多胡さんの捜索の初期は、15cm反射経緯台(木部鏡)を、今は15cmx25の双眼鏡を使われ、津山市郊外にある自宅屋上が長い間観測場所であった。ところが津山市も屋外照明の影響により空が明るくなる現実の例外ではなくなってしまい、津山の空をあきらめ、新しい観測場所に移るまでになってしまった。
新しい観測場所を選ぶために、沢山の候補地を訪れ、そして最後に選ばれたのが津山市から南へ車で約20分離れた柵原町であった。
多胡さんは、長い間の空の変化と星の見え方について次の様に話してくれた。
星が見えにくくなり、捜索が難しくなった原因は、屋外照明の影響ばかりではなく、空気の汚れの影響もある。光害の影響の少ない条件の良い方向でも、初期に比べて確実に1等級は限界等級が小さくなっている。15度以下の低空では、更に2〜3等級以上の差は出ている。光害の影響を受ける条件の悪い方向は、勿論言うまでもない。
1969年に発見したTago−Sato−Kosaka(1969g)彗星は、低空の空で10.5等で発見しており、今ではこの光度の彗星を低空で発見することは考えられない。百武さんは、1996B2を11等級として眼視発見されており、かなり条件の良い空で捜索されているようだ。
ピナツボ火山の噴火による影響も大きかった。3年間は影響が残り、観測が難しかった。雲仙普賢岳の噴火の影響もあったようだ。
光害については、津山市に出来た工場団地の夜間照明の影響が大きい。津山で活動していた天文家の中に、新しい工業団地の照明による空の明るさで捜索を妨害され、この津山を離れていったものもいる。
観測地を見つけるため県北の候補地はくまなく捜し、ほとんどの場所を知っている。中には、光害ゼロの場所もあった。実は、柵原を最初に訪れたのは、候補地としてではなく、行ったことがない土地を初めて訪ねてみることであった。
昼間訪れたとき、「この空は良いな」、という印象を受けた。長年空を見ていると、昼間でも大気の様子が分かるようになるのかも知れない。そして夜再度訪ねてみて最終的な候補地とした。
ただ、この柵原でも、本当に条件の良かった頃に比べ、限界等級はやはり1等級は小さくなっている。15cmの木部鏡で観測していた頃は、12等級を見ることが出来たというのに。
1994年8月に行われたスターウオッチング(星空観測)の結果、新しい観測地の周辺は、全国で9番目に条件の良い空として認められた。
そして多胡さんは、この新しい観測場所で新星(へびつかい座新星1994)を発見されている。
この新星発見とスターウオッチングの好結果がきっかけとなって、柵原町に町立のさつき天文台が1996年4月に開設された。
この天文台で開かれた「星を観る会」で多胡さんの案内に参加すると、先輩天文家としての色々な話を聞ける。本田実さんとの出会い、宇宙生命の話、UFO、望遠鏡など沢山の話題を、スライドを使いながら巧みなプレゼンテーションで紹介してくれた。多胡昭彦さんのすばらしい指導者としての一面であった。ただ、これは彼の一面に過ぎない。
訪ねると必ずと言っていいほど、少し充血した目をして昨夜の未確認天体について熱く話す彼が本当の姿だ。今はさつき天文台のお世話でお忙しいようだが、早く彗星、新星の捜索を再開する事を彼自身も強く望んでいる。
最後に多胡さんは、日本の空について危機感をお持ちだ。彗星捜索の一番重要な低空が使えない今、彗星王国日本にも危機が訪れようとしている。
誰もが出来る「星空を守る活動」で岡山の先輩が築いた実績を継承するために、美しい星空を守り続けて行こう。
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