荒川遊園地前

2006.1.2更新

 

 

 『こち亀』の表紙
  にも登場した
 「荒川遊園地前」
  です。


 

電停の名の通り“あらかわ遊園”があります。ぶらっと出かけるには最適の場所です。しかし、遊園地と言っても子供が楽しめる程度のものなので、大人が期待して行くと期待はずれ感が大きいかも。子供でも「なぁ〜んだこれだけ?」と言いかねません。
でも、「百聞は一見にしかず」です。行ってみてください。入園料は大人200円。小・中学生、65歳以上の方は100円。平日なら小・中学生は、なんと無料(春・夏・冬休み期間は除く)。ただし、のりものは別料金ですので、ご注意ください。
近くには、スーポーツハウスもありますので、こっちで体を動かすのもいいかも。プールとかジムとか設備も充実しています。

 
 
 左:キッズランド(夏場は子供プール)
 
 右:スポーツハウス



 あらかわ遊園 荒川区西尾久6-35-11 TEL 03-3893-6003

  
 左:現在の荒川遊園
 
 中:昭和7年頃の荒川遊園(上空より)
 
 右:昭和25年頃の荒川遊園(飛行塔)

大正11年(1922年)5月、広岡勘兵衛氏が王子電気軌道株式会社の援助を得て、民営の遊園地として設立したのが始まり。この頃は王子電車(現都電荒川線)の開通と、碩運寺に湧いたラジウム鉱泉「寺の湯」を始めとする温泉旅館の開業により、尾久が賑わい始めた頃でもありました。当時の荒川遊園は広大な敷地を有しており、大きな池には観月橋を渡し、近くに竜宮館、総檜展望台などが建設されていました。大滝のある清流や、更には映画館、大浴場といった娯楽施設も用意されていました。遠方からの来園者も多く、「城北の名園」として親しまれていたそうです。当時の案内には『東京に最も近き避暑地 暑さ知らずの仙境 有名なるあら川大瀧あり』と記載されてました。入園料は、王子電車の往復運賃とセットで大人35銭、子供5銭。今の金額に換算できないので、高いのか安いのか私にはわかりませんが、そこそこいい値だったと推測されます。
広岡氏没後、経営難により、昭和7年(1932年)荒川遊園は王子電気軌道株式会社の経営へと変わります。そして、第二次世界大戦の勃発により、昭和16年(1941年)陸軍に接収され閉園。園内に高射砲陣地が設置されました。
終戦後、都の都市計画の決定により、昭和24年に荒川区立児童遊園となり復活。翌25年、荒川区立荒川遊園として再び開園されます。民営の荒川遊園が主に大人を対象とした施設だったのに対し、区立のあらかわ遊園は、児童遊園と位置付けられました。園内には、飛行塔、豆電車、木馬、ローラースケート場やプールなどが設置され、さらに昭和29年には、観覧車が新設されました。当時のゴンドラの数は8基と小規模なものでしたが、数回の改修を経て今日まで、あらかわ遊園のシンボルとして親しまれています。
私が一番利用したのが、昭和40年〜50年代にかけて。入園料が無料だったので遊び場感覚で利用してました。おさるの電車(本物の猿が車掌)とか懐かしい思い出です。戦争の傷痕も残っていて、高射砲陣地は小高い丘になっていて、防空壕跡とかそのままになっていました。もちろん防空壕跡は立ち入り禁止なので、子供の頃は恐る恐る覗いていたもんです。
昭和61年(1986年)に全面改築の為一時閉園しましたが、平成3年(1991年)4月に新たにオープン。今に至っています。


下の左側3枚は観覧車から撮った写真です。ちょっと天気が悪かったので写りは悪いのですが、あらかわ遊園のすぐ後ろには隅田川が流れています。

 
園内には、観覧車やミニコースターなどがある「のりもの広場」や、動物とふれあえる「どうぶつ広場」、「しばふ広場」、水上ステージの「アリスの広場」などがあります。
下の写真右は、園のシンボルにもなっているミーアキャット。かわいいもんです。
あっ、ミーアキャットとは触れ合えませんので、誤解なきように。


 

★あと、忘れてならないのが、園内にある「つり堀」。まっ、正直言ってあまり釣れないんですが、たまにはのんびり釣り糸を垂らすのもいいもんです。小鯉の池、大鯉の池、へら鮒の池があります。料金は直接お問い合わせください。

 意外と混雑しています。
開園時間:9時〜17時(夏休み期間とゴールデンウィークの日曜・祝日は18時まで)
休園日:毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)
     年末年始(12月29日〜1月1日)
     *春・夏休み期間中は無休
駐車場もありますが、大変混雑してますので、都電に乗っていくのがベストだと思います。

夏になるとスポーツハウスのグラウンドでは盆踊り大会も催されます。

 露店もでます。
 


 船方神社 北区堀船4-13-28

船方村鎮守の船方神社は、江戸時代、鬱蒼とした森の中にあって十二天の森・十二天社と呼ばれていたそうです。本殿の右脇柵内にある十二天塚と彫った石碑(上、写真右)は、次の伝承に基づいて建てられたものです。昔、この地域の荘園領主の豊島清光は子供に恵まれず、熊野権現の神々に祈願して、やっと一人の姫を授かります。成人して足立少輔に嫁がせましたが、心ない仕打ちを受けた姫は入間川(=荒川)に身を投げました。そして、十二人の侍女も姫を追って身を沈めたという話が六阿弥陀伝承の中にあります。十二天とは、この十二人の侍女をさすと同時に帝釈天をはじめとする神々をいいます。これを密教では、世の中を守る神々として非業の死をとげた人々を鎮魂するため、塚などの祭壇にまつりました。密教と深く結びついた熊野信仰もまた、十二所権現・十二社・熊野権現・王子宮・若宮と呼ぶ分霊が、平安時代末期から室町時代にかけて全国各地にまつられましたが、熊野信仰が盛んだった荒川流域の村々では悲しい侍女達の地域伝承と密教の十二天や熊野信仰と結びつき、船方村の十二天社として奉られたものとも言えます。なお、この伝承は江戸時代、六阿弥陀参詣の札所寺院によって縁起化されました。しかし、荒川に身を沈めたのは清光の姫でなく、足立庄司の姫だという伝承があったり、姫の父親に実在しなかった人物が登場する点や、伝承の時代設定とは異なる奈良時代の高僧の行基が登場する点などのように一貫性がない事から、縁起の内容は寺院により少しずつ異なって伝えられていたと想像できます。・・・と言う事は、船方神社の十二天塚の信憑性ははっきりしてないという事でしょうか・・・。う〜む。

 

船方村鎮守の船方神社ですが、今ではひっそりと目立たず佇んでいます。
人があまり訪れなさそう。夏は薮っ蚊の大群に注意が必要です。
写真を撮ってるだけで、何ヶ所刺された事やら・・・


 

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