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-過去ログ-



プログラミング HAL/S #7 -2011年3月5日(土)00時33分


7:入出力


HAL/Sは外部とのインタフェイスのためにI/O文を持っている。Unixシステムが基本的にI/Oをファイルというかたちに抽象化しているように、HAL/SはI/Oを全て"プリンタみたいなもの"に抽象化している。例えば外部デバイスの特定のアドレスにデータを書き込むとき、HAL/Sでは行とカラムのかたちで抽象化された指定アドレスに、改行文字やタブ文字を出力し、データを文字として出力することになる。読み出しは改行やタブを発行したあと、プリンタヘッドの位置にある文字を吸い出すようなイメージで行われる。だから厳密にはプリンタそのものに抽象化されている訳ではない。

純正のプリンタI/Oは"ページ化"されているI/Oと呼ばれ、それ以外の大多数のI/Oは"ページ化されていない"I/Oと呼ばれている。シャトルが機内にどれだけの数のIBMゴルフボールプリンタを搭載しているかは知らないが、まるでシャトルの制御がプリンタの出力と同じ調子で出来ると言うかのようである。

ストレージへの出力もプリンタへの出力と同じように行い、入力もラインとカラムを指定してやれば、まるでプリントアウトを読むかのようにデータを読むことが出来る。つまりラインとカラムは、磁気ディスク記憶装置のトラックとセクターの関係に近い。それはまた、ファイルシステム等は持っていないという事でもある。

ちょっと擁護するとすれば、これは当時の宇宙機のテレメトリフォーマットである固定長フォーマットに適合しやすい入出力フォーマットであるとも言える訳で、送信機にプリントアウトをする調子で地上にデータを送れる訳だ。


WRITE(4) V1;

READ(5) V2;


上記はI/O入出力命令であるWRITE文、READ文の例である。WRITEの後ろの括弧の中の数字はチャンネルと呼ばれ、各ハードウェア入出力先を示す。チャンネルは0から9までの数字を指定できる。これは数字だけである。前述のようにHAL/Sにはコンパイル時に決定、置換されるようなマクロは存在しないので、ここには数字か変数しか指定できない。

更にその後ろにあるのは変数だ。WRITE文ではこの変数の内容が書き込まれるし、READ文では読み出した内容がこの変数に代入される。


READ(4) V1,V2,V3;


変数は複数指定できる。型の違うものも混ぜる事ができる。この命令は今チャンネル内の仮想プリンタヘッドがあると思われる位置(特に宣言が無い場合はライン1、カラム1の位置)から、3カラム文データを取得し、変数V1,V2,V3にそれぞれ入れるという動作をする。READ文では変数は並びの最初から代入されるし、WRITE文では並びの最初から出力される。

気づいた方もいるかと思うが、ラインとカラムは1が原点である。0ではない。チャンネルは0指定が出来るのでいかにもちぐはぐだが、まぁそういうものがHAL/Sだと思って頂きたい。

プリンタのヘッドにあたる、開始ライン位置、開始カラム位置は、各文の変数記述位置に書く事ができる。これはREAD文、WRITE文の従属構文となっており、単独では記述しない。構文として考えると変だが、ターミナル端末の画面制御文字と同じように考える事ができる。


WRITE(6)TAB(-50),V1,COLUMN(5),V2,V3,TAB(2),SKIP(3),V4,LINE(2);


TAB文は後ろのカッコ内の数字だけ現位置より右へカラム個数ジャンプする。数字が負数なら左へのジャンプだ。COLUM文は指定した絶対カラム位置への直接ジャンプである。SKIP文は指定した数だけラインを数の増えるほう、下方に相対ジャンプする。指定数が負数なら上方ジャンプである。ただ上方ジャンプは(例えばプリンタのように)対応していないチャンネルがあるかも知れない。LINE文は、指定したライン位置への直接ジャンプである。これもSKIP文と同じ制約を持つ場合がある。

ページ化されたI/Oチャンネルでは、PAGE文を使う事ができる。要するに改ページ命令だ。


WRITE(6) V1,PAGE(1),V2;


チャンネルは使い勝手を考えると英単語で記述できる変数指定にしたいところだが、もし変数が9以上になったら……とか、変なチャンネルを指してしまったら……とか無意味なリスク要因を作る事になる。またチャンネルが10個までしか無いことも問題となる。プリンタを10台まで繋げると考えると景気が良いが、シャトルの外部サブシステム、コンポーネントが10個しか無い訳が無く、つまりデータアクセス用のサブシステムがチャンネルの向こうに必要になる。コンポーネントとコンピュータの間に中継機器が必要なのだ。

ただ、この辺りはハードウェア設計の問題であり、HAL/Sの問題ではない。コンピュータAP-101の設計は、組み込みシステムと言うよりはシャトルに載った汎用機と形容したほうが良い。

ただ、チャンネルの向こうには複数のサブシステムがある訳で、HAL/Sは結局それらサブシステムを区別してアクセスする必要がある。こういう場合、サブシステムを仮想的にモジュール化してアクセスを容易にする工夫などが言語に備わっていると嬉しかった筈だが、HAL/Sにはそういったものは一切存在していない。

その代わりに、入出力フォーマットを整形する、IN文が存在している。これもREAD文、WRITE文の従属構文だ。


WRITE(6) (V1, V2, V3) IN 'I4';


IN文の後ろシングルクォーテーションの中が、フォーマット指定だ。I4は整数で4文字であることを示している。10進4桁と言い換えても良い。実にEBCDIC的な指定の仕方だ。printfみたいなものだと思ったほうがいいだろう。変数を囲む括弧は、その直後のIN文の適用される範囲を示している。つまり、括弧が無ければ、IN文の指定はV3にしか適用されなかっただろう。但し、フォーマット指定はそこから、次に別の指定があるまで永続する。つまり、以下のように書いても同じである。


WRITE(6) V1 IN 'I4', V2, V3;


フォーマット指定は以下のようになっている。


I 整数

F 固定小数点実数

E 浮動小数点実数

U 実数もしくは文字

A 文字

X 空白

P 整数と実数


READ(5) V1 IN 'F8.2', V2 IN 'F10.3',SKIP(1),COLUMN(1),V3 IN 'A6';


固定小数点実数指定では、後ろの数字は固定小数点表記でどのようになるか、小数点以上の文字数、少数位置、少数点以下の文字数をそれぞれ示す。これも10進値である。

フォーマット指定には、算術的な表現を使って記述を色々と簡略化できるようになっている。たとえばフォーマット指定のアルファベット1文字の前に書いた数字は、フォーマット指定を数字回繰り返すのと同じ記述になる。'5I2'は、'I2','I2','I2','I2','I2'と同じである。しかし、前述の通りフォーマット指定は次の指定があるまで同じ指定を引き継ぐので、このような記述にはぜんぜん意味は無い。ただ、括弧指定ができるので、以下のようになると意味を持ってくる。


IN '2(I2/I4)'


スラッシュ/は、フォーマット指定を並べるときの区切りである。上記例は、


IN 'I2','I4','I2','I4'


となる。複雑なフォーマットを定義したいときに使うことになるだろう。多分、構造体と1対1で対応するよう、構造体記述と首っ引きでフォーマット定義を行う作業が発生する筈だ。

フォーマット記述の中には文字列も混ぜる事ができる。ダブルクォーテーションで囲った文字列がそのまま出力される。


WRITE(6) V1 IN ' "ANSWER=", I4';

#ex ANSWER=0001


余計な機能に思えるが、大量データの連続読み出しのためにREADALL文というものが存在している。


READALL(3) V1,V2,V3;


V1,V2,V3はそれぞれ、長さの決まった文字列もしくは配列でなければならない。READALL文はこれら変数を満杯になるまで連続して読み出す。この機能はREAD文に最初から存在しているか、フォーマット記述を使うべき部分だと思うのだが、開発側はどうもそうは思わなかったようだ。そしてWRITEALL文は存在しない。


ストレージデバイスへのバイナリデータの読み書き用に、FILE文というものが存在している。嬉しいことにFILE文は読み書き双方に働く


FILE(4, ADDR) = V1;


上記は、チャンネル4のアドレスADDRに、変数V1の内容を書き込むものである。


V2 = FILE(3, ADDR);


上記は、チャンネル3のアドレスADDRから読み出した内容を、変数V2に書き込む動きをする。

アドレスはスカラー型であればどんな変数でも定数でも指定できる。これは実はライン、カラムという指定子とは関係が定義されていない。FILE文はハードウェアの仕様に密接に関連している。アドレスはハードウェアの仕様依存である。FILE文は恐らく後からストレージが追加された時に同時に付加されたものと思われる。



プログラミング HAL/S #6 -2011年3月4日(金)01時20分


6:置き換え


HAL/Sには他の言語のマクロに当たる構文が二種類用意されている。しかしこれら二種はまったく別種のものであり、更にはマクロでもない。そして後述のとおり使い分ける必要がある。

まず、REPLACE文がある。


REPLACE name BY "内容"


この宣言の後では、REPLACE文で定義したキーワードnameを書くと、これがダブルクォートで囲まれた内容に置換される。REPLACE文は複数の行にまたがることができない。つまりあまり複雑な内容を含むことはできない。しかし、REPLACE文のダブルクォートで囲まれた内容には、他のREPLACE文で定義されたキーワードを含むことができる。REPLACE文は実行時評価である。

REPLACE文は、サンプルコードによるとVECTOR型やMATRIX型と共に、そのサイズを可変したりするのに使うらしい。


DECLARE V1 VECTOR(N);/*Nは事前に宣言された何か*/

REPLACE N BY "4";

DECLARE V2 VECTOR(N);/*Nは4*/


何が嬉しいのかいまいちわからない。

組み込みのREPLACE文と呼ぶべき、%マクロという機能もある。定義済みのキーワードの前に%を付けたもので、組み込みの関数や機能のように使えるというものである。キーワードはおよそ100個ほどが定義されている。一例を以下に示す。


 N1 = %NAME;


%という文字は、HAL/Sにおいてはこの約100個の単語と組み合わせるためにだけ存在しており、ユーザが新しくマクロを定義するのに使えたりすることは決して無い。

もうひとつのユーザ定義マクロ類似機能はラベルである。ラベルは実際には無条件分岐である。


ONE: X = X +1;


ラベルONE:は以後、使用するとラベル以後の内容に置換されたように動くが、実際には、ラベル定義地点へのジャンプである。ラベルへのジャンプの後、内容を実行すると元位置に実行は戻る。


IF X = 0 THEN ONE: Y = 0;


ただ、ラベルはGO TO文のジャンプターゲットとしても動作する。


GO TO ラベル;


GO TO文のラベルの後ろは:ではなく;が使われる。GO TO文でのジャンプでは、実行制御はジャンプ先に行ったきりになる。

ラベルのこの2つの機能は混在させると大惨事につながることは明白なので、GO TO文の使用を禁じるか、ラベルのマクロ的使用を禁じるか、どちらかを選ぶ必要があるだろう。



プログラミング HAL/S #5 -2011年3月2日(水)23時40分


5:デ−タ型


変数宣言は、変数名の前に予約語DECLAREを付けておこなわれる。変数名の後ろに型指定、更に初期化したいなら初期値指定が付く。型指定、初期値指定は省くこともできる。型指定を省くと型はINTEGERに、初期値指定を省くと値は不定となる。

HAL/Sは配列をサポートする。HAL/Sの配列には、高速でサイズ実行時可変だが2次元配列しか作れず厳しいサイズの制約があるが、マトリックス演算に直接使用できるタイプと、1次元当たり32768個までの要素を持つ多次元配列を実現する配列コンテナ型、計2種が存在する。


DECLARE I INTEGER INITIAL(100);


Iという整数変数を、初期値100で宣言している。


DECLARE J INTEGER DOUBLE;

DECLARE H INTEGER DOUBLE INITIAL(4.5E-3);


倍精度整数まで宣言可能である。更に、わざわざ単精度であると宣言することもできる。


DECLARE K INTEGER SINGLE;


浮動小数点値型はSCALARとよばれる型となる。これも倍精度宣言DOUBLE、単精度宣言SINGLEキーワードの付与ができる。以降紹介する型でもこれは同様である。


DECLARE L SCALAR DOUBLE;


HAL/Sにはキャラクタ型が存在する。


DECLARE Q CHARACTER(80);

DECLARE G CHARACTER(200) INITIAL('HOGE');


キャラクタ型は配列要素に文字を1つづつ格納した配列である。配列サイズは1から255までの値でなければならないが、実際には配列サイズゼロの場合もあり得る。ゼロ終端などの必要は無く、つまりPASCAL文字列と同じである。


ブーリアン型も存在する。


DECLARE R BOOLEAN;

DECLARE F BOOLEAN INITIAL(FALSE);


ブーリアン型はTRUEとFALSE以外の値を取らないから、当然DOUBLE宣言もSINGLE宣言も

存在しない。


イベント型という変数も存在する。


DECLARE EV1 EVENT;

DECLARE EV2 EVENT LATCHED;


これは特殊なので、リアルタイム機能の記述時に詳説する。


DECLARE I INTEGER STATIC;


STATIC指定されたデータは宣言されたブロックが終了してもメモリにそのデータを保持し、永続的になる。逆はAUTOMATIC指定で、指定が省略されている場合はこれが相当する。

FUNCTIONブロックはPREENMT指定で再入可能となり、外部呼出し可能となるが、その場合STATIC指定されたデータ宣言があってはならない。


単精度、倍精度相互の変換には、BIT型宣言BIT()を用いる。


DECLARE X INTEGER SINGLE INITIAL(100);

DECLARE Y INTEGER DOUBLE;

  Y = BIT(X);

C " Y= 00000000 00000000 00000000 01100100"


また、特定のビット位置を切り出すことも出来る。


  Y = BIT 20 TO 30 (X);

C " Y= 0000011001"


 ビット位置指定は、左端を1として数える。変数の精度が変わると、当然左端の示す二進桁の意味も変わるので、当然ながら非常な注意が必要である。


 BIT()はほかにもなんと、文字列表記を数に変換してくれたりする。文字列がどういう基数表現なのか、指定するために@が使われる。


DECLARE X INTEGER SINGLE;

X = CHARACTER@HEX('64');


C "X = 100"


 逆にはキャラクタ型宣言CHARACTER()を用いる。


DECLARE BUF CHARACTER(10);

DECLARE X INTEGER SINGLE INITIAL(100);

BUF = CHARACTER@HEX(X);


C "64"


CHARACTER()はBIT()と同じく、文字列の特定位置を切り出す機能も持っている。


 コンパクトな整数配列型MATRIXの宣言では、行列の要素数も同時に宣言する。行列は二次元固定である。要素数は1から64までの整数でなければならない。もし行列要素数の宣言が無かった場合、その行列のサイズは3×3が仮定される。


DECLARE M MATRIX(10,10) DOUBLE;


行列の要素数はプログラム実行中に可変できる。


DECLARE N MATRIX(I,J);


コンパクトな浮動小数点配列型、VECTOR型の要素数は1から64までの整数でなければならない。もし要素数の宣言が省略された場合、要素数は3が仮定される。行列の要素数はプログラム実行中に可変できる。


DECLARE P VECTOR(K);


HAL/Sには配列コンテナ宣言が用意されている。これはどのようなデータ型でも利用可能である。


DECLARE S ARRAY(1000) VECTOR(X);

DECLARE T ARRAY(10000) CHARACTER(200);


配列要素数は1から32768までの整数が宣言できる。このサイズは宣言したらそれで固定で、実行中にサイズは可変できない。要素数ゼロも宣言できない。要素数の制約は各次元ごとに独立で、他に制約されない。また次元数も制約されない。


変数等データ宣言は、まとめることで多少だが簡略化できる。


DECLARE S;

DECLARE I INTEGER DOUBLE;

DECLARE M3 MATRIX;

DECLARE M6 MATRIX(6,6); separate declarations

DECLARE B BOOLEAN;

DECLARE C ARRAY(5) CHARACTER(20);

DECLARE V ARRAY(3) VECTOR;


例えば上記の例は、以下のように簡略化可能である。


DECLARE S

I INTEGER DOUBLE,

M3 MATRIX, equivalent compound

M6 MATRIX(6,6), declaration

C ARRAY(5) CHARACTER(20),

V ARRAY(3) VECTOR;


セミコロンとコンマの位置に注意していただきたい。

つまりデータ宣言を実質一行にまとめると、キーワードDECLAREを最初以外省くことができるという訳だが、5行目、行頭コメント宣言と紛らわしい事に注意が必要である。この機能は簡単に開発メンバーを地獄送りにできる便利機能と言えるだろう。


HAL/Sは構造体をサポートしている。記述法はPL/Iのものとほぼ同じである。


STRUCTURE HOGE;

  1.FUGA;

  1.MOGE;

    2.HOEHOE;

    2.NOENOE;

CLOSE HOGE;


HOGE.MOGE.HOEHOE = X;


 要素行頭の番号が煩わしいが、そういうものと思って我慢していただきたい。実は要素はいくらでも階層を深くすることができる。番号は階層の深さを表しているのだ。まぁ要するに、番号でしか階層を表現できない仕様だという事である。

 ある階層のデータ要素は、直前の一段浅い要素に属している。例で言うと、HOEHOEとNOENOEは、MOGEを節とした葉に当たる。つまり木構造データだ。

 但し既に説明したが、HAL/Sで再帰は使えない。木の全要素をなめるのに再帰は使えない事は強く留意する必要がある。もちろん動作中にこの木構造に要素を付け足したりする事ができる訳でもない。またこの構造体は入出力のフォーマットとも親和性が低い。



プログラミング HAL/S #4 -2011年3月1日(火)22時19分


4:式と構文、構造


HAL/Sのプログラムは、次のような開始と終端の宣言を必要とする。


"プログラム名": PROGRAM;

  /*ここにプログラムが記述される*/

CLOSE "プログラム名";


開始宣言では、プログラム名の後ろにコロンが必要で、そこからブロック開始宣言PROGRAMが付く。終了宣言はCLOSEで、この後ろにもプログラム名が必要だが、こちらにはコロンは必要無い。そもそもOPENしていないのにCLOSEするのに気持ち悪さを感じる人もいるだろう。なお、ブロックの終わりのCLOSEの後ろのブロック名、この場合はプログラム名を省略することはできない。何故省略できないのか、多分設計者の思想なのだろう。意図は測りかねるが。

グローバル変数などの宣言は、プログラム開始宣言以降、最初の実行可能命令までの間に記述しなければならない。


HAL/Sの制御構造であるブロックは以下のような4種のスタイルを取る。


"ブロック名": PROGRAM;

  内容;

CLOSE "ブロック名";


もしくは


"ブロック名": COMPOOL;

  内容;

CLOSE "ブロック名";


もしくは


"ブロック名": FUNCTION;

  内容;

CLOSE "ブロック名";


もしくは


"ブロック名": PROCEDURE;

  内容;

CLOSE "ブロック名";


ブロック PROGRAM は引数を取らず戻り値も無い。これがプログラム全体の基底、C言語で言うところのmain()関数となる。このブロックは基底に1つだけ宣言され、ネストすることはできない。

ブロック COMPOOL は引数を取らず戻り値も無い。このブロックはネストすることはできない。

ブロック FUNCTION は戻り値がある。このブロックは CLOSE する前にRETURN文で変数の値をひとつ返すことができる。

ブロック PROCEDURE は引数も戻り値も備える。引数はキーワードPROCEDUREの後ろに括弧でくくって記述できる。引数は複数指定可能である。

C言語なら1種で済むところを使い分けるのは、ただ単に言語設計者の錯乱によるものと思われる。多分言語設計者は使い分けを強制したかったのだろうが、この仕様は無用の複雑さ、設計変更の困難さ、そして言語使用者へ余分な負担を強制するだけだっただろう。

ブロックのスタイルにはもう一つ、TASKというものがあるが、これはスタイルPROGRAMのリアルタイム版である。このブロックについては後述する。


以下はPROCEDUREブロックの例である。


HOGE: PROCEDURE(X,Y);

  RETURN X * Y;

CLOSE HOGE;


A = HOGE(B,C);


PROCEDUREはCALL文を使って呼び出すことも出来る。その時は戻り値はキーワードASSIGNを使って取得することになる。


CALL HOGE(B,C) ASSIGN(A);


このように、プログラムブロックの呼び方は引数や戻り値の有無、主呼び出しかそこに展開されるマクロ、テンプレートであるかによって使い分けなければならない。

HAL/Sは一応、構造化言語である。FUNCTIONやPROCEDUREはネストすることが可能で、ローカル変数を持つことができる。但し、再帰は許されていない。

COMPOOLは特別な使い方が想定されている。外部のプログラムに共通変数のアドレスを示すための宣言として、Cのヘッダファイルのように使うのだ。従ってCOMPOOLブロックの中にはデータしか置くことが出来ない。COMPOOLはネストできないが、構造体でもベクタ型でも置くことができる。COMPOOLは実行されない。関数も置ければ素晴らしかったのに。


DATA_POOL: COMPOOL;

  DECLARE J INTEGER INITIAL(100);

CLOSE DATA_POOL;


こういう宣言が、どこかにあれば、他のプログラムがこれを参照するために、


DATA_POOL: EXTERNAL COMPOOL;

  DECLARE J INTEGER INITIAL(100);

CLOSE DATA_POOL;


とキーワードEXTERNALをつけて、PROGRAMブロックの外で宣言すれば良い。COMPOOLの中で宣言したデータは、メモリ空間に永続的にその位置を確保される。そのプログラムのどこからでも、COMPOOLで宣言した変数を参照することができる。

FUNCTIONやPROCEDUREも、キーワードEXTERNALを使って外部呼出しができる。ただ変数は永続的確保されず、その場で初期化される。


 面白いことに、HAL/Sには無名関数みたいなものも使う事ができる。


X = X + FUNCTION SCALAR;

    RETURN X;

    CLOSE;

    **2;


C "X = X+X**2"


FUNCTION文の前に関数名が無いことに注目していただきたい。FUNCTIONの後ろのSCARARは戻り値の型である。上記はドキュメント内のサンプルそのままで、サンプルは一体何がしたいのかよく判らない。字下げもサンプルのままである。普通の関数のようにちゃんとCLOSEまでのブロックに色々書けるのかも不明だ。変数に代入して便利に使うとか、引数に直接記述するとか、そういう機能は一切サポートしない。あくまでマクロの一種と割り切るべきである。


制御構文には何やら似たようなものが色々有る。

IF..THEN..ELSEは、ブロック宣言が無ければ、条件判断後の直後の行しか実行しない。ブロック宣言が無ければ、これは一行で記述すべき構文なのだ。


IF X THEN

  Y

ELSE

  Z;

A /*この位置は既に条件判断構文の外*/


この仕様はコンパイラを単純化するためのものだ。もし条件分岐の結果、直後一行しか実行されないのなら、条件分岐しなかった場合の飛び先は自動的にその次の行ということになる。多分、HAL/Sコンパイラは飛び先を保持するリストなど持っていなかったのだろう。


しかしif文の次の行にブロック宣言 DO..ENDを挟むと、そこは通常のCのif文のようにシーケンシャルに実行してくれる。


IF X THEN DO;

  A;

  B;

  C;

END;

ELSE D;


つまりDO..ENDブロックの実体はメモリの離れたところに配置され、IF文の後ろにはブロックへの無条件ジャンプ文が挿入される訳だ。DO..ENDブロックの終端には、IF文を抜けた位置への無条件ジャンプが挿入されることになる。

こういった特長により、上のサンプルを見て判るとおり、制御構造は字下げで明瞭になるとは言い難い。

条件分岐にはもう一つ、DO CASE文というものが存在する。CASEという単語から連想するような、C言語ライクなcase文とは違い、ただ単にCASEの後ろに記述された変数なり式なり定数なりの真偽値によって条件分岐をおこなうものである。IF文と同様にELSEも使用可能である。つまりIF文と大して変わらない。

あと、勿論GOTO文も用意されている。GOTO文を使わなくても構造化して記述できるとドキュメントで力説してあるが、説得力は無い。

構文ブロックから抜ける宣言には、RETURNとEXITの二種類がある。EXITは通常ループ構文と組で使用される。 DO..ENDブロックからはEXITで脱出できる。またREPEATでブロック先頭へ遷移する。REPEATにはラベルを指定してブロック以外へも遷移することができる。HAL/Sではこのような多彩な構文でスパゲティが製造できる。ループ構文でRETURNを使った場合、その他の構文ブロックでEXITを使った場合どうなるか、ドキュメントに記述は無かった。


ループ用に、DO FOR という構文も用意されている。

DO FOR I=0 TO 100 BY 1;

  A;

END;


FOR構文だけでは使い物にならないので、DO..ENDブロックと組み合わせてDO FOR構文と称している。構文は見たとおりである。FORの後ろに変数とその初期値、TOの後ろにしきい値、BYの後ろに変数の変化量となる。このループから条件によって抜けたいとき、例えばこう書く。


DO FOR I=0 TO 100 BY 1;

  IF I>A THEN EXIT;

END;


前述のEXITを使用するのである。


WHILE構文も存在する。WHILEの後ろの式が評価され、真なら後ろが実行される。これも現実的な動作をさせたいなら、DO..ENDブロックを使わなければならない。


DO WHILE X<10;

  X = X + 1;

END;


UNTIL構文も存在する。UNTILの後ろが評価され、真になるまで後ろが実行される。WHILEと真偽反対なだけである。


DO UNTIL X>10;

  X = X + 1;

END;


このように、煩雑な構文を使い分けなければならないのは、勿論実装を意識せよという意味なのだが、公開されているドキュメントでは、その辺りを窺い知ることはできない。



プログラミング HAL/S #3 -2011年2月28日(月)00時48分


3:演算


 HAL/Sの数式記述法は中置記法なのだが、少し独特である。


 HOGE = a b+1;


 これは (a×b)+1 の結果を変数HOGEに代入しているのだが、目を引くのは乗算の演算子に空白が使われている点だろう。数学の記法では確かに乗算演算子は省略できる。が、普通のプログラミング言語ではこんなことはしない。空白を単語の区切りに使うからだ。

 単語の区切りと乗算演算子を区別できないと、例えば以下のような危険がある。


DO FOR I=0 T0 100 BY 1;


 上記例はTの後ろにあるのはオーではなく数字のゼロである。もしT0,T1,T2などの変数を不用意に定義していた場合、Iは 0×T0×100 つまり0となりループ終了値100は定義されない。

 HAL/Sのコンパイラは、恐らく再帰下降構文解析である。あまり想像力に富んだ字句解釈は期待できない。HAL/Sの変数は事前の宣言が必要で、ローカル変数が使えるため、変数名で危険な事態になることは少ないかもしれない。それでも、短い変数名は危険であることには変わりない。


 演算子の優先順位は以下のようになっている。


最高

 階乗演算子 **

 乗算演算子 (空白)

 ベクタ乗算演算子 *

 ベクタ和算演算子 .

 除算演算子 /

 加算演算子 + および 減算演算子 -

 否定演算子 ¬

最低


 階乗演算子は以下のように使う。


V**100


 この記述はVの100乗を表す。階乗演算子のみが右結合で、他はすべて左結合で評価される。

 上記、見てのとおり、乗算と除算で優先順位に差がある。また、*は実はベクタ型、マトリックス型専用演算子で、スカラ型には使えないことがわかる。

 実はほかにも演算子は色々ある。例えば論理演算子だ。優先順位は以下のようになっている。


最高

 結合演算子 || CAT

 論理積演算子 & AND

 論理和演算子 | OR

最低


 & と AND、| と OR、|| と CAT、どちらを書いても良い。|| は実は文字列結合に使う演算子で、使い方は想像通りだ。


DECLARE G CHARACTER(4) INITIAL('HOGE');

X = G||"hoge"

C "X = HOGEhoge"


 こういう用途以外で、CAT演算子は使われる事は無い。

 論理演算子だと、あと当然論理否定¬が出てこなければいけないが、優先順位は定義されていない。あと、論理演算子の優先順位は、算術演算子の下になる。また、大小比較演算子>や代入演算子=はみな同じ優先度で、算術演算子と論理演算子の間の優先度に位置する、らしい。

 HAL/Sにはインクリメント、デクリメントや、剰余や排他的論理和などといった甘えた演算子は存在しない。しかし慈悲深いHAL/Sは組み込み関数というかたちで剰余などの演算を提供している。

 問題は優先順位だ。ドキュメントをまともに取ると、論理演算する前に代入が行われてしまう。明らかにおかしいから、そこは間違いだろう。論理否定¬の優先度は恐らく論理演算子の最上位だ。組み込み関数に優先度は当然無い。括弧()内は優先されるから、まともな結果が欲しければ括弧を多用したほうが良いだろう。

HAL/Sの演算子優先順位はPL/Iのそれにかなり近いが、空白が乗算だったり、除算演算子の優先順位が乗算のそれと違っていたり、微妙に食い違っているのが面白い。もしかするとこれも初期のPL/Iの仕様の反映、化石なのかも知れない。


 HAL/Sはマルチライン記法を、数式表現でサポートする。

 一般的な言語では、マルチライン記法というと、例えばRubyのヒアドキュメントのような、文字列に使用は限られる。これがHAL/Sでは、数列にのみ使用される。一例を以下に示す。


E_________________100

M___DELTAV = G + V

S_____________E


 100はVの上添字、つまりVの100乗である。EはGの下添字、つまり対数GのlogEを示す。

 行頭のひと文字Mが主の行で、その上に行頭文字Eの宣言で上添字ラインを、M行の下に行頭文字Sの宣言で下添字ラインを宣言できるのだ。

 これは文字の位置が狂うと大変な事になるし、コンパイラは一体どう作ったものか、まあそもそもこんな言語仕様にしようという方が間違っているのだが、こういう仕様も、COBOLの血のなせる業と理解すると、なんとなく判る気もする。

 マルチライン記法での優先度は不明である。


 HAL/Sはマトリックス演算をサポートしており、そのためにMATRIX型とVECTOR型という専用型がサポートされている。データ型については後述する。

 VECTOR型とスカラー型値、VECTOR型とVECTOR型の演算も可能である。制約は他の言語と大体同じで、例えばVECTOR型とVECTOR型の足し算は双方の要素数が一致していなければならない。MATRIX型も同様に演算可能である。



プログラミング HAL/S #2 -2011年2月26日(土)22時36分


2:変数と文字


 HAL/Sは、素晴らしいとはちょっと言い難い仕様を色々と持っている。最悪とまでは言わないが、基本的に駄目な仕様で溢れている。

 例えばHAL/Sでは、数値及び変数間の一文字空白は、乗算を表す。


DECLARE RV INTEGER;

RV = 123 456;

C "RV = 56088"


 2行目の、123と456の間にある空白がそれである。ちなみに1行目は変数宣言、3行目はコメントだ。

 確かに、数学での算術記述において、乗算演算子は通常省略されるが、それをこのような形で真似できるようにしたHAL/Sでも、他のプログラミング言語と同じく、字句解釈のために乗算演算子に何らかの文字を割り当てる必要があった。結果、恐ろしい事に、空白が乗算演算子と化した訳だ。他の言語では乗算記号に使われるアスタリスク*はベクタ型の乗算にしか使うことができない。アスタリスク二連続**は階乗なのにである。

 FORTRANの後継を目指すFORTRESS言語でも、空白を乗算演算子と解釈するそうだが、近代の言語だからそれなりに構文の文脈を読んで解釈する。しかしHAL/Sは1970年代のコンパイラである。当然そのような柔軟さは期待できない。

 HAL/Sの文字コードはASCIIの基本文字セットをベースとしたEBCDICの一種であるとHAL/Sのマニュアルたちは主張するが、大嘘である。否定演算子¬が有ることからわかるとおり、HAL/SのソースコードはEBCDICを使っている。当然だがASCIIにはそんなものは無い。恐らくHAL/Sは独自のEBCDICコードページを定義している。

 EBCDICにはエクスクラメーションマーク!も同時に定義されているから、他の言語っぽく否定演算子を!に置換するわけにはいかない。またNASAゴダードのNSSDCのEBCDICコードページで解釈すると、たぶん¬はサーカムフレックス^に置き換わってしまう。ちょっとプリンタを変えただけで大惨事だ。

 HAL/Sの使う字形はEBCDICのものだけ(おそらくプリンタの制約だろう)だから、コード変換してASCIIプリンタに出力すると、否定演算子は消えうせてしまう。現在HAL/Sシミュレータを書こうとすると、HAL/S文字コードとUNICODEを相互変換するターミナルが必要になるだろう。

 問題はこれからだ。シャトルのAP-101特有の機械依存コードは実はASCIIベースである。0x20に空白文字が、0x30に0が、0x41に大文字のAがある訳だが、更にシャトル型の絵文字とかπ、λ、ΣやらSELF TESTの文字列(!)やらが空いたコード空間に割り当てられているのだ。HAL/Sは自己の使命のために、それら独自文字を使いこなさなければならない。独自文字を扱うために、HAL/Sはstring型の表現のうち、非ASCII文字にエスケープシーケンスを用いたコードを割り当てている。つまりAP-101にしかない字形と、HAL/Sソースコード上にしかない字形がそれぞれ存在していて、共通領域は狭く、どちらにせよ独自字形は使わざるを得ない。AP-101でソースが読めないのは別に良い。別に軌道上でソースを見る必要がある訳では無いのだから。しかし地上では、ソースコードを一瞥しただけではAP-101でどういう出力がされるのか判らないというのは深刻である。HAL/SのAP-101出力用の7ビット文字セットのうち、およそ半分がエスケープシーケンス使用コードである。

 たぶん、シャトル用の字形を打ち出すプリンタを作って、開発環境でもAP-101の文字コードを使っていれば、開発に関わった全員が幸せになれたのではと思う。しかし、事実は違う。


 HAL/S言語はシャトルのコンピュータ開発以前から開発されてきた70年代の代物なのだが、これらドキュメントのうち古いものは1978年製作であると対して、最新のものは、なんと2005年製作である。シャトルのプログラムをメンテする羽目になることを恐れてドキュメント化したのであろうか。内容、特にソースコードの記述スタイルは新旧であからさまに違う。しかし恐らく、実際のコードは古いドキュメントベースである筈だ。そもそも現在のコードの大半が書かれたのは1978年以前なのだから。

 古い言語なので、全ての予約語はアルファベット大文字である。ドキュメントのサンプルコードではコードの全てが大文字になっている。変数、ラベル、そしてコメントまで全てだ。HAL/Sは建前では小文字が使えることになっている。しかし実装では恐らく全てが大文字だろう。行終端にはCと同じようにセミコロンを置く。

 ブロック内で使用する変数は全てブロック内の先頭位置で定義しなければならない。変数の型や構文にはPL/I言語の影響が垣間見られるが、1978年のドキュメントでは主にFortranからの移行に主眼が置かれ、全て大文字、時として字下げ無しのプログラミングスタイルで記述している。

 HAL/Sは数値のテキスト表記として10進の整数及び小数、2進、8進、16進表記をサポートしている。少数は固定小数点とIBM Hex浮動小数点の双方の表記をサポートする。ただ、接頭辞や接尾辞を自動的に付けてくれるような親切な言語では無いことは承知すべきだ。


 HAL/Sでのコメント文は、PL/I言語形式、つまりCOBOL形式とC言語形式の二種類が使用できる。

 先のサンプルコードの3行目はCOBOL形式のコメント文である。行頭でひと文字、その行の属性を宣言するというCOBOLライクな記法は、COBOLとALGOLのいいとこ取りという、当時のIBMの野心的だが間違った言語設計によってもたらされたものだ。HAL/Sには明確にPL/I言語の影響が見られる。

 PL/Iはもう1つのコメント形式を持っている。C言語でお馴染みのものだ。

/*THIS IS A COMMENT*/

 そもそもC言語のコメント形式はPL/Iのコメント形式から来ている。HAL/SはどこまでもPL/Iの追従者なのだ。HAL/Sの仕様はPL/Iの初期の仕様を反映した、ある種の化石であると考えられる。


 HAL/Sのコーディングは最終的にはIBMパンチカードに落とし込まれた。IBMパンチカードでは1枚に付き一行80文字のテキスト記述を許す。HAL/Sは実質一行80文字の制限が存在し、字下げは全く推奨されなかっただろう。変数等のキーワード名も長くするのは推奨されなかったものと推測できる。



プログラミング HAL/S #1 -2011年2月25日(金)22時15分


宇宙の傑作機別冊として調べていたのですが、この酷い代物と付き合うのも大概疲れたのと、やっぱり動かせない言語はつまらないというので、打切ってここで晒してしまおうと思います。

主な情報源はklabs.orgの以下の5つのファイル

HAL/S Compiler System Specification

HAL/S Language Specification

HAL/S Programmer's Guide

HAL/S-FC User's Manual

Programming in HAL/Sです。

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プログラミング HAL/S


目次

:序

1:歴史的背景

2:変数と文字

3:演算

4:式と構文、構造

5:デ−タ型と宣言

6:置き換え

7:入出力

8:リアルタイム

9:ハードウェアと運用仕様

10:終わりに


序:


 プログラミング言語に優劣は無い、と言う人がいる。

 それは今日の、素晴らしい言語が綺羅星のように並び立つ現状に慣れた、恵まれた立場からの発言である。残念ながらプログラミング言語に優劣は存在する。あまりの酷さに頭をかきむしり、製作者の正気を疑う、そういう言語は存在する。所詮、人が作るものなのだから。

 プログラミング言語は決して、チューリング完全を獲得次第速やかにユーザフレンドリーになったり、記述の簡潔さを自律的に獲得したりはしない。それらは創造者が与えるものなのだ。


1:歴史的背景


 プログラミング言語HAL/S、この言語はスペースシャトルで使われている。

 HAL/Sは米スペースシャトルの主制御計算機AP-101のプログラム記述に用いられている言語である。元々はその他宇宙機全般用途のプログラム記述言語となることを目指していたのだが、一部地上系で使われたのを除けば他には採用されることが無かった。実質シャトル専用の言語と言って問題無い。

 シャトルの主コンピュータAP-101はアップデートを経て現在も使用され続けているし、ソフトウェアもまた使用され続けている。少なくともこれはシャトル運用停止まで変わらないだろう。その間、この制御ソフトウェアはずっと立派に役割を果たしてきた。

 シャトルはカプセルと違い、再突入において静的に不安定である。つまり制御しないと死ぬ。コンピュータが死ねば、ソフトウェアが阿呆をやらかせば、シャトルはほぼ即座に再突入に失敗する。

 宇宙機としての振る舞いを制御しているのもこのソフトウェアである。シャトルが国際宇宙ステーションにドッキングできるのはこの制御のお陰である。主エンジンSSMEの制御は別の機械が行っているが、それ以外、基本的なシャトルの制御はこのソフトウェアに委ねられている。

 では、そのソフトウェアを記述している言語もまた素晴らしいものなのだろうか。

 いや、残念ながら、極めて残念ながら、それは悲惨極まりない言語なのだ。


 HAL/S言語はIntermetrics社によって開発、サポートされてきた。この企業は、アポロ誘導コンピュータ用プログラム記述言語MACの開発メンバーを中心として生まれた。

 MAC言語はチャールズ・スターク・ドレーパー研究所で開発された。この研究所は元々はMITの付属研究機関、計装技術研究所が独立したものである。MAC言語の主開発者、Halcompの名前にHAL/S言語の前半部分は由来するとされているが、映画"2001:a space odyssey"の中に出てくるコンピュータ、HAL9000に由来する部分も当然ある筈である。

 HAL/Sの名前の後半、スラッシュの次のSは、シャトルを意味するとされている。元々の言語仕様からシャトルへの最適化が行われた後でも、汎用言語化するつもりはあったようだが、例えばガリレオ探査機にもHAL/Sは採用される筈であったが、コンパイラの開発に失敗し、最後にはアセンブラ言語のHAL/S風マクロというレベルにまで後退している。ガリレオ探査機で使用されたマイコンCDP1802は、ただでさえコンパイラの製作の難しいマイコンであり、開発失敗は驚くに当たらないが、これはHAL/S言語の実績蓄積に対する大きなダメージとなった。

 HAL/Sは当初予定では11機種ものコンピュータに移植される筈だった。HAL/S言語は元々、コンパイル時に一度、中間言語HALMAT形式で出力してから、ターゲットハードウェア用のバイナリを生成する、多機種対応を目指した形式となっていた。例えばNASAの宇宙用標準計算機NSSC対応にも当初チャレンジしていたようだが、いつの間にか予定から姿を消した。データジェネラルの16bit汎用機Eclipsで動くバージョンはなんとかAP-101用のコードを吐くことが出来たが、追跡地上局に採用されていた汎用機modcompシリーズではそういう訳にはいかなかった。惑星探査機搭載用高信頼性計算機ATAC-16M用のものは、ハードウェアのキャンセルでCDP1802用コンパイラの開発にスライドしたのだが、前述のとおり開発に失敗している。こうして宇宙機用のコンピュータソフトウェア記述言語のスタンダードを目指す夢は破れたのである。

 もしこの言語が優れていたなら、シャトルへの採用という素晴らしい実績に後押しされて様々なプロジェクトに採用されていただろう。もしかすると、組み込みシステムの標準記述言語にすらなったかもしれない。そうならなかった理由は単純である。この言語は開発中に時代遅れとなり、継ぎ接ぎだらけとなったが、採用しないわけにはいかなくなったという、巨大プロジェクトにありがちな駄作なのだ。

 正直なところを言おう。シャトルがこの言語を使いながらコンピュータシステムで致命的な不具合を出さなかったというのは、ひとつの奇跡だ。



旧ソ連のMSX派生機 -2010年11月22日(月)01時31分


 ПК 8000は旧ソ連で製作された、MSX1をベースにしたホビーコンピュータである。1987年に発売され、製造元によって幾つかのバリエーションを持つが、製造台数は不明である。機体は8bit機ではよくあるキーボード一体型で、キリル文字入力対応のキーボードを持つ。カートリッジスロットは持たない。

 ПК 8000は厳密にはMSX1としての規格互換性を持たない。Z80の代わりにソ連製i8080クローンのКР580ВМ80Аを搭載している。つまりプログラムは8080互換コードの範囲ではちゃんと動くが、Z80拡張命令を使うと破綻する。TMS9918グラフィックコントローラを持たず、映像はソ連国産のディスクリートICを使って生成される。ビデオ出力はアナログRGB出力だ。スプライト機能は恐らく存在しない。

 音源チップを搭載せず、ROMカートリッジスロットを持たず、代わりにDSUB50ピンコネクタで外部に信号を取り出せるようになっている。ここに外部フロッピードライブとそのコントローラボードが接続するようになっていた。他、メモリマップにも一部違いが見られる。クロックも1.78MHzしかない。BIOSには手が入っており、ROMカートリッジからのブートに関連する機能が殺されている。しかし電源を入れて起動するのはMSX-BASICベースのBASICであり、MSX1用のソフトウェアの多くが動作した。ゲームはプログラム内で音声出力が殺されたものがコピーされて流通した。

 RAMは64〜48kbyte、カセットレコーダ入出力と2つのジョイスティック入力を持つ。カセットテープのフォーマットはMSX形式である。ジョイスティック入力はATARI規格のピン互換だがオスメスが逆である。


 ПК 8000は1987年にペンザ電子計算機工場(Пензенском заводе Вычислительных Электронных Машин)で開発、製造され、"サラ"(Сура)という名称で発売された。その後1988年にスタブロポリ工場"信号"(Ставропольским заводом "Сигнал")で"ベータ"(Веста)として、1990年にはオレンブルグで"趣味"(Хобби)と名づけられて発売された。またПК 8000をベースにアーケードゲーム機"フォトン"(Фотон)が製造された。フォトンは生産が最も活発だった頃には月産150台を出荷したという。

 ПК 8000はК555汎用論理ICやКР580ВВ55Аパラレルコントローラなどのソ連国産ICのみで構成されており、代償として回路規模は増大し基板は二枚構成となった。後継機のПК 8010、ПК 8020は512x256ピクセル(モノクロ)モード等解像度を拡張した、アーキテクチャ非互換機である。

 このシリーズ開発には、教育用コンピュータ開発と言う目標があった。具体的に言うと、教育目的に導入されたMSXコンピュータの国産機での置き換えである。

 ПК 8010"コルベット"(Корвет)は公式には1985年、核物理学研究所(МГУ)のセルゲイ・アクマノヴィ(С. Ахмановым), ニコライ・メオユ(Н. Роем),アレキサンダー・シュリヒキン (А. Скурихиным)らによって低温プラズマ実験のテレメトリ取得のために開発されたものとなっているが、これは国産機という体裁を整えるためであろう。

 ПК 8010のリリースは1988年で、ПК 8000にTandy TRS80のアイディアを加え、MSX機で実用化された教室内LANを備えた上で、プリント基板は1枚に簡略化されていた。基板の質は良く、比較的安価だが容量の小さなRAMがびっしりと基板を埋め尽くしていた。64kbyteという大容量のRAMは、ROMカートリッジではなくネットワークでソフトウェアを供給し、RAM上からソフトウェアを動かすアーキテクチャの制約から来たと思われるが、これはこのシリーズを高価にしたと思われる。ПК 8020はディスクドライブ付きの機体だが、ディスクドライブは内蔵ではない。外見は一見キーボード分離型のように見えないこともないが、本体に見えるものは単なるディスクドライブである。

 ПК 8010はバクーやウラル、キルギスで生産されたが、必要な生産数には全く達しなかったようだ。これら需要は、例えば沿海州では韓国製のMSX2、大宇CPC-300eなどで間に合わされることになった。

 MSX機のソ連の教育への導入が1985年なので、国産機への置き換えというストーリィで眺めると、ПК 8000とПК 8010の開発過程を時系列上にぴたりと当てはめることが出来る。ПК 8000が他のホビーマイコンに対する優位になる筈のソフトウェア互換を捨て、高価なRAMを大量に積んだのは、上記のような理由によるものと思われる。


以下のサイトを参考にしました。

http://pk8000.narod.ru/

http://www.tis.kz/vesta.html

http://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9F%D0%9A8000

http://www.leningrad.su/museum/show_calc.php?n=288

http://dic.academic.ru/dic.nsf/ruwiki/169585

http://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9A%D0%BE%D1%80%D0%B2%D0%B5%D1%82_%28%D0%BA%D0%BE%D0%BC%D0%BF%D1%8C%D1%8E%D1%82%D0%B5%D1%80%29

http://habrahabr.ru/blogs/atnikvariat/86589/

http://www.phantom.sannata.ru/forum/index.php?t=6252&a=stdforum_view&o=&st=10

http://www.emu-land.net/computers/soviet

http://habrahabr.ru/blogs/atnikvariat/64544/



今Appleがデジカメを作ると -2010年11月12日(金)20時24分


 今Appleがデジカメを作ると、日本製のデジカメは即ガラパゴスで絶滅を待つだけの代物に成り果てるだろう。

 多分、起動速度やレンズ、画素数や感度、ハードウェア画像処理エンジンによる画質など、日本製デジカメのウリにAppleは頓着しない。ただ単にこう言うだろう。このクールなデバイスなら簡単に撮った画像を見せびらかす事ができる、と。

 撮影は撮った画像を見せびらかすのが最終目的である。まさか画像をカメラの中に腐らせて楽しい筈が無い。個人でニヤニヤするにしても、画像はどこかで見なければならない。日本製デジカメはその辺りに全く考慮が無かった。交換可能な記憶メディアをフィルムに、プリントアウトを印画紙に見立てて銀塩技術のちゃちな模倣をしただけで終わり、アルバムは従来どおりの冊子形態だった。もしくはカメラの小さな液晶でお粗末なUIを使って見る事になる。

PCは受け皿として機能していなかった事は、メーカーが実際の受け皿となるプラットフォームアプリケーションを提供しなかったこと、そもそもコンデジ一台分と同等のOSコストに関して何も考えていなかった事から見ても明白であろう。もし素のPCのファイルマネージャを使いこなせる事がデジカメ使用の暗黙の条件だったのなら、メーカーはデジカメを売る為に何をすべきだったのかは明白だ。


 AppleはiPadで電子化されたアルバムを提供できる。iPhoneでもiPodTouchでも良い。フォトレタッチも提供できる。更にネットワークコミュニケーションまで提供できてしまう。それらを優秀なUI、優秀なファイルシステム、オープンなアプリケーションプラットフォームがいとも容易く実現させるだろう。

 カメラ版iTuneがカメラとの同期を受け持つだろう。Appleは高速なハードウェア画像処理エンジンなど必要としない。ハードウェア顔認識も必要としていない。全てソフトウェアでやればいいだけの話だし、アプリケーションを作るサードパーティがやればいい話でもある。ソフトウェアのほうが開発は早く、安価で、面白いことができる。CPU能力は年々向上し、当然処理も年々早くなる。最終的に人間が観る速度でデータを出力すれば良いだけの話なので、リアルタイムに必死に画像処理する必要は無いのだ。


 デジカメを買った人は、どのくらい撮影するだろうか。撮影したものをどのくらい観るだろうか。銀塩の頃とどのくらい変わっただろうか。

 デジカメのランニングコストは、フィルムと現像代が別途必要だった銀塩とは比べ物にならないほど低い。しかし、上記のように日本製デジカメの生態系は銀塩を模倣して、撮影頻度をアナログなアルバムで管理できる程度にまで抑圧している。これが大規模ストレージとファイルシステムによる管理に切り替わると、ユーザの撮影頻度は全く違ったものとなり、デジカメの市場は更に開かれ、その拡大分を全部Appleに取られると言う事態になるだろう。もちろん既存分も全部取られる。

 ストレージは画像のいきつくところであり、UIとデータ加工がしやすいものが出力先となる。つまり既存のデジカメで取った画像も全てAppleのストレージに集約され、AppleのUIを介して閲覧することになる。

 撮影者は撮り溜めた画像データを、日付や位置情報、後で手で付けた様々なタグを使って即座に選り出し、友達に"ほらこないだの旅行で撮った写真だよ"と見せる事ができる。ビューアはスライドショーとしても機能するだろう。動画も一緒に見る事ができる。デジカメの多くには動画撮影機能があるが、カメラ以外での閲覧にはPCを用いる必要があった。それがどれほど動画撮影の利用に制限をかけていたか考えるべきだ。

 撮影者は新しいカメラを買っても、ストレージを買い換える必要は無い。相変わらず同じストレージで画像データを蓄積すればいい。デジカメハードウェアは、新しい生態系の端っこ、代替可能なセンサに過ぎない。それに対してストレージと蓄積された画像データは代替不可能である。熱心なカメラファンほど蓄積していく画像データが増大するから、この事実はより顕著となる。デジカメハードウェアの地位下落は避けられない。対してデジカメ生態系は大きく拡大し、デジカメでの撮影と閲覧は全く違った体験になるだろう。


 さて、日本製デジカメはもう死を免れないのだろうか。

 もちろん解はある。優れたストレージとUIとネットワーク機能をもった、ユーザの活動生態系の中枢となるシステムを自ら提供することだ。

 しかし、iOS並みのファイルシステムとUIを今からイチから構築することは現実的ではない。日本企業はソフトウェアに対してろくな投資をしてこなかったから、もはや選択肢は一つしかない。Androidを使うことだ。

 LinuxのファイルシステムとAndroid UI、ネットワーク機能、Androidハードウェア生態系の安価なハードウェアコストは、予想されるAppleハードウェアに対抗可能なラインに到達できる唯一の可能性である。しかしカメラメーカは更に、優秀な専用UIと、レタッチを含むユーティリティを提供しなければならない。鍵はソフトウェアだ。カメラメーカーはソフトウェアに多大な投資をしなければならない。

 ハードウェアはAndroidタブレットの形態を取り、フォトフレームUIが前面に来るだろう。このUIは必然的に専用のファイルマネージャを含むことになる。ユーザにはフォトフレームとしてではなく、アルバムとして売らなければならない。フォトフレームとしては高過ぎるからだ。そしてカメラ連携とプリンタ連携は自動化されるべきだ。

 こうなるとデジカメメーカーはこのタブレットをデジカメと一緒に売る事ができるようになる。デジカメの価格に似合った価格がタブレットにも必要となる。つまり、デジタル一眼用の高級タブレットや、コンデジ用の安価なタブレットが無くてはいけない。幸いなことにAndroidは必要なバリエーションとソフトウェアプラットフォームの共通化を同時に満たす事ができる。

 また、デジカメのバックエンドにAndroidが載っても良い。カメラの形をしたAndroidハードウェアは当然AndroidのファイルシステムとUI、ネットワーク接続、そしてアプリケーションプラットフォームとしての機能を利用できる。ソフトウェアのアップデートは現状より更に簡便になり、常態として定着するだろう。

 重要なのはソフトウェアへの投資、そしてコンテンツ中心への視点変更だ。画像データというユーザ作成コンテンツを軸に全ての流れを考えることで、生態系として大きなシステムをユーザにアピールできるようになるのだ。


 ここまでやって、ようやく日本製デジカメは全滅の危機を逃れる事ができるだろう。

 しかし、日本のメーカーのソフトウェア技術力はお粗末極まりなく、コンテンツ提供力ときたらマイナス方向か斜め上であるのが現況である。技術が凄いのは判るがどう使ったものか理解に苦しむようなものをポイと市場に投入したり、観るコンテンツが無いのに3DTVが売れまくると予想したり、電子書籍ビューアの皮算用をしていたりと、不思議な生き様を晒す日本企業が、コンテンツ中心に考えられるかというと、それは絶望的である。

 とすると、日本製デジカメの殆どは、やはり滅ぶしかないのではなかろうか。



インドネシアの宇宙開発史#3 -2010年10月28日(木)23時45分


 RX-250の打ち上げが活発化するのは東ティモール危機後の2004年からである。これは独自衛星打ち上げ機開発を目指したものだ。2004年にRX-250は4機、2005年に1機打ち上げられた。うち2機はRX-250を継いで二段式としたRX-250/250で、高度100kmに達している。

 2005年には射程150kmまでのミサイルの技術供与を中国から受け、これが固体ロケット技術のブレイクスルーに繋がった。インドネシアは過塩素酸アンモニウムに依存しない高性能固体推進剤を自由に製造可能になった[15][16]

 LAPANはその後直径70mmのRX-70、直径80mmのRX-80、直径100mmのRX-100、直径150mmのRX-150を開発、2007年よりそれぞれ多数飛ばしている。推薬原材料の供給問題に対処した旨の報道があり、これは恐らく新推薬の改良と性能確認の意味を持っていたものと思われる。同じ頃から軍の新規ミサイル開発も活発になっている。中国は、固体推進剤の開発手法そのものを教えたのではないだろうか。

 2007年、LAPANはRX-250の打ち上げを再開した。以降RX-250を用いたロケットの各種機器、誘導機器や分離機構、テレメトリ系などの動作試験がおこなわれている。

 2008年、直径320mmのRX-320が初飛行した。RX-320は重量532kg、全長4.7m、基本的にRX-250を太らせただけの機体である。この年末に直径420mmのRX-420の燃焼試験がおこなわれ、2009年7月、RX-420が初飛行した[17][18]。この打ち上げはビデオが公開されており、到達高度等の詳細は明らかにされていないが成功だったようだ。RX-420は全長6.2m、10トンの推力を11〜13秒維持し、高度100〜120kmに到達する実力を持つ。ちなみにカッパ8型の一段目の径も420mmである。

 この機体を3機クラスタした上に更に2段RX-420を搭載し、更にRX-320を搭載した全4段機が、現在の打ち上げ機構想、RPS-420である。RPS-420は2014年の打ち上げを目指している。うまくいけばこれが最初の衛星打ち上げ機、SLV-Iとなる[19]

 RPS-420は、JAXAの観測ロケットSS-520に上段を付加して衛星投入能力を持たせる構想のものとスペックがよく似ている。おそらくRX-520はSS-520をモデルとして想定しているものと思われる。SLV-Iのイメージ図はS-520の写真を少し弄っただけのものである。

 RX-420は更に今年中に、2機結合して二段にしたRX-420-420の打ち上げを計画している。2011年にはできればRX-420-420-320やRX-420のクラスタといった組み合わせの試験を行いたいと考えているようだ。

 衛星打ち上げに向けて、新しい射場がスマトラ島の南沖合い、ベンクル州エンガノ島に建設中である[20]。これはパメウンプクが住宅地に近接して手狭になったためである。ここには燃焼試験設備も併設される。直径520mmのRX-520の地上燃焼試験もここでおこなわれるようだ。更にRX-420の軽量化も進行中だ。これは高度190kmまでの到達能力を目指している。

 RPS-420は50kgの軌道投入能力を目指しているが、最低でも5〜15kgの衛星投入能力を持つものと思われる。INASATはRPS-420のペイロードであろう。将来の計画には750mm直径のRX-750開発計画も含まれている。

 インドネシアの固体ロケット開発は軍でも熱心に行われている[21]。Pindad社はその試験中に固体ミサイルが近隣の住宅地に落下し、2人の負傷者を出す事故を起こしている[22][23]。これはインドネシアのミサイルの性能向上に伴って試験設備が手狭になったために起こったと考えられる。


 インドネシアの宇宙開発は東ティモール危機を契機に方針変更を遂げたが、これはインドネシア、アメリカ、そして中国の三者の関係によって、技術を梃子として政治的に引き起こされたものである。

 アメリカの技術管理政策は、インドネシアの軍備拡張傾向を見越した上で、過塩素酸アンモニウムの輸出制限という実効性の高い手法と、ブラックボックス化した軍事支援の組み合わせで成果を挙げていた。それに対して中国は、インドネシアの不満を見越した上で技術と武器を売ることで影響力を増すことに成功した。同様に世界各地で技術支援を行う中国は、世界のありように対してあまりにも無責任であると言う批判を免れることはできないだろう。

 日本はインドネシアに政治的意図無しに技術を与えたが、関係国から抗議されると即座に武器輸出三原則という方法へと遁走し、兵器技術管理から逃げた。これも無責任のそしりを免れまい。


 インドネシアの宇宙開発は、近年の宇宙開発諸国とは違い、通信衛星を必須のインフラとして認識し、これを独自調達することを目標として進んでいる。しかし打ち上げ機開発は東南アジアの軍備拡張競争の一翼を担うかたちで進行している。近い将来、インドネシアは衛星打ち上げに成功するだろう。しかしそれは東南アジアに新たな波乱を呼ぶことになる。今ならまだ、何かをおこなえる余地が有る筈だ。



インドネシアの宇宙開発史#2 -2010年10月26日(火)22時55分


 LAPANの主な活動は、インドネシアに衛星の利便をもたらすことにあった。その広大で島嶼で分断された国土に通信網を確立するため、まずアメリカから通信衛星を購入した。1976年、通信衛星パラパA1が、1977年にパラパA2が打ち上げられ、運用が開始された。静止位置はパラパA1が東経83度、パラパA2が東経77度である。この衛星の地上運用がLAPANの主活動となった。

 1983年にシャトルで打ち上げられたパラパB1は東経108度に投入された。パラパB2は1984年2月、シャトルで打ち上げられたがキックモータの不具合で起動投入に失敗、11月にシャトルにより回収された。1987年にパラパB2Pが東経113度に投入され、回収されていたパラパB2はパラパB2Rとして1990年にデルタロケットで東経108度に投入された。1992年にパラパB4が東経118度に投入、次第に東側に衛星の配置が移動しているのが判る。

 1996年に打ち上げられたパラパC1は新型のヒューズHS-601だったが軌道上で不具合を出し、最終的にパキスタンに売られてPaksat-1となった。

 パラパC2は1996年にアリアン4で打ち上げられた。1997年に打ち上げられたIndostar-1は家庭設置地上局端末に対応したLS-1300バス通信衛星だった。1999年に打ち上げられたTelkom-1はパラパB2Rの世代交代機である。これらもアリアン4で打ち上げられた。

 巨大な展開式アンテナを持つA2100バスの移動体通信衛星ガルーダ1は、2000年にプロトンで打ち上げられた。しかし2001年の東ティモール危機によってアメリカとの関係が悪化し、ガルーダ2の打ち上げはキャンセルされた。

 次の衛星打ち上げはアメリカの制裁解除以降の2005年である。アメリカの制裁は、インドネシアのライフラインとしての衛星の重要性を再認識することに繋がった。長いこと衛星運用機関としてのみ活動していたLAPANは、これまでの活動と平行して独自衛星と独自打ち上げ手段の保有を目指すことになった。

 2003年、LAPANはドイツのベルリン工科大の教育プログラムを利用して、重量56kgのLAPAN-Tubsatを開発した[9][10]。これは1999年に打ち上げられたDLR-Tubsatをベースにした機体である。ここでインドネシアは衛星技術の基本に触れることになる。LAPAN-Tubsatは2007年にインドのPSLVの相乗りで打ち上げられた。

 2003年には国内で衛星を開発するINASAT開発計画も動き出した。INASAT-1は重量10〜15kgのナノサットである[11]

 2009年に打ち上げられたパラパDはタレス社のSpacebus-4000で、中国の長征3Bで打ち上げられた。独自開発の防災衛星Twinsatは2011年にインドの打ち上げ機で打ち上げられる予定である[12][13]。これは地上観測と通信確保を目的とした2つの衛星で、搭載機器は観測用ロケットを用いてそれぞれ試験がおこなわれている。長いことアメリカの衛星メーカの優良顧客であったインドネシアはアメリカ離れを明確にしつつある。


 インドネシアは1987年、RX-250という固体ロケットを開発した。これは直径250mm、推進剤重量300kg、比推力220秒のHTPB推進剤を使った打ち上げ機で、推力5.3トン、全長4.7m、高度70kmに達する能力を持ち、ペイロード30〜60kgを搭載可能だった。直径250mmという数字はカルチカ1の二段目やカッパ8型の二段目の径に等しい。この機体は1987年と1995年にそれぞれ一度づつ打ち上げが確認されている[14]

 しかし、この機体の打ち上げ回数の少なさと打ち上げ間隔の開き方は普通ではない。固体推進剤の充填後の寿命は一般に5年といわれている。本機体は何らかの科学探査や技術開発のためというより、固体推進剤製造技術の維持の為の機体であるように思われる。

 RX-250の開発ではどの程度アメリカの干渉があったのか、無かったのかは不明である。ただ同1987年、MTCR(ミサイル技術管理レジーム)が発足し、以降ロケット技術所有国から技術を得ることは難しくなった。HTPBの材料の一つである過塩素酸アンモニウムもまた、MTCRによる輸出管理品目だった。これがインドネシアのロケット開発と打ち上げに効果的な枷となったのである。



インドネシアの宇宙開発史#1 -2010年10月25日(月)00時51分


 インドネシアの宇宙開発は、1964年8月に二機の観測用ロケット、カルチカ-1(Kartika I)[1]をジャワ島西南のパメウンプク(Pameungpeuk)の海岸から打ち上げた事から始まる。インドネシアはこれを以って、アジアにおいて日本に次いで宇宙開発国家になったとしている。カルチカ-1はインドネシアの航空宇宙科学の基点であり誇りとなっている。

 組織としてのインドネシアの宇宙開発史は1962年にJuandaとRJ Salatunによってインドネシア航空宇宙探査委員会が設立されたところから始まる。当時インドネシアは貧しいながら航空分野において優秀な人材を多く揃えていた。

 1963年に大統領令によりインドネシアの宇宙開発機関LAPAN(Lembaga Antariksa dan Penerbangan Nasional)が設立された。インドネシアはCOSPAR(宇宙空間研究委員会)に参加し、1965年の太陽静穏年における上層大気観測に参加すべく日本に観測用ロケットの輸出を打診した[2]

 カルチカ-1の開発は平行して行われていた筈だがその性能は明らかではない。ただ、1963年8月にGadjah Mada大学のロケットクラブが3機のGAMA II ロケットを打ち上げている[3][4]。これは二段式だったが黒色火薬を使用していたようだ。Gadjah Mada大学はアメリカのUCLAから支援を受けた学校だった。1964年12月には全長4.5m重量65kgの二段式のGAMA IVが高度17.7キロの高度まで到達している。これに使用された推進剤はタイプZ 2048と称されたようだ。この性能は比推力120秒の黒色火薬を38kg使用した時の性能と一致する。恐らくカルチカ-1もこれを使用したものと思われる。

 カルチカ-1は日本から輸出されたカッパ-8型に似ているが独自機である。カルチカ-1はDiran Oetarjo,インドネシア空軍とバンドン工科大学によって、軍事科学開発プロジェクトPRIMAの一環として開発された。全重220kg、カッパ-8型よりひとまわり小さいが二段式である[5]


 1965年7月、日本から10機の輸出仕様のカッパ8型と、テレメトリ設備等の地上設備、そして製造設備がインドネシアに搬入された。早速8月に3機の打ち上げが行われている。この打ち上げ主体はインドネシア空軍である。当時このような機器運用をおこなえる組織はインドネシアでは軍以外にはありえなかった。10機のカッパ8型は全て打ち上げ記録が残されCOSPARに報告される筈だったが、最初の3機以外の記録は残っていない。

 当時は成立間も無いマラヤ連邦と北カリマンタンへの干渉を巡って対立していた時期である。当然ながらマラヤ連邦から日本に対してカッパ8型輸出に対する抗議があった。日本ではこれを問題視した国内事情により固体ロケット輸出は終焉することとなる[6]

 LAPANの歴史には日本の関与は記述されておらず、そのためインドネシアのロケット技術への日本の寄与は忘れ去られがちである。しかし間違いなくインドネシアの初期のコンポジット推進剤の技術は日本由来である。

 インドネシアではその後のロケット技術開発は低調に推移した。空軍はその後ロケットから興味を失い、海軍はカルチカ-1の海軍型を試射するなど熱心にロケットの戦力化に取り組んだようだが[7]、誘導装置抜きの打ちっぱなしでは戦力としては期待できない。また、カッパ8型と共にもたらされたコンポジット推進剤の技術には、過塩素酸アンモニウムの入手が、政治的な理由により難しいという問題を抱えていた。

 スハルト政権下でソ連に接近したインドネシアはS-75(SA-2)地対空ミサイルを手に入れたが、これの技術をどうこうするという動きは無かったようである[8]。その後アメリカに接近したインドネシアは、数多くの最新軍事兵器を手に入れることになるが、これら軍事技術は完全にブラックボックス化されていた。



中国の落下フェアリング -2010年7月23日(金)22時54分


新たに建設される海南島の文昌射場を除く中国の三箇所の射場、酒泉、太原、西昌からの打ち上げはいずれも、一段、フェアリング、二段目と全てが自国内陸域に落下する。しかも太原と西昌からの打ち上げでは、どれもそれなりに人口のある山村に落下するため、中国国内のそれぞれの地方紙に珍客として報道される事が多い。

従って中国製フェアリング(整流罩)の構造について、様々な知見をそのような報道から得ることができる。ネット上でもそれら報道は容易に見ることができる。以下にそれら報道についてのリンクを張る。


嫦娥一号打ち上げ時(2007-10-24)の長征三号Aフェアリングとその他について。

http://www.chinanews.com.cn/sh/news/2008/01-16/1135146.shtml

http://news.qq.com/a/20071026/001483.htm

http://news.xinhuanet.com/photo/2007-10/31/content_6981705.htm

広東省韶関市の東、車八嶺国家級自然保護区に落ちたもの。


北斗二号打ち上げ(2009-4-15)時の長征フェアリング。

http://www.csytv.com/ecms/news/shehuixinwen/2009-04-21/1566.html

http://info.sz.net.cn/news/2009-04/16/content_1727961.htm

江西省吉安市遂川県左安鎮桃源村に落ちたもの。


北斗四号打ち上げ(2010-6-2)時の長征フェアリング。

http://www.xwtd.cn/news/201068/n785212818.html

http://www.tudou.com/programs/view/MW3axUY3Slc/

江西省吉安市遂川県汤湖鎮高塘村に落ちたもの。北斗二号フェアリングの落下地点とは10kmと離れていない。


鑫诺三号打ち上げ(2007-6-1)時の長征3号Aフェアリング。

http://news.xinhuanet.com/society/2007-06/07/content_6212372.htm

http://news.xinhuanet.com/mil/2007-06/08/content_6213993.htm

http://www.chinanews.com.cn/sh/news/2007/06-09/954152.shtml

http://www.clzg.cn/xinwen/2007-06/06/content_722948.htm

広東省韶関市始興県司前鎮河口村に落ちたもの。


パラパD打ち上げ(2009-8-31)時の長征3号Bフェアリングとその他。

http://www.xinhuanet.com/chinanews/2009-09/02/content_17580251.htm

http://news.rednet.cn/c/2009/09/01/1817812.htm

湖南省郴州市桂東県と、湖南省邵陽市绥宁県に落ちたもの。


风云二号打ち上げ時(2008-12-23)の長征フェアリング

http://www.chinanews.com.cn/gn/news/2008/12-24/1501292.shtml

江西省贛州市竜南県九连山古坑村に落ちたもの。


これが落っこちる前、打ち上げ前のフェアリングである。

http://www.csp.net.cn/hydw/xunzhanc/zhanpinzs/200701/1154.html

アルミハニカムに内側は薄いライナを張っている。表側表皮は方形の板材を互い違いに張っている。


西昌射場からの打ち上げでは、射点から東南東1500kmほど離れた、香港の北500km付近にフェアリングは落下している。落下地点をプロットしてみると、フェアリングの早期分離が噂された嫦娥一号打ち上げ時も、フェアリングは異常な位置に落ちた訳では無いことがわかる。


环境一号打ち上げ(太原)時(2008-9-6)の長征二号Cフェアリング

http://cq.takungpao.com/content.asp?id=10343

酉阳县K水镇宝剑村に落ちたもの。


风云三号打ち上げ(太原)時(2008-5-27)の長征四号Cフェアリング

http://news.163.com/08/0528/12/4D1G8A5M0001124J.html

構造、表皮ともに北京開発系のものと大きく違うのがわかる。


太原の場合、南方1500km、西安の南500kmの少数民族自治区が多いあたりに落ちている。

酒泉からの打ち上げでは、フェアリングは太原の手前、黄土高原に落下する。人口希薄地であるため、フェアリングの落下がマスコミネタにならないのだろう。


落下フェアリングから、中国のフェアリングは現在主に二種類、二世代の技術が混在していることがわかる。

西昌打ち上げの機体は技術的には新しい世代のフェアリングが多く採用されている。これはアルミハニカムのモノコック構造で、軽量だが恐らくコストか信頼性のどちらかで劣っている。というのももう一種類のフェアリングタイプ、従来型が平行して利用されているからである。

太原打ち上げの機体は従来型のセミモノコック構造である。中国の打ち上げ機開発は古くは北京系と上海系に分かれ、そして太原からの打ち上げ機は伝統的に上海系である。しかし現在、中国の打ち上げ機開発と製造は長城公司が独占しており、リソースは統合されている筈である。ちなみに酒泉から打ち上げられる神舟シリーズのフェアリングはセミモノコック構造である。これは神舟シリーズの開発開始時期と信頼性、アボートタワー等との親和性によるものと思われる。

しかし、中国のフェアリングは現在急速に新規技術と形態を模索している最中である。地上観測衛星遙感シリーズの打ち上げで使用されたフェアリングはいずれも異様な段付き形状だったが、2010年3月に遙感9号A,B,Cの三機同時打ち上げで使われた長征4号C用フェアリングは特に異様である。剥離しているのは断熱材と思われ、衛星の特徴と密接な関連を持っているものと考えられる。

遙感シリーズはわずか5年で9号までと異様な速さで整備された衛星シリーズで、恐らくは偵察衛星として運用されている。仕様は不明ながらSARと光学衛星を交代で打ち上げ、現在第二世代が運用中と推定されている。地上観測衛星と大差無いものを偵察衛星として大々的に運用しているどこかの国と違って、これは賢い考えなのかも知れない。

他にも小型宇宙ステーション天宮1号用の新型フェアリングが射場での噛み合わせ試験を終えているが、これは発泡断熱材付きアルミハニカムモノコックだと思われる。



キューバの宇宙開発史 -2010年4月1日(木)01時31分


キューバの宇宙開発は、1961年にソ連-キューバ間で結ばれた支援協定に始まる。ここでキューバ革命政府は、ソ連の軍事支援を望むと同時に、科学技術に関しても支援を要請した。

特に、宇宙開発は科学技術の焦点であった。当時米ソの宇宙開発競争は白熱の一途を辿っており、1961年にソ連が人類最初の有人宇宙飛行を実現させ、それに続いてアメリカも有人宇宙飛行を実現させていた。目の前のフロリダ半島から打ち上げられるロケットは、大国アメリカの威信そのものであり、キューバは、それに唯一対抗出来るソ連の宇宙技術を、そしてキューバからのロケット打ち上げを欲していた。

キューバとソ連の思惑は、宇宙開発に関して一致していた。ソ連は赤道に近い打ち上げ拠点と、それにも増して地上局を得る事が出来る。将来の有人運用を考えると、地上局の増強は切実に必要とされていた。またソ連は、この支援を安価に済ませる目処があったのである。

この支援は軍事支援と平行して行なわれたが、軍事支援が全てに優先された。従って射点などの現地設備の建設は後回しとされ、そして結局初期構想通りには構築されなかった。キューバ危機である。

1962年7月、キューバに最初のR-12中距離弾道ミサイルが到着し、ソ連からきた技術者たちによって射場整備が進められた。9月には米軍の洋上封鎖にも関わらず核弾頭が到着し、10月までに最終的に42機のR-12、14機のR-14、そして45個の核弾頭が配備され、3群のR-12サイトと1群のR-14サイトが編成された。

この時期、アメリカの航空偵察では、5群のミサイルサイトの存在が報告されている。アメリカが見た余分の1サイト、これが宇宙ロケット用の作業拠点であった。レメディオスのR-14サイトに隣接し、ここにロケット技術者ヤンゲル率いる、ウクライナのユージュノエ設計局の作業者達が詰めていた。

ヤンゲルはこの年の3月に自分のロケットで人工衛星を打ち上げるのに成功していた。使用したロケットは、一段目に奇しくもキューバに配意されたのと同じR-12を使っていた。そう、安上がりにできるというのはそういう意味だったのだ。

しかし、キューバ危機の緊張に伴って、宇宙開発の出番は無いと判断され、関係者の引き上げが始まった。この際に留意されたのは、アメリカがこのロケットとその意図に気が付いていないという事だった。不要な論争の的となることを避けるため、1962年10月半ばには隠蔽作業ほぼ完全に完了し、ヤンゲルの運び込んだ2機のR-12転用の宇宙ロケット63S1がレメディオス近郊の農場に秘匿された。この農場では7月から秘密裏にR-12及び63S1用の打ち上げサイロの建設が行われており、建設途中のサイロはそのまま飼料用サイロに偽装された。10月末にはユージュノエの技術者たちは全員帰国し、そのままカスプチン・ヤールでの打ち上げ作業に従事した。地上局建設のため残った技術者たちはそのままハバナ近郊に設備を建設、運用を開始している。

その後アメリカは、航空偵察の結果として配備されているミサイルを4群で確定した。アメリカはこれらミサイルを追跡し、11月の"シャットダウン確認"の時点で、キューバに配備されたミサイルは無いと確信した。そしてキューバ当局も2機のロケットをほとんど忘れ去っていた。

忘れていなかった当事者たちも、1960年代を通じてこれらに手を出すことはためらわれていた。1971年、共産主義諸国による宇宙通信の協力組織、インタースプートニクが発足する。さらに1978年、インターコスモス計画に基づきキューバ人宇宙飛行士アルナルド・タマヨが選出された。キューバの宇宙開発はここに新たな盛り上がりを迎えることになる。ソ連の科学技術に対する信頼の失墜はアメリカの宇宙開発競争の勝利以降著しく、キューバの科学技術の発達も遅れていたが、教育水準は元々高かったため、数種の宇宙開発プログラムが開始されることになった。

そのうちの1つが、独自衛星打ち上げ計画である。元々はソ連のアマチュア衛星Iskraによる衛星開発教育プログラムを使用し、ユージュノエ系のロケット相乗りで打ち上げる計画だった。そのためにソ連留学生数名がモスクワ電力工学研究所で開発に参加している。

キューバに置き去りにされたロケット2機が再発見されたのは、搭載条件を巡ってユージュノエ設計局と交渉が行われた時だった。ユージュノエ側から教えられ、キューバ政府はロケットを発見した。

ロシア人技術者を雇い入れることで、ロケットと射点の再整備が始まった。射点はアメリカとの関係を考慮し、隠蔽されたサイロから行うこととなった。打ち上げはアメリアがスペーシュシャトルを打ち上げる前におこなうと予定された。搭載ペイロードである24キログラムの小型衛星エルネストは、帰国した留学生を中心としたハバナ大学製作のアマチュア衛星だった。

しかしほどなくしてマリエル事件が起こり、開放港マリエルから12万5000人の難民がアメリカへ亡命、押し寄せることになる。この中に打ち上げ関係者が混じっている事が判明し、アメリカ側に暴露される事を恐れたキューバ当局は即座に打ち上げ計画の中止と隠蔽を決めた。

1980年9月、アルナルド・タマヨはソ連からソユーズ-38搭乗員として打ち上げられ、一週間の宇宙滞在を果たした。1981年4月、最初のスペースシャトルが打ち上げられた。しかしキューバの宇宙開発の高まりはこれで消滅することとなった。

その後キューバの経済状態は悪化し、1990年代には最悪の状況となった。回復は2000年代に入ってからで、キューバは再び科学技術投資を行えるようになった。

2008年、ロシアとキューバの当事者は、キューバに宇宙打ち上げ用の射点を建設する計画を話し合った。これは勿論2機の63S1と隠蔽サイロを前提としたものでは無い。またキューバは大規模投資の結果ロシアが利用するだけの設備を建設する意欲も無い。キューバはこの席で、2機の63S1を使った打ち上げの可能性について話し合いたいとする姿勢を見せたが、ロシア側としては、とうの昔に製造を打ち切った機体をどうこうする気は全く無かった。

現在キューバは独力での2011年打ち上げを目指して63S1の再整備を行っている。しかし、北朝鮮からの技術支援が政治判断によって流れたため、作業は滞っている状態である。このとき北朝鮮は、キューバに核弾頭を持ち込み配備しようとしたと言われているが、北朝鮮からのリモコンで発射される、キューバにとって得な事が全く無い提案だったためにキューバ側から蹴られたようだ。

また63S1のコピーも平行して行われている筈であるが、これは打ち切って別の独自機を開発する公算が高いとする情報もある。この計画にはアメリカの民間資本が投入されて、NASAのCOTS計画に噛む算段をしているという尾鰭が付いており、信憑性は怪しい。一部のアナリストは、腐ったバナナに埋もれていた半世紀前のミサイルがキューバ人の手によって飛ぶようになる可能性は、カストロの葉巻が火をつけたとたんにロケットに化ける可能性より低いだろうとコメントしている。

しかし、キューバが世界10番目の独自宇宙開発国家として名乗りを上げる公算は言うほど低くないといえるだろう。特にシャトル引退後のアメリカにとっては、キューバ製打ち上げ機のCOTS計画参加は、急場をしのぐ意味でも注目しなければならない。なにせキューバだけに。

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駄洒落オチですいません。勿論上記は大嘘です。日付参照のこと。



台湾の宇宙開発史#3 -2010年1月15日(金)00時26分


この頃から台湾の宇宙開発には軋みが見られるようになる。

2006年、スパイ疑惑で国家太空中心に調査の手が入ることとなった。副主任が実質偵察衛星である福衛二号の設計データを流出させたというのだ。更に同年から2007年にかけて、中山科学研究院での機材納入に関わる収賄疑惑が、そして2007年、国家太空中心のトップ、呉作楽主任の汚職が明るみに出ることとなった。

ARGO衛星の打ち上げに関して、呉作楽はかつてSSTLと接触したときに親しくなった人物のカナダの会社に打ち上げ機調達を依頼し、バックマージンを受け取っていた。打ち上げ機調達代行業者は入札で決まったのだが、不正が行われていたらしい。しかし当のカナダの企業が輸出ライセンスを持っていない事が判明し、ARGOは宙ぶらりんとなった。

呉作楽は他にも、執務室をダブルベッドの寝室、トイレ、浴室、バーカウンターを備える豪華なものにしたり、ほとんど出勤していないことを誤魔化すためにセキュリティと連動した出退勤記録を改ざんしたりと、やりたい放題だったらしい。呉作楽は起訴され、代わって成功大学航空宇宙研究所所長の苗君易が主任に就任した。

福衛シリーズ以降の台湾の衛星計画は迷走していた。福衛シリーズによる衛星技術獲得がほとんど虚偽であったことが判明し、商業市場への参入も危ういと見られた。唯一見込みがあったのは偵察衛星の需要くらいだった。

モスクワ州立大学と台湾の大学合同チームを主体として、更に韓国とメキシコの大学で構成された大学生たちによって開発されたペイロードを搭載した衛星をモスクワで作る試みが2006年から2007年にかけて行われた。製作されたTatyana-2科学衛星は2009年9月に打ち上げられた。この台露合同プロジェクトは中国を刺激しないようにと大きく報じられなかったが、台湾は打ち上げ費用を半額負担する代わりに、2005年に打ち上げられた30kgのTatyana-1アマチュア無線衛星をコピーする権利を得た。この衛星はモスクワ州立大学の学生によって製作されたもので、台湾はこれを2012年の独自打ち上げ機の一号機ペイロードの原型とする予定だった。

2006年からの中国との緊張緩和の結果として、2008年5月、台湾の政権が交代した。2009年5月、行政院は成果を出していない機関として国家太空中心をそのうちの一つとして挙げ、廃止をちらつかせた。大規模な人事改革は避けられない流れとなり、国家太空中心の機能は麻痺した。


この時期の衛星打ち上げ1号機、探空11号の設計は一段目を三本クラスタにし三段式構成にした全固体機である。打ち上げ機は斜めランチャーから打ち上げられる。中山科学研究院は一段目にハイブリッドロケットを採用して弾道ミサイル色を消そうと必死だったが、開発は間に合わなかっただろう。打ち上げ能力は極軌道に50kgとなっていた。

衛星計画は福衛シリーズ中心に戻っていた。福衛四号は存在しない。四という不吉な数字を嫌ったためである。福衛五号、六号は国産打ち上げ機二号機、探空12号以降のペイロードとなる完全国産50kg級衛星である。実際のところ、台湾は50kg級衛星の開発能力を持っていると推測される。またSARの開発も中長期計画には含まれており、レーダ偵察衛星への含みも持っている。


2009年11月打ち上げ予定だった探空七号は、大型化した地対空ミサイル天弓三号をベースとし、一段と高性能化された機体だったが、軍は宇宙開発計画の人事の迷走を理由に打ち上げを中止した。

同月、行政院は台湾の独自打ち上げ機開発を無期限に延期すると決定した。これは同時に衛星計画の見直しをも意味している。このまま50kg級衛星の開発を続けるか、それともより大きな衛星を開発するか、これは技術開発指向か実用指向かという方針のとり方を含めて、大きな議論の焦点となるだろう。

12月、中国は台湾に向けた弾道ミサイルを三分の一に削減すると発表した。尤も、配備されたミサイルは1300発以上にのぼる(2006年以降もじゃんじゃん増強されていた)ので、依然400発以上が台湾を指向している。


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今回の内容は、主にこの二箇所の記述を中心にまとめたものです。

http://www.9ifly.cn/sub/thread-1215-1-4.html

http://taiwanbbs.org/cgi/index.pl?b=mil,m=1255461864


2006年からの台湾の宇宙開発の破滅ぶりがもし中国の差し金なら、発言等の明確な影響力行使抜きでよくもまあ素晴らしい効果を挙げたものです。しかし実際には台湾国内の、中国におもねる勢力の影響力増大のせいでしょう。軍事と完全に切り分けられなかった台湾の宇宙開発政策にはこういう弱点があった訳です。軍事にすり寄ると、政治で転倒することになります。

また、汚職と不正の蔓延も致命的でした。これらは国民に宇宙開発に対する悪感情をもたらしました。国民の支持は、政治に対して宇宙開発の強力な擁護者となった筈ですが、そっぽを向かれていてはどうしようもありません。

現在、台湾の宇宙開発事業全体が消滅の危機に瀕しています。

宇宙開発に対する国民の支持は、情報公開による事業の透明性の確保と、教育及び広報が必須です。これが無ければ、組織は内部から腐り、そして国内に敵を作ることとなります。例えば機密を理由に情報公開をしない、そのリスクは多くの人に認識されていませんが、不透明な行動をする組織はいずれもやがて、リスクを身をもって知ることとなるでしょう。



台湾の宇宙開発史#2 -2010年1月14日(木)07時29分


2001年、国家科学委員会は"宇宙科学技術の長期開発計画"を策定した。これは2004年から2018年までの15年間の計画で、海外に頼らず独自に衛星を開発製造できるようになることが目標だった。当初の通信衛星開発計画は修正され、偵察及び地上観測、気象観測が目的となった。計画は更に2002年に修正を受けて実行に移された。

中華衛星二号はアストリウムのLeostarバスを使い、分解能パンクロ2m、マルチバンド8mの60cm口径カメラをメインペイロードとして、その他国際開発の高々度発光現象観測用のセンサが積まれた。重量は750kgの三軸衛星で、国家太空中心は衛星開発の初期からアストリウムに職員を派遣し設計に関わった。組み立てと試験は台湾で行われたが、恐らく技術移転は限られたものか、殆ど無かったであろう。

打ち上げは2004年5月、ヴァンデンバークからトーラス打ち上げ機で太陽同期軌道に打ち上げられた。衛星は福衛二号と名付けられ、また中華衛星三号も福衛三号とされた。

2001年より軍はイスラエルの解像度1.8mの民間偵察衛星EROS-1Aの運用権20%を得て大陸の偵察を行うようになっていた。福衛二号が偵察衛星としても運用される事は当然の流れだった。

福衛三号/COSMICはアメリカ大気研究大学法人(UCAR)との合同開発による、オービタルサイエンス社のORBCOMM(MicroStar)バスをベースとした6機の小型衛星群で、気象観測を主任務としている。この衛星は通常の気象衛星と違い、赤外カメラ等を積んでいない。その代わりにGPSレシーバを搭載し、大気擾乱によるGPS信号の遅延を観測する。また電離層発光の検出センサも搭載している。衛星は軌道傾斜角72度のそれぞれ離れた軌道面に投入される。衛星の製造及び試験は台湾で行われた。技術移転の内容は不明である。福衛三号は2006年4月にヴァンデンバーグからミノタウルス打ち上げ機で打ち上げられ、順次軌道投入ののち運用されている。


2004年7月、国家太空中心のトップである主任に呉作楽が就任した。2004年11月、宇宙科学技術の長期開発計画は再び改定された。この計画は1991年から2004年までを第一期として、それ以降2004年からの第二期計画という位置づけになっている。更にこの第二期は2012年を境に以前、以降の大きく二つに分けられている。まず2012年までに独自衛星開発力を獲得し、2018年までに商業衛星市場に参入することが新たな目標となった。

2005年、当初計画に無かったARGO衛星開発計画が浮上した。民間地上観測衛星ARGOは純台湾設計を謳っていたが、実際にはドイツSTI社が主体となって開発している衛星である。衛星バスはイタリアCarlo Gavazzi Space社に下請けに出された。ARGOは分解能6.5mのカメラを搭載する。主計算機はLEON-3、SPARC V8のIPコアを使ったプロセッサを使った台湾による開発品となっている。この衛星はドイツRapidEye AG社の六機目の所有衛星となる筈であった。RapidEyeはSSTLなど数社の出資による企業で、リモートセンシングを主業務とする。


2004年の計画では、観測ロケットは2018年まで毎年一機づつ打ち上げることになっていた。そして2012年の探空11号で軌道到達を果たす筈だった。

2004年12月、科学観測ペイロードを搭載した探空四号は高度265kmに到達した。2006年1月に打ち上げられた探空五号は科学観測ペイロードを搭載した部分のノーズフェアリングを開く設計になり、高度282kmに到達した。2007年の探空六号はパラシュートで回収可能なペイロードカプセルの実験だった。回収は成功した。



台湾の宇宙開発史#1 -2010年1月12日(火)23時43分


台湾の宇宙開発は1983年に始まった。台湾における宇宙開発の提唱者は成功大学の趙継昌で、宇宙開発を通じた台湾の科学及び技術力の向上を目指したものだった。成功大学の航空宇宙研究所は1983年に開設され、1984年に台南に研究施設を設けている。当初の構想は、国家科学委員会と軍の中山科学研究院を中心として、独自打ち上げ機で独自衛星を五年かけて打ち上げようというものだった。

1988年、行政院の科学技術顧問は"台湾の人工衛星の開発及び応用研究チーム"を成功大学航空宇宙大学院を主軸として発足させ、チームは台湾による衛星及び打ち上げ機開発は可能だと回答した。翌1989年10月、台湾政府は"衛星発射計画"を認可し、打ち上げ機と衛星開発のために100億台湾ドルの予算を付けた。この際に予算と決定プロセスの不透明さに対して、科学界などから強い反対運動が起こった。これに対して成功大学航空宇宙研究所の邱輝煌は宇宙開発賛成の論陣を張り、最終的に支持を得ることに成功した。

開発の道筋が立ったのはまず衛星からだった。打ち上げ機開発に関してアメリカが"深刻な憂慮"を表明したため、まず先五年間の打ち上げ機開発計画を放棄することを決定したのだ。台湾は80年代初頭にも弾道ミサイル"天馬"開発計画を放棄した経緯がある。行政院は宇宙開発を統括する宇宙計画室を設置し、1992年、衛星開発拠点となる国家太空中心が新竹に、地上局が台南に新たに置かれた。

1993年にまず通信衛星開発計画が制定された。この計画は1991年から15年間で150億台湾ドルの予算で三機の衛星を開発するもので、衛星は"中華衛星"と呼ばれた。中華衛星一号はKaバンド実験をおこなう低軌道通信実験衛星、二号は解像度2mの地球観測衛星、三号は6つの衛星からなる気象衛星システムだった。初期の技術開発重視から、実用重視へのこの目標変更の経緯には宇宙計画室内での人事、権力闘争が絡んでいた。早期に実用衛星を実現するためには、衛星は独自開発ではなく、海外企業に丸投げに近い形にせざるを得ない。

中華衛星一号はTRWのT200Aバスを使用し、台湾で組み立て及び試験が行われた。ミッションペイロードは海色画像イメージャ、電離層観測センサ、そしてKaバンド通信機で、これら観測機器と搭載計算機、太陽電池は台湾製だった。T200Aバスは400kgの三軸バスで、二枚の太陽電池パドルを展開する。T200Aバスの技術は台湾に移転されていない。打ち上げは1999年1月、アメリカのケープカナベラルからアテナ-1打ち上げ機で打ち上げられた。衛星は打ち上げ直後に"フォルモサ"(FORMOSAT、福爾摩沙:台湾の別称、略称"福衛")一号と改名された。


1995年から1996年にかけての中国の大規模軍事演習による恫喝は、台湾に大きな危機感を与えた。これにより打ち上げ機開発計画は、観測ロケット開発計画として1997年に復活した。

1998年12月、最初の観測ロケット"探空一号"が台南の九鵬基地より打ち上げられ、高度261kmに到達した。これは地対空ミサイル天弓二号をベースにしたもので、一段目径50cm長さ2m、二段目径42cm長さ5.7m、全長7.7mの二段式だった。二段目は天弓二号そのままである。この機体は科学観測ペイロードを積まず、テレメトリのみを取得した。

2001年10月、トリメチルアルミニウムを放出する科学ペイロードを搭載した探空二号が打ち上げられたが、二段目切り離し後の二段目点火に失敗し、観測は失敗した。

2003年12月、二号の失敗を受けて改修された探空三号は高度268kmに到達してトリメチルアルミニウム放出に成功し、これの観測にも成功した。



白物家電の将来について -2010年1月4日(月)23時36分


そろそろ白物家電は大きく変革されるべきだと思うのだ。


1:洗濯機

洗濯し、乾燥させたなら、その後洗濯物は必ずクローゼットに行く。ならばこれは自動化すべきではないのか?洗濯機に衣類を放り込んだら、クローゼットに綺麗になって並ぶ、こういう仕組みを望んではいけないのか?

洗濯機は自動化されたクローゼットと一体化されなければならない。

このアイディアを実現するためには、最終的にクローゼットに行く時までに衣類は一つ一つ分離されなければならない。従来どおりの洗濯槽を使うか、どこで衣類を分離するかという点が実現の為のキーポイントとなるだろう。このアイディアが実現可能であることは、例えばロボットで人間の手作業を完全に模倣すれば可能であることから自明である。あとはこのプロセスを合理化するだけである。


最初の製品は工場等での導入を目指したものになるだろう。終業時に汚れた作業服を洗濯機に放り込むと、翌日の朝には自動的にロッカーに綺麗になって並んでいると素敵じゃないだろうか。洗濯物の種類を絞ることが、導入可能なコストで製品を実現する助けになるだろう。

特定の対応する衣類のみを扱うと割り切っても良いかもしれない。洗濯可能な埋め込みタグを使って衣類の分類、分離を楽にすることは価値があるだろう。衣類が店舗に並ぶ段階でこのタグが既に内蔵されていると更にうれしい。

クローゼットの自動化も挑戦する価値のある課題だろう。季節に合わせた自動衣替えや衣類一覧の表示、組み合わせの提案などは実現したい。

衣類のアイロン掛けも、最終的には組み込みたい機能だ。アイロン掛けに相当する機能はユーザ訴求力が高いだろう。何せ衣類は毎日肌に触れ、人目に晒されるものなのだから。


2:冷蔵庫

白物家電は全てロボット化されるべきだ。特に冷蔵庫は、自動倉庫のように管理できないものだろうか?

基本は浅いトレイを多数収納する立体駐車場形式の冷蔵庫だろう。トレイには各一種類づつ生鮮食品が格納される。冷蔵庫の天井に当たる部分にはスキャナが仕込まれていて、取得した食品の画像から、例えばバーコード等から食品種別を読み取り、またはサムネイルで内容を管理できるようにして、ネットワークを介して参照できるようにする。冷蔵庫の中身を外部から、ケータイやコンピュータで参照できるようになれば、献立の提案や買い物の提案といったサービスが実装できるだろう。トレイに食品に入れた日付も管理し、現在の様子も外部命令で参照できるようにすれば、食品を腐らせる事も少なくなるだろう。


3:炊飯器

炊飯器も、もう米櫃と一体化しちゃえよ、とか思わないでもない。決まった分量のお米と水を自動供給し、とぎ洗いして炊飯まで自動化すればいい。無洗米が使えればもっと簡単だ。釜が空になり、水洗いして元の位置に戻す時、次の炊飯を許可すれば、夜のうちに自動的に炊いてくれれは嬉しい。

そりゃおこわは作るのは難しいだろう。しかし、毎朝必ずお米が炊けている、というのも価値があると思うのだ。


あと、炊飯器は現行のままで構わないから、海外への輸出をもっと積極的に行うべきだと思うのだ。出来ればお米の通販と一緒に。

考えてみればお米は貯蔵、輸送が容易な食品だ。日本は国産米の輸出を、おいしく炊ける炊飯器とパッケージングして行うべきである。というのも、海外で使われるライスクッカーというと、切ないほどみすぼらしいものばかりであり、あれで美味しいご飯作りなんて無理じゃないかと思わずにはいられないからだ。

ご飯が海外に売れるようになれば、カレールゥもチャーハンの素も売れる。寿司を海外展開したい等と妄想するより、現状の流通で出来る事をすべきだ。


4:掃除機

国産メーカーが掃除ロボットを未だに商品化しない事には正直呆れるしか無いのだが、いまさらルンバのコピーを作られても、とは思う。ルンバは良く出来ている。

しかしここで自分が提案するのは、そういった競合製品のあるセグメントへの参入ではなく、明らかに需要が存在するが競合のいない分野への参入である。


日本で導入されているセキュリティ対策の多くは、空間管理である。保護すべき情報やインタフェイスのある空間を密閉して、権限のある人物しか入場できないようにするのが基本だ。だが実際には、掃除のおばちゃんという存在がそのセキュリティを空想以上の存在にしていない。掃除のおばちゃんは定義上あらゆる空間に侵入して作業する。掃除のおばちゃんの権限がセキュリティ上実質最も高いというアホな話は、日本では実際のところセキュリティなど無しに等しいという例証であろう。

しかし、掃除ロボットの導入は掃除のおばちゃんを高セキュリティ空間から排除する確実な方法である。高セキュリティ空間から出て行くものは、全てセキュリティ統括者が管理すべきなのだ。それはゴミも全く同じである。

同様に、シュレッダーもロボット化したい。シュレッダーを頻繁に使うような頭の悪い事務所へなら、セキュリティを旗印にすれば、どんな馬鹿な代物でも高値で売りつける事ができるだろう。


5:照明

照明は、人間の視界を照らす分以外は全て無駄だ。人間の視界を検出できれば、必要なだけの照明を実現できる。これは反応速度の速い照明、LEDや有機ELで実現できるだろう。

また、太陽光に近い明るさの面発光照明が実現できれば、擬似的な窓が造ることができる。有機ELなら、窓の外の景色も造れる。地下空間や密閉空間の照明は大幅に変わるだろう。正直、照明がどれほど変わるのか、想像もつかない。壁面材に配線されたLEDが埋め込まれている、というのも有りだろう。床に埋め込むのもアリだ。家具にも埋め込みはアリだ。照明スイッチはいつ姿を消すだろうか。

LED電球のような過渡的な商品をどのくらいで消滅させることが出来るかが、家電業界の本当の課題である。



沈黙者-中国テレビゲーム業界往事 -2009年12月15日(火)00時49分


極めて興味深い記事を見かけたので紹介したい。

元は「家用电脑与游戏」(家庭用コンピュータゲーム)誌の2009年第三号に掲載されたものを、以下のサイトに転載されていたものを見かけたもので、内容は中国の家庭用ゲーム機ブームの盛衰を、七名の軌跡に代表させて物語っている。記事は主にインタビューから起こされたものだが、他の書き手による寄稿も差し挟まれている。


http://hi.baidu.com/maxzhou88/blog/item/5f16a9fa0a480c16a8d31194.html

http://hi.baidu.com/maxzhou88/blog/item/3377cc4eeee97b01b3de05ba.html

http://hi.baidu.com/maxzhou88/blog/item/dab8993b750563e215cecbb9.html


記事のタイトル「沉默的人――中国电视游戏业往事」は、李宗盛(ジョナサン・リー)の曲の歌詞から取ったもので、20年前の、黒歴史となった中国の家庭用ゲーム機にまつわる、今や誰もあえて語ろうとしない歴史にスポットを当てる意図を持っている。

七名はそれぞれ、ゲーム改造者、"山寨ゲーム機"業者、ゲーム攻略ライター、ゲーム同人誌製作者、ゲーム業者、ゲームの無断中国語化者、エミュレータ製作者で、紹介されたエピソードはどれも興味深いと共に、起伏に富みながら一抹の寂しさを含み、読み甲斐のある内容である。


誰のエピソードも興味深いが、特にゲーム改造者、傅瓒のエピソードは注目すべきものだった。彼はもう52歳である。中国の家庭用ゲーム機というものは、25年前に始まり15年前に終わった、一過性の狂熱に過ぎなかった。彼はそれを遠い昔の物語のように振り返る。

傅瓒は文革が終わって一新された大学制度の最初の卒業者の一人だった。その後の中国の経済発展は、彼ら新しい世代が牽引したものである。1984年、傅瓒は物理教師と兼任していた計算機管理者の立場から、ソフトウェア事業者へと道を踏み出した。まず教育用AppleII互換機用ソフトウェアの扱いから、業務用ソフトウェア開発へと業務の幅を広げたが、最大の収入源は、漢字ROMの製作だった。これは台湾から輸入した繁字体漢字ROMの中身を簡字体に入れ替えるというものだった。

傅瓒はゲームプログラムを書いて雑誌に投稿していたが、1987年、ATARI2600用のゲームの改造に手を染めた。ターゲットは"River Raid"で、ROMを吸出し、マップを書き換えて、新たなROMに焼いて"新運河大戦"として売り出した。これで傅瓒の会社は売り上げを十倍に伸ばした。

しかし時代は既に紅白機(ファミコン)の時代に突入しようとしていた。ファミコンROMカートリッジの仕様を把握した傅瓒は、ゲームの面白さと改造の容易さから、ナムコの"バトルシティー"をターゲットに定めた。ROMは台湾からの輸入だったが、大きな容量のものを手に入れるのは容易になってきていた。傅瓒はマップを増やしたものを売り始め、やがて新たなバージョンを次々にリリースした。そして同時にゲームに新たなフィーチャーを付け加え始める。草むらを焼き払う火炎放射器、川を渡ることができる水陸両用へのパワーアップ、そして誘導ミサイル。Aボタンでレンガの壁をその場で作ることができるようになると、もはやオリジナルとは別物と言ってもいい。

マップデザインとゲームバランスの調整は傅瓒がおこなったが、プログラムの改造は、大学の同級生だった陳天明によって行われた。かれは小児麻痺で下半身が動かない障害を抱えていたが、プログラマーとして働きながら障害者の就職問題に尽力した。


もし中国のコンシューマゲームソフトウェア産業に可能性があったとすれば、この時期だっただろう。

「機会さえあれば、間違いなくオリジナルをやっただろう」と傅瓒は答えている。例えば傅瓒が顧問を勤めた外星科技社は、オリジナルファミコンゲーム"英烈群侠伝"、"侠义豪情传:禁烟风云"、"楚漢争覇"、"戦国群雄"をリリース(いずれも任天堂のライセンス無し)したが、市場の反応ははかばかしくなかった。更にこれらも海賊版が作られ、外星科技は裁判で争うことになった。判決は2001年に下り、これは中国のソフトウェア著作権の扱いの古典的判例となった。

傅瓒の新しい"戦車大戦"は流行したが、その殆どは海賊版によるものだった。推測ではコピー数は二千万、最後期のNin1カートリッジのほとんどに"戦車大戦"が収録されている。こうして海賊版の波に傅瓒の商売は打撃を受けたが、僻地への通信販売などでまだ儲けは残されていた。最終的に止めを刺したのは、CD-ROMを使うゲーム機への移行だった。コピープロテクトが突破されると、コピーが容易なCD-ROMはタダも同然の扱いになり、ゲームソフトウェアで商売する道は完全に閉ざされた。そして、2001年の判例は遅すぎたのだ。


新しいテクノロジーの周辺は、そこに生じた新しい状況に対応する倫理がまだ確定していない無法地帯である。倫理の確定した現在の視点からすると、過去はいつも悪人どもが跋扈する暗黒時代に見える。

倫理の確定は、さまざまな利害の衝突によって自己調整的に行われるものだ。中国においては、日本から5年から10年遅れというテクノロジーの遅延が、倫理の確定を難しくした。利害調整が確定する以前に状況が動いてしまうのだ。

中国の知財保護の遅れは、日中両国にとって不幸な歴史を作ってしまったと言える。

現在の中国のコンピュータゲームの主軸はコピー天国韓国と同様、ネットゲームである。コピーに対抗するにはこれしか無いのだ。日本のゲーム業界は、これまでと逆に中国や韓国の状況に追従しなければならないのかも知れない。

中国の問題としてさらにもう一つ、海賊版の問題がある。海賊版が経済的利益を上げることができたのは、一つは中国における流通と輸送コストが高くつくからだろう。普通に考えれば、海賊版のほうが製造コストで不利になる。しかしソフトウェアの輸送コストは中国においても、製造物の輸送コストに比べればタダのようなものだ。しかし中国国内における流通の改善は、海賊版にダメージを与えるだろう。


脱線したが、オリジナル記事の内容は非常に興味深く、正式に翻訳されて日本で紹介されるべきであろう。



韓国の宇宙開発史#8 -2009年12月7日(月)21時35分


2008年4月まで、KSLV-1の打ち上げは2008年12月末にスケジュールされていたが、そんなスケジュールが可能な筈が無かった。そもそも射点の準備が出来ていなかった。どうやら韓国側は中国に射点の部品を発注していたらしい。これが四川地震によって供給問題が起きた[33][34]

射点の準備状況から打ち上げ可能時期は2009年第二四半期という合意が取れ、2009年5月にスケジューリングされたが、射点での結合試験の遅延のため、更に7月末に延期された。これは北朝鮮のウンファ2打ち上げのためと説明される事もあるが、7月末というのはフルニチェフでのRD-191エンジンCFT燃焼試験の結果を見るためだったらしい。この試験で問題が無ければ、ロシア側は打ち上げへの不安を大幅に減らすことができる。

5月には打ち上げ機第一号の名称が"羅老"と決まった。6月には一段目フライトモデルが韓国に搬入された。打ち上げは当初7月30日、次いで8月11日に予定されたが、RD-191の燃焼試験の結果を見て打ち上げは延期された。結局燃焼試験で見つかったトラブルは計測上の問題ということになり、19日に再設定された。

この頃韓国のメディアでは、KSLV-1の一段目エンジンがRD-191でなくRD-151である点を問題として騒ぎ出していた。つまりRD-191の開発段階で作られたお古ではないかという疑惑である。実際には2007年の時点でKSLV-1のエンジンがRD-151であるとKARIは納得していた。この時点でフルニチェフはRD-191とRD-151は同一のエンジンだと回答したらしい。実際にはRD-191の推力が198トンであるのに対し、RD-151は170トンである。同一のエンジンなら、RD-191は推力を調整できる事になる。この推力調整が動的なものなのか、静的なものなのか、型番が変わるほどの変更が加えられるのか、それとも本当に同一品なのかは判明していない。

そしてようやくメディアは、燃焼試験の結果に伴う打ち上げ延期から、韓国側が開発と打ち上げの主導権を持っていない現実を認識するようになっていた。

8月19日の打ち上げは7分56秒前にアボート、原因は地上設備側と判明した。8月25日、KSLV-1 一号機は打ち上げられたが、フェアリング開頭に失敗した。KSLV-1は二段目のデルタVマージンが小さく、三段目が存在しないためその点火タイミングで調整したりする余地が無い。ペイロードの軌道投入は全てが問題なく動作しても結構難しい設計である。330kgのフェアリング片側が二段目に残った状態では当然軌道速度に到達せず、打ち上げは失敗した。フェアリング分離映像が取得されているが、これは一般に公開されていない。

フルニチェフとの契約では打ち上げは2機、最初の打ち上げがどうなろうとその9ヶ月以内にもう1機を必ず打ち上げること、ロシア側の問題で打ち上げが失敗した場合、無償無条件で3機目が提供されること、それ以上の提供は無いこととなっていた。

この打ち上げが三機目提供を意味する失敗に当たるのか、10月末からロシアと韓国の間で協議が始まった。GTVは二段目を切り離して羅老の敷地内に保管されている。二機目打ち上げ予定は2010年5月から既に現在一ヶ月後ろに延びている。


将来の大型打ち上げ機、KSLV-2については、現在もまだその仕様は迷走し続けている。元々韓国は、KSLV-1一段目のリバースエンジニアリングによって作成したコピーを用いてKSLV-2を実現する筈だった。ロシアは継続してアンガラ一段目を韓国が購入し続けることを期待していた。この二つの目論見は完全に食い違っているが、KSLV-2の一段目にKSLV-1と同じものを使うという点では共通していた。

当初KARIはKSLV-2に関して、KSR-3のエンジン又は30トンエンジンを二段目に用いた2段式を検討してた。しかしKARIは2006年8月の時点で、この方針による2010年のKSLV-2実現をあきらめていたらしい。12.5トンエンジンの性能が低く、ターボポンプを導入した30トンエンジンの開発も思わしくなかった為だが、ロシア側の検討結果が思わしくなかった事と、TSA締結によってリバースエンジニアリングが不可能になったことも大きかったのだろう。

2008年8月、韓国とロシアはKSLV-2の実現に向けて、仕切りなおした会合を持った。ここでロシアはRD-107エンジンの技術移転を提案したらしい[35][36]。RD-107はR-7/11A511/ソユーズ打ち上げ機で使用されているエンジンである。しかしこれらは結局物別れに終わったようだ。

その後、KSLV-1打ち上げとその失敗の混乱の中で、韓国側は独自開発によるKSLV-2実現を目指すこととなった。これに伴いKSLV-2打ち上げの期限は2018年に延ばされた。その実体をどう実現するのかは全くの不明である。

75トンエンジンを用い、1トンの打ち上げ能力を目指すというのが最もよく見られる意見だが、これは現実的な技術の積み重ねを無視した、どう弄ろうと青写真の描けないプロジェクトだ。現在のKSLV-2案では、一段目に75トンエンジンを4機クラスタし、二段目に30トンエンジンを1機、そして三段目に10トン級エンジンを使うというもの[37](二段目が75トンエンジンの案もあるようだ)だが、これは北朝鮮のウンファ-2に影響を受け過ぎたデザインと言うべきだろう。二段目、三段目の規模が適正ではない。有り物(まだ存在していないのだが)でどうにかしようという意識が強く出過ぎである。そもそも韓国にはKSR-4の開発計画があるべきだし、それ以前に試験体制が無ければならない。

現在、韓国は再び技術供与を各国にねだる段階に退行している。しかし、韓国では民生打ち上げ機開発と弾道ミサイル開発に線引きが極めて希薄で、韓国へのロケット技術の移転は軍事援助と等しくなる事、強い輸出志向、また技術移転の要求が過大である事が、各国の韓国への技術移転に二の足を踏ませているのが現状である。

韓国は長射程弾道ミサイルの開発意図を持ち続けている。2009年10月、韓米覚書の破棄に合意が取れたと韓国は発表した。韓国は既に500km射程の弾道ミサイルを開発中であると関係者が発言している。更に射程1000kmの弾道ミサイルの開発を韓国は目指している。


現在の独自開発路線がどの程度行われるかは、恐らく李明博政権がどの程度長命であるかにかかっている。韓国の宇宙開発が今後も迷走し続けるのは間違いない。しかし、飛行可能な30トン級ケロシンエンジンの開発がうまくいけば、そこから生まれるさまざまな可能性を生かせる余地も現れると思われる。だがその為にはまず、開発体制の刷新が必要だ。韓国の宇宙開発体制、特にKARIは外見のみを取り繕う体質を拭い去らなければ未来は無いだろう。


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基本的に韓国のニュースソースには信頼性が驚くほど不足しており、特にメディアのものは数字や単位は勿論、日付や固有名詞まで疑う必要がありました。記述内容には事実と願望、推定の境界線が無いのが普通で、クロスチェック程度では信頼性は担保できないでしょう。KARI等の当事者も、願望や推定を垂れ流す点では他と変わりません。という訳でnovosti kosmonavtiki[39]に情報がある場合はこちらを基準にしました。

現段階ではマスコミを含め韓国側全般に宇宙開発の基礎知識が不足しています。また最近まで独自開発を支持する内容がほぼ皆無だったことも驚きでした。これは宇宙開発機関の広報不足と、成果のアピール、活動の公開が不足していることによるものと思われます。極めて健全かつ活発な宇宙開発系Blogも存在していますが、宇宙開発に興味を持つコミュニティはまだ成立していません。

アメリカが韓国のロケット技術を制限するために理不尽な制約を課している、という見方は韓国のBlogの内容でほぼ一貫しています。また信じられないほど楽観的な見通し、例えば韓国が10年以内に宇宙開発の強国になるのは間違いない等といったものも目立ちました。あと、あの胡散臭いパーセンテージ記述は何なのでしょうか。

思うにロシア人は、2006年くらいまでは、韓国に普通の技術支援を行うつもりだったのではないでしょうか。この普通とは、イランに行なった程度という意味です。イランは基礎教育レベルの支援を受けて、宇宙開発体制を構築したものと思われます。対して韓国は、打ち上げ機開発が未だにシステム開発力を持ち得ていない(試験体制を構築する気が無いというのは重症だ)という事実からすると、ロシア側の基礎教育を全力でスルーしたものとしか思えません。

"難しい理屈はいいから図面をくれ"という態度は、真面目に技術移転しようとする側の心をボロボロに砕きます。日本でも似たような事例は幾らでもあります。

技術移転というものは未だに多くの人に誤解されています。金と人員持ちで完全な技術移転を行うつもりだったのに、ほぼ完全に失敗した事例にしばらく関わった事がありますが、国内の技術移転で全く保安上の障壁が無かったのに失敗することもあるのです。双方が技術移転を望んでいたとしても失敗は容易に起こりえます。技術移転の受け手側から敵視される事すらありえます。

技術移転失敗の原因は、受け手側の基礎概念レベルの理解の軽視でした。恐らく失敗の原因も理解できていないでしょう。図面のコピーで技術習得ができると考える人間は確かにいます。しかし"核心技術"だけを欲しがるうちは、技術力なんてものは存在しません。

技術移転には専門の組織と、理論から叩き込む体系的な教育プログラムが必要でしょう。

 

KSLV-1一号機の失敗が、韓国の独自技術開発を志向するきっかけになればと思わずにはいられません。



韓国の宇宙開発史#7 -2009年12月5日(土)20時27分


TSAの批准に従い、打ち上げ準備はようやくまともに開始された。当初のKSLV-1打ち上げ予定は2007年10月だったが、これは明白に非現実的なものだった。2007年7月、射点の図面が韓国に届き始め、韓国は2008年4月の打ち上げをスケジュールした。だがこれも実際には非現実的である。これはフェアリング開頭試験が問題なく終了した場合、出来たばかりの射点で即座に一段目と結合して打ち上げるつもりだったらしい。

KSLV-1の二段目は、2004年に開発開始していた上段モータKMを利用することになった。2002年当初は30トン液体エンジンもしくは12.5トン液体エンジンを使うものとされていたが、2005年段階で現実可能性が詳細に煮詰められ、この案は消えた。代わりのKSR-I/II用固体モーターの案も蹴られ、新規開発の固体モータの出番となったのだ。

直径1m、推進剤重量1.6トン、推力8トンの国産大型固体エンジンKMは、直径がKSR-3と同じであることから、元々は初期構想KSLV-1の一部であったのだろうと思われる。これは2005年末にKSLV-1の二段目となることが決定し、急遽試験が始められることとなった。

基本的に二段目の全ての機器が韓国製である。ロシアは仕様決定で主導的役割を果たしたが、意図的に韓国で調達及び開発が可能なように仕様を決定したようだ。

二段目の製造メーカは推進剤をハンファ、ノズル周りをVitzro tech、炭素繊維複合材のケーシングを韓国ファイバー、慣性誘導系を斗山インフラコア、フェアリングを斗源重工業、組み立ては大韓航空が担当した。

ただ、これら情報がどこまで正しいかは疑う必要がある。例えば[27]では、ターボポンプ開発をサムスンテックウィン社が担当したとあるが、二段目にそもそもターボポンプは無い。

これはどうもサムスンテックウィン社が政治的に立ち回って、30トンエンジンの開発に噛もうとしている事の反映であるらしい。確かにサムスンテックウィン社は30トンエンジン用のターボポンプを製作し、KARIに納入したが、それは使用されていないらしい。しかしサムスンテックウィン社はKSLV-1に絡めてでも存在を宣伝しようとしているようだ[28]

2006年1月に最初の二段目燃焼試験が全羅南道の高興郡干拓地のアンフン国防科学研究所試験場で行われた。しかしエンジンは3月の二号機試験で異常燃焼を起こして設備を損傷した。この修復に5ヶ月かかっている。事故原因はわからずじまいとなった[29]

これは韓国及びハンファ社が1975年以降30年間、固体推進剤の改良をおこなってこなかった、と解釈できる。もし改良が行われていれば燃焼試験を行っているはずで、もっと試験の手際は良かった筈だし、致命的な設備損傷なども起こさなかった筈だ。KSR-1,-2の飛翔回数の少なさも、燃焼試験を伴う新規開発モーターではなく、既製品流用を意味していると思われる。これは更に、玄武-IIの一段目大型化はアメリカの技術で、これは韓国には渡っていないとも解釈できる。KSR-1,-2が玄武-II一段目を使わなかったのはこの辺りに原因があるのでは無いだろうか。

KSLV-1の二段目エンジニアリングモデルは2006年9月に組み立てが終わった。これが2006年10月打ち上げ説の根拠だったらしい。二段目アビオニクスとフェアリング開発は先行して開発されていたが、それらが試験に供されたのは2007年からである。開発は一段目とのインタフェイスの詳細抜きで行われた。実際のところ詰めは、2007年6月のTSA締結以降、ロシア側の技術指導が入り始めてからであろう。当初の韓国側のスケジュール、2007年末打ち上げという日程からすると、もしかすると韓国側は試験の必要性を感じていなかったのかもしれない。

二段目フライトモデルは2007年9月に組み立てが終わり、2008年4月にフェアリング開頭試験を含む全ての試験を終了した。一段目とのインタフェイス仕様の提供も2007年6月の筈だから、わずか三ヶ月でインタフェイスを作り上げた訳だ。結合試験に万全を期すためという名目で、二段目は更に複数、恐らく10基程度が同時に製造されたようである。


2008年4月、Soyuz TMA-12は韓国人最初の宇宙滞在者李素妍を乗せて打ち上げられ、彼女とSoyuz TMA-11のクルー2名の計3名は9日後にSoyuz TMA-11カプセルで帰還した。しかし帰還時に再突入モジュールと機械モジュールの分離が完全に行われず、再突入制御系が異常を検出した結果、弾道再突入となった。機械モジュールは再突入途中で分離したが、再突入の際の逆加速度は8Gから10Gにも達した。ロール制御スラスタは破壊され、カプセルは盛大にスピンした。軟着陸スラスタは動作したが、降下速度が大きすぎた為にその速度を殺しきることはできず、ハードランディングとなった。李素妍は頚椎等を強く打って、その後入院した。

不具合原因はモジュール間を接合する爆発分離ボルトの問題であると追跡され、Soyuz TMA-13から爆発分離ボルトはより電磁的影響を受けにくいデザインに変更され、また再突入時姿勢制御ソフトウェアは最悪全てのボルトの分離が失敗したとしても、早期に機械モジュールが外れるような、またパラシュート覆いを保護するような姿勢を取るよう変更された。


射点準備も2008年4月には整い、韓国側の準備は整った(と韓国側は思っていた)。しかしこの時点でまだロシア側と韓国側で意識のズレが、それも巨大なものが存在していた。

当初の予定では、ロシアのフルニチェフはまずGTVを韓国側に持ち込み、これで射点とのインタフェイス、二段目とのインタフェイスを確認し、試験を行う。そしてフライトバージョンが持ち込まれ、打ち上げが行われる。契約では2機の打ち上げが確定し、最大10機がその後の契約しだいで韓国に持ち込まれる筈だった。

しかし準備が整ったことで気分が大きくなったのか、KARIはKSLV-1一段目をロシアとの共同開発だと表現し[30]、マスコミはGTVは試験後韓国で核心技術習得のために徹底的に調査されると報道した[31]。7月に、韓国側がTSA違反を行う可能性があるが、スケジュール通り一段目を搬送するとフルニチェフが遠まわしに懸念を表明すると[32]、元々中国への技術流出でピリピリしていたロシアはGTV搬送を差し止めた。

最終的に韓国とロシアは2008年8月に新たな合意に達し、この直後、An-124輸送機でKLSV-1一段目が釜山に輸送され、そこから船で羅老に搬入された。以降、この一段目はロシア側の管理下に置かれ、韓国側人員の接近には大幅な制限が加えられた。ロシアはTSAを自力で強制することに決めた訳だ。

KSLV-1の一段目は、エンジン型番を除けば確認できる限りアンガラLVの一段目と同一である。液体酸素タンクは断熱されておらず、液体酸素は下のケロシンタンクを機体外側の配管で迂回してエンジンまで流れる。タンクに液体酸素が注入されると機体に霜が付くため、機体の白色塗装もあってロゴ等が消えたかのようになった。機体下部の小さな安定翼はアンガラがロール制御を持たないためである。アンガラのクラスタ化されたファミリーではエンジンのジンバリングの組み合わせでロール制御が実現できるため、この安定翼は無い。ロール制御が無いため、KSLV-1の射点の向きは飛翔経路に正対しなければならない。

金銭のトラブルも発生した。2008年4月、ルーブルの対ドル為替変動の差損が15%程度生じたとしてロシアは韓国に損失分の補填を要求した。この要求は兵器購入等で補填するという事で落着したが、8月には為替変動によって韓国側のウォン建ての予算がドルによる契約通りの額に2割程度足りない事が判明した。



韓国の宇宙開発史#6 -2009年12月3日(木)22時30分


2005年初め、盧武鉉政権は打ち上げ機開発計画の大転換を発表した。これは前年末に細部を確定し、2004年9月のロシア訪問の成果として発表された。これはロシアのアンガラ打ち上げ機ベースの機体で打ち上げ機を製作するというもので、計画は三段階に分かれ、最初のKSLV-1はアンガラと80%まで共通の機体で低軌道に100kgの投入能力を持ち、これを最大10機打ち上げると謳った。第二段階の軌道投入能力1トンのKSLV-IIは2010年までに、第三段階の軌道投入能力1.5トンのKSLV-IIIは2015年までに開発するとした。そしてこのために新しい射場が建設された。この時同時に、韓国人宇宙飛行士2人をロシアで訓練し、うち一人を打ち上げることも決まった。2004年10月に締結されたKARIとフルニチェフとの契約は、2機の打ち上げを二億一千万ドルで行うというものだった。

この時点でアンガラはまだ影も形も無いことに留意する必要がある。この時点では2007年までアンガラは準備が出来ていないだろうとロシア側は答えている。恐らくフルニチェフ側ではここで韓国の資金を得てようやく開発が続行出来るようになったものと思われる。フルニチェフは長いことアンガラを新世代の超低コスト打ち上げ機として宣伝してきたが、多分実機製作に移行する資金は全く無かったのだろう。

しかし韓国側の認識は当初からズレていた。まず打ち上げが2005年9月に行われるという報道があったらしい。また2006年10月打ち上げ予定という情報も存在していた。これらは全く無理な話だが、2007年末打ち上げという、少し考えれば無理とわかりそうなスケジュールが当初韓国側の予定とされていた。


2004年末の方針転換に従って、KSR-3に関連した技術は維持の見込みが無くなった。現代重工業とロテム社のエンジン技術者たちは2004年11月に独立してベンチャー企業チャレンジ&スペース社(CSI)を設立した。彼らはロシア企業の技術支援のもと、10トン推力の液酸メタンエンジン、CHASE-10を開発した。CHASE-10はケルディシュ研究所製のものをベースに国産化したターボポンプを使い、衝突型インジェクタで燃焼室圧力7MPaを達成している。比推力は321秒とやや低めである。彼らは2006年3月には10秒の燃焼試験を成功させている[21][22]。フライト型の開発までにはまだ多くの問題があると思われるが、注目すべき成果である。

ただ、この会社は色々と怪しい。たとえばこの会社のサイトには、開発予定として観測ロケットCARUSというものを掲げているが、そこにある図が、旧ソ連の弾道ミサイルR-11(スカッドA)そのものなのだ[23]。元図はRSCエネルギヤ社のサイトで確認することができるが、どう好意的にとっても、彼らのCHASE-10はR-11にはマッチしない。弾頭までそのまま図に残しておくのも理解できない。またエンジンの燃焼試験場がソウルの南40キロの京畿道龍仁市だというのも驚きだ。

彼らの資金はVitzro tech社が出している。CSI社はどうやら2007年以降、KLSV-1二段目の開発に関わっていたようだ。CHASE-10のほうは2006年に10秒程度の燃焼試験に成功しているが、2008年でもテストスタンドを一新したくらいで、状況はほとんど変わっていないし[24]、エンジンはフライトタイプには程遠い。恐らくは韓国製液体エンジンの例に漏れず、再生冷却(である)に問題を抱えているのだろう。また、CSIの自社開発エンジンの開発資金は枯渇しているらしい。


2006年、KSLV-1の設計はシステム設計確認会を通過した。設計はロシアで行われたが、韓国側も70人がレビューに参加した。しかしその年末の詳細設計確認会は完全にロシア側のみで行われた。ロシアは自国技術を渡さない方針を固めたのだ。


韓国側とロシア側の認識の違いは、2007年になって目だって見えてきた。元々、最新のアンガラの技術をそんな有利な条件で売る訳が無いのである。機体の引渡しに先立ってまず、技術保障措置協定(TSA))[25]の批准が必要だった。これはまず2006年10月に同意され、12月に韓国の国会で承認、2007年6月にロシアで承認された。ロシアの承認が遅れたのは技術"流出"を警戒したためだろう。ロシアはこの間に、TSAの範囲内で技術流出を防ぐ方策を検討したものと思われる。また韓国でも技術移転は結局無いという認識がKARIなど一部ではあったようで、国家宇宙委員会による6月の一次宇宙開発振興基本計画の決定内容には、後続事業は自力技術によるものと明記されている。

ただ、韓国側の"独自技術"は立場によって定義が大幅に違うようである。例えばKSLV-1二段目の開発には"ロシアの技術指導による100%国産技術"という表現が多く使われた。KSLV-1一段目をコピーできればそれはもう独自技術だ、という認識は一部にあったようだ。

それでなくても韓国側では、"発射体の核心技術"が移転されるものと多くが信じていた[26]。これに並んで、射場での液体燃料貯蔵技術、射点とロケットを結合する技術、そして射点運用技術が移転されるとされていた。

ロシアの危惧は違うところで直ぐに現実のものとなった。ロシアは9月から二人の韓国人宇宙飛行士を受け入れ、訓練を開始したが、直後9月にうち一人、高山(コ・サン)が訓練教材を施設外に持ち出したのみならず、韓国の自宅に送ったことが発覚した。高山は打ち上げ候補者だったが、更に2月、訓練内容に関係しない別の訓練教材を任意に借り出して使用したことが問題とされ、3月補欠に回され、補欠の李素妍(イ・ソヨン)が打ち上げ候補者に繰り上がる決定が下された。

高山はソウル大卒の人工知能とコンピュータの研究者で、語学堪能で強靭な体力を誇るスポーツマンとして宇宙飛行士選抜を突破し、打ち上げ候補となった。彼が所属していたサムスン総合技術院は厳密なセキュリティ運用で知られていた。高山はセキュリティの必要性も倫理的意味合いも熟知していた筈である。彼のそれは計画的な背信行為であった。



韓国の宇宙開発史#5 -2009年12月1日(火)22時55分


KAISTは1990年度後半から、KITSAT-3とKOMPSAT-1の技術を取り入れた、科学衛星STSAT-1(もしくはKAISTSAT-4)の開発を開始した。外見や重量はKITSATとほぼ同じだが、構体のつくりはフレーム構造だった。フレームは工場によくある工具棚のような残念な外見[19]で、ハーネスの取り回しは考えたくない代物だが、2003年9月にコスモス-3Mで打ち上げられ、順調に運用されている。

1999年にはKOMPSA-1後継のKOMPSAT-2の開発が始まった。同時期にSATRECはKITSAT-3をベースにしたSI-100バスと、KOMPSAT-1の技術をベースに小型化した200kg級のSI-200バスを開発した。

KOMPSAT-2開発の時点で衛星システムの国産化率が65%に過ぎない韓国には海外パートナーは必須で、今回はヨーロッパ多国籍企業のアストリウム社だった。カメラは独OHB-System社製、核心となる光学系はイスラエルのELOP社による。恐らくこの仕事に関してOHB-SystemはELPOのアストリウムへのインタフェイスに過ぎない。2000年には5億2千万ドルの契約が成立している。

この技術は韓国へ移転されていない。しかし韓国は共同開発のつもりで、技術移転を当てにしていたのだろう。そのために開発スケジュールは2年遅延した。KOMPSAT-2は開発に7年をかけて、2006年7月にロコートで打ち上げられアリラン二号と命名された。

KOMPSAT-2は地球観測衛星としてそのデータは商業利用されたが、その一方で偵察衛星としても運用された。

SATRECのSI-200バスは海外に販路をみつけた。マレーシアとの共同開発衛星MACSATである。MACSATは高度680km程度の赤道上空を巡る軌道に投入され、カメラはプラスマイナス45度のティルト能力、ポインティング精度0.2度で解像度2.5mの高解像度地上撮影をおこなう。発電能力は330W、SバンドとXバンドの通信機を持つ。SATRECはここでかつてのSSTLの立場を演じ、衛星技術獲得を望むマレーシアへと技術を移転した。

開発は2001年から始めて2003年には終了し、RazakSATと命名されたが、打ち上げは2009年となった。衛星はFalcon-1 5号機によって2009年7月に打ち上げられた。

UAEは2006年にSI-200バスとSATRECの衛星技術移転プログラムに興味を示した。エミレーツ先端科学技術研究所はSATRECに16名の技術者を派遣し、地球観測衛星DubaiSat1は開発された。打ち上げは2009年7月、ドニエプルで打ち上げられた。

STSAT-2はKSLV-1で打ち上げられる予定で、STSAT-1とほぼ同じ仕様で開発された。2005年末には開発を終えていたが、KSLV-1の様々な遅延により打ち上げは2009年8月まで遅延した。が、打ち上げは失敗し衛星は軌道に投入されなかった。

同時にKSLV-1 2号機用に同型機が製作されている。更にKSLV-1 3号機が実現した時のためにSI-100バスベースの衛星も検討されているようだ。STSAT-2の同型機は科学ミッションペイロードまで同一で、そもそもSTSAT-1とも大差ない内容である。このように同一のペイロードを積む理由について、肯定的なものを自分は思いつけない。

KARIは2005年に、気象観測、海洋観測、通信の機能を統合した多機能静止衛星の開発をアストリウム社に委託した。この衛星はEurostar-3000Sバスを用い2.4トンになる。韓国ではこれを国産衛星だとする場合もあるが、現実の関与は、いくつか国産センサと通信系を積むのと、最終インテグレーションと環境試験はKARIで行われるという程度である。このために韓国からアストリウムに30人ほどが出向しインテクレーション作業の訓練を受けた。打ち上げは2010年になると云われている。このスケジュールは試験で衛星に問題が発覚することを想定していないため、恐らく衛星は一度アストリウムでインテクレーションと電気性能試験及び環境試験まで終えた上で分解、韓国に移送されたものと思われる。

KOMPSAT-3はSI-200バスを800kgにまで大型化してKOMPSAT-2相当の光学系を搭載する衛星で、2004年からアストリウムの技術指導の下開発が行われている。カメラはまたELOP社製のものが載る筈で、打ち上げは2011年に日本のH-IIAで行われる予定だ。

KOMPSAT-5はこれと対になるレーダ地球観測衛星で、KOMPSAT-2に近いバスにSARを搭載する。開発は2002年以前から行われ、打ち上げは2010年にドニエプルで行われる筈である。この衛星は元々KOMPSAT-4となる予定だったが、4は縁起が悪いとして番号が飛ばされた[20]。同様にムグンファ静止衛星も4号が飛ばされている。KOMPSAT-6,KOMPSAT-7はこれらの後継となる筈である。


韓国の宇宙開発は、活発に開発が行われているKOMPSAT系列を見て判るとおり、偵察衛星開発を優先するイスラエル型の宇宙開発に近い。偵察衛星は同時に商業衛星としても運用されており、仕様は公知であるが韓国の国益を損ねていない。

通信や気象衛星の優先度は低く、それらに関する技術獲得の優先度も低い。また商業化や技術獲得が強く優先されているが、独立した技術実証機の開発は行っていない。これは独自技術の保有が優先されていないためであろう。バス系技術の軽視は、システム開発力の弱さ、または歪さを示している。

韓国には現在、KAISTとSATRECの、役割の違う二つの開発主体があり、更にKARIも発注者として衛星開発に口を挟む立場にある。KARIは衛星開発に関わる員数は多いが、独立した開発力は無いと見たほうが良い。衛星試験設備は何故かKARIに集中している。KARIの衛星試験設備は最大5トン級の衛星の試験に対応しているが、宝の持ち腐れである。

対してKAISTそしてSATRECはクリーンブース、小型加振機、恒温槽程度しか設備を持っていない。現実のところ韓国は衛星メーカーを育成というところまで育てていないので、KARIが設備を持っていてもあまり意味が無い。SATRECの技術力は相当に高く、魅力的な衛星をラインナップしている。ただ、バッテリーなど明らかに不足している技術分野があり、また細部を見ていくと後退ではないかと思われる部分もある。

SATRECの活動は韓国の宇宙開発においては稀に見る成功例であり、高く評価すべきだろう。



韓国の宇宙開発史#4 -2009年11月29日(日)23時49分


KAISTはイギリスの小型衛星開発ベンチャー、SSTLの技術移転プログラムを利用して衛星技術を獲得することにした。SSTLはサリー大学からのスピンアウトで、小型衛星開発のパイオニアである。SSTLは開発現場への人員受け入れと教育プログラムというかたちで、衛星技術を得ようとする様々な国家から顧客を集めることになるが、韓国のケースはその先駆けとなった。SSTLに派遣されたKAISTの人間は、SSTLのごみ箱を無断で漁ってまでして技術資料を得ようとした[16]

開発された衛星Kitsat-1は350mmx350mmx650mm、49kgのアマチュア小型衛星(OSCAR-23)である。SSTLのMicroSat-70バスを用い、UoSAT-5をベースに開発され、アマチュア無線帯域を使い、重力傾斜で姿勢安定を取った。太陽電池の出力は30W、カメラと宇宙線検出器を搭載していた。主計算機として80186を使用し、特筆すべき特徴として、TMS320C25/C30 DSPを搭載していた[17]。これを利用した適応通信も実験のひとつだった。

Kitsat-1は1992年8月にアリアンの相乗りで打ち上げられ、"ウリビョル(我が星)一号"と命名された。運用はKAISTの下部組織であるSATRECが行った。1999年にはバッテリがへたりはじめ、やがて衛星は運用を停止した。

韓国は平行して国内でKitsat-2を製作した。開発実体はSATRECらしい。これは基本的にはKitsat-1のコピーである。Kitsat-1は更に独自のByul-Ji-Gi OSを積んだ宇宙用コンピュータKascomを搭載していた。KascomはIntel 80960MCと10メガバイトのエラー訂正RAMを搭載し4MIPSの性能を持っていた[18]。更にKitsat-2は200m解像度の一次元CCDカメラと2km解像度の511x492ピクセルCCDカメラ、三軸磁気センサ、赤外地球センサ、太陽センサを搭載していた。この衛星は1993年9月にアリアンの相乗りとして打ち上げられた。

SATRECは1994年から技術訓練プログラムを独力で開始した。新しい衛星KITSAT-3は110kgの三軸衛星である。展開パドルを持つがパドルは太陽を追尾しない。発電能力はガリ砒素系素子を用いて最大180ワットの能力を持っていた。衛星バスはKITSAT-1及び2と同様、SSTLバスの重箱構造を踏襲していた。制御系はkascomを利用し、通信系はアマチュア無線帯域ではないが近い周波数を利用し、更に2.2GHzと8.2GHz帯を使用した。ミッションとして15m解像度3スペクトルのCCDカメラ、高エネルギー粒子望遠鏡などを搭載していた。

開発は当初2年半かかると見込まれたが、実際には倍以上の時間がかかり、打ち上げられたのは1999年5月、インドのPSLVによって太陽同期軌道に投入された。

この時期、韓国はムグンファと命名された3機の静止通信衛星を調達している。最初は1995年、次が1996年にバックアップ機、1999年9月には三号機と、増大する通信需要に答える形で海外調達された衛星が打ち上げられた。

KITSAT-3開発と平行して、KAISTは実用衛星の開発に取り掛かった。KOMPSAT-1は470kgの三軸地球観測衛星として開発された。これはTRW社のT200Bバスの技術移転と技術指導によって作られた。これにより韓国は本格三軸衛星、特に太陽追尾パドルとフレーム形式構体の技術を手にいれた。特に後者は衛星の内部空間を邪魔者無く広く取れるので、大型光学系の内蔵に向いていた。また軌道変更推進系もこの衛星は持っていた。この衛星は地球観測、特に海洋観測を行うことを意図していた。取得データは広く商業利用されている。

この衛星はフライトモデル以前にプロトタイプ機が一機製作されたようである。フライトモデルは1999年12月にトーラスロケットで打ち上げられ、アリラン一号と名付けられた。



韓国の宇宙開発史#3 -2009年11月27日(金)23時21分


その後12.5トン推力エンジンの開発は思うようにいかなかったらしい。KSR-3の打ち上げ予定は最初2002年4月だった。しかし打ち上げは一年先延ばしにされ、そして2002年8月にはKSR-3の開発は見直しを受けたようだ。12.5トンエンジンは結局特性比推力280秒の性能で開発を終了した。KSR-3がたった一度の打ち上げに終わったのは、この機体がこれ以上の性能向上、目標性能への到達が望めなかったからである。ロシアからロケットを買おうとしたのはこのタイミングだったと思われる。KSR-3は結局、11月に一度だけの打ち上げを行うこととなった。

2002年11月に実際に飛行したKSR-3は全長14m、直径1m、全重量6トン、ペイロード400kg、燃焼時間53秒の機体で、初飛行で高度42km、飛距離85kmを達成した。これは機体規模からすると恐ろしく低い性能である。

Encyclopedia Astronautica[11]によると、推進剤重量は4トン積めるところを安全上の理由から2.5トンしか積まなかったとある。安全上の理由とは射場安全に関する事柄なのか、機体設計の問題であるのかは不明だが、恐らく後者だろう。打ち上げ時加速度が小さ過ぎると機体制御に問題が生じたのではないだろうか。

推進材2.5トンという条件は特性比推力280秒で実際の性能を再現する。初回はペイロードとして観測機材を400kg積んでいたとあり、更にガス押し用にヘリウムガスを100kg積んでいたと仮定すると、構造重量比は0.51、離床時重量の半分以上を機体乾重量が占めるという代物であることが判る。また、慣性誘導は姿勢保持のみで、ピッチングは行っていなかった。ピッチング等の経路制御を行うのなら、ランチャで斜めに発射したりする必要は無い。先に挙げた安全上の理由と併せて、この時点で韓国の慣性誘導制御は完成していなかった事が判る。

KSR-3のたった一度の飛行と結果からは、KARIの開発体制が破綻していたことが見て取れる。KSR-3の構造は重過ぎたし、再生冷却の筈のエンジンは燃焼試験のたびに使い物にならなくなっていた。そのためKARIはこのエンジンを40機以上も製作している。そして予算は脆弱で、彼らは資金面の裏づけの無いまま開発を進めていた。12.5トンエンジンへの見切りの付け方も早過ぎたように思う。そもそもエンジンを開発のために40機以上製作するという開発の仕方自体がおかしい。

しかしKARIはKSR-3を三本束ね、上段を追加して衛星打ち上げ機を実現する構想を発表した。これがKSR-3の性能に期待していた頃の初期構想のKSLV-1である。三本束ねて13トンという規模は、KSR-3の所期の重量が4トン程度だったことを物語っている。エンジンはガス押し式のままだった。正直なところ、これはペーパープランの域を一歩も出るものでは無い。

一方で現代重工業とロテム、KARIはメタンエンジンの開発を続けていたらしい。そして同時に液酸ケロシンエンジンの大型化にも着手していた。

メタンエンジンではターボポンプの開発が試みられた。ロシアのケルディシュ研究所製のものをベースにロテム社が国産化したターボポンプを使い、まず2トン級から始めて10トン級エンジンを開発する方針だった。これは2004年末にはほとんど燃焼試験直前まで漕ぎ着けていたらしい。

ケロシンエンジンは30トン推力のもので、国産ターボポンプ[12]を用いていたがかなり重いものらしく、2006年に燃焼試験開始に漕ぎ着けたが、2009年現在でも開発は難航している。恐らくは燃焼室の再生冷却に問題を抱えており、フィルム冷却が併用されているようだ。燃焼試験は大徳でやっているらしい[13]。現在は更にその上の75トン級というものも話題に上がるようになったが、実物は確認されていない。1/2スケール模型と称するものが展示された事もあったが、実物とは程遠いものと思われる。

上段用のターボポンプ付き10トン級エンジンも高空模擬用低圧チャンバーを使って燃焼試験しているらしい。このエンジンのターボポンプはメタンエンジンのものとほぼ同一である。


KARIは2000年に全羅南道の高興の南端に新射場の建設に着手した。2002年には敷地の取得を終え、建設を開始している。[14]のイラストでは、射点が二つある。この射点はプレセックのロコート射点に似ている。当初エンジン燃焼試験設備も建設する予定だったが、結局建設されなかった。あと場所は不明だがKSLV-1用の組み立て棟も造ってしまったらしい[15]。更にKARIは2004年初頭、KSLV-1用の固体上段モータの開発に着手した。

2005年の宇宙開発中長期基本計画の改定には、2010年までに13機の衛星打ち上げ、そして衛星打ち上げ機の打ち上げ期限の順延が盛り込まれていた。KSR-3とその後の開発状況から、打ち上げ機の開発は難航、もしくは行き詰っているという認識があったことが判る。2003年からの盧武鉉政権下では独自打ち上げ機開発が冷遇されていたのかも知れない。但し、宇宙開発予算は増額を続けていた。21世紀に入ってからの韓国の宇宙開発予算は、日本のISASのJAXA統合前の予算規模に匹敵、更に超える規模に成長し続けていた。2006年には宇宙開発予算は3000億ウォンの大台に達している。

しかし海外からの技術導入は低調だった。ロシア以外のあらゆる国から技術移転を拒否されたのだ。ロシアのプーチン政権はアメリカの弾道ミサイル技術管理体制に風穴を開けたかったようだが、ただ韓国が望むような技術移転を意図していた筈は無い。

この時点で外国の打ち上げ機で打ち上げた韓国製の衛星は4機、最大重量は500kgに達していた。



韓国の宇宙開発史#2 -2009年11月25日(水)20時40分


KARIは1988年、盧泰愚政権のもとで本来あるべき宇宙開発という目的を取り戻した。KARIの発足をこの時点とする資料も多い。韓国は衛星開発と打ち上げ機開発を平行して開始した。KARIは打ち上げ機開発を、KAIST(韓国科学技術院:国立大学)が衛星開発を行うこととなった。KAISTも大徳に本拠を持っている。

KSR-1(KSR-420S)はKARIが最初に開発した独自打ち上げ機である。開発開始は1990年、射点は大田広域市の北東100km、黄海に面した案興試験場である。

KSR-1は全長6.7m、直径0.42m、重量1.25トン、NHK-1の一段目固体モータをそのまま使用したと思われる。従って比推力は262秒、推進剤重量は580kg、推力は8.7トン、これは性能的には飛翔結果と合致する。このモータがNHK-IIの一段目ではない事に注目したい。慣性誘導は行われなかった。

KSR-1は1993年6月に最初に打ち上げられ、高度39kmに達した。この気体はオゾン観測ペイロードを積んでいた。9月に打ち上げられた2号機は高度49kmに達した。

1992年にKARIはIAFに加盟した。1993年に北朝鮮がスカッドの大型長射程型機モクソン、いわゆるノドンの試射に成功したことが判明すると、金泳三政権は大型液体弾道ミサイル開発に興味を寄せるようになっていった。

1995年KARIはKIMM(韓国機械金属研究所)の支所の地位から独立を果たした。1996年、金泳三政権のもとで初めて宇宙開発中長期基本計画が承認された。これは2015年までに10機から19機の衛星を打ち上げ(打ち上げ機は問わない)、2010年までに衛星打ち上げ機を開発するというものだった。しかしこの時期、予算は殆ど無しに等しかった。

KSR-2はKSR-1を単純に継いで二段式にしたものである。KSR-2では慣性誘導が行われたとあるが、これは安定翼を動翼にして姿勢安定を動的に取ろうとしたことを指す。1997年6月にKSR-2は初飛行し、高度150kmに達した。2号機は1998年5月に打ち上げられ、高度137kmに達した。これら機体も科学観測ペイロードを積んでいた。二号機は到達高度が低かったために観測には失敗したようだ。


1998年、北朝鮮の衛星打ち上げ試行に刺激されて、金大中政権下で初めて本格的な宇宙開発予算が付けられた。翌年の予算はほぼ倍額の1000億ウォンに達した。計画は前倒しされ、2005年までに射場を建設するとした。更に2000年と2005年に計画は修正される事になる。2001年、韓国はようやくMTCRに加盟した。

韓国側は、MTCRに加盟すればアメリカから技術が貰えると期待していたらしい。しかしそんな事がある訳も無く、逆にアメリカは覚書違反の容疑で、2001年9月にKSR-3開発現場に査察団を送り込んでいる[5]

KARIは様々な手段で技術を得ようと模索した。具体的に言うと産業スパイである。また正規ルートではロシアからターボポンプ技術を得ようとしたし、フランスにも同様の働きかけをしている。例えばKARIは2004年から一年、ロシア人技術者を1名雇用している。2002年にはKARIはロシアから打ち上げ機を丸ごと買おうとしている。ロシア側はロコートを提案したが、韓国側は受け入れなかった。この時点ではロシアは技術を売るという意識が無かったように思える。ただ単にペイロードのお客さんとしてしか韓国を見ていない。

韓国の液体ロケットエンジンの開発は1990年代初期に、衛星用推進系の開発として始まった。これはヒドラジン一液式で、開発者たちは1994年11月、触媒の入手の容易な中国国内、上海にカバンに詰めて推進系を持ち込んで試験をしている[6]。1995年には推力180kgのエンジンの燃焼試験を大徳で行ったようだ[7]。このエンジンの推進剤は不明である。1996年には、メタンエンジンの開発へと興味が逸れたらしい。

本格的なエンジン開発は1997年12月、液酸ケロシンエンジンの開発開始からになる。真空推力12.5トン液酸ケロシンのガス押し式エンジンは、2001年7月に20秒の燃焼試験に成功し、関係者は物凄く楽観的な目標を掲げたらしい[8]

このエンジンを一段目に用いた液体ロケットKSR-3は、当初の目標として高度200km到達、2002年2月の段階では単段で高度80km、飛距離129kmの目標を掲げた[9]。これは比推力350秒の性能に相当する。KSR-3は最終的には推力3トンの固体推進系の二段目を持つ全重13トン、ペイロード150kgの観測ロケットとして計画された。特異な点として、フェアリングを持ちペイロードが更に二段目より分離される機構を持つ予定だったことが挙げられる[10]。これは衛星打ち上げ機としての技術開発を狙ったものだと思われる。この分離機構はマルマンクランプで、後のKSLV-1のフェアリングとの技術的繋がりは薄い。

KSR-3のエンジンは恐らく現代重工業かロテム社製だったと思われる。加圧タンクは複合材を使用しハンファ社製だった。KSR-3では慣性誘導制御が導入され、アビオニクス全般を大宇総合機械(現:斗山インフラコア)が担当した。慣性誘導系にはFirstec社も関わっている。推力方向制御はジンバリングだったようだ。これは油圧と電動の二種が比較され、油圧が採用されている。ロール制御は窒素ガスによるコールドガスジェットだった。



韓国の宇宙開発史#1 -2009年11月24日(火)00時09分


韓国の宇宙開発は、我々日本人の宇宙開発関係者の常識からすると奇妙な、破綻したかのような歴史を持っている。韓国の宇宙開発は、一体どこへ前進しているのか、また本人たちがどこへ前進しようとしているかも不明なのだが、しかし混乱はしていても、それでも前進していることには間違いない。


韓国人の固く信じるところによると、彼らの宇宙開発の曙は14世紀の頃まで遡る。1377年に崔茂宣によって開発された固体ロケット走火によって、1380年には倭寇船500隻を殲滅したのを始め、各地で倭寇を殲滅したとされる。更には14世紀になると神機箭という多連装ロケット砲を開発し、数万の単位で量産したという[1]

神機箭の名前は明代の兵書「武備誌」にも見ることができる。これは単装から多連装の様々なロケット砲の中の一種だった。安定棒付きの小さなロケット花火を、升目に穴の開いた箱に突っ込んだような代物で、つまるところ当時の朝鮮は明の兵器をコピーした訳だろう。但し武備誌は韓国の状況にも明るく(剣術"朝鮮勢子"の記述のある唯一の記録である)、神機箭が朝鮮起源だという可能性もある。

朝鮮出兵では大量のロケット兵器が使用され、その中には神機箭の名前も見える。しかし日本側は戦力としてこれを全く評価しなかったようだ。


韓国の宇宙開発は1981年のKARI(Korea Aerospace Research Institute:韓国航空宇宙研究院)の設立に始まる。ただ、1980年代にはほとんど活動らしい活動はみられない。KARIの活動が活発化するのは1990年代に入ってからである。


韓国の近代ロケット技術は、1958年に国防科学技術研究所がロケット開発をおこなったのが最初である。1959年には仁川海岸で射程81kmの三段式ロケット"556号"を発射したとされる。しかしこの研究は1961年に終わってしまった。

1960年11月、仁川の仁荷大学で開発されたIITO-1A固体ロケットが飛行している。IITO-1Aは全長2.2m、重量54kgで設計飛距離は10km、同時に製作され飛行したIITO-2Aは全長1.7m、重量18kg、設計飛距離は9km、但し両機とも発射後安定羽根が欠落、分解墜落した。

1962年9月に4機、10月に2機、更に1964年5月に小型機を打ち上げ、更に10月に全長1.3、重量11.3kgの機体を打ち上げたが、これも安定羽根破壊で墜落した。

1964年12月には二段式全長2.3mのIITA-4MRを打ち上げている。そして、仁荷大学製で最大の機体、IITR-7CRが打ち上げられた。IITR-7CRは全長3m、全重68kgの三段式で、ランチャーを使って発射され、高度50kmまで到達すると35mmフィルム60枚に地上写真を撮影して、ペイロードは分離されてパラシュートで回収される予定だった。しかしペイロード分離に失敗し、回収は失敗した。

この時期の固体推薬の比推力は210秒程度だったようだ。


しかし現実的なところは、1971年に弾道ミサイル開発が当時の朴正煕大統領により指示された事に始まる。これは北朝鮮のフロッグシリーズ固体短距離弾道ミサイルの脅威に対抗する意図を持ったもので、実際の開発は1974年から、米軍のナイキ・ハーキュリーズのリバースエンジニアリングによって行われた[2]

初期の開発は1969年から空軍士官学校で行われていた小型固体ロケットの研究をベースに行われた。ただ、ここで使用されたのはアスファルト推進剤だったという。アスファルトを使った推進剤というのは例が無いわけではない。旧ユーゴスラビアのアマチュアロケット等に使用例があるが、珍しい。

1975年、韓国はロッキード下請けの固体推進剤製造工場の買収に成功した。これはロサンゼルスにあり、破産寸前だった。この設備を大田広域市に移転したのが韓国、そしてハンファ(旧:韓国火薬)の固体推進剤技術の根幹となった[3][4]。この技術はミニットマン及びポラリスの固体モータ製造に使われたものと同一である。

こうして完成した機体、NHK-1"白熊"は射程を180kmと、ナイキの120kmから延長し、イギリス製の慣性誘導装置を搭載した。射程延長は一段目を4本クラスタ化することで達成された。リバースエンジニアリングはアメリカの了解無しに行なわれ、外見及び重量には一段目以外原型との差異は無い。これはライセンスの問題以前に、弾道ミサイル技術の拡散につながる恐れのある問題だった。

1979年、アメリカは「ミサイル技術移転に関する対米保障覚書」を韓国と交わし、韓国の弾道ミサイル性能に射程180kmの枠をはめた。

ここで設立されたのがKARIである。KARIは全斗煥政権によって設立され、アメリカによる弾道ミサイル開発制限に対して、弾道ミサイル開発人員と技術の移転先となったと思われる。KARIの本拠は大田広域市大徳に置かれた。KARIは軍事開発に隣接した立ち位置にあり、日本的な民生宇宙開発の概念を当てはめることは一概には出来ない。

1983年から1984年にかけて、北朝鮮が中距離弾道ミサイル、つまりスカッドの国産化に成功したことが判明すると、韓国は再び弾道ミサイルの開発に向かった。要するにKARIは必要なくなったのだ。

アメリカと韓国の間で新しく交わされた「戦略物資と技術資料の保護に関わる覚書」で、韓国のミサイル技術はココム規制の対象となり、輸出制限が課せられた。また民生分野から軍事分野への技術移転が禁じられた。またアメリカは技術支援と引き換えに、韓国の弾道ミサイルに射程180km、弾頭重量500kgの制限を改めて課した。

NHK-II"玄武"は、NHK-Iの改良で、一段目が固体モーター4基のクラスタが一基になった程度で、射程に変化は無いが、アメリカの技術支援を受けるようになっていた。この実体はアメリカの技術ライセンスによる、韓国の独自開発縛りである。この開発開始に伴ってKARIの重要度は下落したようだ。

射程制限は1995年に米韓ミサイル不拡散協議によって300kmに延長され、新しく玄武-IIが開発された。300km以上射程があると、韓国の場合北朝鮮を飛び越えて中国を攻撃可能になってしまう。また300kmはMTCR(ミサイル技術管理レジーム)が制約を課す最大射程でもある。その後韓国は米韓協議の射程制限を逃れるため、弾道ミサイルではなく巡航ミサイルだから制限対象ではないとして、長射程巡航ミサイル玄武-IIIの開発を行っている。

1985年には宇宙開発計画10ヶ年計画が策定され、1987年には航空宇宙産業開発促進法が制定されたが、韓国では実質的な宇宙開発はまだ何も行われていなかった。

韓国のロケット開発はアメリカとの二国間協定に束縛されていたが、それを脱してMTCRに加入する気が無かったという辺りに、韓国がロケット技術をどう見ていたかがわかる。




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