACは部分だけ、という現状では、Bendix G-15の存在は非国産機であっても真空管コンピュータとして貴重な存在ではないでしょうか。論理モジュールも別に展示されていて、色々と参考になりました。

あと、微分解析器も面白かったです。コンピュータ前史に良く出てくる微分解析器ですが、コンピュータとは殆ど関係有りません。あらゆる軸受に注油口があるのが印象的でした。


あとは……卓上計算機の収集具合が良かったのと、カシオのリレー計算機があったのが印象的でした。中身見たかったなぁ。



ハンガリーのコンピュータ開発史#3 -2005年6月12日(日)21時35分


Videotonはそもそも、企業体SZTAKIの一部、工場の一つだったらしい。1970年代には幾つかのコンピュータ、VT-20,VT-30,VT-50,VT-60,VT-70といったシリーズや周辺機器を製造していた。その中にはルイジ・コラーニがデザインした機種もあったという。

Videotonは1983年にマイコンVIDEOTON TV Computerを発売した。これは3.15MHzのZ80と32キロバイトのRAM、4つのカートリッジスロット、240×128の16色などのPAL TV出力による表示能力を持つマイコンだった。また、キーボード一体型筐体の上ににょっきりと生えたジョイステックを持っていた。この機種は後にメモリを64キロバイトに増強したバージョンが出ている。

同時期にSZTAKIは、Microkey Primoシリーズを発売している。これも独自スペックのZ80機だったが、これは東独製Z80互換のU880マイコンを使用していた。

他にも数種の独自マイコン及びクローン機が生産されたが、全てZ80機であったことは特筆すべきだろう。唯一の例外は輸入されたコモドール plus/4で、本国では失敗作とみなされたこの機種はハンガリーの学校教育用に15万台が輸入された。コモドールはハンガリーで最も人気のある機種となった。


VIDEOTON TV Computerについてはこちらこちらのようなサイトを参考にしました。前者サイトには独自エミュレータもありました。

Microkey Primoについてはファンサイト等は見つける事が出来ませんでしたが、MESSでサポートされているようです。

コモドール機については、ハンガリー語のサイトは多く見られました。Amiga OS上で動くPlus/4エミュレータという代物も。

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訂正です。というか、白状します。ソ連のマイクロプロセッサ、SM-52は謎です。

読み返して気付きました。SM-40,SM-50シリーズは当初PDP-11互換プロセッサだと思っており、以前そう書きましたが、今回ついSM-52をプログラム電卓ELEKTRONIKA MK-52の中の石だと書いてしまいました。いくらソ連だとは言っても、それは有りえないでしょう。

という訳で、混乱しています。もっと詳細なドキュメントがないと正確なところはわかりません。


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他の東欧諸国の分は当分先になります。

いや、飽きてきたというか、他の事に目移りしたので……



ハンガリーのコンピュータ開発史#2 -2005年6月12日(日)08時06分


その後1962年にソ連からUral-2が導入された。1960年代後半にES計画が始まるまで、ハンガリーのコンピュータは順調に数を増やしたようだが、それがどのようなものだったかについては判然としない。台数に付いては、1970年までに合計80台という数字がある。

はっきりしているのは、1963年にエリオット803が1台、1965年にデンマークのGIERコンピュータが1台、1966年に新たに1台のGIERと3台のICL System-4の導入である。ソ連のMINSK-2も入っていたらしいが、数量は不明である。

GIERは1962年までに18台が生産された、0.1MIPSの性能と42ビットワードで1キロワードの主記憶を持つミニコンピュータである。このコンピュータはポ−ランドを皮切りに、チェコスロバキア、ハンガリーとブルガリア、ルーマニア、東ドイツとユーゴスラビアに導入された。


ソフトウェアでは、ALGOL-60とGIER版ALGOL方言、そしてFORTRANといった言語の使用が主流だった。やがて彼らはMINSK-2やUral-2にALGOL-60FORTRANを移植するようになる。

この時期にハンガリーでは国産コンピュータEMG-830が生産されている。EMG-830はIBM1401を参考として作られた25ビットワードで64キロワードの記憶容量を持つ小型機で、1968年に70台ほどが製造された。この1968年にはフランスのミニコンピュータ CII 10010の製造権を得ている。

その一方で、PDP-8のクローン機TPA1001も製造している。この機種は以後もIC化したバージョンなど複数のバージョンが生産されたようだ。後にはPDP-11のクローンであるEMU-11も造られている。


1969年にコメコン諸国間で共通システムコンピュータ"ES"開発計画が始まると、ハンガリーもこれに参加した。

ハンガリーが開発を担当したのはESシリーズの最下位バージョン、ES-1010と、ES-1010の派生型であるが非互換機であるES-1010Mである。この派生型はICL System-4とのデータ互換のシステムを持っていたようである。

次いでESシリーズはES-1011、ES-1012と新しいバージョンを重ねていった。最終版のES-1015は1979年に開発された。SN74シリーズTTLICを使って安価で信頼性があるこの機種は80台が生産された。

また、ソ連製SM-52マイコンを使用したSM-52シリーズミニコンピュータも製造された。SM-52は1982年にソ連製プログラム電卓ELEKTRONIKA MK-52に採用されたマイコンで、そのスペックから大体の性能を窺い知る事ができるだろう。

これらコンピュータ産業の発達は、シーメンスやUNIVACといった西側企業との協力によって発展していった。1971年にはGD71というコンピュータ-というかグラフィックターミナルらしい-を開発している。これらはコンピュータ製造と開発の独占的専門企業SZTAKI社によって製造された。


国際コンピュータ教育センター(SZAMOK)は1969年に設立された。センターにはIBM360/143と、PDP-11/70があり、1978年までに五万人以上の卒業者を輩出した。また、プログラミングのTV講座も人気を集めた。1970年代半ば以降のハンガリー政府は、プログラマ養成を支援し、後に各地のマイコンクラブ設立の支援も行なった。

ハンガリーのコンピュータサイエンスの主導的組織、フォン・ノイマン協会は1975年に設立された。言うまでもないが、フォン・ノイマン本人は1957年にアメリカで死んでいる。この協会は学会と二種類の定期刊行物の発行で、ハンガリーのコンピュータサイエンスを豊かなものとした。



ハンガリーのコンピュータ開発史#1 -2005年6月11日(土)20時08分


ハンガリーがコンピュータ史に果たした役割は、フォン・ノイマンを始めとして多大なものがある。しかしそれらは残念なことにハンガリー国内で起きた物事では無かった。ノイマンは戦前に移住して、ついには帰ることが無かったのだ。

実際にハンガリーのコンピュータ開発を指導したのは論理学者Laszlo Kalmarらだった。彼は戦前の1930年代からリレー式計算機の開発を行い、プログラミング言語や自動エラー訂正などの分野で活躍した。また、Rozsa Peterは再帰論理の発明者として知られている。彼女は1932年チューリヒでこれを発表した。

しかし、ハンガリーの共産政権はスターリン主義の下、知識人を弾圧し、彼らを刑務所に送った。従って、本格的なハンガリーのコンピュータ開発は、スターリンの死後、彼らの名誉が回復されてからになる。1955年に彼らは研究に復帰した。

Kalmarは最初に、リレー式コンピュータMESz-1を1958年に完成させた。MESz-1は2000個のリレーを使った10進コンピュータだった。

平行して独自機B-1の開発が開始されたが、これは行き詰まりを見せていた。当時は冷戦が本格化しておらず、科学者たちのアメリカ訪問などを通じて、EDVAC,EDSAC,IASといったコンピュータの情報を得る事ができ、彼らは実用化までの隔たりを理解したのだ。1957年にソ連のコンピュータ事情を調査した彼らは、ブルカのミニコンピュータ、M-3の導入を決めた。当時M-3は、中国にも技術移転された(但し、失敗したらしい)単純で理解し易い機械として人気が有ったのである。

ただ、この辺りはハンガリーのコンピュータ開発史内できちんと評価されている訳では無いらしい。例えばフォン・ノイマン協会では、M-3をフォン・ノイマンによって開発されたIASのクローンであるという説をとっている。極端なものになると、ソ連のUral-3のコピーであるという説まで存在する。

M-3は詳細なドキュメントを元に組み立てられた。問題は、ドキュメントには何故その部分がそうなっているのか、設計理由の説明が無い事だった。彼らは組み立てながら、独力でコンピュータの実装詳細と原理を理解していった。M-3は1959年に完成した。これをもって、ハンガリーのコンピュータ開発の実質的な歴史は始まっている。

次いで彼らはM-3の近代化バージョンの開発を始めた。しかし、ハンガリー政府は、コメコン諸国のコンピュータ開発はソ連一国だけがおこなうという決定を支持し、この開発を中止させた。以後1960年代後半まで、ハンガリーの独自コンピュータ開発は足踏みすることとなる。

この辺りは、M-3, the first Hungarian computer. The History of the Hungarian computer began in a Budapest Transit Prisonに詳しい記述がある。



ロシアのサイト二つ -2005年4月10日(日)00時17分


ロシアで出版された宇宙開発関係の本のアーカイブプロジェクト、らしいのですが、

http://epizodsspace.testpilot.ru/bibl/biblioteka.htm

凄いです。


お勧めは、

年代順の宇宙開発史を1957年から1990年まで。イラストが良いです。

http://epizodsspace.testpilot.ru/bibl/ejeg/ej.html

1964年の宇宙ステーション本。チェロメイ寄り。

http://epizodsspace.testpilot.ru/bibl/oks/index.html

スペースプレーン本。アメリカの研究内容ばかりですが、なかなか濃いです。

http://epizodsspace.testpilot.ru/bibl/shun/shuneyko.html

ルナ16号本。リターンカプセルの内部解説あり。

http://epizodsspace.testpilot.ru/bibl/l-16/obl.html

世界の初期宇宙開発史について。イタリアやフランスなんてのもアリ。

http://epizodsspace.testpilot.ru/bibl/izist/obl.html

グルシコファン?垂涎の一冊。初期エンジンの写真多数。

http://epizodsspace.testpilot.ru/bibl/glushko/rak-dv/text/obl.htm

エネルギヤ社の社史。ゾンドの搭載コンピュータ開発風景あり。但し記載にはミスが。

http://epizodsspace.testpilot.ru/bibl/energia-50/obl.html


他にも、一冊丸ごとヤンゲル、とか

http://epizodsspace.testpilot.ru/bibl/gubarev/konstruktor/text/main2.htm

この本、ロシアでも翻訳されてたのか

http://epizodsspace.testpilot.ru/bibl/getlend/obl.html

コロリョフ本やカマーニン日記も。合法なのかこのサイト……


あと、旧ソ連の模型と工作の雑誌のアーカイブサイト、

http://mkmagazin.almanacwhf.ru/

らしいところも発見。ロシアメカ好き的には、こっちの方がアピール強いでしょう。ステキメカの解説と図面で一杯です。


T-35やら、雪上ソリやら、格好良すぎる車やら、ちょっと待てと言いたくなるオートジャイロやら、ちょっと待てと言いたくなる二人乗り自転車やら……


あと、宇宙関係では

ソユーズ打ち上げ機と、エネルギヤとブランの図面を。


しかしこのサイト、ロシアメカで一杯で鼻血が出そう。



何故コンピュータを使うのか。 -2005年4月9日(土)17時27分


結論から言えば、それは問題の、状況の複雑さに対処するためである。

古典的な機械は、状況に対処せずに動作する。例えば洗濯機はタイマをセットしたら後は何にも頓着せずにドラムを廻すし、トースターも同様だ。

これが炊飯ジャーになると、サーモスタットで温度を制御するようになる。1979年になるとマイコン内蔵炊飯ジャーが誕生した。マイコンは炊飯シーケンスを細かく制御する事を可能にする。

このような細かい制御はマイコン無しでも可能だったであろう。例えばタイマーにアナログマルチプレクサを切り替えさせて、次々と最適な制御回路に切り替えていく、という方法もある。ディジタルでも、二進カウンタと論理回路の組み合わせで同様の制御は可能であろう。

ただ、そうすると回路規模は相当に大きなものになる。また、定数の変更や仕様の変更は非常に難しくなる。マイコンはこれを極小規模で実現し、仕様変更に柔軟に対応する。要するにマイコンは、他の選択肢における回路規模などの複雑さを、単純なものに変換したのだ。


世界最初の組み込みコンピュータは、潜水艦発射式核ミサイルの誘導用だった。なぜこれにコンピュータが必要だったかといえば、発射された直後の状況が、ミサイルにとって未知だったからである。

世界最初のICBM、R-7は射点を回転させて目標に狙いをつけていた。だからR-7は自分がどっちに向いているか、等と考える必要は無かった。自分の向いている方向で間違いないのだ。しかし潜水艦発射式、特に水中発射式になると話は違ってくる。ミサイルは、水上に出てきた直後には自分がどっちに向いているのか知らず、だから独力で位置や姿勢情報を収集し、推測しなければならない。

位置、姿勢推測だけならコンピュータは不要である。航法電波を受けて位置と姿勢を割り出す回路は製作可能だ。しかし、目標を自由にプリセットできるようにする、となると話は違ってくる。こうなるとアナログ回路は問題外である。ディジタル回路には変数を保持する回路が必要になる。定期的に変数を書き換え、変数の状態によって制御を変える、それはもうほとんどコンピュータだ。デバッグの手間を考えると、それはもうコンピュータにすべきだろう。

コンピュータの利点は、演算回路をソフトウェアによって何度でも使いまわすことができる点にある。


月計画用コンピュータには、更に切迫した必要性があった。月周回軌道上でドッキングする為である。地球からの制御では距離が有り過ぎて遅延が発生するし、月の裏側に廻り込まれると電波が届かない。

理屈の上では、タイミングさえ厳密であれば、予め定められたシーケンスに沿うだけで全てが巧くいく筈である。しかし月計画ともなると、不確定な変数はあまりにも多くなる。

コンピュータがあれば、状況に対応する事ができる。このような多変数問題に対して、コンピュータ無しで対処する事はほとんど不可能である。


コンピュータの採用基準はどこにあるのだろうか。

モードを持つ機械はコンピュータを採用する価値がある。モードを持つという事は、自分の今のモードを知っている必要がある。このような内部変数に制御が絡む場合、コンピュータの内部でそれを実現するとすっきりする。複雑なモードをコンピュータで隠蔽する事が可能となるのだ。

入力量の多い制御機器もコンピュータにすべきだろう。多変数制御はコンピュータの得意領域だ。出力が複雑な機械も、コンピュータを採用する価値がある。

コンピュータの採用基準は当然、採用しない場合と比べてのコスト比較になるが、現在、コンピュータは極めて安価であり、乱用されがちである。


気をつけなければならないのは、コンピュータは複雑さを減らすわけではない、ということだ。

コンピュータの採用は、ハードウェア的な複雑さを大幅に減らすが、それはコンピュータの内部に複雑さを移動させたに過ぎない。複雑さは、ソフトウェアが担う事になる。

コンピュータは言うまでも無く複雑な機械だが、ある一点からそのハードウェアの複雑さは頭打ちになり、代わってソフトウェアの複雑さが爆発的に増えていく。全体の複雑さから言えば、ハードウェアの複雑さは取るに足らないものとなる。

ただ、ソフトウェアは複雑さを抽象化することを可能にする。抽象化は、プログラマーからの見かけを扱い易いものにするが、往々にしてソフトウェア本体の複雑さを大幅に増す。但しそれら複雑さは多くの場合自動生成されるものであり、信頼性に問題は無いとされる。


コンピュータは、複雑な状況に対処するための手段として、明らかに効果がある。またコンピュータは問題の複雑さを扱い易いものに変換する。

究極のコンピュータは、人工知能である。この人工知能は人間の心の模倣を指すのではなく、究極の問題解決装置のことである。この装置は既知、未知を問わず、あらゆる問題に対処可能である。この装置にプログラミングは必要ない。この装置は曖昧な命令に対して、問題を考察さえするだろう。

このような装置は、現在でも、優秀な人間を箱に押し込めれば作る事はできる。最終的には、組み込みコンピュータのコストは、これと争うことになる。



量子コンピュータ"QM"シリーズ -2005年4月1日(金)00時10分


ロシアの量子コンピュータ研究は旧ソ連時代の1960年代まで遡る。当時ヘルストロム(C. W. Helstrom)の量子通信理論の公式化に刺激されて、ソ連でも量子情報理論の研究が盛んになされるようになっていた。

西側では量子計算の概念はファインマンの”エネルギー散逸の無い計算過程”の考察に端を発しているが、ソ連では観測問題への関心から、EPRパラドックスへのアプローチが盛んに行なわれており、量子相関を単位とする量子計算の可能性が討論されるようになっていた。ブラジンスキーの量子非破壊測定の提案は、このラインから生まれたものである。

ドイッチュ(David Deutsch)に遡る事10年、1970年代半ばにはソ連では既に量子チューリング機械と同等のものが提案されていたのだが、これら研究は最近まで機密とされていた。軍事用ハイパフォーマンスコンピュータへの応用が検討され、研究が行なわれたためである。

量子コンピュータの応用として多変数量問題、特に線形計画法への適用が期待されていた。量子行列演算の技法が開発されるに至って、量子コンピュータへの期待は大きく膨らんだのである。

ソ連では最初から量子ビットの実現にミクロ系を使う事を放棄していた。代わりに研究されたのはソリトンである。最初はレーザなどが研究されたが、量子相関を実現できるのならスケールは問題とならないという割り切りがあったのであろう。

アリョーヒン(А.Алехин)はこのプロジェクトの中心的人物であった。彼の量子論理演算機械"QM1"は1979年にチェリャビンスクで製作された。除振台上の二つのチューブをクロスバーで連結可能としたもので、これで2qubitの安定な演算を可能としていた。これにより量子演算の基礎、特に非観測書き込みとnot演算の技術が実証されたのである。チューブには水銀が密封され、低温に保たれたチューブは孤立波を安定して維持した。qubit操作にかかる時間はミリ秒単位で、高速演算には不向きであり、また重ね合わせ状態の実現時間も1秒以下だったのだが、これが以後のソ連の量子コンピュータ開発の出発点となった。

この機構"アリョーヒン装置"はその後改良を加えられていく。3qubit機"QM2"は翌年製作されたが、当初予定されていた演算子の導入が困難であることが判明した。QM2はその後、チューブ内の媒質を液体ヘリウムに変更し、徹底的に雑音を雑音を排除するよう改修されたが期待された性能は出なかった。

転機が訪れたのは1982年のことである。三値論理の導入によってQM2は既存の演算子の延長で二項論理演算が可能となり、限られた範囲であるがアルゴリズムを走らせることが可能となったのである。この"QM2-M"こそが、世界最初の量子コンピュータである。

"QM2-M"は3qutrite機である。qutriteはqubitの三値論理版で、リング状に変更されたチューブに安定して3状態を取る事の出来る孤立波を保持した。qutrite操作のタイミングは孤立波がリングを一周するタイミングに同期していたが、積極的に同期を取ると観測により重ね合わせ状態を破壊してしまうために、システムは一定時間後に破綻してしまうのだが、それでも100秒以上という素晴らしい長時間重ね合わせ状態を維持した。各qutriteは922MHzのFM変調通信で連結され、電子装置もその電波から電源を得て動作した。

この成功によって、実用的な量子コンピュータ実現への展望が開かれた。そうして最後の、技術実証用量子コンピュータ、QM3が製作された。

QM3は重ね合わせ状態の維持のために、地球周回軌道上での運用を想定して設計された。QM3は3qutrite機であったが、孤立波リングは直径12ミリまで小型化され、装置全体も860キログラムに押さえられた。装置はTKS汎用タグボート内に設置され、動作中は独立して自由落下状態に置かれた。孤立波リング自体も更に自由落下状態に置かれるという徹底した絶縁によって、重ね合わせ状態は数千秒以上に及ぶ筈だった。

QM3は軍用コード5Э99を与えられて1984年9月に打ち上げられた。Cosmos1603と命名された衛星は高度820キロの極軌道に投入されたが、これは後続して打ち上げられるELINT軍用通信衛星とネットワークするためであった。但しこれはうまくいかず、運用は衛星がソ連領上空にいる時のみに限られた。

この量子コンピュータに搭載されていたプログラムは、機能検証を目的としたもので、それは量子チューリングマシンの具体的な機能限界を探るものであった。アルゴリズムは隣接するqutriteの状態に応じて演算し、新しい自己の状態を上から重ね書きしてゆく。この隣接状態というのは当然確率でしか無いのだが、収束時にはそれは問題ではなくなる。このアルゴリズムは隣接する可能性に自己をコピーしていくと解釈することができるだろう。

この量子グライダーは確率空間をまっすぐに突っ走って、そしてしばらくすると消滅すると考えられた。しかし1985年2月の最初のプログラム実行で、QM3は二度と応答しなくなった。

更に翌月のアリョーヒンの死によって事態は更に悪化した。観測問題を重く見ていたアリョーヒンはQM3に関する一切を機密指定し、全貌を知る人間の数を厳しく制限した。これにより理論的には観測可能性を多少は制限できる筈であったが、ドヴラトフ症候群に罹ったアリョーヒンがモスクワで死ぬと、誰にも気付かれる事無くプロジェクトは瓦解した。

この頃JINR(合同原子核研究所)で流行ったジョークに、猫を宇宙に打ち上げて量子相関を実現するというものがあった。シュレディンガーの猫の悪趣味なパロディだが、これが西側に歪んで伝わり、尾鰭がついて世界最初の宇宙猫の噂の元となったのである。勿論噂の源流はQM3アリョーヒン装置である。

これらプロジェクトが一般に知られるようになったのはソ連崩壊後のことで、評価されるようになったのは更に最近の事である。ありそうにない事だが、QM3が現在も稼動し続けている可能性も存在する。もしそうなら、アリョーヒンの量子グライダー"テラプレーン"は、多世界解釈の言う平行宇宙の連なりを、どこまでも飛翔し続けているに違いない。

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上記、嘘です。日付参照のこと。

参考リンク:Google 検索: ジャック・ウォマック




うりきれ -2005年3月31日(木)21時24分


「ソヴィエト・ロシア・ウクライナのコンピュータ」くだん書房にて取り扱いを開始……と思ったら、え?

追記4/2 在庫復活



チェコスロバキアのコンピュータ開発史 #3 -2005年3月26日(土)02時02分


チェコスロバキア最初のパーソナルコンピュータはTESLA製SAPI-1で、1983年の事だろうと思われる。但し、1985年としている資料も多い。

SAPI-1は2MHz駆動のインテル純正のi8080をCPUとし、Z80をコントローラとした2台の巨大な8インチフロッピードライブを組み合わせた、大掛かりな機械である。あまりに巨大なために、チェコ人の中には16ビットマシンだと勘違いしている人もいるようである。RAMは最低16キロバイト、40文字20行もしくは24行のテキスト出力を持ち、ROMにCP/M、BASIC、FORTHを内蔵していた。

次は恐らくZPA製IQ-151だと思われる。1985年はチェコスロバキアのパーソナルコンピュータ元年とも言うべき年となった。

TESLA製独自パーソナルコンピュータPMD85は、1985年の誕生以来チェコで最も普及した機種となった。エミュレータが存在するのはこの機種だけで、しかも複数が存在している。

PMD85はプラスチックのキーボード一体筐体で、ゴムやタッチパネルでない普通のキーボードを持っていた。CPUは2MHz駆動のi8080、メモリは汎用の4016を採用し32もしくは48キロバイト積んでいる。PMD85は最初のバージョンはテキスト出力のみのサポートだったが、次のバージョンから288×256ピクセル4色のビットマップ出力をサポートした。音声出力も1チャンネル存在している。

増設ハードウェア式のBASICモジュールがあったが、大抵の場合最初から一体として使用したようである。記憶装置としてはテープとフロッピードライブが用意されていた。

PMD85には他にDIDAKTIK社製のALFAというクローン機が存在している。

ONDRAは東ドイツ製U880を採用し1986年にリリースされたTESLA製の機種である。シンクレアZXスペクトラムに似ているが独自アーキテクチャ機で、クローン機ではない。シンクレアクローンはDIDAKTIK社製Gama、M、Kompaktという機種が存在した。

ZAVT社はPP-01を始めとする独自マイコンを作ったが、PP-05、06はPC-XTクローンである。1988年前後になるとTESLAやZPAもPC-XTクローンを製造した。

チェコには国産以外のパーソナルコンピュータも当然入ってきた。コモドール、アタリ、シンクレア、そしてシャープが代表的なメーカーで、あとソードのM5も入ったようである。


その他参考としたサイトを以下に挙げる。

KREDO:

virtualnim muzeu



チェコスロバキアのコンピュータ開発史 #2 -2005年3月25日(金)01時55分


国内の開発が思うに任せない間、チェコスロバキアの計算機需要を満たすために、様々なコンピュータが輸入された。

1958年にソ連からUral-1と2が、1960年代にはMINSK2/22が入ってきた。また、イギリスのElliott Brothers社のElliott 803が導入されている。その他知られているものにはICT1901やIBM1410、東ドイツのZRA-1、ポーランドのODRAシリーズがある。互換性も何も関係なく導入されたコンピュータは、それだけでコンピュータ産業の発展を阻害するものだった。

但しコンピュータ以外の計算機械は、盛んに生産が行なわれていた。精密機械工場ARITMAは、戦後アナログコンピュータMEDAシリーズやパンチカード計算機などを数多く生産した。

国営企業TESLAは1967年にフランスのBull computer社と提携し、GAMMA 140のライセンスを受けてTESLA 200シリーズを生産した。TESLA 200はソ連の軍事介入の影響を受けつつ約100台が生産され、一部はソ連にも輸出された。

1968年からES、共通システムコンピュータの開発がコメコン諸国で始まる。ESはIBM360のクローンである。チェコスロバキアもこれに参加した。開発したのはES-1021(チェコ名 ZPA 6000/20)という機種である。これはES-1020と同じ0.02MIPSの性能を持つバリエーション機である。ES-1021はシーメンス4004とのデータ互換性が考慮されていた。

ES開発への参加は、これまでの互換性を無視したコンピュータ導入から、互換性、標準化を強く意識するきっかけとなった事で、ソフトウェア開発の呼び水ともなった。ES-1021用OS MOS ECやDOS EC、低性能機向けのOS 10 ECなどが開発された。

1969年にチェコスロバキアの計算機産業は”自動機械及びコンピュータの統合企業”ZAVTの下に統合された。ARITMAはESシリーズ向け周辺機械を数多く生産した。

1974年にチェコは、五ヶ年計画で340台のコンピュータを導入する事とした。うち300台がESアーキテクチャ機である。1978年にはIBM370互換の下位機種ES-1025をリリースしている。しかし同時期既にSMアーキテクチャ機SMEP-1の生産が始まっている。SMEP-2は16ビットマイコンSM-50シリーズを利用していた。SM-52を用いたVAX-11互換機も製造されたようである。

VUMSは現在民間企業として存続している。



チェコスロバキアのコンピュータ開発史 #1 -2005年3月23日(水)23時05分


チェコスロバキアは1918年から1992年まで存続したが、ここでもコンピュータは開発、生産された。特に独自開発の開始時期はソ連、ポーランドに次いで古く、1949年にまで遡る。

その中心となった人物、Antonin Svobodaは多才な傑出した科学者だった。彼は1907年に生まれ、1931に電気工学の学位を得たのち、プラハで数学の助教授となった。彼は筋電流に関して医学に、またX線分光学を通じて物理学にも興味を示した。また趣味で建築学、橋の理論についての本を書き、ピアノとパーカッションの優れた奏者でもあった。

やがて戦争により彼は、ナチス占領直前の軍の薦めに従ってパリへと避難した。彼は軍のために火器管制装置を開発していたのである。彼は家族と共にアメリアに渡り、米軍のためにMITでレーダの開発に従事した。彼には1948年にこの功績で賞が与えられている。

やがてSvobodaは戦後のチェコスロバキアへと帰国する事となる。彼は計算機械の開発と生産によって、祖国を精密機械工業国とする夢を持っていた。


帰国後Svobodaは新しく設立された中央数学研究所で、コンピュータの開発を指導した。まず1952年にM1という機械を開発し、そして1954年にリレーコンピュータSAPO (SAmocinny POcItac)が完成した。

SAPOとは自動コンピュータの略称である。SAPOは、1024ワードの磁気ドラムメモリを持つ32ビット(但し1ビットはフラグビット)機で、三台の同じ構成のプロセッサによる三重冗長エラー訂正が行なわれていた。SAPOは世界最初のフォールトトレラントコンピュータとされている。

SAPOは7000個のリレーと380本の真空管、150個のダイオードで構成されていた。出力はタイプライタ、入力には精密機械工場ARITMA製90トラックパンチテープが使用された。アーキテクチャに関する情報がこちらにあるが、IBM604統計機の影響を受けたものだったらしい。

Svobodaの次のプロジェクト、EPOS(Elektronicky POcItac Stroj)は更に包括的なフォールトトレランス能力を持っていた。中央数学研究所は1956年にVUMSと改名し、同年EPOS1を、1965年にEPOS2を送り出している。EPOSは原始的なパイプラインを持っていたらしい。

但しSvobodaはこの業績を最後まで見届ける事は無かった。Svobodaの行動には共産政府による制約がついてまわっていたらしいが、1964年に彼はアメリカへと出国し、以後1980年にカリフォルニアで死ぬまでに多くの業績を残した。

チェコでのSvobodaの業績で、他に特に知られているのは、俗に中国人剰余定理として知られている素因数分解手法の発見が挙げられる。これは現在の公開鍵暗号技術の基盤の一つである。

その後チェコの独自開発コンピュータの歴史は途絶える事となる。チェコスロバキアでは政治の民主化が進むが、1968年にソ連の介入を受け政権は倒される。プラハの春である。



並列コンピュータの研究と実用化 -2005年3月19日(土)23時26分


5.5: 並列コンピュータの研究と実用化


 1960年にカントロヴィッチの提案したアイディアは、線形代数の問題を並列実行可能な細部に分割することを可能にした。やがてノヴォシビルスクに開設されたばかりのリヤプノフの研究所で、カントロヴィッチのアイディアを基にソ連最初の本格的なベクトルコンピュータ"AM"が開発された。このコンピュータは4ステージのパイプラインを持っていた。但しこれは概念実証用のプロトタイプで、科学計算に必要な精度を持っていなかった。

 1962年にエヴレイノフ(Э.В Евреинов)は、均質なプロセッサモジュールを組み合わせることによって高性能な計算機を作ることができることを示した。ソ連の本格的な並列プロセッサ研究の理論はここを出発点としている。


 70年代半ばモスクワで、PS-2000というコンピュータが設計されたが、この構造は現在でいうところのSIMDアーキテクチャそのものであった。16キロワードのローカルメモリを持つ24ビットワードのプロセッサユニットを8個束ねたこのモジュールは、更にこのモジュール単位で最高8個まで束ねることができた。つまり最高64プロセッサの並列動作が可能だった訳である。プロセッサモジュールはリングネットワークのバスで接続されていた。このコンピュータは80年代前半にウクライナでいくつか生産され、実際の科学計算に用いられた。

 70年代後半、ロストフに近い都市タガンログで、カラエフ(И.А Каляев)はプログラマブルな構造を持つマルチプロセッサの概念を提案した。この構造はプロセッサ間の接続をプログラムによって変更可能とするもので、その後タガンログでニューロンネットワークによる適応制御の研究へと発展した。


 ノヴォシビルスクでは1980年代後期、階層型並列計算機"シベリア"と専用の拡張FORTRAN言語"Inya"が開発された。

 一般的な"シベリア"計算機クラスタは、コントローラとしてIBM370相当の機能を持つESコンピュータ、サブプロセッサとして8台のES-2709やES-2704、ブルガリア製ES-2706やAP-190Lを接続して構成された。要するに有りもので作れるのである。これは後にコントローラやサブプロセッサにインテルx86マイコンを搭載したIBM-PCでも構成可能となった。

 サププロセッサは更に下位のサブプロセッサに対してコントローラとして振舞う事ができ、結果としてツリー状の階層構造を形成することとなる。

 Inyaは計算プロセスを分割してサブプロセッサに分配する仕組みを持っていた。この階層型並列計算機システムは主に線形計画法のような計算タスクを念頭において開発されたが、ハイパフォーマンスコンピュータの導入が困難だった各種研究機関で重用され、現在もロシア各地で、画像処理や信号処理などで現役であるという。



スーパーコンピュータ"M"シリーズ -2005年3月18日(金)22時56分


5.4: スーパーコンピュータMシリーズ


 カルツェフ(М.А.Карцев)はブルカの開発チームの実質的な後継者である。彼はM-2、M-3の開発に関わり、そしてM-4の開発を担当した。M-4はミサイル防衛用の対空レーダー制御というアイディアを実現する為に開発された。1959年に開発されたM-4は24ビットワードで1012ワードのメモリを備え、0.015MIPSの性能を持っていた。更に量産前に仕様は変更され、全面的に半導体を使うものとなった。

 この変更されたバージョンであるM-4Mは0.22MIPSの性能を持ち、1964年から1985年まで、三回の改良を経て軍用におよそ100台が生産された。M-4Mは広大な国土に散らばった76台のレーダーサイトをネットワークで接続し、分散システムとして動作した。


 カルツェフは1967年にM-9の構想を発表した。M-9という名称は毎秒10の9乗命令の処理能力を意味する。軍事システム、特に衛星を用いた早期警戒システムは、衛星からの膨大なデータ処理に強力なコンピュータを必要としていたのである。

 M-9は強力なベクトルプロセッサを更にクラスタ化するものだった。プロセッサは32ビットサブプロセッサを32台並べて密結合し、32×32ビットの配列演算を一度におこなうことが可能だった。プロセッサはこれをワンサイクルで処理した。

 但しM-9の開発に必要な予算は割り当てられず、製作されることは無かった。M-9の要求する技術水準はあまりに高かったのである。カルツェフらのグループは、ブルカの研究所から独立して暫くは冷や飯を食う生活が続いた。

 1969年になって、新たな計画"M-10"が持ち上がった。これは実際にはM-9開発の流れに沿ったものである。開発の本格開始に先立って、レベデフの新開発機ElbrusとM-10は比較されることとなった。

 レベデフはElbrusでシングルプロセッサによる機能向上を主張していた。M-10はElbrusと比べるとプロセッサ単体では劣っていたが、クラスタ動作によって性能向上が容易であった。とにかく数を集めれば性能が出るのだ。両者を検討したグルシコフは両者の長所を採り入れることを勧告した。が、計画にはゴーサインが出たのである。

 M-10の試作機は1971年に完成した。試作機は217シリーズICを採用し5.1MFLOPSの性能を示した。後の近代型量産機M-10Mは1980年に20から30MFLOPSの性能を達成している。このシリーズは1986年までおよそ50台が生産された。

 M-10のプロセッサは16ビットのプロセッサを二つ並べて、同時に命令を与えるようにしたものを基本単位として、2、4、8台といった単位で接続したものである。この基本単位はいわゆるVLIWのはしりと言えるかもしれない。

 M-10用のソフトウェアとして専用OS OS M-10が作られた。OS M-10は階層化ディレクトリとそれに対応した階層化ライブラリを持っていた。コンパイラとしてFORTRANとALGOL-60が移植された。FORTRANは並列動作用に言語拡張が施されていたが、これはただ単にループなどを拡張命令で囲って、展開可能である事を示すものだった。このコンパイラが完成するのは1977年になってからである。軍用システムのソフトウェア整備は常に後手に廻っていた。

 後継機M-13は1979年に開発された。M-13の基本単位は4、8、16個の任意の数のプロセッサを束ねたもので、これをプログラマブルなインタフェイスを通して最大で128台まで連結可能にしていた。性能は最大で48MFLOPSにも達した。M-13は1982年から1985年までにおよそ20台が生産された。



第二版が出ます。 -2005年3月18日(金)07時29分


同人誌「ソヴィエト・ロシア・ウクライナのコンピュータ -技術とその歴史・思想-」第二版が出ます。3/21のコミケットスペシャル4、第2部N-27”風虎通信”さんにて頒布されます。また通販も開始されると思いますが、詳細はみのうらさんのサイトをチェックしてください。


第二版では、第一版での確認済みのミスを修正し、更に多少ですが追加があります。

この差分をここで公開いたしますが、第一版持っていない人のために最低限の説明を入れようと思います。いきなり訳のわからない人名や機種名が出てくるのもナンですので、旧ソ連のコンピュータ史を、以下にダイジェストで。


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ソ連のコンピュータは1950年に最初のものが作られて以来、独自の進歩を遂げたが、1970年代以降は政治的要因により進歩は停滞した。これはソ連邦崩壊まで続いた。

ソ連最初のコンピュータはレベデフ(С.А.Лебедев)によってウクライナのキエフで作られた。その後レベデフはモスクワでコンピュータ開発の中心的立場となる。当時ソ連には西側の資料はほとんど入っておらず、多くの技術が独力で確立された。

同時期にソ連でコンピュータを開発していた人物の中では、ラメイエフ(Б.И.Рамеев)とブルカ (И. С. Брука) の二人が代表格である。ラメイエフはブルカの助手として経歴を始めたが、ソ連最初の量産機の開発で名を挙げた。

ブルカのチームは他にも多くの人材を輩出した。ブルカは安価な小型コンピュータの開発に注力し、M-1,M-2といった機種を産み出した。

一方でレベデフはハイパフォーマンス機、ラメイエフはメインストリーム機の開発に注力することとなる。


ソ連最初のプログラミング言語は1954年に誕生した。これを産み出したのはリヤプノフ(А.А. Ляпунов)やカントロヴィッチ(Л.В.Канторович )といったサイバネティクス学者である。当時ソ連ではウィーナのサイバネティクス理論の影響を受けて、数学、経済学、医学、コンピュータサイエンス等の多くの分野を横断的に網羅するサイバネティクスが盛んだったが、同時にこれは唯物論に反するとして攻撃をも受けていた。

カントロヴィッチは初期の並列コンピューティング理論で功績を残した。リヤプノフはプログラミング言語を定式化した。1950年代後半に半導体化されたコンピュータが現れ、特にレベデフのM-20が登場すると、ALGOLの実装や更に意欲的なプログラミング言語が開発されるようになった。

その後リヤプノフはシベリアのノヴォシビルスクにサイバネティクス研究所を設立する。リヤプノフは教育問題に注力し、これは後にソ連の理数英才教育として知られるものとなる。研究所そのものはその後、並列コンピューティング研究の中心の一つとなっていった。


キエフではレベデフが去った後、グルシコフ(В.М.Глушков)に率いられて多くのコンピュータの生産、開発、研究が行なわれた。特に産業装置制御とネットワーク化に成果があり、1960年代半ばには国家経済のオートメーション制御、OGAS(ОГАС)計画を提唱している。


1960年代半ばには、文字が扱え1000台近くが生産されたMINSKシリーズや、1MIPSの能力を持つレベデフのBESM-6が登場する。BESM-6用にソ連最初のOSは開発され、以後ネットワーク対応OSなどの開発が進んだ。


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次から差分を、二度に分けて。特異なクラスタマシンMシリーズと、旧ソ連の並列コンピューティングの話です。



東ドイツのコンピュータ開発史#3 -2005年3月17日(木)01時10分


東ドイツ最初のパーソナルコンピュータは、1983年のLC80である。この機種はコンピュータトレーニング用として産み出された。0.9Mhz駆動のZ80互換マイコンU880Dを用い、6桁の7セグLCDと25キーのミニキーボードを備え、1キロバイトのRAMを搭載していた。


 翌年、Robotronによってビデオ出力を持ったパソコン、Z1013が登場する。ただしこの機種はキットである。1MHzのU880D、16キロバイト(64キロバイトまで拡張可)のRAM、2kのROMに搭載したBASIC、32×32キャラクタのモノクロ出力の可能なRF映像出力を持っていた。このキャラクタにはいわゆるグラフィックキャラクタも含まれている。磁気テープやプリンタといった外部装置もサポートされ、モデムや拡張メモリなども登場した。

 こちらに出荷時パッケージの画像がある。ユーザは新しく筐体と、そして多くの場合キーボードも作って使用した。


 同年RobotronはKC85シリーズの最初の機種、KC85/1を発表した。これはキーボード一体型筐体を持つ完成品で、完全なキーボードとモノクロ40×24キャラクタのディスプレイ出力を持っていた。この機種はROMカセットインタフェイスとジョイスティックポートも持っていた。

 同時に発表されたKC85/2では320x256ドットのキャラクタグラフィックとステレオ音声をサポートしていた。

 KC85/3はRobotronではなく、別ブランドから発売された。1986年のことである。筐体は本体とキーボードが分離したものとなり、キーのサイズも大きくなった。メモリ構成やCPUクロックはKC85/1らと同じだが、320×240ピクセル16色のビットマップ出力と40×32文字のキャラクター出力を持っていた。グラフィックには下位互換モードは無かった模様である。本体にはROMカートリッジスロットが二つあった。KC85/4は、RAMがKC85/3の倍の64キロバイトとなったものである。


 東ドイツのマイコン事情は、この独自機KC85シリーズと、シンクレアのスペクトラムZXクローン機HCXによって占められることとなる。KC85シリーズについてはKC-Clubが詳しい。また、KC85シリーズには熱心なユーザが、ごく小数ながら未だに存在している。

 HCXは1987年にRobotronによってリリースされたが、チップセットが一部汎用ICに入れ替えられており、互換性を欠いたものとなった。



東ドイツのコンピュータ開発史#2 -2005年3月15日(火)01時08分


東ドイツの半導体産業は、1952年のベルリン郊外での特殊用途のゲルマニウムトランジスタ製造から始まった。1958年にはダイオードの出荷が始まる。翌年にはトランジスタの出荷も始まった。

1967年にはシリコントランジスタが実用化され、1971年にはフランクフルトでICの製造が開始された。東ドイツにおけるES計画参加の成果の立役者はこれら半導体技術であった。以後東ドイツは東側随一の半導体品質を生かしたコンピュータ開発を推し進めてゆく。


1977年にはマイクロプロセッサU808の生産が開始された。これは8ビットマイコンIntel8008のクローンで、RobotronのミニコンピュータK1510に使用された。

翌年にはU880の生産が開始された。これは8ビットマイコンZ80のクローンである。その後このチップはRobotronK1520を初めとした、ソ連製パソコンを含む多くのコンピュータに使用されるベストセラーとなった。



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