学習院“下”と駅名にもあるように、ここから学習院に行くには千登世橋を渡り、坂を登って行きます。
都電の後方、墓石のようにそびえ立つのは「サンシャイン60」。
氷川神社は素盞鳴尊(すさのおのみこと:氷川神社主祭神。天照大御神の弟君で、八岐大蛇の神話で名高い)・奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと:素盞鳴尊のお妃神)・大己貴命(おおなむちのみこと:素盞鳴尊・奇稲田姫命の子孫神)を奉祀し、高田總鎭守となっています。
創建は、今から約1130年以上の昔、第56代清和天皇の御代である平安時代の貞観年間(859年〜877年)に、旧官幣大社・武蔵国一宮の氷川神社(埼玉県大宮市)の分霊を現在の地に奉斎してからと伝えられています。初め「山吹の里氷川宮」、後「氷川大明神」と奉称し、明治2年「氷川神社」と改称、明治5年11月8日村社に定められ、明治40年5月4日神饌幣帛料供進神社(郷社・村社を対象に勅令に基づいて県知事から、祈年祭、新嘗祭、例祭に神饌幣帛料を供進された神社のことを指す)に指定されています。徳川三代将軍家光公が鷹狩り時に参拝されたり、古今和歌集の六歌仙のひとりである在原業平公も参拝されていました。鎌倉・室町・江戸時代は武家の尊崇が高く、江戸中期・後期には商人・職人・農民の奉納が多く見られます。
神社正面の道は鎌倉街道となり、神社近くの道割は江戸御府内の当時の様子と現在もあまり変わっていません。歌川広重画『名所江戸百景 高田姿見のはし俤の橋砂利場』では、姿見橋や神田上水(神田川)の周辺に黄金色の輝く稲田が洋洋と広がる「氷川田圃」をみることができます。江戸時代には、高田總鎭守氷川神社の主祭神が素盞鳴尊であることから「男体の宮」、奇稲田姫命を主祭神とする下落合氷川神社(新宿区下落合)を「女体の宮」と呼び、両社を合わせて「夫婦の宮」と呼ばれていました。しかし、現在の高田總鎭守氷川神社には奇稲田姫命も奉られているので、過去の話なのかも。鳥居・狛犬・石灯寵・ 玉垣は豊島区の文化財として登緑されていて、境内神社として高田姫稲荷神社、神明神社、道祖神社があります。
真言宗豊山派に属し、山号は大鏡山薬師寺。
即身成仏の教えを説く密教は7世紀頃インドに起こり、8世紀には中国に伝わリ、平安初期に弘法大師によって我が国にもたらされ、真言宗として開宗されました。 中興祖の興教大師は、平安時代末期、弘法大師の教えを深く研究し、時代に合った新しい真言密教の教えを起こしました。その教えを受け継ぐ専誉僧正が、戦国時代大和長谷寺に入リ、豊山派の基礎を築きました。豊山は総本山・長谷寺(奈良県桜井市初瀬)の山号です。
寺伝では、開山は室町時代の永和2年(1376年)寂に円成比丘(えんじょうびく)によるとされています。本尊の薬師如来は、木造の立像で、奥州藤原氏の持仏といわれ、円成比丘が諸国遊化のとき農家で入手し、奉持して当地に草庵を建て安置したのが開創であると伝えられています。正徳6年(1716年)の『高田村絵図』(東京都公文書館蔵)には、境内部分に「薬師堂」「南蔵院」 の文字の他、山門、薬師堂と思われる建物が描かれています。また、天保5年(1834年)に刊行された『江戸名所図会』では、高田村付近の様子が、長谷川雪旦による三枚の挿絵付きで紹介されています。「高田」と題された挿絵の中央に南蔵院が配され、境内に薬師(堂)と鶯宿梅が描かれています。 鶯宿梅は、江戸幕府三代将軍徳川家光が自ら植えたといわれ、このときすでに枯れていたとされますが、『新編武蔵風士記稿』には、鶯宿梅の実から育った木が院内にあると記されています。
現在の境内には、元禄9年(1696年)に神保長賢により寄進された山吹の里弁財天の石碑と手水鉢や、庚申塔、六地蔵、彰義隊九士の首塚などの石造物があります。また、三遊亭鳳圓朝作の「怪談乳房榎(かいだんちぶさのえのき)」にゆかりのある寺ですが、本堂は昭和の時代に建て替えられて、噺に出てくる天井の龍の天井画はありません。
「怪談乳房榎」の大まかなあらすじ
絵師として活躍していた菱川重信の妻・おきせに惚れてしまった磯貝浪江は、重信の弟子となっておきせに近づく。菱川重信が南蔵院の天井に龍の絵を依頼され赴いた時を狙って、関係を持たないと子供を殺すと脅迫し、おきせと関係を持ってしまう。それが度重なり二人は馴染になってしまう。やがて浪江はおきせを独占するため、重信を惨殺する。夫の死のショックで乳の出なくなったおきせの元に、死んだ重信の亡霊が現れ、乳を出す不思議な榎が松月院にあると教えられる。やがてその榎の乳で育った子・真与太郎は、父の亡霊に助けられ浪江を討ち仇を取る。