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「1/f」

1/f

「自分の運、ツキを正確に知る方法がある。

まず、サイコロを用意して欲しい。

出来れば誰かと、何かを賭けて欲しい。何でもいい。賭けの対象はもちろん、サイの目だ。

ただし、最低百回は振ること。回数は多ければ多いほどいい。

そして出た目の平均を出す。もしそれが大きければ貴方の勝ち、少なければ負けだ。その数は、紛れもなく貴方の運を反映したものであるはず。ツキがあるなら、ジャンジャン良い目が出ることだろう。平均すれば、わずかな運の傾向も掴めるというもの。

だが、結果はいつも3.5あたり。振る回数が増えるほど、3.5にどこまでも近付いてゆく。誰がやっても同じ事。

つまり貴方の運勢は、ほかのどんな人とも同じ、良くも悪くもない、きっちり平均値なのだ」

数理セミナー誌六月号コラム「ギャンブルの数学」より

この文章、ほぼ正しいが、結論がまるっきり間違っている。

僕はパソコンでそのプログラムを走らせた。パソコンでやると事は非常に簡単だ。ランダム関数は線形合同法の産物だから、本物の乱数じゃ無いけど、それはまあ工夫しだいだ。

D=INT(RND(A)*6)+1

こいつを1000回ループさせ、Dを加算(X=X+D)し続け、その和Xを1000で割る。3秒とかからない。

アナタノウンセイハ 4.80386デス

ほらね。

次の日、その結果を教祖に報告した。

「ほらね、君には能力があるんだ」


昨日のことだ。教祖は最初の文章のコラムの載っていた雑誌、何という雑誌だったかは忘れたが、それを僕に見せ、どこからかクルーガーランド金貨を取り出した。

「自分の持っている力に、君は早く気付くべきだ。いいかい、もしこれをやって、3.5より大きい数が出たら、これをあげよう。

だが、4より大きい数が出たなら、これをもう一枚あげよう」

ちょっと、なんかの間違いでしょ。だが、教祖は間違ったことは決して言わない。

それが昨日のことだ。


「じゃあ、約束通り、受け取ってくれ」

教祖は僕の言葉を疑いもせず、その金貨を僕に渡した。これは僕の予想通りだった。別に信頼関係だとか、そんな問題じゃない。

単純なことだ。単純に考えればそれは数グラムの金属、固まりに過ぎない。そんな事で嘘をつくのは馬鹿馬鹿しいじゃないか。


教祖は白のスーツにカンバス地の靴、髪はきれいに剃っている。肌はひどく白い。

それ以上に教祖の人となりを描写するのは難しい。最近、教祖のイメージのうまいたとえを思い付いた。

πだ。円周率。とっても、きわめつけに単純なのだが、その後ろには無限のビット列が隠れている。円周と径の比。簡単に定義できるそれは、有限の桁数では表わせない。

「君の能力について説明しよう。実演した方が簡単かな。よし、もうすぐ電話がここに掛かってくる。君の妹さんからだ」

教祖がそう言った途端、デスクの上の電話が鳴る。電話はシンプルな白で、あとはペン立てのほかに机の上にはなにもない。電話を取った。

「もしもしぃーまりぃー?

ん、あのーまりさんはおられますか?」 確かに妹だ。

「えーっおにいちゃん?ちょっとなんで?ちょっと待って、私の誕生日はいつか答えて」

げっ。忘れてた。

「来週の21日だろ、忘れるわけないだろ」

「本物みたいね。でも誕生日、忘れてたでしょ。でもなんでー。私は4−286−8080にかけたんだけど」

「なに掛け違いしてんだ。ここは4−186−8086だぞ」

「あっそこ、例の教団ね。んーじゃあ、誕生日忘れないでね」 チン。

あり得ない偶然。僕は受話器を置くのをしばし忘れた。

「考えてみてくれ。今この瞬間、大地震が起きてもおかしくない。いん石が頭上に落ちてきても、おかしくない。道を歩けば、大金の入ったバッグが道端に落ちているかも知れないし、成り行きから、英雄になることもありうるだろう。

ありとあらゆるありそうにないことも、可能性はいつだって存在している。それを固定するんだ。確率を操作し、固定するんだ。

オッカムの剃刀って知ってるかね。

16世紀にオッカムという男が考え付いた理屈だ。物事の原因は、大抵一番単純な理屈で説明出来るってね。

いいかい、おのれの望むものを、とても有りうることだと思うんだ。

剃刀は道具だ。使い方を誤らなければ、君にも操れる。どうしたらそういうことが出来るか、何て考えちゃいかん。単純化するんだ。物事を複雑に考えると、可能性を失ってしまう」

あの金貨も、そうやって取り出したのか。聞いてみる。

「もちろん違うよ。ただ偶然手の中に飛び込んできただけのこと。でも、見方を変えれば、そうとも言えるかも知れないね」

ふと思い付いたのだが、なぜ教祖は、僕に妹がいる事を知っていたのか。家族の事は何も言ってはいないはず。そしてかすかな疑問。僕に妹なんていたっけ。


僕は教祖からたった一つ、とても大事なことを教わった。

神を信じよ、さすれば物事は簡単になる。

もうくよくよ悩むことはない。この大宇宙のことで、分からないことはもう何一つない。すべて神の御業なのだ。

全く学者どもは、一体何をそんな単純なことに、もったいぶって小難しい理屈をこねるのだろう。僕は彼らがかわいそうになる。手を差し伸べてやろう。

そして教えてやろう。物事は単純なのだと。

それが教団の活動だった。


だれかが言ってた。信じれば願いはかなうよ、と。

そんな単純な。ところがどっこい、物事は実に単純なのだ。家への帰りにうどん屋に寄った。えび天頼んだような気がしてたら、えび天がきた。自分の部屋はけやき坂の高級マンションだったように思えて、いってみたらばやっぱりそうだった。3LDKでフローリング。

床の上で金貨を弾いて、どこかに転がって行くのを見つめた。淋しい夜だった。

僕には恋人がいた。こればかりは確実だ。高校時代からの付き合いで、熱くなったり冷たくなったり、最近は何か行き詰まっていだ。

彼女に会いたかったけど、やめた。彼女との間には難しいものがあるのだ。彼女に例の力は使いたくなかった。

彼女が複雑な人間だということを知っていたから。


街並が、工業短大にいた頃に扱った、建築CADのデータのように見えてくる。すっきりしたポリゴンのパースペクティブ。

教団の活動は順調に広がっていた。教団には小難しい教義などはない。単純が合い言葉だ。教団はごく最近生まれたものらしい。だが、その誕生のいきさつや、教祖の来歴を知るものは、誰もいなかった。

本人に直接聞いてみたこともある。

「私は昔この世に生まれ、育ち、そして今ここにいる。それ以上は何もない。必要が無いのだよ」

彼は僕にそう答えた。僕は何か目が覚めたような気がした。悩むことはもう何一つ無いのだ。

目指すは単純だ。


僕の部屋もずいぶんすっきりしてきた。ステレオやテレビ、冷蔵庫に炊飯器、電子レンジ。みんな友人にあげてしまった。今日は洗濯機をどうにかしよう。

しかし思うのだが、こういう機械を人にやるという事は、その分その人の暮らしを複雑にするという事ではなかろうか。悪いことをしてしまった。こいつは跡形もなく単純化してしまおう。

僕はドライバーを持って、管理人さんに一輪車を借り、それで冷蔵庫を粗大ゴミ捨場の隣の空き地に運んでいった。

そういえば、洗濯機ってどうやって動いてるのだろう。そう思いながらビスを外して中を見ると、たらいと洗濯板を持った妖精さんがいた。

かわいそうに。はやくお逃げなさいと言うと、妖精はぴょこんとおじぎをして草むらの影に消えた。

洗濯機はめでたく単純化された。僕はたらいと洗濯板を持って部屋に帰った。


今日の教祖は、いつにもましてシンプルだった。

部屋は安っぽいバーチャルリアリティ空間のように、真っ白なワイヤーフレーム。机も窓も、照明まで無いが、影もない。

「私は去らなければならない。超越するのだ。究極単純化だ。見ていたまえ」

僕ら幹部は驚いて彼を見た。

服を見た。服が無い。

足を見た。足が無い。

腕を見た。腕が無い。

顔を見た。顔が無い。

頭が無い。

体が無い。

教祖はもういない。1ビットすら残してくれなかった。

部屋は部屋に戻った。窓も、蛍光灯も、そのスイッチも、ドアも、コンセントもある。あとはがらんどう。典型的なビルの一室。壁の汚れが分かった。部屋の隅にほこりが見えた。

僕ら幹部は顔を見合わせた。

教祖の力は消えた。事態は複雑になりはじめたのだ。


窓から見る街はとんでもなく混乱している。

人々はデタラメに動き、その色といい動きといい、見ていると僕の頭は痛くなってくる。

建物はゴチャゴチャし、それがどんどんゴチャゴチャしてくるように見える。

街に出るのが怖くなった。だけど帰らなくてはならない。

意を決して街へ飛び出した。たちまち人の波に飲まれ、それは僕をどこかへ連れ去ろうとする。

僕はインチキ宗教グッズ商売人に捕まってしまった。そいつは悪いところに貼るだけで良くなり、手に貼ると金粉が出てくるというエスパーシールや、宇宙エネルギーを吸収して持ち主にパワーをもたらす水晶のペンダントなんかをどっさり持っていて、新たな犠牲者である僕に襲い掛かった。

そんなにつけ込み易く見えたのか。僕は隙を見て逃げ出した。今度はなにか長い顎髭を生やした男の伝記マンガを買わされそうになった。そいつはいかにも狂信者タイプで、滅びだとか裁きだとか、そんな事を早口でまくし立てながら、僕の肘をつかんで放さなかった。足をふんずけて、「失敬」と手を振り払いその場を離れたが、後ろを見ればそいつが追いかけてくる。僕は怖くなってでたらめに逃げ出した。サラリーマンにぶつかり、おばさんに突き当たりながら街を右に折れ、左に曲がり、上に登り、下に降り、奥底へと更に、更に。

ネオンが闇に浮かび出すころ、飲み屋街の裏通りに身をねじ込むと、すぐそばにどぶ川が流れていた。

前方の道をふさいで何やらもめている。店の前でゲロしたサラリーマンを、体のむくんだパンチ頭が捕まえてどなっている。

関わり合いにはなりたくないが、ゲロの上をまたぐのは嫌だったから、目を合わさぬよう、川面を覗き込みながら、ドブの縁をそろそろと通っていった。ドブ川の流れは速く、先が暗渠になっていて、黒き流れは滑らかに、深き所へどうどうと音を立てて流れ込んでいる。

ポンと背中を押された。感じでは、肘で押されたみたい。ドブ川へダイビング。

僕はじたばたした。無駄だ。役に立たない大脳新皮質に、本能が思考停止を命じた。

 暗闇が僕を飲み込んだ。


足とあばらがやたらと痛かった。

体中が痛かった。痛みを我慢すると今度は匂いが鼻についた。右足首骨折というところか。あばらのどこかも、きっと骨折している。

じっとしていると、痛さは変わらなかったが、考える余裕が生まれた。

自分の力を思い出した。複雑なものに対する脅えはもうなかった。

僕の怪我はそんなにひどいものじゃない、と信じることができた。事実、ちゃんと調べてみると、どこも骨折などしてはいない。打ち身も捻挫もない。ただ、匂いだけはどうしようもなかったが、鼻はそれに段々慣れていっていた。

立ち上がると、流れは膝下で緩やかに流れていた。ポケットのジッポーライターを点ける。四角い断面のコンクリート下水トンネルだ。

左手を壁に付け、前へ進んだ。

迷路抜けの定石、左手法の厳密な適用は不可能だった。流れの速い、足元のつるつる滑る分岐だらけだ。足のつかない深みへも進めない。トンネルの断面は大きくなったり小さくなったり、丸や四角。迷路は続く。

ライターの油はとうの前に無くなった。暗闇の安全を保証するものは、いまや手足の感覚だけだ。地下のこの迷宮の複雑さが身に染みてきた。ふと思ったのだが、なぜ僕はライターを持っていたのだろう。タバコ吸わないのに。ポケットを捜したが、ジッポーはどこにもなかった。

またしても足元の流れは速くなり、前方から水音の響きが聞こえてきた。僕は広いところに出たのを感じた。足元が滑る。危機一髪、僕の手は安全な領域を探り出した。

そこはどうやら、崖の上の細いキャットウォークらしい。心臓に手を当てて荒い息をしていると、さっきの僕のわめき声が、エコーになって反響するのが聞こえた。

それと水面を打つ水音。僕は以前読んだ、とある詩の一節を思い出した。

″森をぬけ谷をこえて聖なる河は走り、

やがて人間には底知れぬ洞にいたり、

ついに生きもののすまぬ海にさわがしく沈んだ。″

僕は地上を想った。地上も迷宮だ。

暗闇の中に明かりが見えた。キャットウォークの向こうだ。明るい四角の中に人の影。ドアらしい。


その部屋はぐちゃぐちゃだった。物が混雑しているだけじゃない。壁など最悪だ。コンクリートの石灰が溶けてて、ギーガー風にヌメヌメしている。

体が冷えてきたので、臭い服を脱ぎ、ここの人達から毛布をもらってくるまった。ここの人達はなかなか好い人ばかりだった。ねずみ色の背広に革の鞄だったり、ショッキングピンクのトビ装束に地下足袋だったり、みんなてんでばらばらの格好だ。ただみんな表情が暗い。

そして目の前にいる人物は。やめておこう。特徴がありすぎる。下手にその人物の特徴を書き始めれば、それだけで長編小説になってしまうだろう。内容の実に90パーセントを、その人物の特徴紹介に割いた小説だ。

だが、これはまるっきり直観に過ぎないのだが、その複雑さは、とても簡単なもので要約出来るのではないか、という気がする。

マンデルブロ集合というものを知っているだろうか。無限に複雑な図形なのだが、簡単な計算の繰り返しでそれは出来ている。昔プログラムを書いたが、僅か十数行だった。

全てが教団とは正反対の所だった。

目の前の複雑な人物が口をきいた。

「お前がここへ来ることは分かっていた。なぜなら、こここそお前の望みの正反対にあるものであり、又お前の望みでもあるからだ。

お前がここに来たのには理由がある。お前は複雑さに目覚めねばならない。単純連中は滅ぼされなくてはならないのだ」

僕がきっとして彼を見つめると、彼は続けた。

「まず手初めに、神の存在から否定してやろう。

お前ら単純党の好きな剃刀の話だ。とある散髪屋が、こういう看板を出した。

「私は自分でひげを剃らない人すべて、又そういう人だけ、ひげを剃る」

それでは、この散髪屋のひげを剃るのはだれだろう?

これはラッセルのパラドックスって言われているやつでね、考えてみたまえ、

散髪屋が自分で剃れば、「自分でひげを剃らない人」でなくなってしまう。剃らなければ、「剃らない人すべて」を「剃る」という看板に偽りができてしまう。

さて、散髪屋を、神様と言い換えてみよう。神様は世界を、すべてを創った。

それでは質問だ。

いったい誰が神様を創ったんだい?


答える事ができなかった。

僕は敗北した。世界の複雑さが僕に襲いかかり、僕を打ちのめした。

何かの機械室を過ぎて、鉄梯子を昇ると地上だった。タクシーに乗って部屋へ帰った。運ちゃんは僕の服の匂いに露骨にいやな顔をした。

部屋に戻ると服を脱ぎ、洗濯機のなれの果ての金だらいに放り込み、シャワーを浴びた。

部屋は空虚だった。僕はたった一枚の毛布にくるまり、ぶるぶる震えながら眠った。

僕は夢を見た。

教団ビルの道路を挟んだ向かい、デパートの地下食品売り場。

ジャムの瓶の積まれた向こうから、天使が語りかけてきた。

「で、どうするんだい?うやむやとか、ごちゃごちゃとか、でたらめとか、そんなものに無条件降伏しちまうのかい?

大丈夫、神様はどこにでもいる。信じろ」

目を覚ますと、僕はさっきの夢について考えた。頼りない手掛かりだったが、これこそ求めるものへの道だということは分かった。

僕はずっと挫折者だった。いつも変なところでいじけてしまう。前の会社を辞めて3ケ月経っても、新しい就職先は決まってなかった。恋人の励ましが、僕には非難の言葉に聞こえた。いやでたまらなかった。

悩み無く、すっきりした生活に憧れた。教団は、そんな僕の心に応えてくれた。

だが、もう助けてはくれない。単純思想は破壊されたのだ。

また昔に戻るのか。いやだ。絶対に。

戦おう。混沌が僕を飲み込むまでに、何かを掴まなくては。


日曜の昼に、春吉橋そばのカフェテラスで恋人と会う約束をした。白のワンピースに麻のロングパンツ。彼女は素敵だ。朝方ちらついた小雨のせいか、水玉の傘を持っている。お昼を食べて、そのあと川沿いの遊歩道を歩いた。

あの教団にいたころは、あなた何かのっぺりしてたみたいだった。と、彼女は言った。

もう教団からは足を洗ったんだよ、と僕は彼女に言った。明るくなったね、と彼女は言った。その通りだと思った。

動力ボートが川をさかのぼってきて、僕らの近くで止まった。へさきから波が離れ、それは盛り上がったまま、ただひとつ上流へとさかのぼっていった。

ソリトンだね、と彼女は言った。昔二人で同じ物を見たことがあって、一緒に正体を調べたのだ。正体はただのつまらない物理現象だった。でもこうして見てると、つまらないと思ったのは間違いだったかなと思えた。

二人でその波を追いかけてみた。昔のように、波が消えるまで。


がらんとした部屋の片隅で、忘れていたものを見つけた。一枚の金貨。もう一枚は妹の誕生日のプレゼントになった。もったいなかったかななどと今頃思う。

教祖の思いが生み出した金貨。教祖と一緒に消えてしまってもおかしくなかったのに。金貨が消えないのは、僕がその存在を信じているからか。

人間は、真実を知ることは出来ない。

僕の後ろには何も存在しないかも知れない。後ろを向けば現れるが、前に向き直ればまた消える。

僕はVRの中にいるのかも知れない。タンクの中に剥き出しの僕の脳味噌。電線がマッドサイエンティストの機械から延びて、電気仕掛けの夢を見せる。

たわごとか?しかし否定出来ない。証明も出来ない。

目から入る光、鼓膜の振動、末端神経の興奮、これらは皆データに過ぎない。

脳はこれらデータを元にシミュレーションを作る。物の影で見えないものを手探りで取れるのは、これのお蔭だ。

そのさい目は直線に注目する。だから直線の多い景色は、見ていて疲れる。複雑なものを見ると当然疲れるし、直線より曲線の方が疲れない。

僕の部屋は疲れない景色だ。天井の線、床の線、窓と壁の線。それだけ。がらんどうの部屋からステレオが無くなり、静かになった。まるで禅宗の庵だ。

だが僕は禅僧じゃない。活動的であきっぽいただの人間だ。ある程度の複雑さは欲しいものだ。

とにかく、布団は最低欲しい。

頼りのクルーガーランドを手のひらで裏返す。よく見ると細かい傷が結構付いている。細かい直線がたくさん。

現実だ。


奴に再び会う勇気を出すまで、結構ひまがかかった。戦うと決めたのはいいが、いざその段となると気が萎えてしまう。あの時の敗北感を思い出してしまう。

だが今日は違う。昔の僕とは違う。どこがどう違うのかははっきりは言えないが、とにかく僕は変わった。僕は新しいものをつかみかけている。

あの場所は覚えていた。あの機械室のドアをノックする。

世界一複雑なその男に向かって言い放つ。

「おい、ようくきけ。俺はお前達とあくまでも戦う。混乱から世界を救ってみせる」

奴は何の事か分からないという風に、肩をすくめてみせる。

「いったいどうした事なんだね」

「どうしたもこうしたも無い。お前らカオス主義者の息の根を止めるんだ。エントロピー最大の終末から世界を救うんだ」

僕はそいつを直視することが出来ない。その姿がちらりと視界の隅に入る度に目まいがしてくる。奴の経歴も、例によってスパゲッティになっているに違いない。

俺なんて言葉いつも使わないものだから、自分の言葉が何か奇妙に聞こえる。一応奴と戦うために少しばかり理論武装はしていた。さっきのカオスとかエントロピーだとかのたわごとはそういう所から来たものだ。

「さあ、対決の方法と日時を決めろ」

対決すると決めたは良いが、実はその具体的な方法などは少しも考えていなかったのだ。いい加減もいいところだと自分でも思うが、不思議なことに勝つ自信だけはたっぷりあった。本能よりも深いところから来た自信だ。

「君の相手などしている暇など無い、と言ったら?」

「俺たったひとりを動かせないのに、世界を動かせるなどとほざくつもりかよ、あんた」

この世のあらゆる狂信者達と同じく、奴も自分の正統性を疑わない。複雑さに関する彼の信仰は、その発言を許さないに違いない。

「ようしわかった。お前に現実というものを教えてやる。社会がどれほど複雑なのか、学ぶがよい。ついてきなさい」

その部屋にあったもう一つのドアから別の部屋に行く。肋骨を組み合わせたような気色悪いドア。最低だ。いや、もっとひどいのがこの部屋にはたんとあるに違いない。

次の部屋はやたらと広かった。配電盤のたくさんのスイッチを、複雑な男は一見でたらめに入れてゆく。ひょっとすると、本当にでたらめなのかも知れない。

水銀灯が明るくなるにつれ、中の様子が見えて来た。色んな金属たちで一杯だ。どこかでたらめな鉄工所というところ。

目の前にあるのはNCフライス。切屑が散乱し、手形の油汚れで迷彩されている。鋳鉄の固まりが山と積まれ、ラチェットやノギスやレンチが散乱するなか、奥へと進む。

黄色い塗装の剥げかけたクレーン、ぶっこわれた旋盤。聞こえてくるコンプレッサーの音はどこか調子が狂っている。ここは連中の複雑ガジェット生産工場なのだ。

アマダのレーザーカッターのうしろにパソコンが置いてあった。そこから延びたコードが鳥の巣を作っている。複雑な男はそのコードの一本を指さし、辿ってゆくが、結局見失ってしまう。彼は諦めて、改めて向こうの隅を指さす。一昔前のエアコンの室外機みたいな箱の上には意外なステンシルが。放射性物質だ。

「医療用のセシウムだ。核種崩壊をガイガーで検出して、そのタイミングでパソコンに割り込みをかける仕組みになっている。絶対確実、チューリングの方法だよ」

彼はキーを叩いて何かのプログラムを呼び出す。「ランダムは複雑さの究極だ。どんな数式も完全な乱数を作ることはできない。数式に従うのならそれはランダムじゃない。ランダムはすべての秩序の否定だ。神聖なるものだ。

このプログラムは、ハードディスクの中からでたらめに一つの名詞を捜し出してくる。放射能が100メガヘルツのルーレットを止めるって寸法だ。

方法と日時を決めろと言ったな。今からそれを決めよう」

RUNreturn

24ドット文字でそれは表示された。

【パチスロ】

次に別のプログラムを呼び出すが、ひどく手間取ってしまう。やがてそれも実行された。

【04 日後】

「よし、それじゃあ県道5号線沿いの『ゴールデンチャンス』で、4日後の午後6時、ということでどうだ」

「それでいい」


帰りに本屋に寄り、求人情報誌を買った。部屋の空虚さを思い出し、別に何か買って帰ることにした。

部屋に帰って、まず求人誌を開いた。技術系の求人の条件は、たいした経験を持たない僕には厳しい。だが諦めず、今日は久しぶりに履歴書を書き、封筒に入れて切手を貼る。

次に買ってきた「月刊オリハルコン」を開く。このての超常現象ホラ話雑誌は一度買ってみて損はない。コペルニクス的転回がたっぷり3回転半は味わえる。

インダスのラーマヤナ核戦争とレイ・ライン、さらにはミステリーサークルとUFOをからめてみせた記事には堪能させられた。その論理のアクロバット的詭弁には、素直な小学生ですら眉に唾を付けるに違いない。

人はわからない現象があると、手頃な超自然存在のせいだと決め付ける傾向がある。UFOと大きな釣り目で逆三角頭の宇宙人に結び付けてしまう。

数百年前には、ミステリーサークルは邪悪なエルフ妖精が作ったのだと信じられていた。宇宙人は現代の妖精だ。

人は皆ファンタジイの中に暮らしている。現実から離れ、脳の作り出すシミュレーションの中に住んでいるのだ。昔遊んだテーブルトーク・ファンタジイを懐かしく思い出す。強力な想像力さえあれば、現実はお呼びじゃないのだ。

テーブルトークの世界では、光と闇、法と混沌が対立しているのが常だった。

主人公達はいつも、秩序の為に邪悪な混沌に戦いを挑んだ。だが現実では秩序は破れ、僕は混沌に戦いを挑んでいるが、それは法の為でも正義の為でもなく、自分のわがままな、だがとても強い欲求を満足させるためのものなのだ。

次に僕は「マル得パチスロ必勝本」を開いた。戦うからには勝たなくては。だが、単純なありりたりの必勝法は通用しないだろう。奴の能力を考えると、目押しすら通用しまい。新機種紹介のページでめくる手が止まった。

見つけた。


「方法と日時はそっちが決めたわけだから、勝負につかう機種ぐらいはこっちに決めさせてくれ。

勝負には『ゴージャス7f』をつかう。勝負は、どちらかが手持ちのコインを使い切った瞬間をもって決する。何か異議は?」

「ない」

『ゴージャス7f』の中枢はコンパクトなASICゲートアレイだ。裏ROMも注射もない。封印は店の人に頼んで、まえもって確認しておいた。

この機種の特徴は、ドラム制御にファジイに続くハイテク第二弾、1/f揺らぎを応用しているところだ。

1/f揺らぎの周波数の対数を横軸に、スペクトル強度を縦軸にとってグラフ表示すると、グラフの傾きはマイナス1となる。傾きが0だとそれはランダムな揺らぎであり、マイナス2だと予測することが可能な揺らぎとなる。

1/f揺らぎは混沌と秩序のちょうど中央に位置し、予測出来そうで出来ない動きをドラムに与える。それがプレイヤーの関心を長時間維持させ、プレイヤーは満足し、店は儲ける仕組みとなっている。

単純と複雑の中間、それは僕の取るべきスタンスでもある。僕はこいつに勝ち目を感じた。

一人のおばさんが近づいて、奴の耳に何かささやいた。

「さあ、はぁじめようじゃぁないか」

奴はいきなり元気になり、マシンのスロットにコインを突っ込み、レバーを入れた。僕は不安になって回りを見渡す。老若男女、ミキハウスからエプロンまで、様々な人々が一心に台に向かっている。

無秩序の中に一つだけパターンを見つけた。皆の額には、例外なく深いしわがくっきりと刻まれていた。それで分かった。現実の複雑さに悩む人々、彼らは皆奴の手下なのだ。

これだけの人々が一体何をしていたのか。考えられるのは一つ。裏技、必勝法を捜していたのだ。このハードは新しいから、どのくらいバグを抱え込んでいるか知れたもんじゃない。こんなもの確率でいけば絶対に損する訳で、故に、確率的存在である奴は非常手段に訴えたのだ。

負ける訳にはゆかぬ。次々にコインを投入し、ドラムを読むが、運とかツキとかはどこか遠くにいってしまったようだ。教祖に見せられたあの記事を思い出す。今の僕の運はきっちり3.5。

手持ちのコインが減っていくにつれて、なぜかそれに心地好さを感じた。期待の裏をかくドラムの動き、こいつとは友達になれそうだ。ジャラジャラと隣からいやらしい音が聞こえる。

そのとき、何故か台と心を通わせたような瞬間があった。向こうなんて気にすんな。台がそう言って慰めてくれる。ほらこうやるんだよ。

勝ちかたが分かった。パターンに捕らわれるな。大事なのは今、瞬間。台のアドリブにコードを乗せる。そうして息を合わせてオーヴァドライブ・セッションを始めた。

ピリピリしたフィードバック・ループが勝ち目を増幅させてゆく。ジャラジャラと手元にコインが溢れだした。

ループは狂暴な暴走を開始した。混沌から力を得ているのだ。ソリトン効果か。いや、生命の力だ。

遥かな太古から動き続ける、生命という名の永久機関がここでも動き始めたのだ。混沌、カオスから力を得て秩序を作る。1/fは生命のノイズだ。

僕は隣に笑ってみせた。奴は躍起になって、何かに顔をしかめる。いきなり、周りのディテールが増す。辺りがいきなりブレ・ランばりのディテールで満たされる。

辺りはすっかり複雑になり、台の声は周りのノイズにかき消される。台の表情は細かな輪郭の中に埋没してしまう。

空間のビット数が際限無く増えてゆく。情報のアリ地獄だ。だが僕は、既に勝負の着いたことを知っていた。

頭にあるのはとあるイメージ。白のペンキの中に黒のペンキを流す。棒で2、3回かき混ぜれば立派なカオス模様があらわれる。

更に混ぜると模様は更に複雑になり、どこまでも複雑になる模様はとうとう目に見えないほど細かくなり、そして……

ただの灰色、単純になるのだ。

細かい線に奴の特徴が埋もれてゆく。目鼻が埋もれ、服装や手足が埋もれ、体の線が分からなくなる。

細かい霧がたち込めたかと思うと、奴は消えていた。


幸せになるくらいきれいな月夜だった。僕は厚みの増えた財布をお尻に感じながら、いい気分になっていた。

パチンコ屋の前で別れたあの人達の表情の何とさっぱりしていたことか。でも、みんなまた明日から、世間の複雑さに立ち向かわなくっちゃいけないのだ。それは僕も同じ事。でも、気楽に生きなきゃ損だよな。

その日もまた夢を見た。僕は天使に、ずっと気になっていたことを尋ねた。

「分からなかったのかい。まあいいや、世界は神様が創造したわけだ。

さて神様はどうやって生まれたのか。

簡単なこと、もっと偉い神様が創造したんだ。もちろんその神様を創造したもっと偉い神様がいるし、もっと偉い神様、更に偉い神様、更に、更にと続いていくんだ。

神様は無限にいるんだ。分かるかな?銀河の端から端までインダス河が流れているとしよう。その河の砂粒の数を砂粒の数乗しても、無限には全然かなわない。

とにかくいっぱいだ。

そして、あんたらが最終の被創造物って訳でもないんだな。あんたらも神様なんだよ。虫も、石も、すべてがみな神様なんだ。

世界は神様で出来ているんだ」

なんか全然神様の意味がないような気がするけど。

「そんなこたぁない。みんな神様だからな、奇跡なんてお手のものさ。ただ……神様が多すぎて奇跡が干渉しあって、みんな打ち消されてしまうんだ」

わかったぞ。

「なんだ」

奇跡は干渉のさいに揺らぎを生ずるはずだ。それが生命を動かしているんだ」

「それが分かれば、オレ等は用無しだな。じゃあな」

天使たちの向こう、無限の神様達の中に、教祖と複雑な男を見たような気がした。

だけど、確かめる前に夢は薄れてゆき、現実がまた今日もやって来たのだった。

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